天丸の勉強~美濃
天文18年 8月です。
さて、美濃で、大市をすることが決まってます。
しかし、美濃のことも、斎藤道三公のことも、良くわからないので、お爺と半三、それと彦九郎が、教えてくれるようです。
斎藤道三公とは、どんな人物か聞いてみると、良くわからないとの、答えが帰ってきた。
美濃国は、土岐家が、守護をしていたそうです。
ですが、この時代良くあることですが。土岐頼武、土岐頼芸、兄弟が、家督の継承問題で争っていたのです。
先代土岐当主が、長男頼武を差し置き、次男頼芸に、土岐当主を継承させようとしたことが原因だそうで、いや、揉めるでしょう。
そんな訳で、内戦とまでいかないけど、たびたび小競り合いがあったそうです。
そんな中に、頼武の家臣、長井某の家臣として、道三公が仕えたそうです。
何でも、油売りの商人をしていたそうで、油を計り売りするときに、柄杓から油を落とし、一文銭の穴に通して、油がつかなように器に注ぐという、大道芸のような商売で、一部有名だったようです。
長井某の家臣に、勧誘されから武芸に励んだとか、鉄砲の名手とか、噂があったようだけど、少なくとも、20年前に鉄砲は無いだろうと、彦九郎が言っている。自分も、入れ替わった鉄砲兵と、背格好も似ていたから、顔を髭と泥で汚してなんとか、鉄砲を学ぶのに苦労したそうだ。
道三公の凄いところは、出世が、とにかく早かったそうで、戦に強く、更に手段を選ばないやり方も有名で、いつの間にか上役の長井を罪に落とし、自分が長井の名跡を継いだり、驚くのは、土岐頼武の元にいたのに、土岐頼芸の家臣になって、頼芸の妾を横取りしたり、ちなみに、その妾、深芳野の産んだのが、嫡男の義龍になるそうだ。
どうも、かなり、やりたい放題出来た理由は、親兄弟揃って、家臣として働いて成り上がっていったからのようです。
斎藤の名跡を継いだときにも、弟に、長井の名跡を継がせて、脇を固めていた。
それでも、戦の強さと、気転で、美濃では、なかなか人気があったようです。
美濃で、飢饉が起きたときに、斎藤利政を名乗っていたが、己の不徳を恥じて、出家して、道三を名乗り、民の感心をかったりする横で、土岐家の争いで、美濃が混乱したとして、頼芸を追放したりして、道三本人は、守護代として、美濃を手中に納めたりしたのですね。
それでも、やりすぎたのか、とうとう、加納口の戦いで、土岐頼武の子、頼純が越前朝倉を、土岐頼芸が尾張織田からの援軍を受けて、戦に発展したそうです。
それでも、しぶとい道三公は、計略を巡らして、土岐家の2人が大桑城に入っていたときに、大桑城を攻めて陥落させて、土岐家の2人を押さえることに成功させたのですね。
更に、幕府と、近江六角氏の仲介もあって、織田と朝倉の大義名分も失くなり、織田は、織田弾正忠信秀の居城、古渡城を織田大和守家の坂井大善が攻めていて、朝倉の越前には、尾山御坊を創建して、勢力拡大を謀る一向宗の一揆勢が近ずいていると知らせが届き、双方共に和睦することになったそうです。
和睦の条件として、土岐頼純を守護として置きました。
道三公は、頼純を押さえる為に、娘の濃姫を頼純の正室とします。
普通に考えると、ここから美濃を完全に掌握するように動くのだけど、道三公、飛んでもないことに気が付きます。
美濃は、内陸国なので、尾張、越前と敵対したことで、塩の供給に問題が出てきたのです。
まったく手に入れられないことはないのですが、近江や他国では、かなり割高になってしまうのは、避けたいのだろう。
この頃、朝倉には、土岐頼芸が、身を寄せていたらしいからなのか、尾張織田と同盟を模索を始めたらしいですね。
ここで、なぜだか、本当にわからないのだけど、三郎信長兄上と濃姫の婚姻による同盟が、成立するのです。
なぜなんですかね?不思議なことに、土岐頼純は、加納口の戦いのときに、大桑城の戦いで、前に出過ぎて討ち死にしたことになっていましたね。そんな噂が流れていたそうです。
どんな理由があったとしても、怖い話しです。
そんなこんなで、尾張織田弾正忠家と同盟関係になった、美濃斎藤道三公としたら、今回の大市は、国の内外に政の安定を見せる為にも、以外に重要だったりするのですね~。
こちらとしても、大市に託つけて、美濃側に、警備の為の兵を出してくれるように、依頼しております。
兵については、食事と必要経費くらいだけど、食事については、天文屋の持ち出しになります。
けれど、その美濃の兵が、弾正忠家以外の尾張織田への牽制ななるのですね。
これから起こるであろう、三河安祥城を巡る戦いで、今川に集中する為には必要なことなのです。
もちろん儲けも考えていますが、道三公相手にどうなることやら。