41.聖女にとっての罪悪感
「いや……俺が戻してくりゃあ良いだろ」
「大丈夫です……アクセルが行くとまた闘技場の人に捕まっちゃいますし、ここで待っててください……」
ぐすっと、真っ赤な鼻を啜りながら籠を引っ張るエンヴィーにアクセルも今は強く出られない。
大会が終わり、会場から退場を呼びかけられ選手控え室まで移動してもエンヴィーは泣きじゃくったままだった。
優勝者であるニーロが誰よりも一番に会場を去った為、殆どの観衆や大会出場者もニーロを追うように早々に闘技場を後にした。それでもアクセル一人だけは今も闘技場関係者に探し回られていた。
優勝者ニーロと拮抗したアクセルに、このまま剣闘士にならないかという申し出が止まない。
権力者や金銭を持て余している者ほど、有望な新人を自分のお抱えにして剣闘士をやらせたいと目を付ける者は多い。しかも今回はニーロが引退宣言を行った後である。今回の試合が引退試合なのか、復帰なのか、引退自体が撤回されたのかもわからない中、早めに次の有望選手に唾を付けておこうと考える者は多かった。腕自慢の男達に命じ、腕尽くでも自分のもとに連れてこい、契約させろと命じた権力者の意思により、アクセル捜査網が広がっていた。
目眩し魔法で今はそっと壁に寄りかかり気配を消しているアクセルだが、透明になるわけでもない。
闘技場内の全ての出入り口も扉の前にも闘技場関係者が見張り佇んでいる中、それを通り抜けて進むことはできない。
そんな中、アクセルが借りた武器だけでもきちんと武器庫に返そうとする聖女は数本の矢だけが残された籠を抱えながらまた鼻を啜った。弓はアクセルが戦闘で駄目にしてしまったが、矢と籠も闘技場の大事な備品だ。アクセルはその辺に放っていけば良いと言ったが、借りたものはきちんと返すべきだと聖女は思う。これをきっかけにお金のない剣闘士が無料で武器を貸してもらえなくなったら困る。ニーロの大事な大会なら尚更のこと、ニーロの為に自分ができることは全部やらないと気がすまない。
選手ではない自分なら、目立ち見つかることはあってもアクセルの行方などいくらでも言い訳はできる。
「ちゃんと、ちゃんと迎えに来るから良い子で待っててくださいね……」
う゛う゛っ……とそこでまた目を擦り鼻を何度もずるずる啜る聖女に、アクセルもいつものように言い返す気力も出ない。
ニーロを断ったのは聖女本人にもかかわらず、その聖女が自分のやったことで泣いている現状で取り扱いがわからないままだった。本来ならば今も「ガキ扱いすんな」の一言は言いたくなったが、ずびずび泣く聖女にそんなことよりもこんなのを一人で闘技場に歩かせることの方が不安になる。今、この一瞬だけ、ニーロが聖女にしつこいくらい過保護だった理由を垣間見た気がした。
少なくともこのうじうじ泣く聖女の姿を見られなくて済んだだけでマシだと思う。こんなのを見れば「やっぱり付いて行く」とまた前のめりになりかねないと考える。
この状態の聖女を一人で行かせるのも不安だが、闘技場関係者の影がない場所から自分が動く方が面倒になる。どうせ現在地から数メートル進んだ先にある扉の前だと、仕方なくアクセルもエンヴィーを送り出した。宥め方もわからない今、聖女の好きにさせること以外にしてやれることも思いつかない。「ほらいけさっさと」と背中を押し、ぐずぐず泣く聖女の背中を黄金の目を細めて見守り続けた。
ふらふらと、矢も殆ど入っていない籠を抱えるだけでも蹌踉ける聖女は、一度訪れた武器庫の前で足を止める。
扉の前には闘技場関係者である屈強な見張りが佇んでいたが、歩み寄ってきた聖女にぎょっと顔色を変えた。闘技場に教会関係者というだけで目立つ上、彼女が準優勝者の同行者だったことも当然目についている。きょろきょろと近くに選手本人がいないかと確認してから、改めて聖女に向き直る。
「アンタッ、ニメトンの同行者だよな?ニメトンはどこにいる?!」
「さっ先に帰っちゃい、ました。…………酒場に、行くそうです……。わ、私は借りた武器を預かったので……」
聖女が言い切る前に、扉を阻んでいた男は横に逸れた。話す前から目を涙でいっぱい溜めていた少女は、どういう理由であれ関わるのが面倒だと判断する。
それよりも酒場に消えたという情報を闘技場運営者に報告する為に「酒場か!」と叫び、持ち場を放棄した。教会関係者の女性が泣いていることよりも、あの謎の選手を確保する情報を手に入れることの方が闘技場運営の為に遙かに重要だった。歩いていた別の兵士に武器庫の見張りを任せ、自分の手柄を上官へ報告へと走る。
扉が譲られたところで、聖女も武器庫に入るがその間もずっと下を俯いたままだった。
涙で視界も滲んで見えにくい中、泣いている顔を見られたくなくて武器庫に入ってすぐに扉も閉じた。ずずっと鼻を啜りながら籠を元の場所へと置く。物さえ返せば、あとは闘技場の下働き達が補充もしてくれる。壊れた弓も槍も会場から回収したのは彼等だ。
武器を借りていた選手自体少なく、決勝を終えて時間も経った今武器庫に訪れたのも聖女だけだった。始まる前は何人もいた選手も、返還を終えたか敗北した後である。
狭く埃っぽく、カビや錆の匂いを漂う部屋に籠を返し終えた後も聖女はその場から動けない。鼻が垂れ、何度擦っても腫れた目から涙がぼとぼとと零れてしまう中、せめて全部止めてから部屋を出たいと思う。下を向いたままずっとあげられない今じゃ、アクセルも困ったままだとも自覚する。その為にも、一人で武器庫に返還に行くことを選んだのだから。
「……。……ふう、う゛う゛ぅ~~……」
誰もいない。アクセルも見ていない。ニーロも、ラウナも見ていないと思えば、また大きな波がくるようにこみ上げた。籠を置いた体勢のまましゃがみ込み、膝を抱えて泣き出した。
ニーロに、あんな顔をさせたくなかった。もっと清々した顔で送り出されたかった。
自分に迷惑ばかりかけられていたニーロに、頭を下げられてまで同行を頼まれたのに断ってしまったことが何度も何度も思い出す度に心に引っ掻き傷を増やす。いっそ頷いてしまえば楽になれたとも過るが、その旅に同時に思い起こすのは聖典の旅でのニーロの末路ばかりだ。
まるで迷子になった子どものように小さく蹲り泣きじゃくる聖女は、落ち着くどころか余計に涙もしゃくり上げも酷くなるばかりだった。
ニーロを傷付けたと引き摺れば引き摺るほど、同時に断ってしまったラウナの顔まで浮かぶ。どちらも今回こそ絶対に傷付けたくなかった二人だ。
エンヴィーにとって、聖典の旅は過酷で辛いものだったのは間違いない。だが同時に、仲間達と過ごした日々は辛くても幸せなことも嬉しいこともたくさんあった。その全部を根元から自分は自ら抜き取ってしまったのだと、空虚が内側をひしめく中で思い知る。
今度こそニーロも、そしてラウナも失うことはない。だが同時に、彼等との日々ももう手に入らないのだと考えれば考えるほどに、肺が絞られるように苦しくなった。自分は正しいことをしている筈なのに、大好きな仲間を傷付けてばかりだと
「……おい、やっぱりこんなの聖女じゃねぇだろ?」
「まぁなんでも良いだろ。どうせただのガキなのは違いねぇ」
ひっ……?!と、突然背後から掛けられた声に聖女は肩を上下し振り返る。驚き過ぎて床に尻を付けてしまったまま崩れてしまう。気付けば背後に二名も男が並んで自分を見下ろしていた。
扉が開いた音もしなかった。しかし何よりも聖女自身が泣くばかりで自分の殻に閉じこもり周囲に意識を向ける余裕もなかった。涙で濡れた顔を露わにしたまま半開きの口で見上げる先には、見張りに立っていた男とも違う屈強な身体をした二人組だった。
武器を返しにきた選手だろうかと、侮蔑の眼差しを自分に向ける彼等に聖女もすぐには舌が回らない。「ご、ごめんなさ……」となんとか言えても途中で噛んだ。
腰に剣こそ携えているものの、弓も矢も持っていない男達を前に自分はどこに避ければ良いのか、どこが邪魔なのかも咄嗟に判断できない。慌てふためくエンヴィーを前に、男の一人は鼻で笑いながら聖女に手を差し伸べた。
手を貸してくれるのかと、エンヴィーも恐る恐るその手を震えながら取ろうとしたが、違った。聖女が手を出そうとした時点で「違う」と一蹴する男は、威圧するように低めた声を彼女へ向けた。
「一角獣の蹄を寄越せ」
「え……?」
バチンッ!と直後にはエンヴィーの白い手が叩くように弾かれた。
手を取ってやるどころか握手すらもする気もないと示す決定的なその音に、聖女は一瞬頭が真っ白になる。弾かれた指の痛みより、明確な悪意に目を丸くする。
更にその直後には、聖女が思考に及ぶよりも前に男の一人の前足が彼女の頭を踏みつけた。




