013.なぜ魔術を求むか
翌朝、冒険者組合の扉を押し開けると、ざわめきと暖かな食事の匂いに包まれた。
依頼掲示板の前には今日の仕事を探す冒険者たち、食堂の奥では昨夜の戦利品を誇らしげに語る者、受付では報告をする者――それぞれが慌ただしく動き回っている。
そんな中、長椅子に腰かけていたヴァンが手を上げた。
「よう、ミハネ。こっちだ」
「おはよう、ヴァン」
席に腰を下ろすと、彼が豪快にパンをちぎり、スープに浸しながら笑った。
「昨日の魔術組合はどうだった?」
「ああ、すごかったよ。俺の異能についても、少しわかってきた」
「おお! さすがはエドガー・クラリオンだ」
その名を聞いた瞬間、周囲の冒険者たちが一瞬だけこちらに視線を寄越した。どうやら、あの名はここでも有名らしい。
「俺の魔力は放出できない代わりに、“繋げる”ことができるらしい。その特性のおかげで、普通の人より魔道具の扱いが良いそうなんだ」
「繋げる……線みたいに結ぶってことか」
ヴァンは顎に手を当て、真剣な目つきで考え込む。
「ただ、この前言っていた“骨”の現象との関係は、まだ分からねぇな」
「あ……確かに」
胸の奥に、また小さな疑問が生まれる。
「まあいい。俺は魔術は詳しくはないし、その分をミハネが補ってくれるなら助かる。魔道具に限らず、その異能は必ず別の形でも使えるはずだ。探っていこうぜ」
豪快に笑いながら肩を叩くヴァンの掌に、不思議と安心感が広がった。
――そして、訓練場。
裏手にある広場には、木人形や丸太が立ち並び、朝から多くの冒険者が剣を振るっていた。金属がぶつかる音、気合いの声、土煙――熱気そのものが肌を刺す。
「さあ、今日もやるぞ」
ヴァンが木剣を投げて寄越す。
受け止めた瞬間、腕にずしりと重さが伝わった。
昨日と同じように構え、打ち合う――だが結果は変わらない。
俺の剣は空を切り、ヴァンの木剣に何度も弾き飛ばされる。
そのたびに尻もちをつき、手のひらには赤い痣が増えていった。
「はぁ……ぜんぜん勝てない……」
「当たり前だ。始めたばかりで勝てるかよ。だがな、倒れても立ち上がる。それが何より大事だ」
苛烈な言葉の中に、信頼が滲んでいた。
その後も槍、弓、短剣、双剣と、一通りの武器を試す。
腕は震え、背筋は悲鳴を上げ、足は棒のように固まった。
だが――不思議と心は折れていなかった。
むしろ、昨日までよりも熱く燃えていた。
太陽が頂点に近づいたころ、ヴァンは木剣を肩に担いで言った。
「今日はここまでだ。……明日からしばらく、俺は指名依頼で街を離れる。もう準備はできてる」
「えっ……そうなのか」
「だから、お前は自主訓練だ。走り込みでも型の練習でもいい、とにかく体を動かし続けろ。魔力の循環も怠るな。いいな?」
俺は全身が鉛のように重いまま、拳をぎゅっと握りしめた。
「……わかった」
訓練場を後にするころには、石畳を踏む足がふらつくほどだった。
だが、その疲労の奥に――小さな達成感と、明日への決意が芽生えていた。
異世界での修行。
それはもう、俺の避けられない日常になり始めていた。
◆
訓練を終えヴァンと別れたあと、俺は魔術組合へと足を運んだ。
石畳を踏みしめるたび、全身の筋肉がじんわりと重く訴えてくる。走り込みと武器稽古の余韻がまだ抜けきらない。
組合に着くと受付へ進み、エドガーから託された札を差し出した。
「すみません、こちらをお願いします……」
受付の男は無言で札を受け取り、昨日と同じように刻まれた紋章や細工を一つひとつ確かめるように指先でなぞる。
「……少々お待ちください」
短く言い残し、奥へと消えていった。
やがて戻ってきたとき、そこにいたのはエドガー――ではなく、一人の少女だった。
年の頃は十代後半。艶のある紫の髪が肩にかかり、背丈には少し大きすぎるとんがり帽子を目深に被っている。その姿は、まるで絵本から抜け出した「魔女っ子」を思わせた。
「あなたが……ミハネね?」
澄んだ声が静かな空気を切り裂く。
「おじい様から話は聞いているわ。訪ねてきたときは、魔術について手ほどきをしてやれと頼まれていてね」
帽子の影から覗いた瞳は、理知的で、それでいて人懐っこい光を帯びていた。
「私の名は――イリス・クラリオン。よろしく」
ひらりとスカートの裾を揺らし、軽やかに一礼する。
「改めまして、ミハネといいます。よろしくお願いします。……正直、魔術については学び始めたばかりで、自分でもよく分かってなくて」
「大丈夫、大丈夫。こっちで聞いてるから。――さ、ついてきて」
イリスは受付の男にひらひらと手を振り、奥の重い扉を押し開けた。
「研究室は上の階なの。ここの塔は下層が資料庫や初心者用の教室、中層が研究室。上層には魔道具の保管庫もあるのよ」
軽やかな足取りで、彼女は石造りの階段を上っていく。
厚い石壁に囲まれた塔の内部はひんやりと涼しく、階を上るごとに外の喧噪が遠ざかっていった。
やがて二階分ほど登った先で、イリスは一つの扉の前で立ち止まった。
そこはエドガーの研究室よりは下層にあるようだった。
「――ここが、私の研究室よ」
彼女が振り返り、にっと笑った。
扉を開いた瞬間、鼻をついたのは薬品の匂いだった。
「……ん?」
思わず声が漏れる。
昨日見たエドガーの研究室とはまるで異なる光景が広がっていたからだ。
机の上には幾何学模様を描いた図面や羊皮紙が散らばり、壁際の棚には大小の鉱石や色とりどりの液体を満たした瓶。さらには獣の皮や角といった素材まで並んでいる。
「さっきまで研究してたから散らかってるけど、気にしないでね」
「ちなみに、どんな研究を?」
「今はね、魔術刻印に適した素材を探してるの」
イリスは棚から一枚の革を取り上げた。
「嘶き馬の皮よ。あの鳴き声を聞いた者は痺れて動けなくなるって言われてるでしょう? つまり声そのものに魔力が宿っているってこと。なら、声を響かせる声帯付近の皮を刻印素材にすれば、もっと魔力の流れを通しやすくなるんじゃないかって仮説なの」
彼女の瞳は研究者の熱で輝き、言葉は矢継ぎ早に放たれる。
圧倒されていると――。
「あっ、ごめん。つい熱くなっちゃった。まずは座って」
「はい」
俺が腰を下ろすのを確認すると、イリスは手を打ち鳴らした。
「ロワ、お茶をお願い」
奥の扉から、執事風の男が静かに現れた。
完璧に整った所作でワゴンを押し、カップを並べると深々と一礼する。
「初めまして。私の名はロワと申します。ミハネ様、どうぞよろしくお願いいたします」
丁寧な挨拶とは裏腹に、その瞳には値踏みするような鋭さが宿っていた。
「ありがとう、ロワ。下がっていいわ」
イリスの一言に、ロワは無言で一礼し、影のように退室していく。
「イリス様は……執事の方がいらっしゃるんですね」
そう口にすると、イリスは少し不思議そうな顔をしたあと、得心したように微笑んだ。
「ん?……ああ、おじい様の研究室に入ったのね。あそこは私でも滅多に入れないのよ。ロワはね、私が幼い頃から仕えてくれてるから特別なの」
彼女はティーカップを一口含み、ほっと息をついた。
「――じゃあ、まずは貴方のことを教えて」
促され、少し戸惑いながらもこれまでのことを話した。
最近冒険者になったこと。魔力を外へ放てない体質で、魔法は一切使えないこと。けれど魔術なら学べるかもしれないと聞き、魔術組合を訪ねたこと。そして、そこでエドガー・クラリオンから声をかけられたこと――もちろん“稀人”であることは慎重にぼかしつつ。
「なるほどね」
イリスは顎に手を添え、納得したように目を細めた。
「おじい様がつけてるモノクル、あれは相手の魔力の流れを視る魔道具なの。……きっと、それで何かを感じ取ったのかもしれないわね」
「なるほど……」
彼女はぐっと机に身を乗り出してきた。
「それで、ミハネ――あなたは“魔術で何をしたいの”? 魔術で魔道具を作るとして、それを何のために役立てたいの?」
直球の問い。胸の奥を覗き込まれるような視線に、言葉が詰まる。
――なぜ、俺は魔術を学びたいのか。
魔法が使えないから、その代わりの力が欲しかった。冒険で役立つ攻撃や防御の力。けれどそれだけじゃない。旅を支える道具を作れたら、仲間の助けになれる――。
考えを巡らせているうちに、気づけば言葉が口を突いていた。
「……全部、ですね……」
我に返り、慌ててイリスを見る。
彼女は一瞬ぽかんとした顔をして――次の瞬間、堪えきれずに吹き出した。
「アハハハハ! なにそれ、“全部”って! 一つの魔道具を作るだけでも、ものすごい時間とお金がかかるっていうのに!」
ひとしきり笑ったあと、彼女は目尻を拭い、急に真顔になった。
「――でもね、その気持ちはすごくよくわかるわ」
そして、すっと指先を俺に向ける。
「よし、決めた。今日からあなたを――私の弟子にしてあげる!」