君のヒーローにはなれない
「父上……少し、お時間をいただいてもいいですか?」
真っ先に去来したのは、「やはり」という諦めの混じった納得感だった。ジールス伯爵は、婚約者との面会から帰宅した息子・アドリアンに声をかけられ、承諾する。書斎で向かい合って座り、長丁場になるだろうと気を利かせた使用人が軽食を用意したのを皮切りに、アドリアンは話し始めた。
彼の婚約者は、ロドリア子爵家の長女・ザーシャだ。数年前、彼女の家とジールス伯爵家との間で共同事業が立ち上がり、両家の結び付きを強めるために結ばれた婚約だ。いわゆる政略ではあったが、アドリアンとザーシャの仲は良好だった。このまま何事もなければ、二人は結婚し、ロドリア家にアドリアンが婿入りしたことだろう。
暗雲が立ち込めたのは、半年前──ザーシャの母親が亡くなってからのことだ。
ザーシャの母親・ナーシャは、貴族学院で優秀な成績を修めたことを買われ、前ロドリア子爵夫妻に是非にと請われ嫁入りした。逆を言えば、それだけ現ロドリア子爵──当時のロドリア子爵令息は悪い意味で評判だった。寄付金を積んで何とか学院に入れたは良いものの、素行の良くない連中とつるんで授業もろくに出ず──当然、成績はほとんど底辺を這っていた。前ロドリア子爵夫妻は度々叱ったが、効果はない。このままでは、ロドリア子爵家に未来はないと悩んだ夫妻は苦渋の決断で、災害で困窮していたナーシャの実家である男爵家に、資金援助と引き換えに不肖の息子との縁談を申し入れた。ナーシャは領民のため、家族が引き留めるのを振り切ってロドリア家に嫁いだ。ナーシャは義父母と協力し、持ち前の有能さを発揮してロドリア家を切り盛りしていたが、数年前に前ロドリア子爵夫妻が相次いで亡くなると、全ての負担は彼女にかかった。過労により体を壊したナーシャは、帰らぬ人となった。
彼女の葬式には、ジールス伯爵家は一家そろって参列した。喪主の名義こそ夫であるロドリア子爵の名前だったが、実際表に出て対応していたのは、まだ13歳である娘のザーシャだった。婚約をしているよしみから、「何か困ったことがあれば言いなさい、力になろう」と声をかけたが、あれから連絡はない。
──それどころか。
母親の葬式を最後に、ザーシャは一切人前に出ることがなくなった。婚約者であるアドリアンと定期的にやり取りしていた手紙も、ぱったり途絶えている。
代わりに精力的に社交界へ顔を出し始めたのは、彼女の父親・ロドリア子爵とその後妻、そしてロドリア子爵家の次女だという娘・キャサリンだ。
後妻が平民出で長年子爵の愛人をしていたことは、皆とてもよく知っている。キャサリンが子爵の実子であることは、公然の秘密だった。
彼らは、前子爵夫妻やナーシャの尽力によりそれなりの資産家だったロドリアの財産を瞬く間に食い潰す。また礼儀知らずな言動で、他家からひんしゅくを買っていることに気付きもしない。
流石に目に余ると、心ある人がそれとなく咎めると彼らは口をそろえて“ザーシャの指示だ”と言った。
「生粋の貴族ではない義母と異母妹に、血が卑しいのならせめて身なりや持ち物はそれらしく整えろとうるさいので、泣く泣く」彼らはそのように過ごしているという。同時に、彼らは「異母妹たちと同じ程度の服装では恥ずかしくて共に歩けない」とザーシャは表に出ることを拒み、屋敷の中で彼ら以上の贅沢をしているとつけ加える。それを信じるには、あまりにも彼らの表情は悪意に満ちていた。
ザーシャは良識のある娘だ。少なくとも、何年か関わってきたジールス伯爵家はそう見ている。アドリアンも、「ザーシャがそんなことを言うことも、することもない」と強く主張し、ザーシャに会わせてくれるよう何度も子爵家に申し入れた。どうあってもこちらが折れないと察したのか、ようやく許可がおりたのが今日。しかしアドリアンの表情が曇っていることを見れば、あまりよろしくない結果であったことは嫌でも分かる。
「はじめ、場にいたのは異母妹でした」
驚いてザーシャはどこにとアドリアンが聞けば、キャサリンは猫なで声で「お姉様は忙しいから、私が代わりにお話しします」と席をすすめてきた。そこでなあなあにせず、「僕はザーシャに会いに来ました。ザーシャがいなければ席につきません」とアドリアンは押し負けない。
頑なに拒否するアドリアンにキャサリンは舌打ちし、仕方なくザーシャを呼びにいかせる。
そうしてようやくやって来たザーシャは、変わり果てた姿をしていた。
まず第一に、半年の空白があったとしても唖然とするほど痩せていた。その窶れた体で、以前のザーシャなら絶対に着なかった派手で時代遅れなドレスをまとっている。髪もひたすら豪華だがごてごてと飾り付けられ、趣味が悪い。極めつけは、そんなザーシャの周囲にいた使用人たちが、皆ザーシャを嗤っていたことだ。仮にも仕えるべき主を、笑い者にして平気な感性が、アドリアンには理解できない。救いには到底ならないが、使用人の誰一人、アドリアンの見知った顔はいなかった。ザーシャの母が亡くなってから雇われたのだろう。
「ジールス伯爵令息」
かつてはアドリアンと、名前で呼んでいたのに。
「迷惑ですから、わたくしのことは放っておいてくださる?」
「め、いわく?」
硬い声音と言葉に、アドリアンは絶句した。ろくに言葉が紡げない間にも、ザーシャは淡々と言い放つ。
「わたくしの相手は、最低でも公爵令息でないと満足できません。貴方程度なら、キャサリンがお似合いだわ。どうせ政略だし、キャサリンに代わっても何も問題はないでしょう」
「お姉様っ! またそんなひどいことを!」
横から聞こえるキンキンとした声がひどく耳障りだった。衝撃の連続で、できることなら耳をふさいで逃げ出したかったが、どうにかアドリアンは耐える。
だって、ザーシャは──ザーシャの目は。
言葉通りの高飛車でも、面倒そうでも、言わされているという怯えも見えない。全てを諦めきった、何の感情も浮かんでいない目だった。そうなるまで、どれだけ辛い目にあったことか。今の言葉も、まるで人形劇で人形が台詞を喋っているような不気味さがある。とても、本心からそう思っているとは思えない。
アドリアンはもてる勇気を振り絞り、「その話は、ここではお答えできません。失礼、少し気分が悪いので帰らせていただきます」とどうにか平静を保った。
「あら残念! アドリアン様、また来てくださいね」
勝手に名前を呼んだ胸焼けのするキャサリンの声は聞こえなかった振りをして、アドリアンは何とか去る。背後から、「お姉様嫌われちゃったかも、あはは!」と品のない笑い声が聞こえた時は思わず拳を握ってしまった。
そうして、現在。
「明らかに、ザーシャは冷遇──いや、虐待されています」
「それで?」
聞き返したジールス伯爵に、アドリアンは目を見開いた。
「それで、ではありません父上! ザーシャが大変なことになっているのです! 助けなければ、」
「ふむ、お前はザーシャを救いたいと思っているのだな」
「……父上は、違うのですか?」
信じられないものを見るような息子の眼差しに、伯爵は苦笑した。貴族らしい表面的なものだが、視線には息子に対する慈愛も込められている。
「実はな、アドリアン」
「はい」
「ロドリア子爵家との共同事業を、うちで買い取ろうと思っている」
「え?」
事業をはじめて、数年。軌道には乗った。ロドリア子爵という不良債権を抱え込んで不安定な経営をするより、多少金がかかっても伯爵家だけで運営した方が将来的には得であるとみている。すなわち、アドリアンとザーシャの婚約も不要となるし、ロドリア子爵家との関わりもなくなる。
「それでも、助けたいか」
「それは、もちろん」
「助けて、それからどうする?」
「え?」
「仮に、ザーシャを助けたとしよう。しかし、それで終わりではない。関わった以上、放置は許されない。その後のことも考えるべきだ。現在、ロドリア子爵家はどうなっていると思う? 調べたところ、かの家は既に傾きつつある。しかも、子爵は借金もし始めていて、もしかするとその分の返済もしなければならないかもしれない。加えて、同情だけではない注目も集まるだろうな。中には、ザーシャにも隙はあった、などという表現ではおさまらないくらい心無い批判をする輩も、当然出てくる。そんな醜聞だらけのロドリア子爵家にお前は婿入りして、ザーシャと共に苦労できるか? 自分が原因ではない不幸に、彼女と耐えられるか?」
「それは、」
アドリアンが戸惑うのも分かる。ザーシャと仲は良かったが、それは全てをはね除ける恋や愛とはほど遠い。それで良かったのだ、今までの状況では。
「確かに、やっていく自信は……ないです。でも、だからといってこのまま何も見なかったことにするのは、嫌です」
うつむきながらも、アドリアンは語る。
「例えば、貴族に無体を働かれている民がいたら、たとえ自分と無関係でも助けたいと思います。ザーシャはれっきとした貴族令嬢ですが……やっぱり理不尽な扱いをされているのなら、助けたいし、彼女がそんな境遇に追いやられているのはおかしいです」
ジールス伯爵は、息子の頭を撫でた。まだ学院に行く前だというのに、しっかり考えて言葉にするアドリアンを頼もしく思った。
「意地悪を言ってすまない、アドリアン」
「父上?」
「だが、父はお前を誇りに思うぞ」
重ねて伯爵は告げる。
「婚約は解消するが、ザーシャも助けよう」
「父上!」
「まずは、本当にザーシャが辛い目にあっているか、証拠を集めないとな」
「でも、あまり悠長なことをしていては……」
「ロドリア子爵家の寄り親であるトランドール公爵家に相談して、密偵を使用人として送り込んでもらおう。ザーシャの保護と証拠集めを同時にしてもらうんだ。幸い、今の子爵家は使用人の入れ替わりが激しいらしいから、すぐにでも採用されるはずだ」
数ヶ月後。
ザーシャへの虐待が立証され、ロドリア子爵と後妻とキャサリンは法の裁きを受けた。虐待に加担した使用人も、同様である。
ザーシャが希望すれば子爵家は存続する可能性もあったが、彼女はそれを望まなかった。
「お母様たちには悪いけど……元々、お母様たちが優秀だからもっていたような家なの。この度の件で世間の注目を浴びながら立て直すなんて、わたくしには無理」
ザーシャはトランドール公爵家に引き取られ、そこで侍女として働けるよう学んでいくらしい。母の実家である男爵家に身を寄せる案もあったが、災害から復興しつつあるとはいえ、元々あまり金銭的に裕福ではないため、負担になるのを避けて断ったという。婚約を解消したので、最後の機会としてもうけられた茶会の席で話を聞きながら、健康を取り戻しつつある彼女にアドリアンはほっとする。
「ありがとう、アドリアン」
「いや、僕は別に何もしてないよ。父上と、トランドール公爵家のお陰さ」
「それでも、貴方が何度も面会を申し込んでくれたからわたくしは助かったの。……これは、わたくしが区切りをつけたくて口にするのだけれど」
「うん?」
砂糖を紅茶にいれ、スプーンでかき混ぜながらザーシャは言う。
「貴方と婚約が続くなら、子爵家を継ぐのも良いと思ったの」
「え?」
驚くアドリアンに、ザーシャは意味ありげに微笑んだ。その微笑みに、アドリアンは罰の悪そうな顔をする。
「……ごめん、ザーシャ」
「謝る必要はないわ、アドリアン。貴方とわたくしはそこまで縁が深くなかった、それだけ」
紅茶を飲みほすと、ザーシャは席を立った。
「今までありがとう、ジールス伯爵令息。どうか、お元気で」
「うん、ザーシャ、嬢。君も、どうかお元気で」
そうして、二人は別れた。
数年後。ザーシャがトランドール公爵令嬢の侍女となり、主が輿入れした王宮でとある令息に見初められ、「貴女を幸せにするなら、何だってしよう!」と言い切られ、熱心に口説かれた末結婚したと聞いたアドリアンは、心から良かった、と思った。