聖女にとってのハッピーエンド
「アクセルのこと、聞かないと」
ただただ懺悔しか考えられず、仲間達との所縁の地を思いつく限り全て巡り終えてから。
再び大聖堂に帰還し、時間の経過と共にようやくまともに思考できるようになった聖女が最初に思い至ったのがそれだった。
アクセル。今や英雄として広められた聖女の仲間の一人。正式に任命された同行者ではないが、彼がいなければ自分は聖典まで辿り着けなかったと聖女は思う。天才魔導師のラウナに並ぶほど聡明で、最強剣闘士ニーロに認められるほど強く、そして誰よりも冷静に戦況を見てくれた。
目的を見据え進み続けた彼の心の強さが、自分はずっと羨ましかった。
彼について聞くべく教皇の自室に訪れた聖女は、控えめなノックを鳴らす。
分厚い扉の向こうからはすぐに穏やかな声が返された。返事を得てから「失礼します」と扉を開き、聖女は中へと入る。ぺこりと頭を下げ、音を立てないように扉を閉じた彼女を、教皇は執務机に掛けたまま迎えた。
教皇の寝室や応接室とは別だが、執務室を兼ねた広い部屋は聖書の他にも書物がずらりと並び、ステンドグラス造りの窓からは光が優しく溢れ部屋を照らしていた。執務机の上には仕事に不可欠なペンと書物、そして
「聖典……?」
教皇の穏やかな笑顔に迎えられた聖女は、引き寄せられるように一点へと目が向いた。
「突然すみません」の一言を言う間も無く、聖典に視点が止まる。自分達が過酷な旅でようやく手にした聖典を間違えるわけもない。
「やぁエンジェラ。色々とやってみてはいるんだが、どうにも反応がなくてな。私が考えるに神聖魔法や封印解除だけでなく何かしらの条件があるのではと」
「ッなっ何故聖典がここに…?!〝来たる脅威〟が訪れるその日まで地下聖堂で厳重に保管されている筈では……!」
早口での勢い任せで告げる聖女に、教皇は予想していたように苦笑する。まぁまぁと宥め、笑みを向けた。
おいでおいでと彼女を手招きし、向かいに立てばそこで聖典を適当に中央で開いて置いた。そして聖女にも見えるように向きを変え、差し出す。
教皇に促されるまま恐る恐る聖典を覗いてみれば、そこには文字がなかった。
聖典というならば何かしら書かれているのかと思ったが、綺麗な白紙だ。たまたま白紙の部分を見せられているのか偽物なのかと、結論に至らず首を傾ける聖女に教皇は「触れてみてくれないか」と柔らかく促した。
教皇から許可を得た聖女は、聖典へと触れる。
人差し指だけを伸ばしページを捲ろうと紙の端に触れた途端、バララララッと突如として聖典のページが捲れだした。更には文字もうっすらと浮かんだように見えたが、聖女が驚き手を引っ込めた途端またぱたりと勢いを途絶え閉じてしまう。
ただそれだけの動きにもバクバクと踊る心臓を右手で押さえつける聖女は思わず後ろへ下がった。教皇だけが「おおぉ!」と嬉しそうに声を漏らし、聖典を一枚一枚開いていく。
どのページにも文字らしきものはなく、最初に開いた時と同じ白紙が続くばかりだった。
「神聖魔法の使い手なら使えるというわけでもなかったらしい。……やはりお前に聖典を任せて正解だった。聖女よ、すまないがまた忙しくなる。聖典の解き明かしに協力してくれるな?」
「まっまさか、私に来たる脅威で聖典を使えと仰るのですか?そんなっ私などにできるでしょうか……?!来たる脅威を撥ね除けるなんてっ……」
新しい発見への喜びのまま執務机から立ち上がる教皇に、聖女は不安げな声を漏らす。すると流れるように教皇は「ああそうだな」と優しい笑みを彼女へ向けた。
「〝来たる脅威〟など存在しないから安心しなさい」
「…………え?」
だから気に負うことはない。共にゆっくり解き明かしていこう、と。そう柔らかな声で続ける教皇の言葉は、聖女の頭にはもう届かなかった。
強ばった笑みのまま、今聞こえた全てが冗談だと。そう、笑い飛ばされるのを呼吸もせずに待つが聖女の肺が痙攣を起こす方が先だった。
浅く、小刻みな呼吸が変則的に速まる聖女に、教皇は「大丈夫か?」と心配そうに首を傾げながら歩み寄る。硬直したまま言葉もない彼女に「落ち着いて、深く呼吸を」と肩へそっと触れながら呼びかけた。
一回、二回、三回と彼女がようやく呼吸を整えたところでそのままポンポンと指先だけで安心させるようにその肩を叩く。
「安心するんだ、全て偽りだというわけでもない。平和な未来の為であることは変わらない。ここまでは良いか?」
「わかっ……わかりませんっ……! だって、来たる脅威が来ないなら最初からずっと平和ということではありませんか……」
「だが魔物の発生や魔族の台頭まで判明しただろう?先代教皇も魔物に殺された。……そのせいで、実は何年も前から我が教会は危機的状況だったのだよ。次期教皇だったこの私が、先代の神聖魔法も魔力も受け継げなかった」
え……?と聖女は目を丸くする。聞けば聞くほど全く話が見えなくなる。理解したいのに、納得したいのに訳がわからない。
優しい教皇の声に反し、聖女の声は震えそして濡れていく。ぷるぷると唇も震え、話すだけでも涙が大粒零れ、しゃくりあげそうになる。教皇の笑顔がこんなにも怖いと思うのも初めてだった。
聖女の必死の訴えにも、教皇は眉一つ乱さない。
「国の教会を束ねる教皇は、優れた神官から選ばれる。そして先代教皇が息を引き取れば、大聖堂に伝わる秘術により〝全て〟を亡骸から引き継ぐことになっている」
生きた人間相手であれば、神聖魔法の知識や魔力どころか命をも奪ってしまう絶大な秘術。先代の亡骸に留まった神聖魔法の技能と魔力その全てを継承する為の魔法。
歴代教皇全員がそうしてきたことで次代に引き継ぐごとに力を増し、教会全土を束ねるに相応しい力を得られた。……そう言われても、聖女はまだ理解できない。
幼い頃から教皇に与えられた魔導書は全て記憶した聖女だが、その秘術はどこにも遺されてはいなかった。そんな禍々しい魔法、神聖魔法ではない別の魔法だと本気で思う。
「しかし先代は不幸にも魔物に喰われてしまった。何代も引き継いだ神聖魔法が私の前で途絶えた」
肉片すら残らなかった。そのせいで現教皇は過去の教皇のような絶大な神聖魔法を得られないまま、その座に着いた。
周囲の神官達ともさして変わらない神聖魔法しか使えない。現教皇にとって、それがどれほどの屈辱だったか。
「だからこそ必要だった。無限の魔力と可能性を与えるとされる伝説の聖典が。これで私は歴代教皇と同等、いや歴代最強の教皇となれる!ようやく我が国は永久の平和を約束され」
「その平和に!どうして彼らはいないのですか……?!」
心地良さそうに語る教皇の口上を、聖女の嘆きが上塗った。
見開いた目を濡らし、頬から顎まで滴を伝い落とす聖女は声も震え、喉もガラついた。身体が熱いのに寒空の下のように震えが止まらない。とうとうしゃくりあげ、ひっくと鳴りながら瞬きひとつしない目は教皇から離れない。空色の瞳に暗雲がかかる。
素晴らしい自分の説教を遮られ、瞬きをする教皇は「彼ら?」とすぐには考えが及ばなかった。
間違いない自分が過去最高の教皇となれば、国中どころか世界中が平和に過ごす未来が来る。そして聖女も隣に立たせてやるのに何故そんな目をするのか疑問が先立った。
一言の聞き返しに聖女は今度こそ喉を荒げ、もうこの世にはいない仲間の名を並べ連ねる。
ああ、と。教皇は納得するが、それ以上はなんとも思わない。何故聖女が今更死者の名を出すのかもわからず、取り乱す彼女が落ち着けるような柔らかな声を意識し、笑いかける。
「彼らの犠牲には心から感謝している。平和の為の尊い犠牲である事実はなんら変わらない。聖典を得る為に辛い旅路を乗り越えたことで神聖魔法を極めたお前もこれから先に平和をもたらし、そして聖女であるお前の為の犠牲になれた彼らは永遠に英雄として語り継がれる」
「違います!!彼らはっ!彼らは私の為ではなく!!世界の為に全てを投げ打ったんです!!私ではなく世界の人々の為に!!私の神聖魔法が封印を解く手段だから!だから最後に私に、私なんかに託すしかなかったんです!!」
それなのに、彼らの犠牲は教皇一人の為のものだった。
そう、現状を理解した聖女は涙も震えも止まらない。これが悪い夢であればと心の底から願いながら、教皇を見つめる。
「来たる脅威が嘘だったなら……。なんでっ……なんで彼らは死ななければならなかったのですか?聖典なんて手に入らなくてもこの世界は何も変わらなかった……平和なあの日々で、わざわざ危険な旅をする必要も、無理する必要も……」
言葉にすれば余計に残酷に現実が聖女を刺す。
魔族や魔物の被害こそあれど、世界のために聖典など必要ない。そして必要のない物の為にどうして自分は大事な仲間を失わなければならなかったのかがわからない。
しゃくりあげ、声がうまく精製できなくなってきた。
ひっく、ひっ……と目を擦ることもできず茫然と泣き噦る聖女を前に、教皇は溜息を吐く。幼い頃から手塩をかけて育てた聖女であれば、自分を親のように慕う聖女ならば理解できると思ったのに、その期待は今砕かれた。
しかし、聖女をなんとか宥め説き伏せないと聖典もただの白紙本である。先ずはどう癇癪を止めようかと考えながら、ぐすぐすと泣く聖女の頭を撫でる。
「辛い気持ちはよくわかる。しかし、語らない方が良い。知らないことこそが遺された者の為だ。知ったところで誰も幸せには」
「しアわセ??」
バチンッと、突如として教皇の手が弾かれた。
まるでナイフでも振るわれたような鋭い痛みに教皇は手を引っ込めた。しかし、聖女の手はどちらも己の裾をぎゅっと握ったまま動いていない。神聖魔法しか使えない聖女が、自分を害するなどできるわけがないことも教皇は知っている。
神聖魔法はその名の通り神の聖なる魔法。その力で滅ぼすことができるのも害することができるのも、闇の化身とされる魔物か魔族相手だけだ。
「幸せ……。あぁ幸せなのですね教皇様。皆、皆、真実を何も知らないで。死ぬべきではなかった彼らが尊い犠牲になったと思い込んで幸せなのですね。嗚呼……ようやく、ようやくわかりました」
わかったと理解を示した聖女に、しかし教皇は笑えない。
声に抑揚がなく、まるで音読してるかのように平たかった。涙も止まらないまま笑む彼女の目が、今まで見たことがないほど光がなく澱んでいることに今気が付いた。
更には自分の手にある聖典が、聖女に触れていないにも関わらず熱を帯びてきた。自分では熱くて持っていられないほど、燃えていないのがおかしい熱量に教皇は手放し床に落としてしまう。
聖典が落ちた床がぷすぷすと焦げ臭い煙放つのも、聖女は目に入っていないかのように言葉を続ける。下ろしていた手で指を組み、祈りの構えで教皇を見上げた。今までの惑いも疑問も自分だけの苦しみも全ての答えをくれた教皇に、今だけは感謝の笑みを浮かべてみせる。
闇に染まった瞳から透明な滴が絶えず流れて線を描く。
「教皇様。私も、秘密があるのです。この聖典の旅で、私は最後まで〝英雄〟ではなく〝お荷物〟でした」
ふ、とほんの僅かに聖女の口角が上がり、同時に涙が量を増し溢れた。
自分の事実を、聖女は鳥の囀りのような声で単調に告白する。瞳以上に黒く澱む心臓が鉛のように重く、このまま自分を貫いて落ちてしまいそうだと頭の隅で思う。しかしそれすらも彼女にとって今はどうでも良い。
自分は仲間が好きだった。大好きだった。自分のような足手纏いのお荷物の手を最後まで引っ張り続けてくれた、優しい人達だった。
それなのに、そんな仲間の死を正しいことのように語られることが悲しくて苦しかった。あろうことか遺された人々が自分に感謝し頭を下げることが言いようもなく、そして今思えば〝不快〟だった。
帰還後の懺悔で、一度も自分の心が救われず晴れなかった理由を聖女はようやく理解する。
仲間達は間違いなく自分にとって大事な人だった。しかし、彼らが犠牲になったのは世界の為で、聖女である自分のためではない。何故ならば優しい優しい彼らにとって自分は……
「教皇様の悪口を言われちゃうと、そんなことないよと何度も言っちゃいました。足手纏いになる度にごめんなさいごめんなさいと言いながら、翌日にはまた皆の足を引っ張りました。話しかけないでと言われても、つい何度も何度も話しかけちゃいました」
足手纏いで、迷惑なお荷物だったと思うから。
悲しい顔で聖女は笑んだ。自分が一方的に大好きだっただけで、彼らは優しいだけだった。きっと本心では自分の存在が重荷だったに違いないとそう思う。
神聖魔法しか能がなく役に立てない自分が惨めだった。
自分なんかと違い、己の力で輝き、立ち上がり、活躍し人を繋ぐ仲間達が眩しくて眩しくて羨ましくて仕方がなかった。
そんな彼らが憧れで、大好きで、彼らと共に旅ができることは、神聖魔法しかない自分の自慢だった。
「私は臆病で間抜けで弱虫でどんくさくて獣相手にも手も足もでない役立たずの雑魚さんでしたから嫌われても仕方がありません。それなのに皆、私の手をいつだって引いてくれました。そして来たる脅威を阻む為に聖典が必要だと信じ、私なんかに使命を託してくれたのです」
羨ましかった。
自分と違って勇敢で、どんな敵とも勇敢に戦える仲間達が羨ましかった。大好きな彼らに並べない自分が憎くて嫌いだった。彼らを失う度に無力な自分を恨み、死ぬほど苦しんだ。
それなのに世界は彼らの死を美しいものとし受け入れた。
自分が讃えられる度に許される度に彼らの存在が些細な問題で、聖典一つで清算された存在だと言われたようで嫌だった。
あんなに素晴らしい人達が、羨ましいくらい何でもできて優しくて心の強い人達が軽んじられるようで、亡骸に唾を吐かれたような気持ちになった。
ほとんど息継ぎなしで告げる聖女に、教皇は喉を鳴らす。
聖女がここまで言葉を続けることなど今までなかった。聖女の表情が人形のように固まったままただ口だけが動き、語る。その言葉を聞きながら、教皇はぞわぞわと自分の背中に虫が這い回るような怖気を覚え出す。聖女の温かみを感じられない笑みを受けながら半歩後ずされば、途端に聖女も一歩距離を詰めた。
「教皇様」と呼びかけながら聖女が足を前に出せば、聖典を意図せず踏みつけた。しかし聖典は彼女を燃やさず熱さず、代わりにさっきまでの光とは比べ物にならない量を大きく放つ。
禍々しいほどの闇そのものを。
「羨ましいです私……。真実を知らない人達は、今も彼らの犠牲あっての輝かしい平和だと思えてる。その為の犠牲で、仕方ないと……皆が死ぬまでどれだけ苦しくて辛くて痛かったかも見てないくせに!私なんかのせいで死ななければならなかったことがどれだけ苦痛で無念だったかも知らないで!!ただ彼らの死に意義があったと信じ希望を抱いて何も知らなかった人達だけが明日を生きられるなんて!!」
「エンジェラ!エンジェラ!!落ち着くんだ!!その聖典から離れろ!!話ならいくらでも聞いてやろう!!」
もう、神には祈れない。
頭を抱え目の焦点も合っていない聖女は涙を止めどなく溢れさせながら背中を丸め、打ち震える。
教皇の必死の叫びも届かない。騒ぎを聞きつけた兵士達が部屋に飛び込んできたことにも気付かない。
今彼女の目に映っているのは教皇でも聖典でもなく、何晩も夢に見た仲間達の最期と、そして仲間達の最期を容易く受け入れた〝世界〟だった。
「羨ましい……羨ましい羨ましい羨ましい……」
仲間の死をあっさりと受け入れられたその他大勢が。
仲間達の凄惨な死に際を知らず、聞いて想像しかせずに済む人々が。
仲間達の死の原因である自分をあっさりと許せる人々が。憎まないでいられる心の綺麗な人達が。
聖女というだけで盲信できる人々が。
仲間の死に痛みすら感じない、感謝するだけで祭りで燥げる無関係な他人達が。
自分のことも自分の大事な人達も誰一人犠牲にせずにただ日常を送るだけで平和な未来までを得られた罪なき民が。
仲間達の死が必要なものだったと今も信じていられる人達が。聖典の旅の真実も知らないで今の平和が英雄達のお陰だと今も信じ感謝しそれを糧として明日を生きれる
生きとし生けるものその、全てが。
ぽつりぽつりと溢す声は、周囲の騒ぎに掻き消されて聞こえない。
教皇が説得に声を上げ、気付いた兵士達が城から応援をと叫び、顔を青くしては慄く中で聖女は涙する。
聖女の吐露が彼らに届かないように彼らの訴えも悲鳴も彼女には届かない。
「教皇様もみんなっ、こんな世界を享受して……」
ははっ、と枯れた笑いを溢し、聖女は手を下ろす。
抱えた頭は髪が乱れ、笑みは廃墟の人形のように冷たく不気味に歪んでいた。
闇が溢れては部屋の扉も壁も窓も突き抜け外へと溢れ出す。教皇の部屋よりも遥かに広く深く、闇が無機物を飲み込み侵食しほんの二分で大聖堂から外へと蔓出す。
広がる闇から魔物の手が伸び、魔族が顔を出したところで教皇達の喉は干上がった。本来、人が生み出せない筈の存在が、溢れる闇から生みだされて見えた。
そして聖典を扱っているのは他でもない、神聖魔法の使い手である聖女だ。
一体どうして聖典から魔が生まれたのかもわからない。ただ間違いないのは、聖典に影響を及ぼしているのもこの状況を望んだのも聖女だということだけだ。
まるで蜂の巣を突いたかのように、闇の狭間からぞろぞろと魔物や魔族が無数に這い出す中、逃げ惑う教皇に理解できたのはそこまでだった。
床が落ち、壁が飲まれ、魔物に兵士達が頭から喰われ血が顔に飛ぶ。教皇もまた足を噛まれ、絶叫し更に首を裂かれ声が出なくなる。
バリバリバリバリと足の先から次々と骨が砕け肉を千切られ喰われていく激痛と死の恐怖に喚き血を吐きながら聖女へ手を伸ばす。助けてくれどうにかしてくれと脂の乗った舌を回す余裕も声もなく動きで示し、そして聖女は
「……妬ましい」
冷たい瞳で、微笑んだ。
光も澱みも感じられない闇に染まった瞳で教皇を見つめた。もう大事な人の死に悲しむことも苦しむこともなく己が罪も知られず世界と共に死ねる、最期まで誰の目にも清く正しい被害者で終われた教皇に心からの言葉を告げた。
闇が大聖堂を飲み込み、帝都ごと城を飲み込み、国を飲み込み周辺国を飲み込み、大陸を飲み込み侵食を進める。魔物と魔族が無数に溢れては少年を丸呑みし、女性の頭を喰らい、男達を無意味に串刺しして遊ぶ中、人々の断末魔を渦中で聴く聖女は思う。
これが、世界のあるべき姿だと。
間違いだらけの世界を、聖女は見限った。
聖典を持ち帰ったことが間違いだった。自分だけ生き延びたことが間違いだった。仲間が死んだことが間違いだった。仲間を巻き込んだのが間違いだった。聖典の旅を受けたのがそもそもの間違いだった。
心の底から悔やむ聖女は、反して口元は変わらず笑んでいた。間違いならば正せば良い。時間を巻き戻すことができない今、まさに自分は世界を正せた。
「尊い彼らの犠牲に、今度は世界が倣いましょう??」
目を閉じた時に思い出したものは、最期まで変わらない。
仲間達が何を望んでいたかも忘れてしまったが、ただそれでもようやく聖女の心は癒された。
聖女の歪な笑みも、世界と共に消失した。