010.修行の始まり
鳥の鳴き声で目が覚めた。
ぼんやりと目をこすり、深く息をつく。
外からは人々のざわめきが徐々に近づいてくる。
屋台を開く音、家畜の鳴き声、子どもたちの笑い声――異世界の朝は、思いのほか穏やかだった。
「……起きるか」
寝癖のついた髪を手で押さえながら身を起こす。
顔を洗う水は少し冷たくて、昨夜の涙の跡をすっかり流してくれた。
鏡はないが、気分は幾分ましになった気がする。
身支度を整え、冒険者組合へ向かう。
◆
扉の前でちょうどヴァンと出くわした。
「よう、よく眠れたか?」
「まあな。……正直、まだ夢を見てるみたいだが」
「ははっ、そりゃそうだろうよ。昨日はあれだけ色々あったんだ。だが――今日からが本番だぜ」
ヴァンの声はいつも通り力強い。
その存在が、俺にとってどれほど心強いか――今なら素直にわかる。
「まずは腹ごしらえだな。中で食べようぜ」
組合の扉を押して中に入ると、すでに食堂は冒険者たちで賑わっていた。
木製の長椅子に腰かけ、パンをかじり、スープを啜りながら依頼について談笑している。
肉と香草の混ざった匂いが空腹を刺激し、胃がきゅうと鳴った。
「おはようございます。エルヴァンさん、ミハネさん」
受付のセリナがすれ違いざまに挨拶してきた。
「おはようございます」
「よう、セリナ」
「エルヴァンさん、お食事の後で構いませんので、受付までお願いします」
一言残し、彼女はまた帳面へと向かっていった。
「なんだろうな?」
「まあ……とりあえず飯だ」
席についてパンをちぎると、ぱきりと乾いた音がした。
香ばしい小麦の匂いが鼻をくすぐる。
スープを口に含むと、塩気は控えめだが肉と野菜の旨味が溶け込んでいて、胃の底から温まるようだった。
ヴァンは豪快にパンをスープへ浸してかき込みながら言った。
「どうだ? 思ったより旨いだろ」
「ああ、正直びっくりした。もっと質素なものかと」
「ここの食堂は安い上に量も出る。冒険者が腹空かせて動けなきゃ依頼どころじゃねぇからな」
周囲を見渡せば、鎧姿の歴戦の戦士や、まだ若い新米らしい冒険者たちが、笑い声を交わしながら食事をとっている。
昨日はただ圧倒されるばかりだったが、こうして同じ机に腰を下ろし、温かい食事を口にしていると――不思議と自分もこの場の一員になれた気がした。
食事を終えると、ヴァンとともにセリナのもとへ向かう。
「待たせたな、セリナ」
「いえ、大丈夫ですよ。では、早速ですが――エルヴァンさんに指名依頼が届いています」
「……指名依頼?」
思わず聞き返してしまう。
「通常の依頼とは違い、依頼主が冒険者を名指しで指名してくる案件です。難易度が高いことも多いですが、そのぶん報酬も大きいんです」
受付嬢セリナの説明する声には、どこか張り詰めた響きがあった。
「俺は“鳳紋”の冒険者だからな。指名依頼は結構来るんだぜ」
ヴァンは紙を受け取り、ざっと目を通すと鼻を鳴らした。
「……なるほど。森の奥に出没している“人型の魔獣”の討伐か。最近は被害が増えているらしい」
「人型の……魔獣?」
思わず問い返す。人の形を持つ魔物など、滅多に聞くことがない。
「噂じゃ夜にだけ現れるらしい。動きは鈍重だが、村人を攫っては森の奥へ連れ去っているとか……。
森の奥深くまで探索するとなると、数日はかかるな」
そう言って紙を丸め、腰袋に差し込むと、ヴァンは俺へ視線を向けた。
「で、ミハネ。お前はどうする?」
俺は拳を握りしめ、小さく首を振る。
「……さすがに今の実力でついていっても足手まといになるだけだ。一人で修行しておくよ」
「よし、分かった。朝飯を食ったばかりだし、準備もある。それまでに……修行の内容を決めておこう」
◆
そうして俺は、冒険者組合の裏手に広がる訓練場へと連れて行かれた。
そこには木人形や丸太、岩が並び、すでに数人の冒険者が汗を流している。
剣を振る音、気合いの声、立ちのぼる熱気――空気そのものが鍛錬の場であることを告げていた。
「さあ、ミハネ。今日からお前の体を徹底的に叩き直す。まずは走り込みだ」
「やっぱり走り込みか……」
「いや、それだけじゃない。魔力で身体強化しながら走れ。基礎体力と同時に、身体強化の感覚も鍛えていくんだ。普段の生活でも常に身体強化を意識しておけ」
「なるほど……その後は?」
「武器を使って俺と打ち合う。剣術から槍術、双剣術、弓術……一通り教えていく」
「一つに絞ったほうが効率がいいんじゃないか?」
「それもいいが、お前の適性はまだ分からねぇ。まずは全部、それなりに扱えるようにしてからだ」
「わかった」
「で、その後は魔術組合に行って魔術の勉強でもして来い。エドガー――あの貴族とのつながりは、何より貴重だからな」
「……はぁ、はぁ……きつ……」
身体強化を意識して走ると、最初は驚くほど体が軽く感じられた。
だが、それもほんの数分だけだった。
走りを重ねるうちに疲労がのしかかり、強化の維持はどんどんおぼつかなくなる。
膝に手をつきそうになった瞬間、背後から悠々とした足音が迫ってきた。
「おい、歩くな。走れ」
「む、無茶言うなよ……!」
「誰も一気に走り切れとは言ってねぇ。走って止まって、また走って――それを繰り返せ。大事なのは続けることだ」
ヴァンはそう言って俺の背中を軽く叩いた。
それは“軽く”のはずなのに、肺の奥まで震えるような衝撃で、思わず息が詰まった。
だが、不思議と胸の奥が少しだけ軽くなる。
結局、一時間以上かけてようやく走り切った。
汗で全身はぐっしょり、足も棒のようだ。
それでもヴァンは口元をゆがめ、にやりと笑った。
「よし、初日にしちゃ上出来だ。思ったより身体強化を維持できてるじゃねぇか」
「そ、そうなのか……?」
「ああ。普通は数分ももたねぇ。だがな、全身を一気に強化するのは効率が悪い。踏み込むときは足元、切りかかるときは腕……そうやって部分ごとに強化すりゃ時間も伸びるし、力も無駄にしなくて済む」
「なるほど……」
「まあ、こんなことを意識してやってるのは上の等級のやつくらいだ。他の冒険者は力任せで終わりだな」
そう言うとヴァンは歩き出し、俺を訓練場へと戻した。
そこで木剣を一本、俺に放り投げる。
「さて、次は武器だ。剣を握って構えてみろ」
「こ、こうか?」
「違う。肘が浮いてる、腰が引けてる。ほら――こうだ」
ヴァンは俺の腕を掴み、重心の置き方を直した。
ほんの数センチ変えるだけで、剣を構える姿勢が別物のように安定する。
しかし――。
「うおっ……!」
「甘ぇ! 次!」
いざ打ち合いとなれば、俺の剣は空を切り、ヴァンの木剣にあっさり弾かれるばかりだった。
容赦なく打ち込まれる木剣を必死で受け止めるが、衝撃で何度も尻もちをつき、手のひらには赤い痣が浮かび始めていた。
「はぁ……ぜんぜん歯が立たない……」
「当たり前だ。今日始めたばかりで勝てるわけがねぇ。だがな――体が覚えるまで叩き込むんだ。それが修行ってもんだ」
苛烈な口調の奥に、確かな信頼がにじんでいた。
俺は唇を噛み、木剣を握り直す。
何度倒されても立ち上がり、木剣を振り続けた。
息は荒く、全身が汗で張り付く。
それでも、木剣を握る手だけは絶対に離さなかった。
「……よし、今日はこのくらいでいいだろう」
ヴァンが木剣を肩に担ぎながら言った。
「剣は一番メジャーな武器だが、お前の手にはまだ馴染んでねぇな。だが、形だけは悪くねぇ。すぐに物になる」
「はぁ、はぁ……そう、か……」
全身が鉛のように重く、答えるのもやっとだ。
しかしヴァンは待ってはくれない。
「次だ。槍を握ってみろ」
手渡されたのは長柄の木槍。
剣よりも重く、扱いづらそうだ。
構えてみると、その重心が遠くにあるぶん、動かすだけで体勢が崩れそうになる。
「槍はリーチがある。間合いを支配するのが強みだ。ほら、突け!」
「お、おおっ!」
言われるままに突きを繰り出すと、槍の先が空を切り、わずかに遅れて身体がついてくる。
案の定、踏み込みが甘くてバランスを崩した。
「足が止まってる。もっと腰を入れろ!」
「くっ……!」
何度も突きを繰り返すうち、腕だけでなく背筋や足の筋肉までもが悲鳴を上げる。
ようやく十数回ほど続けたところで、ヴァンが手を上げた。
「よし、もういい。お前の体格なら槍も悪くねぇ。剣よりも伸び代があるかもしれんな」
「そ、そうなのか……?」
「ああ。だが判断はまだ早い。次は弓だ」
今度は木製の弓と矢を手渡された。
引き絞ろうとした瞬間――。
「うっ……! 重っ……!」
弦の張力が想像以上で、全力で引いても半分しか引けない。
腕が震え、矢先は定まらない。
放った矢は、虚しく地面に突き刺さった。
「ははっ、まだ素の腕力が足りねぇな。弓は一番時間がかかる。だが狩りや戦場では役に立つし、習得して損はねぇ」
ヴァンは楽しげに笑って、俺の肩を軽く叩いた。
その後も短剣や双剣を試し、一通りの武器を手に取った。
どれも未熟で、まともに形になったものはなかった。
だが、ヴァンは最後に腕を組んで言った。
「……ふむ。剣は普通、槍は適性がある。弓は筋力不足。双剣は器用さ次第だな。だが――お前は素直に学ぶし、諦めねぇ。それが一番大事だ」
汗で前髪が張り付く中、俺は必死に呼吸を整えながらうなずいた。
身体はボロボロだが、不思議と心は折れていなかった。
むしろ、熱く燃えていた。
「今日はこれで終いだ。明日からは俺は指名依頼で数日居ない、今日学んだことを反復練習しておきな」
「……ああ、わかった」
訓練場を後にしたときには、もう足が棒のようだった。
それでも胸の奥には、小さな達成感が芽生えていた。
――異世界での修行は、こうして始まったのだ。