011.異能
訓練を終え、ヴァンと別れたあと、俺は魔術組合へと足を運んだ。
石畳を踏みしめるたび、体中の筋肉がじんわりと重く訴えてくる。
走り込みと武器稽古の余韻がまだ抜けていなかった。
魔術組合に着くと、中は多くのローブ姿の魔術師や、羊皮紙を抱えた研究員が行き交っていた。
受付へと進み、エドガーから託された札を差し出す。
「すみません。こちら、エドガー・クラリオン様からいただいたのですが……」
受付の男は無言で札を受け取り、刻まれた紋章や細工を一つひとつ確かめるように指先でなぞった。
「……少々お待ちください」
短く言い残し、奥へと消えていく。
「――来たか」
低く響く声に顔を上げると、エドガー・クラリオンが奥から現れた。
灰色の混じる髪を撫でつけ、背筋をぴんと伸ばした老紳士。
その眼差しは、まるで人の内奥を透かして見ているかのように鋭い。
「昨日は紹介札をいただきありがとうございました。早速昨日の事について続きを指導していただけたらと思い来ました」
エドガーは鷹揚に頷く。
「私もお前について気にはなっていたからな。……付いてきなさい。私の研究室へ案内しよう」
彼は踵を返し、受付の奥へ進む。
その奥には上層へ続く螺旋階段があり、淡く青白い魔術光が足元を照らしていた。
窓のない階段をどこまで登ったのか、途中から感覚が曖昧になる。
外界から切り離され、ただ石と光に包まれた空間を延々と進んでいるようだった。
やがて足が止まる。
――頂上付近。
そこは組合でも限られた者しか入れない領域らしかった。
重厚な扉が開かれる。
中に足を踏み入れた瞬間、空気ががらりと変わった。
整然とした室内に、豪奢な調度品と魔術器具が規則正しく並んでいる。
金の細工が施されたランプ、深紅の絨毯、壁際には古い魔道書がびっしりと並び、窓には重厚なカーテンが垂れていた。
圧倒される。
ここが――高名な魔術師エドガー・クラリオンの研究室。
「そこに座りなさい」
一目で凄まじい値が張ると分かるが、やかましさのない装飾が施されたソファを指差される。
「……はい、失礼します」
腰を下ろすと、想像以上に深く沈み込み、思わず体勢を崩しそうになった。
エドガーは「少し待っていなさい」とだけ告げ、奥の部屋に消えた。
すぐに小さなティーセットを手に戻り、香り高い茶を俺の前に置く。
湯気の向こうで、彼の眼差しだけが静かに光っていた。
「ありがとうございます。……ここはお一人で?」
貴族だから召使のような者が居ると思っていたのに、エドガーが直々に茶を運んでくれたことが意外だった。
「この研究室は“秘密の宝庫”だ。たとえ召使いでも、おいそれと中に入れることはできん」
心のうちを読んだように短く告げられた声には、妙な重みがあった。
――この部屋に案内されたのは、それだけ俺に期待をしているということなのか。
気付いた瞬間、自然と背筋が伸びていた。
エドガーは向かいに腰を下ろし、ティーカップを一口含んでから、静かに口を開いた。
「さて――お前の魔力についてだが、いくつか手立てを考えている」
彼は机の上に、昨日と同じような魔術刻印が刻まれた木札をそっと置いた。
「昨日も試した《灯火》の魔道具だ。だが、これは昨日よりもさらに精緻に調整してある。必要とする魔力量は極小……ほとんど“火打石の火花”ほどで起動するはずだ」
刻印はより細かく、まるで髪の毛ほどの線で円環が連なっていた。
青白い光がかすかに滲んでいるのは、そこに既に術者の工夫が込められている証だろう。
「――試してみなさい」
促され、俺は木札にそっと掌を当てた。
昨夜、体を巡ったあの奇妙な流れを思い出しながら、魔力を指先へと集めていく。
……だが、やはり壁に阻まれる。
熱は確かにそこにあるのに、一滴も外へ漏れ出していかない。
「くっ……!」
思わず声が漏れる。眉間にじわりと汗が滲んだ。
全身に魔力を巡らせ、胸から腕、そして掌へと押し出そうとする。
だが――駄目だ。まるで厚いガラスに遮られているようで、魔力は外界に触れることなく押し返されてしまう。
「では、掌から一点突破で放出してみなさい」
エドガーの声は静かだが、眼差しは鋭く俺を射抜いていた。
掌の中心に意識を集中させる。
そこを出口だと思い込み、全ての魔力を突き出す。
……しかし結果は同じ。体内に渦巻く魔力はそこにあるのに、外へは一滴も零れ落ちない。
「ならば――指先の孔を意識してなさい。霧のように滲ませるんだ」
言葉に従い、指の隙間から薄く溢れさせようとする。
しかし、どれほど力を込めても板は沈黙を守ったままだった。
焦燥が胸を焼き、額からは汗が滴る。
呼吸も浅くなり、ついに俺は肩で息をした。
「……やはりか」
観察を続けていたエドガーが、モノクルをわずかに持ち上げ、興味深げに低く呟いた。
「次だ」
彼は木札を指で押さえ、静かに告げる。
「“媒介の拡張”を試す。直接放出ができぬなら、刻印そのものを“自分の一部”と錯覚しなさい。血管の先に板があると考え、そこへ血液を流し込むように――身体の延長として魔力を循環するんだ」
深く息を吸い、視線を木札へ落とす。
刻まれた円を血管に、三角を心臓に見立て、そこに魔力を流し込むよう強く意識した。
瞬間――板の中央に、ぽっと橙色の光が芽吹いた。
「……できた!」
思わず声が上ずる。
光は小さく、心許ないほどに弱々しかった。
それでも、確かに自分の手から生まれた光だった。
エドガーは目を細め、静かに頷いた。
「面白い。お前は放出が難しいぶん、媒介を通したほうが相性が良い。……魔術に向いているのかもしれん」
胸が熱を帯びる。
魔法が使えないと落ち込んでいた俺に、初めて灯った可能性。
魔術なら、道はある――。
エドガーは椅子に深く腰を預け、モノクル越しに俺を見据えた。
「魔力の感覚はある。循環もできる。だが――放出ができん」
静寂を切り裂く低い声に、思わず背筋が伸びる。
「通常の魔術は放出を前提とする。魔力を体から手放し、刻印がそれを受け取って初めて起動する。魔法も同じだ。魔力を外へ手放し、空気中の魔力と結びつけて現象を起こす」
木札を軽く叩きながら、彼は続ける。
「だが――お前は放出できぬ代わりに、“接続”に近い働きをしていると仮定できる」
「接続……?」
「そうだ。魔力を切り離すのではなく、細い線を外へ延ばし、自身の魔力を対象へ直結させる。刻印を“自分の一部”として組み込んでしまうのだ」
息を呑む。
「……つまり、俺は魔力を手放せない代わりに、繋げられる……?」
「うむ。他の者には決してできぬ芸当だ。普通は放出した瞬間、制御権は刻印に移る。だが、お前が繋げたなら制御権は自分に残る。利点にも、危険にもなりうる」
エドガーはモノクルを押し上げ、瞳を細めた。
「利点は、術を制御したまま自在に操れることだ。例えば《灯火》なら光の大きさも色も持続時間も、自在に変えられる可能性がある。完成形を常に弄れるのだ」
胸が高鳴る。
もしそれが本当なら――俺にもこの世界で生き抜く道がある。
だが、次の言葉は冷たかった。
「直結は“魔力の共有”でもある。もし流れが暴走すれば、刻印であれ人であれ、制御不能になった魔力がそのままお前を焼き尽くす」
彼は片手を組み、低く言い放った。
「さらに他者に触れ、魔力線を繋げれば相手の魔力にまで干渉できるだろう。だがそれは同時に、己の回路を晒す行為だ。互いに力を奪い合う形になれば、最悪――どちらかが潰えるまで止まらん」
ごくりと喉が鳴った。
利点と危険が紙一重――それが俺の異能の本質なのだ。