103.在る
そうして、魔術刻印を刻む作業は続いていった。
限りなく共通部分を削り、刻印同士が無駄に隣り合わないよう、回路として整理しながら彫っていく。
初級魔法、上級魔法、最上級魔法――それぞれ一つずつ。
刻印は少しずつ“文字”ではなく、“道”になっていった。
それでも、どうしても気になっていたことがある。
前々から考えていた神聖魔法について、俺はイリスに尋ねた。
「……神聖魔法は、どうにかなりませんか?」
刻印筆を置いたイリスは、少し考えるように視線を落とし、首を横に振った。
「正直に言うわね。神聖魔法として“有用なもの”は、多分作れない」
はっきりと、だが突き放すような言い方ではなかった。
「神聖魔法は、教会の人間しか使えない魔法よ。
魔力の質も、流れも、前提そのものが……たぶん違う。どんな刻印をすればいいのか……そこから分からないの」
一拍置いて、少しだけ声を落とす。
「回復を“促す”程度のものなら、似たことはできるかもしれない。でも、それは神聖魔法じゃないわ」
そして、ぽつりと付け足した。
「今、世にある神聖魔法を宿した魔道具はね……全部、おじい様が作ったものなのよ」
俺は息を呑む。
「それが認められたから、クラリオン家も、おじい様を魔術師として黙認した。
あれらは例外中の例外。おじい様以外は作れない、ほとんど奇跡みたいな産物よ」
その言葉を聞いて、俺は懐へと手を伸ばした。
布に包まれたそれを取り出し、机の上へ静かに置く。
「……これ」
包みを解く。
露わになった刃――《癒威の刃》。
かつてエドガーに託された、神聖魔法を宿す武器だ。
「先生から、託されたものです。神聖魔法が宿っています……これ、参考になりませんか?」
一瞬。
イリスの動きが、止まった。
刃へ向けられた視線が、わずかに揺れる。
息を詰めるように、その気配を確かめ――
「……これは……」
そっと手を伸ばした指先が、誤って刃に触れた。
細く血が滲む。だが次の瞬間、それは跡形もなく消え去った。
「……凄いわ」
イリスの声が、低く震える。
「間違いない。神聖魔法が宿ってる……それも、この刻印量……上級魔法以上ね」
ゆっくりと顔を上げ、俺を見る。
「……ありがとう、ミハネ。これは“参考”どころの話じゃない。
これがあれば、神聖魔法の魔道具を作れる可能性すらあるわ」
胸の奥が、わずかに熱を帯びる。
俺は期待を込めて口を開こうとした――その前に。
「……ただし」
イリスは刃から視線を外し、首を横に振った。
「見たこともない刻印の羅列よ。まずは研究しないと、何が起きるか分からない。
神聖魔法特有の構成を、今の左手に組み込んで……もし壊れたら、目も当てられないもの」
きっぱりと告げる。
「だから、今は無理。
神聖魔法はここまで。左手の魔道具としての刻印は、これで終わりよ。
あとは――あなたの手に繋げて、完成」
「……でも、まだ余白はありますよ」
そう言うと、イリスは静かに微笑んだ。
「いいえ。そこからは、ミハネがやるのよ」
はっきりとした口調だったが、そこに突き放す響きはなかった。
「これからの冒険で、自分にとって本当に必要だと思った魔法を、自分で刻みなさい。
考えて、選んで、導を描いて――それを、自分の力にするの」
向けられた視線は、師としてのものではない。
一人の魔術師として、同じ場所に立つ者を見る目だった。
「今のミハネなら、それができる。私は、そう思ってるわ」
胸の奥が、じんわりと熱くなる。
師匠としてではなく、魔術師として向けられた信頼が素直に嬉しかった。
「……はい! ありがとうございます」
だが、イリスはすぐに人差し指を立てる。
浮かれた空気を、ぴしりと切り替えるように。
「でも、まだ終わりじゃないわよ。この魔道具は、“刻んだ”だけじゃ完成じゃない」
視線が、俺の左腕へと落ちる。
「その腕にちゃんと繋いで、問題なく動くかを確認して――そこまでやって、ようやく完成よ」
イリスが机の上の魔道具――左手の形をしたそれを、慎重に持ち上げた。
「じゃあ……いくわよ」
短く告げられ、俺は息を吸い、吐いて――左腕を差し出す。
意識を、断端へ沈める。
魔力を細い線に整え、肉で塞がれていた先を――無理やり“開く”。
ぱき、ぱき、という骨の嫌な感触。
次の瞬間、花弁が裂けるように皮膚が割れ、赤黒い肉が露わになる。
ぶち、ぶち、と。
腱が引き剥がされる音が、やけに近くで鳴る。背中に冷や汗が噴き出し、喉の奥から声にならない呻きが漏れる。
むき出しになった神経が、空気に触れた。それだけで――焼けた針を束で突き立てられるような激痛が走り、視界の端が滲む。
歯を噛み締め、震えそうになる肩を押さえ込む。
吐き気を堪え、必死に魔力だけへ意識を引き戻した。
義手が、断端へと近づく。
赤く濡れた肉の向こうに、冷たい鉱石の輪郭が迫る。
触れた瞬間――ぐちゅり、と。
肉が押し潰される湿った音と同時に、ヌル鉱の冷たさが、骨の奥まで響いた。
「……無理に繋げないで」
イリスの声が、いつもより低く、慎重に響く。
「痛みに意識を取られないで。魔力を――導いて。……そう、ゆっくり。頑張れ……」
糸みたいに細いその声が、ぎりぎりで意識をこの場に繋ぎ止めてくれていた。
俺は痛みを押しのけ、魔力の先端だけを意識する。
線を伸ばし、義手の内部へ滑り込ませる。
骨へ嵌る感覚。筋が絡み、引っ掛かりがほどけていく感覚。
残った神経の“端”が、刻印の導線へ吸い寄せられて――
その瞬間。
左手の先に、じんわりと“在る”感覚が広がった。
以前、魔物の左手を作ったときのような、むき出しの神経を逆撫でされ続ける痛みは――ない。
代わりに、違和感が、すうっと引いていく。ただ、そこにあるのが当然だと、身体が理解していく感覚。
断端の皮膚がさらに裂け、筋繊維が、義手の縁を探るように蠢かせる。
ずる、ずる、と。血が溢れ、床へ滴たりながら。
生き物みたいに、肉が鉱石の外殻へと絡みつき、吸い込まれていく。
肉と鉱石の境界を、無理のない形で受け入れていく。
最後に、断端だった皮膚が、義手の根元でぴたりと止まった。
吸い付くように密着し、裂け目が、縫い合わされるように閉じていく。
――終わった。
左手の先に、じんわりと感覚が満ちる。冷たさ。重さ。そして、確かな存在感。
俺は、恐る恐る――左手の指を、意識して動かした。
指が、ゆっくりと曲がる。握る。開く。ぎこちないが、確かだ。
命令が、遅れも歪みもなく伝わる。
俺は思わず、左手を見つめた。
そこにはもう、欠けた断端はない。
「……戻った」
声が、わずかに震えた。
イリスは、深く息を吐く。
肩から力が抜け、椅子に手をついて、ようやく小さく笑った。
「……本当に、よかった」
胸に手を当てる仕草には、研究者としての達成感ではなく、師としての安堵がはっきりと滲んでいる。
フェルシオンは、俺の左手をまじまじと見つめ、ゆっくりと頷いた。
「……かなり苦しそうだったな。大丈夫か? 正直、何もできなかったのがもどかしかったが……」
そう言って肩に手を置く。
その表情には、飾らない心配があった。
ムイも一歩だけ近づき、視線を下げて静かに確認する。
「……異常は見受けられません。痛覚反応も過剰ではないようです」
その声にも、わずかな安堵が混じっていた。
俺は左手を見下ろし、もう一度、ぎゅっと握り、ゆっくりと開く。
「ああ……ありがとう。大丈夫だ。ちゃんと、動く」
指が、確かに俺の意思に従う。
「じゃあ――」
イリスが気持ちを切り替えるように、ぱん、と手を打った。
「感動は一旦ここまで。
次は動作確認よ。歩く、掴む、魔力を流して魔法を使う。問題が出たら、すぐ止めるから」
そうして、作業は淡々と進んでいった。
事前に何度も机上で動作確認をしていたこともあり、接続後の違和感こそあれ、大きな問題は出なかった。
関節の微調整、魔力導線の再確認、出力の揺らぎの補正。
細かな修正を終えたとき――俺の左手は、ようやく“完成した”。
まだまだ拙い部分も多い作品ですが、
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いつも読んでくださり、ありがとうございます。
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