015.双子聖女
翌朝、慣れないベッドのためか、夜明け前に目が覚めた。
窓の外はまだ薄暗く、靄が街の輪郭をぼやかしている。
「……この宿はヴァンが怪我した俺を運び込んでくれた場所だけど、さすがに質素すぎるな。ベッドも板みたいに硬い」
ラムネ瓶を売った金があるし、そろそろ別の宿に移るのもいいかもしれない。
そんなことを考えながら身支度を整え、顔を洗いに外へ出る。
今日も鍛錬の予定は山積みだ。
基礎体力、魔力操作、武器術、魔術……やるべきことはいくらでもある。
思案しながら歩いていると、東の空がゆっくりと朱に染まり始めた。
朝焼けに目を奪われていたその時――。
「もし……そこのお方。お怪我をされていませんか?」
不意に声が背後からかかる。
振り返ると、そこには流れるような金髪を持つ少女が立っていた。
両目は布で覆われている。
その姿は、日の光を浴びてなお影のように浮世離れして見えた。
「え……俺のこと?」
確かに昨夜、異能の実験で腕をえぐったが、服の下に隠れている。
それに、彼女の目は布で覆われていて見えるはずもない。
「はい。良ければ、その腕を見せていただけませんか?」
澄んだ声だが、どこか底知れぬ響きがある。
訝しく思いながらも、俺はゆっくりと腕を差し出した。
女の子がそっと両手を俺の腕に添え、布で覆われた瞼の奥で静かに口を開いた。
「主よ。我が祈りを聞き届け。傷を閉じ。血を鎮め。肉を和らげ給え――《聖慰の光》」
柔らかな光が、彼女の指先から染み出すように広がった。
暖炉の炎よりも温かく、それでいて澄んだ泉に包まれるような静けさがあった。
赤くただれていた皮膚がじわじわと塞がり、血の滲んだ肉が淡い光の下でふさがっていく。
焼けつく痛みが和らぎ、ただのかすかな痺れに変わった。
「……治っていく……」
思わず呟いた俺の声に、彼女は小さく微笑んだ。
「主の御業にすぎません。私はただ祈りを届けただけ」
その微笑みは不思議なものだった。
目を布で覆っているのに、まるで全てを見透かされているような――そんな感覚を覚える。
俺の腕の痛みは完全に消え、血の跡すら残っていなかった。
「……うそだろ、こんなに……何も残ってない……」
思わず指で腕をなぞる。
昨日は爪で抉ったような生々しい傷が走っていたはずなのに、今はただ温もりだけが残っている。
「どうして……俺に声をかけたんだ? だって、君――」
「はい、私は生まれつき目が見えません。けれど……人の痛みは、よく伝わってくるのです」
さらりと告げる声音には陰りがなく、むしろ清らかで澄み切っていた。
「……人の痛みが、伝わる……?」
そんな理屈があるのかと疑いながらも、彼女の言葉はどこか揺るぎなく響いてくる。
昨夜、自分の肉をえぐってまで得ようとした力――それとはあまりに対照的な、穏やかで清廉な力。
その手に触れられた痕が、じんわりと熱を帯びていた。
「……本当に、助かった。ありがとう」
声が震えていた。
感謝というより、安堵と驚愕が入り混じったような声だった。
「いえ。私はただ癒しているだけですから」
布で覆われた瞳が、確かに俺を見ている気がした。
「あー、いた!」
静謐な空気を破るように、甲高い声と共に小走りの足音が近づいてくる。
「もう、また勝手に離れて……! 目が見えないんだから、私から離れちゃだめでしょ」
駆け寄ってきたのは、布を目に巻いた少女と瓜二つの金髪の娘だった。
年は同じくらいだが、口調や態度はずっと姉らしい。
「まーた勝手に人を癒したんでしょ。何度言えば分かるの。ちゃんと教会でやらなきゃだめなの」
「でも……傷ついた声が聞こえたから……」
盲目の聖女は困ったように眉を下げ、それでも譲らぬ声音で呟いた。
「それでもだめ!」
姉らしい少女は腰に手を当てて、吐き捨てるように言う。
「教会だって資金が潤沢ってわけじゃないの。勝手に癒やして回ったら、寄進も減るし、怒られるんだからね」
「ごめんなさい……」
布で目を覆った妹は小さく肩をすぼめた。
「まったく……あなたがそんなだから、結局私まで叱られるんだから」
姉はぷいと顔をそむけ、次の瞬間、ちらりとこちらを見る。
「……で、あなたは?」
「あ、俺は――」と名を名乗ろうとすると、妹がそっと手を伸ばしてきた。
目は見えないはずなのに、まるでそこに俺が立っているのを知っているかのように、迷いなく俺の手に触れる。
「温かい……もう大丈夫。あなたの傷は癒えました」
微笑みは透きとおるようで、声には不思議な安心感があった。
「……ほんとに、世話を焼かせてばかりで」
姉は小さく息をつき、けれど渋々というより諦め半分に、俺へと軽く頭を下げた。
「妹が世話になったみたいね。私はアルシエル、こっちは妹のルミエル。教会の双子聖女っていえば、少しは聞き覚えあるでしょう?」
「せいじょ……?」思わず聞き返すと、アルシエルは困ったように肩をすくめた。
「やれやれ……やっぱり知らないのね。私たち、この国じゃそれなりに顔が売れてると思ってたんだけど」
ルミエルはそんな姉の言葉に耳を傾けながらも、ただ穏やかに微笑んでいた。
アルシエルの言葉に苦笑しながらも、俺は改めて二人を見比べた。
同じ金糸のように輝く長い髪。
顔立ちも瓜二つで、双子だと一目で分かる。
だが――纏う空気はあまりに対照的だった。
姉のアルシエルは小柄な体に似合わぬほど堂々と立ち、紅い瞳が鋭く光を宿している。
白を基調とした聖女服の胸元や袖には金糸の刺繍が映え、深紅のリボンや髪飾りがその強気な雰囲気をさらに際立たせていた。
ツンと澄ました表情の裏に、時折見せる茶目っ気ある微笑みが混じり、清らかさと勝ち気さを同時に体現している。
一方で妹のルミエルは、目元を薄布で覆い隠していながらも、柔らかく波打つ金髪と微笑みだけで不思議と人を安心させる。
可憐で華奢な体つきに、淡い青や金のリボン、小花をあしらった聖女服がよく似合っていた。
慈愛に満ちたその微笑みは、朝靄のように儚く、触れれば消えてしまいそうな透明感を漂わせている。
同じ器に注がれた清らかさのかたちが、姉妹でこれほどまで違うのかと息を呑む。
「……あなた、旅の人?」
アルシエルが小首をかしげて問いかけてくる。
「うん……まあ、そんなところ」
短く答えると、彼女はいたずらっぽく口角を上げた。
「へぇ。じゃあ、どうせあちこちで怪我して、ボロボロになりながら歩いてるんでしょ? 旅人ってみんなそうなんだから」
「……まあ、否定はできないな」
「ふふっ、やっぱり」
茶化すように笑ったあと、アルシエルの声色がわずかに落ち着きを帯びる。
「でもね――本当に怖いのは体の傷じゃないの。旅を続ければ、きっとあなたは心にも深い傷を抱える。それはどんな魔法や薬でも癒せない」
昨夜の記憶が脳裏をよぎる。
自分の肉を抉ってまで掴み取った異能の感覚。
思わず胸の奥がざわついた。
アルシエルはそれを見透かしたように、軽く肩をすくめて笑う。
「だから……困ったら教会においで。お金がなくても、あなたみたいな無鉄砲さんなら特別に私が診てあげてもいいわ」
からかうようでいて、不思議とその言葉は心に沁みる。
「じゃ、そろそろ戻らないと。ほんとはこういうの、全部“お仕事”でやるものだからね」
アルシエルは軽くウインクし、ルミエルの手を取って歩き出す。
だがそのとき、ルミエルが一度だけ振り返った。
布に覆われた瞳の奥から、迷いなくまっすぐに俺を見据えて――静かに一言だけ落とす。
「……あなたの道は、とても険しいものになります。だから……どうか、また逢いましょう」
そうして二人は朝焼けの光の中へと去っていった。
残された俺は、ただ立ち尽くすしかなかった。
胸の奥で疼く昨夜の痛みと、今受けた言葉の重み。
その両方が絡み合い、静かに心をざわつかせていた。