106.旅に出る朝
お待たせしました。
ここからミハネは、いよいよ王都を離れて旅へと出ます。
本当はもう少し早く出発する予定だったのですが、書いているうちに王都で書きたいことが思ったより膨らんでしまい、気づけば一章分ほどの長さになってしまいました。
旅立ちまで長くなってしまいましたが、ここまで読んでくださってありがとうございます。
また、今後の更新についてですが、ここからは 3日に1話 のペースで投稿していく予定です。
急いで書くよりも、一話一話をもう少し丁寧に書いていきたいと思ったためです。
これから旅が本格的に始まっていきますので、引き続き楽しんでいただけたら嬉しいです。
旅に出る朝は、思っていたより静かだった。
まだ夜の名残を引きずった薄青い空の端を、朝日がゆっくりと押し上げていく。
王都の屋根の向こうから差し込む淡い金色は、冷えた空気の中ではやけに澄んで見えた。
吐く息は白く、肩にかけた荷の重みが、今日から本当にこの街を離れるのだと嫌でも実感させてくる。
結局、ルミエルとアルシエルには会えなかった。
あの日以降、教会は慌ただしく動いていたらしく、こっちも義手の確認や旅支度に追われた。
会おうと思えば、無理にでも手段はあったのかもしれない。
それでも、教会からの指名依頼が絡んだ今、余計な波を立てるのも違う気がして――とうとう、そのまま朝を迎えてしまった。
言いたいことはあった。
左手が戻ったことも、旅に出ることも、帰ってきたらまた三人で《金色の羽亭》で会おうという約束も。
けれど、それは全部、言葉にならないまま胸の奥に沈んでいる。
それでも、二人から受け取った羽が胸元で静かに揺れていて、それだけが、俺は一人じゃないのだと告げてくれている気がした。
今まで世話になった《赤い梟亭》の受付に、しばらく戻らないことを伝え、部屋の鍵を返す。
宿を出る前に、俺は一度だけ振り返った。
見慣れた扉。見慣れた窓。朝の光を受ける木の看板。
しばらく戻らない。
その事実が、今になってようやく腹の底へ落ちてくる。
外へ出ると、朝日はもう街路を薄く照らし始めていた。
石畳の継ぎ目に溜まった夜の冷えが、靴裏からじんと伝わる。
遠くで荷車の車輪が鳴り、目を覚ました街が少しずつ音を増やしていく。
その中で、俺は荷を背負い直した。
義手の左手で肩紐を引く。
金具がわずかに軋み、重みが身体に馴染んだ。
王都の入口には、すでにヴァンとフェルシオン、それにムイの姿があった。
城門の外は、まだ朝の冷たい空気が残っている。
門番たちは交代の時間なのか、眠たそうな顔で行き交う人影を眺めていた。
その横で、ヴァンは城壁にもたれながら腕を組んでいる。
「遅ぇぞ」
「まだ約束の時間より早いだろ」
ヴァンは口の端を上げ、親指でフェルシオンを指さす。
「遅すぎてフェルシオンがそわそわしてるだろ」
フェルシオンは街道の方を眺めて、所在なさげにしていた、その声に気づいて静かに視線を向ける。
「否定できないことがつらいところだ」
ムイはその横で、荷物の入った背負い袋を整えていた。
「街道の最初の村までは、およそ二日ほどです」
ムイが言う。
「まずは街道沿いの村で軽く補給を行い、その後はそのまま街道を進みます。祭具を保管している町、レムナントへは、そこからさらに五日ほどの行程です」
そうしてもう一度経路を確認したのち。
「じゃあ、行くか」
ヴァンが短く言って歩き出す。
その背中を先頭に、俺たちは王都の門をくぐった。
門番がこちらをちらりと見て、軽く顎をしゃくる。
「行ってこいよ」
何度も冒険者を送り出してきた人間の声だった。
俺は軽く手を上げてそれに応え、城門を抜ける。
石畳から土の街道へ足を踏み出すと、靴底の感触が変わった。
王都の外の道は、少し柔らかい。
振り返ると、城壁が朝日に照らされている。
高い石壁。
見慣れた門。
しばらく戻らない場所。
胸元で、羽飾りが小さく揺れた。
風が吹いたわけでもないのに、わずかに触れた気がした。
「どうした」
ヴァンが振り返る。
「いや、なんでもない」
俺は視線を前へ戻した。
街道の先には、まだ誰の姿もない。
ただ細い道が、丘の向こうへ続いているだけだった。
「じゃあ、行くぞ」
ヴァンが歩き出す。
フェルシオンがその隣に並び、ムイが少し後ろにつく。
俺もその列に加わった。
朝日はゆっくりと高くなり、街道の霜を少しずつ溶かしていく。
しばらく歩いてから振り返ると、王都の城壁はもう遠くなっていた。
丘をひとつ越えるころには、その姿もついに見えなくなる。
それでも足は止めなかった。
俺たちは、そのまま街道を進んでいった。
◆
街道は王都から離れるにつれて、ゆるやかな丘をいくつも越えて続いていた。
朝の冷えはまだ残っているが、歩いているうちに体はすぐに温まってくる。
草原を渡る風は静かで、遠くでは小さな農地と家畜の姿が見えた。
最初のうちは、ほとんど言葉もなかった。
ただ靴が土を踏む音と、荷物の革紐が擦れる音だけが続く。
やがて、ヴァンが退屈そうに口を開いた。
「義手の具合はどうだ」
俺は軽く指を動かしてみせる。
「今のところ問題なし。違和感も特にはないな」
「少し前までなかったもんが生えてるようなもんだ。どんな感じなんだ?」
「生えてるって言うな。……なんていうか、少しこわばった手がずっと付いてる感じ、っていうか」
ヴァンは鼻で笑う。
「なんだそれ。まあ、俺も手を魔物に持っていかれたら、お前の師匠に作ってもらうとするかな」
「そうなったら俺が魔物の手をくっつけてやろうか?」
「やめろ、やめろ。まだ根に持ってんのか?」
「そんなことはないけど。まあ死にかけたからな」
「根に持ってんじゃねぇか」
そんな話をしながら、ヴァンはちらりと後ろを振り返る。
「フェルシオンも、最初に比べりゃ体力が付いたもんだな。今くらいの距離歩いただけで、前は呼吸が乱れてただろ」
「ヴァンのしごきのおかげと言っていいのかどうかは、判断に迷うところだな」
ヴァンがにやりとする。
「感謝してくれるのは嬉しい限りだな」
「その代わり地獄を見たが……」
フェルシオンは小さく息を吐いた。
「少なくとも、以前よりは長く歩けるようになったのは事実だ」
「そりゃあ、しごいた甲斐があった」
そんなやり取りに、ムイがふと呟く。
「……エルヴァン様。普段に比べて楽しそうですね」
ムイがぽつりと呟く。
ヴァンは一瞬きょとんとした顔をして、それから肩をすくめた。
「ん? ああ、まあそうかもな。今まで一人で旅してたからな。話し相手もいなくてよ」
「冒険者というのは、基本的にそういうものなのか?」
フェルシオンが興味深そうに聞く。
「人によるな」
ヴァンは歩きながら答える。
「組むやつもいれば、俺みたいに一人で動くやつもいる。一人だと、三日くらい誰とも喋らねぇとか普通にあるからな」
「三日?」
俺は思わず聞き返した。
「ああ。街道で人に会わなきゃそんなもんだ。喋る相手がいないから、たまに独り言出るぞ」
「それは少し危ない人間に見えるな」
フェルシオンが真顔で言う。
「安心しろ、森の中でだから誰も見てねぇ」
「それはそれで怖いな」
ヴァンはくくっと笑った。
「だからまあ、こうして歩きながら無駄話できるだけでも楽しいのかもな。
一緒の目的をもって誰かと冒険ができるなんて、今までないと思ってたからな」
そう言ってヴァンは空を見上げた。
その横顔に、ほんの一瞬だけ力の抜けた表情が浮かぶ。
いつもみたいな皮肉や余裕じゃない、どこか肩の力が抜けた顔だった。
そこに、ほんの少しだけヴァンの弱さを見たような気がした。
「それにしても、久しぶりの野営か」
「私は初めてだな」
「何気に俺もだな」
「私は何度か経験がございます」
ムイが静かに言う。
「王都の宿に慣れると、地面が少し硬く感じるかもしれませんね」
「大丈夫だろ」
俺は肩紐を引き直す。
「ヴァンのしごきの後に比べれば、何でも柔らかく感じる」
「それは褒めてるのか?」
「さあな」
ヴァンは鼻で笑った。
「じゃあ今夜の見張りはお前な」
「なんでだよ」
「余裕ありそうだからだ」
そんなやり取りをしながら、俺たちは街道を歩き続けた。
昼の陽射しはゆっくりと強くなり、足元の霜はいつの間にか消えている。
振り返っても、王都の城壁はもう見えなかった。
ただ街道だけが、丘の向こうへ細く続いている。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
物語はまだ続いていきますので、
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