109.パンちゃん
少女は少しだけ固まり、ばつが悪そうに俺たちと草むらを交互に見る。
俺は思わず視線を逸らしかけた。
さっきまでそこにいた磔兎の姿が、どうしても頭から離れない。
あの時の光景が、また一瞬だけ胸の奥をざらつかせる。
少女は少し困った顔で口を開いた。
「……見てた?」
俺は何も言わない。
代わりにフェルシオンが穏やかな声で答える。
「少しな」
少女は少しだけ肩をすくめる。
「……怒る?」
「怒るというより」
フェルシオンは草むらの方に目を向けた。
「危険ではある」
少女は唇を尖らせる。
「でも、あの子悪い子じゃないよ」
俺は思わず口を開きかけて――やめた。
フェルシオンが続ける。
「魔物は基本的に人を襲う生き物だ。たとえ小型でも油断はできない」
「でも!」
少女は少し強く言う。
「あの子、優しいよ。ちゃんと食べて帰るだけだし」
フェルシオンは少女を見つめる。
「食べ物を与えているのか」
「うん」
少女は小さく頷く。
「宿のごはん、毎日ちょっと残るのもってきてるだけ」
俺は腕を組んだまま草むらを見た。
村のすぐ外で。さっきまで、そこに魔物がいた。
フェルシオンは少し考えるように顎に手を当てる。
「なるほど。残飯か」
「もったいないし」
少女は当たり前のように言う。
「あの子もお腹すくでしょ」
フェルシオンは少しだけ目を細めた。
「……そうか」
少女は少し不安そうに聞く。
「やっぱりダメ?」
俺は思わず小さく息を吐く。
「当たり前だろ」
声が少し硬くなり、少女がびくっとする。
フェルシオンが俺をちらりと見て、それから少女に視線を戻した。
「少なくとも、安全ではない。村の外とはいえ、魔物を呼び寄せる可能性もある」
少女は少し考え込み、それからぽつりと言った。
「でも、あの子一匹だけだよ」
そして少しだけ胸を張る。
「ちゃんと名前もつけてるし」
フェルシオンがわずかに眉を上げた。
「名前?」
少女は嬉しそうに頷く。
「パンを食べるから、パンちゃんっていうの」
俺は思わず空を仰いだ。
魔物に名前。しかもパンちゃん。頭が痛くなる。
フェルシオンは小さく息を吐くと、穏やかな声で言った。
「……とりあえず、今日のところは帰りなさい。村の外に長くいるのは良くない」
「はーい」
少女はあっさり頷くと、布袋を抱えたまま村の方へ走っていった。
俺はしばらく草むらを見つめる。
「……どう思う」
「簡単ではない話だな」
フェルシオンは静かに言う。
「魔物は魔物だ。だが、あの様子ではもう何度も餌を与えているのだろう」
「だよな」
俺は頭を掻いた。
「放っておくのも危ない気がする」
「まずは様子を見るしかない」
フェルシオンはそう言って村へ歩き出した。
「夕食の時間も近い」
俺たちは宿へ戻ることにした。
◆
村中央の鐘が鳴り、宿の食堂には旅人や冒険者が次々と集まり始める。
木のテーブルには湯気の立つ皿が並び、昼間よりも賑やかなざわめきが広がる。
俺とフェルシオンは空いていた席に腰を下ろし、少し遅れて戻ってきたヴァンとムイが向かいに座った。
「お、二人ともいたか」
ヴァンは椅子を引きながらそう言い、腕を軽く回して旅の疲れをほぐすように肩を鳴らした。
「村はどうだった?」
俺は少しだけ言葉を選びながら答える。
「……ちょっと相談がある」
ヴァンが眉を上げる。
「なんだ?」
俺はフェルシオンを見ると、フェルシオンが小さく頷き、落ち着いた声で言った。
「村の外れで、宿の子供が魔物に餌を与えていた」
その言葉を聞いた瞬間、ヴァンの表情がすっと消え、次の瞬間には椅子を鳴らして立ち上がり、反射のように剣へ手を伸ばしていた。
「どこ行くんだ」
「討伐しに行く」
あまりにも迷いのない答えだった。
フェルシオンが少したしなめるように声をかける。
「少し待ってくれ。何もそこまで急ぐ必要はないのではないか?」
ヴァンは振り返る。
「魔物だぞ」
その声は低かった。
「村のすぐ外で餌付けされてるなら尚更だ。今のうちに始末しといた方がいい」
フェルシオンは落ち着いたまま続ける。
「少なくとも、すぐに危険性はなさそうだった。宿の残飯を与えている程度で、魔物もまだ子供だった」
「関係ねぇ」
ヴァンは即座に切り捨てる。
「小型だろうが子供だろうが魔物は魔物だ。餌を覚えた魔物は人の近くに寄るようになる。そうなりゃいずれ誰かが被害者になる」
フェルシオンも譲らない。
「しかし、それをいきなり討伐すれば、あの子供はどう思う?」
「知るか」
「知るべきだ」
フェルシオンの声は穏やかだが、少しだけ強かった。
「村の生活というものは、単純な正しさだけで回っているわけではない。あの子にとってはただ残飯を捨てる代わりに与えているだけなのだろう」
ヴァンは腕を組み、しばらく黙る。
食堂のざわめきの中で、二人の空気だけが少し張り詰めていた。
「……だから見逃すってのか」
「見逃すとは言っていない。まず状況を把握するべきだと言っている」
フェルシオンは静かに続ける。
「本当に危険なら討伐すればいい。だが、今の段階で斬るのは早計だ」
ヴァンは少しだけ息を吐き、ちらりと俺を見る。
「ミハネ、お前はどう思う」
俺は少しだけ言葉に詰まった。
頭の中に浮かぶのは、さっき見た白い毛の小さな魔物の姿と――この世界に来たばかりの頃、足を穿った角の感触だった。
「……正直言うと」
俺はゆっくり言う。
「見た瞬間、斬りたくはなった」
食堂のざわめきの中で、俺の言葉だけが少し重く落ちた。
一瞬だけ喉の奥に引っかかるような記憶が蘇るが、同時に草むらでパンをかじっていた姿と、それを嬉しそうに見ていた少女の顔も頭から離れなかった。
「でも、子供の気持ちは無碍にするべきではないとは思う」
ヴァンが眉をひそめる。
「そんなこと言ってる場合じゃねぇ」
だがフェルシオンが先に口を開く。
「いや、むしろそこが重要かもしれない」
ヴァンが睨むように見る。
「どういう意味だ」
フェルシオンは静かに言う。
「もしかすると、魔物との共存の最初の例になるかもしれない」
その言葉に、ヴァンが呆れたように笑った。
「おいおい、何言ってんだ。魔物だぞ」
そこへムイも静かに口を挟む。
「私も反対です」
ムイは真面目な顔で続ける。
「魔物は基本的に人を襲う存在です。偶然大人しい個体だったとしても、それが続く保証はありません」
ヴァンが頷く。
「ほら見ろ」
だがフェルシオンは引かなかった。
「確かに危険性はある」
落ち着いた声でそう言ってから、少しだけ肩をすくめる。
「だが、未知の可能性というものは、往々にして危険の隣にある」
ヴァンが鼻で笑う。
「研究者の考え方だな」
「そうかもしれない」
フェルシオンは否定しない。
「だが、ミハネが言った通り、あの魔物は人に慣れていた。餌を食べ、少女に危害を加える様子もなかった。頭を撫でるのも許していた」
そして、少しだけ楽しそうに言う。
「もし本当に共存できるのなら、それは大きな発見だ」
ムイがわずかに眉を寄せる。
「ですが――」
フェルシオンはそこで軽く手を振った。
「少し話は違うが、夜に言っていただろう」
ヴァンが目を細める。
「何をだ」
「魔物を食べられるようになれば、食糧事情は革命的に変わると」
ヴァンが思い出したように小さく舌を鳴らす。
「……ああ」
「ならば」
フェルシオンは静かに続ける。
「別の革命が起きてもいいのではないか?」
食堂の灯りの下で、しばらく沈黙が落ちた。
ヴァンは腕を組み、テーブルを指でとんとんと叩く。
「……理屈は分かる」
そう言ってから俺を見る。
「だがな」
低い声で続けた。
「魔物はいつか牙を剥く。これは変わらねぇ」
そして、少し間を置いてから続ける。
「……だが」
ヴァンは小さく息を吐いた。
「そこまで言うなら、一旦は保留にしておいてやる。ただし、この村を出るまでに結論は出す」
ヴァンの言葉で、その場の話は一応の区切りを迎えたが、誰もすぐに次の言葉を口にすることはなかった。
食堂のざわめきが逆にこちらの沈黙を浮かび上がらせるようで、結果としてその日の食事はいつもよりずっと静かなものになった。
俺は目の前の皿をぼんやりと見つめながらパンをちぎり、フェルシオンは何か計算でもしているような顔でスープを口に運ぶ。
ムイはいつも通り背筋を伸ばして食事をしながらもどこか考え込んでいるようで、ヴァンも腕を組んだまましばらく皿に手をつけずにいた。
それぞれが何かを考えているのは、言葉にしなくても分かった。
そんな空気の中、近くの席からやけに明るい声が聞こえてくる。
「ここの飯、やたらうまくないか?」
「だよな、俺も思った」
「いつもの宿の飯って感じじゃねぇぞこれ」
別の冒険者が笑いながら言う。
「スープの味が全然違うぞ。パンも焼き直してあるじゃねぇか」
「おい親父! 今日なんか仕込んだのか!」
カウンターの向こうで宿の主人が苦笑しているのが見えた。
「いや、お客さんがな……ちょっと台所に入ってくれてよ」
その主人の視線の先を見た他の客が、ちらりとこちらへ目を向ける。
ムイは特に気にした様子もなく、静かにスープを口に運んでいた。
「……随分評判がいいな」
俺が小さく言うと、ヴァンがようやく皿に手を伸ばす。
「まあ、うまいのは間違いねぇ」
一口食べてから、ふっと鼻で笑った。
そうして、さっきまで張り詰めていた空気も少しだけ緩み、その日の食事は静かなまま終わっていった。
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