買い物でレジに並んでいる時、他の客に割り込まれたが何も言えなかった
仕事帰り、俺は行きつけのスーパーに立ち寄った。
今日の夕食は何にしようと物色する。
男の一人暮らしなんてのは気楽なものだ。家には昨日炊いたご飯があるし、炒めるためのキャベツと豚肉、あとは総菜が一つか二つあれば、腹は膨れるし満足できる。
1000円いくかいかないかぐらいの品をカゴに放り込み、俺はレジに向かう。
ここのレジは前の客のすぐ後ろに並ぶんじゃなく、少し離れた指定の場所で待つシステム。2メートルぐらい離れてる。
俺はルール通りそこで立ち止まり、手持ち無沙汰なのでスマホをいじる。
――その時だった。
前の客のすぐ後ろ、つまり俺の前に一人の客がスッと入ってきた。
黒いパーカー姿のちょっとガラの悪そうな中年のおっさんだった。カゴの中にはペットボトルと缶がいくつか入っている。缶は酒っぽいな、なんて思う。
これは明らかな割り込みである。まさかこんな堂々とやられるなんて。俺も面食らってしまう。
注意すべきかどうか。俺は迷った。
おっさんがちらりと俺を見てきた。
顔に表情はなかったが、俺にはまるで「俺が先だ。文句ねーよな」と言ってるように見えた。こうなると気の弱い俺には何も言えない。
あとは店員さんが気づいて、「そちらのお客様が先ですので……」と言ってくれるのを期待したが、店員さんはレジに手一杯でこの割り込みには気づいてない。
結局、俺は何も言えなかった。
おっさんの後に会計をし、店を後にする。
損したものといえば、割り込まれた分のせいぜい一、二分の時間だけ。こんなの何も損していないに等しい。
なのに俺の心の中には拭いきれない敗北感が居座ってしまっていた――
***
自宅アパートに戻り、風呂に入り、飯を食っても、テンションは戻らない。
俺の脳内はウジウジと反省会を繰り返している。
なぜ「すみません、並んでるんですけど」の一言が言えなかったんだろう。
俺はルールを守っていたのに。悪いのはあっちなのに。
毅然と注意して、あのおっさんを後ろに並ばせてたら、どんなに気持ちよかったか。どんなにかっこいいか。
だけど俺にはそれができなかった。それが悔しくてたまらない。
あのおっさんが怖かったのだろうか。
例えば「うるせえ!」なんて逆ギレされたら、俺はどう対処しただろう。
ちゃんと言い返せただろうか。喧嘩になったら勝てただろうか。
正直、情けない結末しか想像できない。
それに、そもそもスマホいじっていた俺も悪いのかもしれない。
俺は確かに次に会計をする人の位置に並んでいたけど、スマホをいじってたから、並んでいなかったと判断されても仕方ないかもしれない。
でも俺が並ぶ位置は正しかったし、割り込みされるのはやっぱりおかしい。
ていうか、店も店だ。あんな並び方のルールにするから、こういうトラブルが生まれちゃうんじゃないか。俺が前の人のすぐ後ろに並んでいたら、さすがにあのおっさんも割り込みはしなかっただろうし。
店員さんも、レジ打ちに夢中になってないで、こういう割り込みにも敏感になってくれないと……。
ああもう、思考がどんどん根暗な方向にいってるのを感じる。
こういう時「さっきのことは忘れよう!」と切り替えられればいいのだが、なかなかそれもできない。
いつまでも何のメリットもないウジウジ反省会をしてしまう。
そして、そんな自分にも嫌悪感を抱き――という悪循環。
「さっさと寝よう……」
俺はパジャマに着替え、すぐに寝ることにした。
電気を消す寸前に見えた時計の針は、まだ夜の10時台だった。
***
次の日、オフィスで仕事をしている俺は、昨日のことをまだ引きずっていた。
「すみません、並んでるんですけど」の一言がなぜ言えなかったか。未だに悔やんでいる。
タイムスリップしてやり直したい、なんて本気で思ってしまう。
なんとか仕事はこなすが、ずっともやもやを抱えてしまっていた。
すると――
「今日なんだか元気ないですね」
向かいの席の女子社員が話しかけてきた。
一つ年下で、髪は短め、いつも元気のある子である。
さいわい今は上司もいない。自分の恥を晒すことになるが、俺は思い切って打ち明けることにした。
「――とまぁ、こういうことがあってね。落ち込んじゃって……」
俺の話を聞くと、彼女は――
「いやー、すごい! よかったじゃないですか!」
思わぬ言葉が帰ってきて、俺は戸惑う。
「へ……? すごい? よかった?」
「だって、割り込まれたのに何も言わないって、優しいじゃないですか! そういうのって大事だと思うんですよね! 今ってなにかとギスギスしてますし……」
別に優しいから注意しなかったわけじゃないんだけど……。
はっきりいえばビビっただけだ。
そもそも優しさで順番を譲ったのなら、こうやって悩んでることがおかしいし。
「それに、そういうことする人って注意されたらきっと怒ると思うんですよ。もしかしたら、殴られてたかも……」
逆ギレされたらという想像は俺もやったよな。
確かに喧嘩になったら危なかったと思う。
「そしたら先輩、怪我してたかもしれませんよね。怪我しなくてよかったです!」
まばゆい笑顔で、俺を励ましてくれる。
なんていうか、寒さに凍えてたら暖かい日差しに照らされた……そんな気持ちだ。
何事にもきっかけというものはあるもんだ。
この件をきっかけに、俺と彼女はよく喋るようになった。
「昨日の夜なに食べたの?」
「肉じゃが作って食べました!」
「へえ、いいねえ!」
「よかったら今度持ってきましょうか?」
「ホント? ありがとう!」
自惚れかもしれないが、いい仲になっていったと思う。
いつの間にか、レジで割り込まれたことなんてすっかり忘れていた。
彼女が俺の人生に割り込んできてくれたおかげで。
***
ある夜、俺は行きつけスーパーを訪れる。
会計してもらうために、いつものように指定の位置に並ぶ。
この時、またも中年の男に割り込まれてしまった。
前のおっさんとは別人だが、どこか雰囲気が似ている。
だが、俺は別にいいやと思った。
別に急いでないし、なによりこないだは注意しなかったことを彼女に褒めてもらえた。むしろお先にどうぞという気分になれた。
すると――
「あ……もしかして、並んでました?」
男が俺の方を向いた。
「え、ええまあ」
俺も戸惑いつつ正直に答える。
「すみません、後ろに行きますね!」
男は申し訳なさそうに、そそくさと後ろに並んでくれた。
なぜだか俺もちょっと申し訳ない気持ちになった。正しい順番になったのはもちろん嬉しいけど。
それにしても、間違っている人に注意するのは勇気がいるけど、「自分は間違ってますか?」と確認するのも結構勇気がいるよな。“聞くは一時の恥聞かぬは一生の恥”というけど、一時の恥すらかきたくない人は多いはず。
もしかしたら、前のおっさんもこうだったのかもしれない。
俺はスマホをいじってたし、俺が並んでいるのかよく分からなくて前に並んでしまったけど、割り込んじゃったかもしれないことに気づいた。しかし、今更俺に「並んでました?」と聞くこともできなかった。俺をちらりと見たのは、聞こうかどうしようか迷った心の表れ。
おっさんの立場だったら、俺もそうしてたかもしれない。もし自分が間違ってるのなら注意されるだろうし、と……。
なんだ、あのおっさんは別に悪い人じゃなかったかもしれないのか。
そう思ったら心が軽くなった。
思い込みかもしれないけど、心が軽くなるならそれに越したことはないものな。
***
しばらくして、俺は向かいの席の彼女を思い切って誘ってみた。
「今夜……一緒に食事でもしない?」
先月はよく残業したからなんて名目で、ちょっといいレストランに行こうと言ったら快くOKしてくれた。
全く脈がないのなら、こんな誘いは適当に断るはず。
とはいえこんなのは俺の希望的観測で、俺が想いを伝えたとして、それもOKしてもらえるとは限らない。
でも、いいんだ。
俺の人生に明るく割り込んでくれた彼女に、自分の気持ちを素直に伝えたい。
レジで割り込みされた時、俺は何も言えなかった。
だけど今日は、きちんと言うことができると思う。
おわり
お読み下さいましてありがとうございました。
評価・感想等頂けると嬉しいです。