木綿と茶と忍び
天文18年 6月下旬
さて、お爺や一三殿の尽力で、木綿を仕入れることが出来ました。
今のところ、三河の木綿は、あまり売れていないらしい。
青苧や麻ほど名前が知られていないし、草木染めが難しいからなのだろう。
その辺は、大豆の絞り汁につけるなりすれば、染めることもできるようになるらしい。たんぱく質が、重要なはずだ。
もっとも、今は、早く蚊屋を作って欲しい。寝てるときに、あのプ~ンと言う、羽音は聞きたくない。
とりあえず、蚊屋、網、船の帆を先に作ってもらおう。僕の分の蚊屋優先で、布団も欲しいけど、夏は、ムシロくらいが、丁度いい。
結構な量の木綿を買ったので、三河の西条吉良家との繋がりを持つことができたのは、良かった。
西条吉良家の吉良義安は、織田方なので、仲良くしておきたい。
贈り物としては、伊賀から試作で、届いたお茶と砂糖を小量ずつ加えておいたら、余程うれしかったのか、御礼状まで届いた。
ただ、煎茶なので、急須がいるのだが、まだ急須がないことに、最近気づいたので、作ってもらおうと思う。
煎茶は、器に茶葉を入れて、お湯を注いで、茶葉が開いたら、小さい器に、上澄みを移して飲む方式をとっている。
ヨーロッパでは、ポットが、普及するまでは、カップに茶葉を入れて、お湯を注いで、皿で飲んでいたらしいけど。
そこで、注目なのは試作した、お茶の色だ。緑の鮮やかな、緑茶なのだ。
うろ覚えだったけど、今年出た若葉を摘んで、蒸したあと、熱いうちに手で、こよりを作るように、揉んで乾燥させる作り方。
上手くいって良かった。伊賀の職人には感謝しないと。
ちなみに、緑茶、紅茶、ウーロン茶は、全部、同じ種類の茶の葉なのです。
違いは、茶の葉を発酵させる時間なのですね~。
実は、紅茶って、船で運ぶ日程の関係で、発酵が進んで出来たとか言われているんです。
もう一つ、ちなみに、茶色って知ってる?令和の子供たちは、茶色って、土とか、木の幹なんかを書いてるけど、昔の、お茶ってあんな感じの色だったんだよ。
だから、足利将軍家の分家、名門吉良家も、御礼状書くほど、高級な茶葉になるんだ。
ひょっとしたら、砂糖のおかげなのかも。
また、ちなみに何だけど、戦国時代の後期には、ヨーロッパで、お茶フィーバーが起こって、日本から運べば運んだけ、高値で売れ、日本の茶器を押さえたポルトガル商人も大儲け、茶器を作る窯元や日本の商人もウハウハだったんだけど、空気読まない家康様が、鎖国したから、茶の需要は、全て、明の儲けになり無駄なことに、消費されて、明国は、やがて滅ぶことになるんだよね。
実は、当時の日本は、世界的に最強国だったと言う話しもあったりする。鉄砲の数も一番多かったらしいから、ひょっとして鎖国しなかったら、広大な日本連邦も夢ではなかったのかも。
木綿の方は、さっそく糸につむいでもらう。量が多いので、糸車も作って、内職してもらう。
お婆のつて使って、武家の奥方にも仕事を回している。武家には、見栄を張らなくてはいけない時があるので、内助の功と言うことらしい。
もうすぐ、7月というある日、一三殿がやって来た。
その時、僕は、椅子に座って出迎えた。実は、手習いを始めていたが、身体か小さいので、胡座で座るのも大変なので、お爺に頼んで、小さな背もたれ付きの椅子と、それに合わせた机を用意してもらった。ものすごく具合がいい。
なぜだか、一三殿は、下座で、頭を下げている。
お爺は、僕の横ちょっと前に座っている。
頭を上げてもらって、話しをする。
「天丸君、ご無沙汰しております。ご健勝のほど、何よりにございます」
「おお、一三殿も変わりなく何よりです」
と、話し始める。
一三殿によると、お茶の加工方法を教えてもらったけど、今年の若葉が出て、一月ほどが過ぎていて、思うほど、加工か出来なかったことを詫びられて、それでも思うよりも高値で引け取ってもらったことに、御礼を言われた。
そこは、お爺も、馬のエサが、銭の山に変わって機嫌がいいので、気にすることはないのだか、一三殿にとって予想外の報酬になったらしい。
ところで、一三殿の後ろに3人の若者がいる。一三殿に聞いてみたら、僕に、小者として仕えさせて欲しいとのこと。
お爺を見てみたら、頷いて
「いいのではないか」
と言ってくれた。ひょっとしたら、前に欲しい物は、あるか聞かれた時に、
「忍びや家臣が欲しい」
と言ったのを覚えていてくれたのかも知れない。流石お爺。
3人は、「ニ平」「三矢」「四つ葉」と名乗った。