110.目の前にある別の可能性
翌朝。
村中央の鐘がゆっくりと鳴り、まだ冷たい空気の中で宿の食堂にも朝の光が差し込む。
昨夜と同じように旅人や冒険者がぽつぽつと席に着き始める頃、俺たち四人も自然と同じテーブルに集まっていた。
朝食は昨日と同じくパンとスープ、それに少しの肉だったが、昨日ムイが台所に入ってから味が変わったのか、今日も食堂のあちこちから満足そうな声が聞こえてくる。
「いやほんと、ここ最近の宿の中じゃ一番うまいな」
「王都帰りの料理人か?」
そんな会話を聞き流しながら、俺はスープを一口すすった。
味はやっぱり、うまい。
だが、俺たちのテーブルにはまだ少しだけ重い空気が残っていた。
ヴァンがパンをちぎりながら言う。
「……で」
低い声だった。
「昨日の続きだ」
フェルシオンも頷く。
「それぞれ考える時間はあったはずだ」
ムイも静かに座り直す。
ヴァンがテーブルに肘を置き、俺たちを順に見る。
「結論を出す」
短く言った。
「まずは聞く。お前ら、それぞれどう考えた」
ヴァンがそう言い、視線をこちらへ向けた。
俺は小さく息を吐く。
昨日からずっと頭の中でぐるぐる回っていた考えを、ようやく言葉にした。
「……俺は」
少しだけ言葉を探してから続ける。
「正直、あの魔物は斬るべきだと思う。……ただし、子供にはきちんと話をするべきだ」
フェルシオンがわずかに眉を上げ、俺のほうを見る。
驚きはあるが、遮らずに続きを待っていた。
俺はその視線を正面から受け止める。
「フェルシオンとムイは知らないだろうが、俺がこの世界に来て最初に戦った魔物は――磔兎だ。
突然襲われた感覚は、今でも覚えてる。昨日あいつを見たときも……小さいとはいえ、正直、肌が粟だった」
そこで一度言葉を切る。
「そして、そのとき死にかけてた俺を助けてくれたのがヴァンだ」
ヴァンは何も言わない。
俺は続けた。
「もしあのとき、誰もいなかったら――俺は死んでた。今回の話だって、結局は同じだと思う」
テーブルの上のパンを指先で転がす。
「子供は、たまたままだ襲われてないだけかもしれない。あいつが腹を空かせたとき、あるいは機嫌が悪かったとき……どうなるかなんて分からない」
少しだけ視線を落とす。
「だから、危険は消すべきだと思う」
そこまで言ってから、ゆっくりと顔を上げた。
「でも――」
ヴァンとフェルシオンを見る。
「子供の前で、いないところで斬るのは違う気がする」
言葉を選びながら続ける。
「ちゃんと説明して、それでも危険だって分かってもらって……それからだ」
小さく肩をすくめる。
「昨日見た限りだと、あの子は本気で大事にしてた。何も言わずに殺したら、たぶん一生引きずる」
少し間を置いてから、最後に付け加える。
「だから俺の結論は――斬る。ただし、きちんと話をしてからだ」
次にムイが声を上げた。
「私もおおむねミハネ様と同意見です。ただし、子供のいないところで始末をつけるべきだと思います」
落ち着いた口調で続ける。
「魔物ですから、急にいなくなっても違和感はないでしょう。子供に必要以上の負担を背負わせるべきではありません」
ムイはスープに視線を落としたまま言葉を続けた。
「大人の判断で危険を取り除く。それもまた責任だと思います」
そこまで聞いて、フェルシオンが静かに息を吐いた。
「……なるほど」
そしてゆっくりと顔を上げる。
「二人の考えは理解できる。危険を排除するという意味では、合理的な判断だろう」
だが、と続けた。
「その結論には素直に同意はできない」
ヴァンが腕を組んだまま目を細める。
「理由は?」
フェルシオンは少しだけ指を組み、言葉を選ぶようにしてから口を開いた。
「昨日ミハネと私が見た光景――あれは、少なくとも“魔物が人を襲っている状況”ではなかった」
落ち着いた声だった。
「少女は恐れていなかった。魔物も威嚇すらしていなかった。ただ餌を食べ、去った。それだけだ」
ヴァンが低く言う。
「だからなんだ」
フェルシオンは視線を逸らさない。
「それが事実なら、魔物に対する我々の前提が一つ崩れる可能性がある」
食堂のざわめきの中で、その声だけが妙に静かだった。
「魔物は必ず人を襲う存在だ――という前提がな」
ヴァンは短く鼻を鳴らす。
「そんな例外一つで変わるもんじゃねぇ」
「もちろんだ」
フェルシオンはあっさり認めた。
「だからこそ、まず確認するべきだと言っている」
そして言葉を少しだけ強める。
「我々は昨日それを“遠目に”見ただけだ。本当に危険がないのか、偶然そう見えただけなのか、それすら確かめていない」
そこで一度言葉を切る。
「にもかかわらず、即座に討伐という結論に飛ぶのは――少し早計ではないか?」
ヴァンが机を指で叩く。
「観察しろって言うのか?」
「いや」
フェルシオンは首を振った。
「そんな時間はないだろう。私たちは旅の途中だ」
その言葉にヴァンがわずかに眉を動かす。
「だから提案は単純だ」
フェルシオンは静かに続けた。
「もう一度、全員でその光景を見る」
そしてテーブルの上に視線を落とす。
「それで十分だ」
ゆっくりと顔を上げる。
「もし本当に危険がないと判断できるなら、無闇に命を奪う必要はない。
逆に、危険だと分かれば――その場で討伐すればいい」
静かな声だった。
そしてフェルシオンは、まっすぐヴァンを見る。
「だが、可能性があるのなら――それを確かめもせずに潰すのは、冒険者のすることではないと思う」
少しだけ間を置き、続けた。
「そもそも私たちが追っているもの自体が、常識では測れないものばかりだ。稀人の伝承など、その最たる例だろう」
淡々とした口調のまま言葉を重ねる。
「常識ではありえない“可能性”を追っている我々が、目の前にある別の可能性を切り捨てるのは――少々筋が通らないのではないか?」
食堂のざわめきの中で、しばらく沈黙が落ちた。
ヴァンは腕を組んだまま、何も言わない。
やがて小さく息を吐き、ゆっくりと口を開いた。
「……それを言われると、否定はできねぇな」
低い声だった。
少しだけ考えるように視線を落とし、それから肩をすくめる。
「仕方ねぇ」
椅子の背に体を預けながら言った。
「全員で一回見に行ってから決めるか」
◆
「まずはあの子供を探すか」
宿を出ながらヴァンが言う。
朝の村は昨日と同じく穏やかで、畑へ向かう農夫や井戸端で話す女たちの声があちこちから聞こえてくる。
街道には荷馬車も通り始めていて、特に緊張した空気はない。
昨日の話が頭にあるとはいえ、今すぐ何かが起きるような気配はまったく感じられなかった。
「昨日の様子だと、また餌をやりに行くかもしれないな」
俺が言うと、フェルシオンも軽く頷く。
「可能性は高いだろうな。習慣になっているように見えた」
まずは宿の周りを見て回ったが、少女の姿は見当たらない。
宿の主人に聞いてみると「朝から外に出てるな」という返事が返ってきたので、俺たちはそのまま村の中を軽く歩いて探してみた。
広場の近くや井戸のあたり、子供が遊びそうな場所を何か所か回ったが、それらしい姿は見つからない。
「……いないな」
ヴァンがぼそりと呟く。
俺も少し首をひねったが、すぐに思い当たる場所は一つしかなかった。
「たぶん、昨日のところだろ」
フェルシオンも同じ考えだったらしく、小さく頷く。
「そうだろうな」
村の外れの柵を抜け、昨日通った草地の方へ向かう。
朝の風は少し冷たく、背の低い草がさらさらと揺れている。
昨日と同じ道を歩きながら、俺は内心で少しだけ苦笑していた。
まさか本当に、朝から因縁のある魔物と子供の様子を見に行くことになるとは思わなかった。
「まあ、昨日の様子なら特に問題は――」
フェルシオンがそう言いかけた、その時だった。
「きゃあああっ!!」
草むらの奥から、鋭い悲鳴が響いた。
一瞬、全員の足が止まる。
だがヴァンだけは止まらなかった。
舌打ち一つ残して、そのまま地面を蹴る。
「行くぞ」
一拍遅れて、俺たちも駆け出していた。
草をかき分け、昨日と同じ場所へ飛び込む。
視界に入った瞬間、状況は一目で分かった。
少女が地面に尻もちをついていた。
その右手を、小さな白い影が押さえ込んでいる。
磔兎のその、小さいが細く鋭い角が、少女の手のひらを地面に縫い止めるように貫いていた。
血が草の上にぽたりぽたりと落ちている。
少女は痛みと恐怖で顔を歪め、泣きながら必死に腕を引こうとしていた。
だが磔兎は逃げない。
むしろ耳を伏せ、低く唸りながらこちらを睨んでいた。
昨日とは、まったく違う目だった。
次の瞬間。
ヴァンが踏み込んでいた。
距離を詰めるのは一瞬だった。
剣が閃く。
乾いた音が、短く響く。
まず角の根元を斬り飛ばし、地面に縫い付けていた力を断ち切る。
そのまま刃は止まらない。
続けざまに振り抜かれた一撃が、磔兎の首を刎ねた。
白い体が軽く宙を跳ね、草の上に転がる。
動きは、それで終わった。
ヴァンは剣を軽く振って血を払うと、何事もなかったかのように少女の方へ視線を落とした。
「……大丈夫か」
ヴァンは少女の前にしゃがみ込み、目線を合わせるようにして静かに問いかけた。
だが、その声を聞いた瞬間だった。
「うわぁぁぁぁぁぁぁん!」
少女は堰を切ったように泣き出した。
それが手の痛みからなのか。
友達だと思っていた魔物に突然襲われた恐怖からなのか。
それとも、その友達が目の前で一瞬のうちに殺されたことへの衝撃からなのか。
きっと、その全部だった。
少女は涙でぐしゃぐしゃになった顔のまま、ただ声を上げて泣き続けている。
ヴァンは何も言わず、その様子を見てからゆっくりと少女の手を取った。
「……ちょっと見るぞ」
低く言って、傷口を確かめる。
角はすでに斬り落とされているが、手のひらは深く貫かれていた。血はまだ止まっていない。
「ムイ」
短く呼ぶ。
ムイはすぐにしゃがみ込み、布を取り出して傷口を押さえた。
「大丈夫です。貫通していますが、骨までは届いていません」
落ち着いた声で言いながら、素早く布で圧迫し、止血を始める。
少女はまだ泣き続けているが、ムイの手付きは慣れたものだった。
その光景を少し離れたところから見ていたフェルシオンは、何も言わなかった。
ただ、拳を強く握りしめていた。
指先が白くなるほど力が入っている。
爪が掌に食い込み、そこから血がにじんでいるのにも気づいていない。
その視線の先には、草の上に転がった小さな白い体があった。
首を落とされた磔兎は、もうぴくりとも動かない。
しばらくして、フェルシオンが小さく息を吐いた。
「……これが現実か」
誰に言うでもない、かすかな声だった。
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