第3部18章『決裂』7
ソニアは身に着けていた雲隠れの帯を外してポピアンに投げつけるように返した。
「……私の前に再び現れたかったら、その前にこの罪を償うことね! あの人に真実を伝えて、謝罪するのよ! そうするまでは……決して二度と現れないでちょうだい! 私は決して許さないわ!」
生命の危険もある難題であることを承知していたが、ソニアは躊躇わずそう言い放った。母、エアも傷つけ、その息子であり我が弟でもあるゲオルグのことも傷つけたのだ。肉親に対してなされたこの罪は、とても、とても深くて見逃す訳にはいかない。
すぐそこに彼がいたら自分の口から伝えるところだが、もうあの島から遠く離れて場所すら判らない。ポピアンに連れて行かせることもできるが、再び相対する危険を冒してトライアへの道が遠退いてしまうようなことがあってはならない。ここは、この妖精が1人できちんと決着をつけるのが望ましい問題だ。
トライアへの帰還を遂げるまでは便利だから手元に置いておいて、王様の為にマナージュの実を手に入れてもらってから別れるという狡い選択肢もある。だが、このような問題ではっきりとけじめをつける為には、そんな損得勘定で物事をグズグズにしてはならない。決断のタイミングがとても重要なのだ。戦士だからこそ、この点においてソニアは潔かった。
そう考えていると、ポピアンはもう姿を消していた。
そして耳元で「さようなら」という涙声を残して、流星となり彼方に飛び去っていった。
あの光の軌跡の行く先が彼の居場所かは判らない。すぐに向かうような性格ではないだろう。ソニアの直感は、ポピアンの行き先があの島ではないと言っていた。
流星の消えた後は、闇の草原と星屑ばかりとなった。
遂に1人きりとなったソニアは、ここでようやく、あらゆる物事に対する失望や後悔に取り巻かれ、四方から押し寄せる波に責められた。
始まりはゲオムンドだ。あの男さえ禁呪とやらを使っていなければ……。
そして自分が弱く生まれてこなければ……皆が彼を捨てなければ……。
涙がボタボタと零れて手の甲に落ちた。青草をギュッと握り、悔しさに溜め息ばかりが漏れる。
彼がずっと母と暮らしていれば、寂しい思いをすることもなく、愛情を一身に受けて真っ直ぐに育ち、皇帝軍に与することもなかっただろう。自分の寿命を延ばす為にフォンテーヌを攫ったりすることなく、母と2人して別の方法で手を尽くそうとしただろう。
自分がフォンテーヌに手を下して終わらせることもなかったろう。
だが、全て起きてしまった事だった。過ぎた事の撤回はできない。先にあるのは、贖罪の道だけだ。あらゆる血と傷の代価を払い、歩んでいくのだ。
あれほどおそろしい技が隠されていた宮殿……。ディライラでの人間の変異というおぞましき怪も、もしかしたら彼と関係があるのかもしれない。その可能性が高い。
おそろしい……何ておそろしい事だろう……。
ソニアはジッとしているのが苦しくてフラリと立ち上がり、精霊の剣を抜き身で握り続けていたことに今更ながら気づいた。
ポピアンが傍らに荷物を残していってくれたようだ。亜空間に置いていたソニアの持ち物一式がすぐ足元に転がっている。
ソニアは剣を鞘に納め、暗闇の道に目をやった。罪を贖う為にも、トライアを守る為にも、歩き続けなければならない。
脱出を遂げたことで解放された心のゲートからも、惨劇のショックが放出されていった。痛みに耐えながら、ソニアは思い定めた方角に向かってフラフラと進んで行く。水を求めて彷徨う砂漠の旅人のように。戦場から故郷に向かって歩み、最後に一目だけでも家族に会おうとする瀕死の負傷兵のように。
過去と真実に対する失望もさることながら、やはり今、一番彼女を苦しめているのは、彼女自身の手で生命を絶ったあの少女のことだった。あの温かい体の感触だった。
今日という日を越えるまで歩いていた崖の高みには、二度と浮き上がることはないだろう。
そしてあのヴィジョン。
ポピアンが罪を償ってくれるかどうかは判らない。誰の口からであれ、母の誤解は解かねばならない。いつか、彼が自分を狙って来るような機会があるのなら、その時でもいい。真実を伝えて、改めて彼の行いを諌めたい。
だが……それは果たして、彼があのヴィジョンの瞬間を迎えるのに間に合うのだろうか。彼が本当のことを知らぬままに死んでしまうとしたら、何て不幸なことだろう。
自分を狙ってでもいい。目の前に現れたら、教えてやりたい。兄であろうが弟であろうが、この世にいるたった1人の血縁なのだ。トライアを捨てることはできないが、彼を救う為なら死の危険を冒すことも厭わない。
こうなった今、自分の力ではどの道、彼の居場所には辿り着けないから、トライアに帰り、トライアで彼を待とう。
どうか……死ぬ前にもう一度……
ソニアは祈りながら歩んでいった。星明りだけを頼りに、夜の麦畑の1本道を、時々足を取られながらトボトボと進んで行く。
目の前は、広がる闇ばかりだ。この夜に切れ目は、出口は、あるのだろうか。
ソニアは1人、今度こそ本当に1人、待ち受ける広大な闇に向かって凛と眼差しを向け、戦士として前進し、その中に抱かれていった。
「……どうだ? 様子は?」
ガルデロンの問いに、番人の悪魔はただ首を横に振った。外に出たきりだった主の帰りを知って、彼がいるという研究施設に赴いたのだが、誰も彼もショックを受けたようで番人は全員沈んでいる。主人に会う前から、嫌な予感でガルデロンは胸が震えた。
入口脇の番人は扉にただ目をやって、その後は役目を果たせなかった落ち込みで項垂れていた。
ガルデロンはそのまま中に入り、見慣れた通路を通り、見慣れた施設内を奥へ、奥へと進んで行った。足取りは重く、だが、早く主の姿を見つけたいという思いもあって、ちぐはぐの状態だった。
小振りの硝子試験槽のゾーンも越え、手術室も過ぎた辺りで、焼け焦げの臭いがガルデロンの鼻を突き、ギクリと歩調を更に落として眉間に皺を寄せた。何かを燃やした、という程度の臭いではない。もっと全面的で、盛大に物を燃やした後の煤の臭いだ。
更に奥に進み、その光景を目の当たりにしてガルデロンは思わず呻いた。最も奥に位置するその部屋は、見る影もなくなって全焼していた。完全に焼失し灰となって崩れるか、炭化してそのままになっている。触れば途端に崩壊しそうな棚ばかりだ。石造りだから壁や天井などの基礎部分は黒ずんでいるだけで残っている。
何という惨憺たる有り様だろう。この部屋をよく知る彼にも、違う部屋に見えるほど変わり果てていた。
中にあった物が崩れてスッキリしている為に、ガルデロンはすぐに主の姿を認めることができた。
部屋が黒いせいですぐには判らなかったものの、ディスパイクも天井から半身を出して主を見守っている。ガルデロンが来たのに気づいたディスパイクは真紅の瞳を向けて、視線だけで立ち止まらせた。
見れば、ゲオルグは大きな試験槽の痕跡がある場所を前にして、こちらに背を向け立っている。ピクリとも動かず、気味が悪いくらいに静止していた。
痛々しくて、申し訳なくて、ガルデロンは俯き、目を瞑った。
彼女との間にどんな事が起きたのか、詳細は解らない。だが、彼の絶望だけはディスパイクにもガルデロンにもひしひしと伝わっていた。何の言葉もかけられず、2人とも、ただ、ただ主を見守り続ける。
そうしてどれくらい彼は立っていただろうか。やがて首を動かして部屋をゆっくりと見回し、焼け跡を目で追い、何かの痕跡を求めてひとしきり視線を泳がせた。そして、気が済んだのか、それとも求めるものを探し出すのは無理だと諦めたのか、くるりと向きを変えて部屋を出て行こうとした。
「――――――どうぞお召し替えを……お体が……」
ガルデロンはたまらずそれだけ声をかけた。ゲオルグの体は全身ずぶ濡れで、ただ1枚の腰巻をしているだけであり、それだけで彼が全身変化したことが誰の目にも解った。だから尚更、細かいことを聞き出すのは躊躇われ、些細な気遣いの言葉しかかけらない。
何があったのか、大体の察しはつく。
こちらに向いたことで見えた彼の顔は、まるで抜け殻のようだった。酷い事故に遭って、魂は何処かに吹っ飛び、痛めつけられた肉体だけが残っているかのようである。その様があまりにも痛々しくて、ガルデロンはその先の言葉が出てこなかった。
ガルデロンのことなど全く目に入らない様子で、ゲオルグは目の前を通り過ぎていった。無視されたことなどほんの少しも不服に思わず、むしろ主のことが一層心配になって、ディスパイクとガルデロンは黙って後について行った。
呆然自失の抜け殻となった主がヒタヒタと歩き、その後を鬱々と暗く押し黙った部下2人が後に続き、道行く先々の番人も、ただ所在なげにそっと頭を下げる。まるで葬列のようだった。
実際のところ、そうなのかもしれない。今日、何かが死んだのだ。
主はそのまま、最上階の自室にまで上がって行った。ゲオルグは自分が入れるだけの隙間を作ると、ゆるゆる身を滑り込ませて中に入り、すぐに扉を閉じてしまった。
この先は、用を言い付かりでもしない限り入り込むことは出来ない。就寝の挨拶もかけられず、ディスパイクとガルデロンの2人はただ深く頭を垂れて、後はそこから動かなかった。
あれほど荒れ狂っていた嵐も今では過ぎ去り、強風が雲を押し流して嘘のように空が晴れ始めていた。夜もすっかり更けて半月が顔を出し、その月光すら射し込んでいる。冴え冴え、冷え冷えとした青白い月光だ。それが部屋の硝子窓から奥深くにまで侵入して、ベッドや家具類を照らしている。ランプ類を一切灯していないから、全てが青白い世界に染まっていた。
彼は部屋に入るとすぐ立ち止まり、暫くそのまま放心状態で立っていた。
そして、目の前の鏡に映る、月光に染まる自分の姿を見た。そこに、これ見よがしに自分という現実があるものだから、逃れられない。
何と惨めで、汚らわしい体だろう……!
彼の頭に響く自身の絶望の言葉より、もっと激しく強く、風と叫びが襲いかかってきた。宵色の瞳の拒絶。その光が甦る。あれは氷の色だった。もはや二度と融けることのない永久氷壁だ。でなければ、全てを跳ね返すばかりの鏡――――――
「…………おおお…………」
彼の心中の呻きは、ふいに漏れ出て言葉になった。一度決壊したら、もう止めることはできない。
呪いの言葉が幾度も反響した。
こんなおそろしい人――――――…………もう二度と会いたくないわ――――――……
顔も見たくないわ――――…………見たくないわ――――……おそろしい人――――……
この現実に耐えられず、彼は激しく全身を震わせ、叫んだ。
「――――――うおおおおおおおおおっ!!!」
今日まで普通の暮らしをしていた者が、不意の災害に見舞われて家族を全て失い、気が触れた時のように、叫びに叫び、そして慟哭した。
前によろけていき、鏡台に突っ伏して上にあった物が落ちてしまう。陶器の花瓶は鈍い音を立ててパックリと割れ、硝子製の水差しはヒステリックな悲鳴を上げて粉々に砕け散った。
その音を聴きつけた廊下の2人はビクリとし、胸を締め付けられる思いで目を伏せた。とても、とても心配だが、入って行けない。自分にはとても慰められない。ただ、そうして外で待ち続けることしかできなかった。
ゲオルグは勢いのままに、我を忘れて鏡さえも打ち砕いた。気がつけば、手は血だらけで何かを握り締めている。散らばった白い薔薇の花と、硝子の破片とを一緒に握っているのだ。
その痛みなど、胸を刺し貫く刃物が与える苦悶の前には無に等しかった。彼は尚もそれを手にしたまま、突っ伏した。
「おおおおおお――――…………!!」
ここにある、この塊は何なのだ? この生ける災厄は何なのだ?
母親に疎んじられ、憎まれ、実の姉妹にすら完全に嫌悪され見限られ――――――
彼にはもう、自分の身の置き処がなく、存在価値がひたすら危ぶまれた。信仰を持つ者が、何かを崇拝することで得られる麻薬効果によって生きるのが楽になるように、彼は母親を崇拝し、それに縋っていた。
だが、もうその偶像は何処にもない。残っているのは、かつての完璧な女神像の残骸だけだ。女神像の破片が残していった傷は何より深く、その生傷は絶え間なく引き攣るような痛みで彼を毒し、血を流した。
そして最後の、たった1つの縁であったソニアとの繋がりも見事に断ち切られてしまった。想いの糸は風に翻弄される破れた蜘蛛の巣のようで、ただ揺らめくばかり。もう、元あった所に再び繋がることはない。
永久に消えない傷と責め苦とを、彼女に負わせてしまったのだ。もう二度と、彼女が微笑むことも、手を差し伸べることも、歌うこともない。この自分の為に。
自分は、誰かに愛を請うことなど許されぬ存在なのだ。
次々と、瞼の向こうで眩しい像が流れ過っていく。
笑うソニア、小さなソニア、歌うソニア、走るソニア、見上げるソニア、踊るソニア、少しふてくされるソニア、悪戯に目を輝かせるソニア。
それら全てが、彼の頭の中に響く呪いの叫びとぶつかって、1つ1つ砕け散り、消滅していく。
その破壊を止めたくて、彼は目を開いた。ふと、手を見る。
血塗れの掌の中、どす黒い血色に染まっていく、クタリと横たわった薔薇の花が1輪。
「……………………」
彼はそれを大切に、大切に両の手でそっと包み、ぽたぽたと熱い涙が零れ、その花弁に振りかかるのを見下ろした。唇が震え、息も震える。
汚れてしまった、美しい、美しい花。
彼は一思いに花を握り潰し、それを亀裂の走る鏡面に擦り付けた。血の筋が鏡面を斜めに走り、花弁は血と一緒に貼りついてそこに残った。
やがて血が乾くと、その粘力だけでは鏡面に留まれない花弁が1枚、1枚、ハラハラと落ちていく。脱力した彼の掌の上にも、幾枚か舞い降りてきた。
……そうだ、自分の手で……
誰かに殺されてしまうくらいなら……誰か他の輩の手にかかるくらいなら……
彼は、孤独の闇の中に震えてギラギラと光る危険な瞳を、今一度鏡の中に見た。細切れの鏡面には複数の世界がある。何処にも自分がいる。
そして、そこにもう1人、自分以外の者が映っているのを見つけた。
彼の一番好きだった笑顔で、これまでに幾度となく見せてくれた偽りのない純粋な親愛の笑顔で、こちらに光を投げかけてくれるソニアの姿だった。
砕け散らずに残ったものが、まだそこにいたのだろうか。
その像は彼の血に染まっており、呪わしい色の世界で彼を見ている。
殺してやる…………オレの手で……殺してやるからな……
彼は、心の中で繰り返しそう呼びかけた。彼女は笑っている。涙が止め処なく溢れ、彼女の像を歪ませる。
オレ達は……未来のないハイ・ブライドだ。オレが……全て終わらせるよ……
まだ、彼女は笑っている。
……愛している…………永遠に…………永遠に……
彼はどうと床に倒れ転がった。流れる涙も血も、燃えるように熱い胸もそのままに、そこに倒れて肩を抱き、身を折って震えながら縮まった。
このまま死んでしまいそうな錯覚に陥るほど、そこは暗くて寂しい、孤独な空間だった。いっそ、そうなればいいと彼は思った。
月も星も、輝くものは全て皆、自分1人を除いて世界を見守っている。
その光が、彼を切りつけていった。
切りつけていった。
その夜、エリア・ベルのフロウ家で、夫婦がある夢を見た。2人共が同時に飛び起きて、互いに今見た夢のことを語ると、どちらも同じものを見たのだと知った。こういうことは時々あるし、2人共がこの夢を特別なものだと感じていた。
我が家の居間で夫婦は揃って卓につき、温かい茶を楽しんでいる。その茶を入れて2人に振る舞っているのは、行方不明のフォンテーヌだった。2人共、夢の中ではそんなことを一時忘れていて、かつてのように娘と楽しく笑い合っている。微笑ましい典型的ハイ・エルフの家庭図だった。
フォンテーヌは2人に言った。彼女自身も両親に向かい合うようにして卓につき、温めたポットにきちんとカバーをかけて。
『親の言うことを聞かぬ娘ですみませんでした』、『心配をかけてすみませんでした』と。
私はここへ帰ってきたかったけれど、それは叶いませんでした。ごめんなさい。どうぞ許して下さい。私は今ちっとも苦しくないし、とても安らかです。これから天に行きます。
そう言ってフォンテーヌは2人にキスをし、手を振りながら戸口から出て行った。
同じようにして、何人かの友人や関わりの深かった知人も彼女の夢を見た。
フロウ夫妻は泣き震えながら、戸口の飾り棚にしまわれていた紙包みを取り出した。干乾びたフォンテーヌの臍の緒だ。エアルダインにお伺いを立てることもせずに、矢も盾もたまらず2人は寝間着のまま居間の卓に銀盆を据えて、その上で生命の炎をかけた。
青白い炎は強く2人の顔を照らし、フロウ家を訪れようと向かっていた人々の目にも判るくらいの光を窓から漏らして輝いた。
そして、臍の緒は燃え尽きた。
炎は消え、夫妻は銀盆に落ちた灰を愕然と見下ろし、そして――――――泣き叫んだ。