第3部19章『回帰』5
城では、アルファブラの兵と官吏の者達が必死に消火活動を行っていた。これまでは空から侵入してくる鳥達を防ぐのだけで手一杯だったのだが、そんな困窮の折に突如風が吹き荒れて竜巻を作り、鳥達を翻弄してくれているものだから助かった。
一部は火を呑み込んで炎の竜巻になっているので、街に火が燃え広がって人間側の被害も拡大するのではないかと思われたが、不思議とそのようなことにはならなかった。
これはアルファブラを守る神の風ではないかと軍師が言い、そうなると守備の兵士達の意気も上がっていった。我等は世界最強の兵士。それに神がついている。我等はきっと敵を打ち破り、退けることができるのだ、と。
王室女性は城の奥深くに避難をしており、王妃、王太后、王女は大切に最深部のシェルターに匿われ、守られていた。ここは城の下を流れる川にも近く、いざという時は小船で重要人物を脱出させられるようになっている。その川は遠く丘を越えた先まで姿を現さず、森の中に開いた洞窟の口からひょっこりと姿を出すのだ。専門の森番が常に監視をしている極秘のルートだから、敵の手がそこにまで及んでいなければ、安全に抜け出すことができる。
国王と第1王女の婿は王族男子として自らも鎧甲冑を慌しく身につけ、表に出ていた。アルファブラは歴代の国王が勇敢に先陣を切って戦場に赴いており、代々の血筋に剛の心を持つ国王を誕生させている。世界に名高い強国を作り上げてきたのは、立地の良さ、資源の豊富さもさることながら、優秀な指導者による導きもあったからこそなのだ。現国王も伝統に違わず、剣を手に颯爽と城内を廻っていた。
婿は、王女フェリシテに長年求愛を続けてようやく射止めた隣国エルナダの王子である。友好関係にある王室同士なので、祝事や忌事で交流する機会が多く、早くからこの王子は姫を見初めていた。しかし、その頃既に王宮剣士となっていたアイアスと姫が相思相愛の関係にあった為、求婚は軽く退けられてしまった。
すぐにかつての大戦が始まり、アイアスは旅立ち、世界の英雄となって帰還。もはや太刀打ちできよう術もない高みに恋敵は昇ってしまい、誰もがこの英雄と姫が結婚し、英雄が王となってこの国を治め、更なる安泰へと導いてくれるものと思っていた。
だが、アイアスは再び旅立ってしまい、姫の長い独り身生活が始まる。
交流は続いていたので度々姫に会う機会も多く、一度求婚を拒まれたからといって、彼の姫に対する好意は変わらず、親密な関係が続いていた。彼は何度も姫を慰め、諦めずに求婚を続けていた。そんなに君を待たせて苦しめる男より、自分を選んでみてはどうか、と。
姫は徹底的に靡かなかったものである。
彼自身はエルナダでの王位継承権等位は低く、上に2人いる兄と姉双方が病や戦によって死にでもしない限り統治の役目は回ってこないので、ずっと大国であるこのアルファブラの第1王女のもとへ婿入りできるのならば、その方が遙かに地位が向上する。それを第1に狙って求婚している訳ではないが、旨味があるのは確かだし、民もそう思うので、当初の彼のイメージは決して良くなかった。欲に目が眩んでいると見る人間が少なからずいたのだ。
だがアイアスは本当に帰らず、信じられない程の年月が経過し、その間、彼も独身を通して求婚を続けた。最後まで可能性は取っておいて、本国では愛人など選り取りみどりの女に不足のない生活をしているのではないかと民は勘繰っていたが、なかなか王子の身辺に女絡みのスキャンダルは聞こえてこない。どうやら本当に純愛を貫いているようだと徐々に認識されていった。
そうしてようやく下地も整い、機が熟したのである。彼の誠心誠意の態度と人柄がジワジワと民に浸透し、何と情熱的でロマンティックな男であろうと、特に女性の支持者が増えてきた。英雄を待ち続けている姫も健気であると同情され、人気は高い。
片や英雄については、本当なら帰還して姫とめでたく結婚してこの国を治めてくれることを民は強く願っているのだが、時と共に仕方あるまいという考えが多くなっていった。英雄たればこそ、結婚して一所に落ち着くよりも大切な役目があるのだろうと。だから批判されるというより諦められていって、姫と求婚者が2人で落ち着くのが無難なようであるし、ラヴ・ロマンスの結末としても美しいであろうという流れになったのだ。
王位継承権第1等の王女として、どうしても結婚適齢期の限界は早く来る。彼こそ、母国では30を過ぎて独身でも何も言われないが、姫の場合にはそうはいかない。これまで姫の意思を尊重してきた王にも遂に限界が来て、姫に強く結婚を申し付けたのである。
そして姫は賭けをした。とうとう彼との結婚を許し、広く近隣諸国に触れ回ったのだ。
彼には姫の意図が解っていたから、何とも喜び切れなかった。彼女の心は未だ英雄の方に向いているのだ。
だが、自分達の関係に進展があったのは確かである。この知らせで本当に英雄が現れるのではないかと彼自身は思っていたので、婚約だけでは本当に彼女が手に入るとは思っていなかった。英雄が現れずとも、彼女自身の判断で撤回を口にするおそれもあった。本心では、英雄と結婚できないのならば修道院に入りたいという望みを持っていそうにも思えた。そればかりは地位の為に許されないが。
もっと最悪のシナリオもある。望みを失って姫が自害してしまうことだ。ただの町娘と違ってあまりにも有名な娘だから、人々に衝撃を与えるそんな所業に及ぶことはないだろうが、絶対とは言い切れない。彼は王女のことを芯の強い人だと思っているが、安直に油断してはならないと己を戒めていた。
不安な期間が1日、1日と過ぎていき、英雄の登場も彼女からの婚約撤回宣言もなく、ここまで到達できたことが彼自身不思議なことに、結婚式当日まで漕ぎつけることができた。
本当は儀礼上、結婚前に花嫁と花婿が会ってはならないのだが、彼はこっそりと花嫁の控え室を訪れて最後の確認をした。お付きの者も全て下がらせて2人きりになり、「本当にいいのか? 今ならまだ間に合うぞ」と。
彼が本当に地位だけを望むのだったら、こんな所には来ない。彼女もそれよく解っている。彼女は「あなたとの結婚を決めたから、今日ここにいる」と言い、覚悟を決めていることを彼に伝えた。
そしてその日、盛大なる結婚の儀式が執り行われ、2人は晴れて夫婦となったのである。後で知ったのだが、結婚式の前日に英雄からの手紙が届いたらしく、そこには別れの言葉が書かれていたらしい。それが姫を決意させたのだ。
こんな不安な状態で始まった夫婦関係だから、彼は型通りに物事が進んで行くことを一切期待しなかった。その心構えは早速初夜で役立った。夜の床で、ことに到る前に彼女が泣き出してしまったのである。
彼は優しかったから、そこで止めた。他の男に捧げるつもりで長年保ってきた純潔を別の男に奪われる無念さは如何ばかりかと思うと、可哀想に感じた。
だから彼は自分の考えをじっくりと話した。自分は絶対に英雄には敵わないし、一生君の心を掴むことはできないだろう。英雄を心に住まわせたままでいいから、夫婦になった以上、自分は君をとことん愛するつもりでいる。行為も強要はしない。君が自分に体を許してくれるその時まで待つ、と。
彼女はよく解ったようだった。
それから何日も彼女は泣き暮らし、一時痩せてしまった。可哀想に、過去の男との別離がそれ程身に堪えているのである。勘違いした王達が悪阻なのではないかと先走ってはしゃいだ一幕もあった。
そんな彼女も、2ヶ月かかってようやく別れを受け入れることができたようで、その間そっとしておいてくれたことに感謝できる心の余裕も生まれ、ある日、お待たせしてすみませんでしたと言い、何度も確かめながら慎重に橋を渡って、ようやく本当に肉体の上でも夫婦となることができたのだった。
それ以来、彼女の覚悟も本当に固まったようだった。婿という肩身の狭い立場ながら彼は盛大に彼女を愛し、彼女もそれに慣れ、やがて返せるようにもなった。激しい恋愛の勢いで結婚するカップルはその熱情の維持が難関であるが、2人の場合には日に日に愛を育んでいくようで、それもまた素晴らしかった。
しかし、その矢先に新たな大戦が起こり、不穏な情勢となり、これからこそ蜜月という時に緊張が入り込んだ。彼は国王の補佐役として国防に尽力し、同時に祖国エルナダのことも気にかけながら国と妻を守っていたのである。
この数日はこれまで以上に熱烈な信仰振りで英雄出現の噂が語られており、姫も彼もドキドキしていた。彼がこの国に戻って来て戦ってくれたら有り難い。だが、再会したらまた姫の心が動いてしまうのではないかと不安だった。
この時世ならば、自分のような男がいるよりも、あんな超人的な人が側にいた方が彼女も国も安全で良かろうとは思う。しかし彼女を本当に手にした今、それを失うのは、それ以前の独り身など比にならぬほどの喪失感を彼に想像させた。
そして今日の襲撃に到った。世界各国が次々と攻められている今、この国も何時皇帝軍がやって来てもいいように覚悟はしていたが、彼にとっては早過ぎた。念願叶った姫との夫婦生活は、まだほんの始まりだ。これからだというのに、それを失ってはならない。
警報弾の炸裂音と鳥の影を認めた後、彼はまず国王の命で王室の女性を王城内の避難室に誘導した。王妃も王太后も長年の付き合いだから、彼のことは良くしてくれており、国王に命じられているのと同じように速やかに従って移動した。
別れ際、彼は姫と抱き合い、キスを交わした。必ず守ると約束し、部屋を後にする。
その後は、国王と彼とクレイオン――――アルファブラ出身の戦士で、現在ホルプ・センダーに在籍しているが、近日たまたまここに来ていた――――が城内の各方面を分担して防戦の指揮に当たった。
空からの敵は大変に戦い辛く、油を投下され火を放たれては消火も難しく、最初は城兵がやられていくばかりで、城内部への侵入をやっと防いでいるという状況だった。
彼は長年この城に住まう者ではないから、兵士との連携に年月あってこその疎通はない。クレイオンもまたそうだが、クレイオンは優秀な戦士であるからそれだけで戦力になる。どうしても自分が一番力を振るい切れないことが彼には何とも苦しかった。
とにかく、守りたい。命の限りを尽くして、彼女を、長年培ってきた夢を。
大嵐によって形勢が変わった鳥達は城に攻撃する余裕がなくなり、ある者は風に負けて落下して、待ち構えていた兵士に斬り倒された。見慣れぬ大きな鳥はグエッと声を上げて力尽きていく。茶羽根の者や熱帯風の鮮やかな発色の者、その種類は多様だ。空中では大型の鳥も風に弄られていた。あれがバランスを失って墜落してきたら大事だ。建物など簡単に崩れてしまうだろう。
「――――――クレイオン殿!」
彼はクレイオンを見つけて声を張り上げ叫んだ。若き戦士は戦況を見にこちらのエリアまでやって来たのだ。これまでの戦歴を窺わせるキズだらけの重い鎧を身に纏った姿で、それでも身軽にクレイオンは彼の所へ下りて来た。ガシャリと金属の噛み合う音がする。
未だ十代のこの少年は、先の大戦時にアイアスと共に戦った仲間の子供で、このアルファブラの生まれである。父親が優秀な戦士で、母親は指折りの魔術師という血筋のサラブレッドだ。父の身体能力と母の頭脳を見事に受け継いでいる。今この瞬間も、その両親は街の何処かで戦っているだろう。
彼もまた王宮の戦士となり、アイアスに習って大戦開始後すぐに国を飛び出し、常に最前線で戦っているのだ。ホルプ・センダーの中でも主格を成す地位に彼がいるので、アルファブラの人々はそれを誇らしく思っていた。再び世界を救う者は、やはりアルファブラの中から出ると信じているのだ。
「セイル様! この嵐は神風だと軍師が申しておりますが、どう見ますか?」
体格のいい若者は鳶色の瞳を向けて彼に言った。肌もよく焼けて黒く、同じく日に焼けて茶色い髪は短く刈り上げられて、左のこめかみの傷跡が目立った。対するセイルはいかにも文化人で、金髪の流れ方も顔立ちも体の線も全てがスマートで品がいい。
「まだ何とも言えんが、あと半刻も続けばきっと敵は退散するだろう! だが、そうとも限らんし、この隙に姫達を脱出させた方がいいかと思う!」
「――――確かに! 陛下に伺ってみます!」
彼はクレイオンが向かおうとした所を、肩を取って止めた。
「――――私が行く! 君は大切な戦力だ! ここに残ってくれ!」
クレイオンは了解して頷いた。聞く者によっては、この男が戦場から逃れようとしているように捉えるだろう。だが、彼はクレイオンと自分とを比べて歴然とした力の差があることを真摯に認め、本心からそう言っているのであり、戦士としてクレイオンもよくそれを理解していた。
彼は国王に許しを得るべく城内を走った。各国から情報収集にやって来たり、こちらから発信したりするので、流星がひっきりなしに頭上を飛び交っている。
嵐のお蔭で少し消火活動の余裕が出てきた兵士は、砂や土をかぶせて油の炎を消して止めようと奮闘している。城内は煙の臭いが充満しており、風向きによってはマスクをしないと呼吸が出来ず、目がしみて前も見られない。城は石造りで、大戦が始まってからは可燃物を極力外に出さないようにしているので、簡単には燃え広がりはしないのだが、油を使われると何とも厄介だった。
先の大戦時には今のクレイオンよりも彼は若く、母国エルナダで父や兄と共に敵と戦ったが、今回の大戦はその時以上の酷さだ。こんな鳥の襲撃もかつてはなかった。
何時また人知を超えた展開になるか判らないから、襲撃が一時弱まっているこの隙に愛する人を逃がさなければならない。こんな軍勢では、また勢いを盛り返したら全力を持ってしても城は守り切れないだろう。
彼は城の東側で勇ましく指揮を執っている国王を発見し駆け寄った。王は恰幅のいい人で、金のふんだんにあしらわれた鎧は眩く、まるで獅子のようである。灰色の髪を後ろで束ねて、眉間には深い皺が寄っていた。
「陛下! この嵐で敵が躊躇している間に、妃殿下や姫を脱出させましょう!」
「おお、セイル! ワシもそれを考えていた! そなた行ってくれるか?」
「承知しました! 船の出発まで見届けて参ります!」
国王に一度ポンと肩を叩かれてから彼は走り出した。
地下の避難所までの道程は長い。簡単に侵入者が達せないように、最も行き難い所にあるのだ。小階段に次ぐ小階段。秘密の横道。隠し扉。それらを駆け足で通り抜けて、詰めている兵達の敬礼を受けながら先に進み、ようやく彼はシェルターに辿り着いた。
扉は固く閉ざされており、彼の命で兵が両側から引いて開ける。中では、戦局が見えず怯えるばかりの王族3人が一所に集まって手を握り合っていた。つい半刻前に別れた時と違うのは立ち位置だけだ。
「――――フェリシテ!」
彼が飛び込んできた時には、さすがに姫も感極まって飛びついてきた。
「外はどうなの?! 皆は?!」
王妃も王太后も彼を食い入るように見た。2人はひたすら夫と息子の心配をしている。
「王はご無事です。都市に神風が吹いて、敵が阻まれています。今こそ脱出の好機だと、御三方の脱出を私に命じられました。ご案内します」
「ああ……そんな……!」
行かねばならぬと解っていても、3人は受け入れたくない苦悶を表情に見せた。
3人の了解を待たずに彼は兵に命を出し、小船の準備をさせた。
女達は王族だと判らぬように貴金属類の一切を外して置いて行く。そして兵士用の布地の厚いマントを羽織って衣服も隠した。防火にも優れているマントなので、多少の火の粉が飛んで来ても安心だ。
ここにいる兵士は選りすぐりの腹心の兵であり、小船に乗って同伴するのも彼等である
不安そうに船に乗り込む3人に、彼は言って聞かせた。
「もう少しこの嵐が続けば、敵は引き下がるでしょう。きっとすぐに戻って来られます。暫しのご辛抱を!」
先に母と祖母を乗せると、姫は首にかけていたお守りを彼に渡してキスをした。
「セイル……気をつけて!」
彼は頷いてお守りにキスをし、彼女を小船に乗せ、兵士が石の縁を蹴って出発するのを見守った。水音は静かながら流れは速いので、係留所を離れるとすぐに船は流れに乗り、暗い水路の中へと消えて行った。行く先を照らすのは兵士が手に持つカンテラのみだ。3人の女達はシクシクと泣きながら船に横たわって身を低くし、マントを深く被った。
彼は彼女の身の安全を神に祈ると、お守りを首にかけながら来た道を駆け戻った。