第3部18章『決裂』6
「逃げて、逃げてえ――――――っ!!」
泥だらけのポピアンが再び飛び込んできたが、今度はあえなく彼の素早い平手打ちではたかれ、木々に叩きつけられた。
「――――――――ポピー!!」
躊躇っていたソニアの覚悟が、ある一線を越えた。
すると、何かがスルリと目の前に現れて宙に浮かんだ。彼もソニアも一瞬驚き立ち止まって、それに見入った。それは一条の光の矢にも見え、神々しい白光を輝き放っている。細やかな紋様の美しい細身の剣。
――――――――亜空間にポピアンが保管していた精霊の剣だ!
持ち主の闘気に呼応して降臨する特質があるらしい。さすがエルフの作品だ。感激と同時に、恐怖も高まった。
これで彼を斬れと言うのか?
ソニアは剣を手に取って、刀身をスラリと抜き出し、構えた。
「これを使いたくないの……!! やめて!! ゲオルグ!!」
彼は一切聞く耳持たず突進して来た。武器まで手にした彼女を見て、ますます狂気に火がついたようだ。
ソニアは走りながら、彼の伸ばす腕を剣で振り払った。鋼鉄製の鎧以上に硬いようで、細い傷がつくだけだった。それもたちどころに塞がってしまうので、傷つけるより治る方が早い。
ソニアはゾッとした。まるであの刺客だ。これは同じ属性を持っている。
「――――――いやあああああっ!!」
ソニアは恐怖のあまり、剣を振り切って未熟な衝撃波を放った。彼は避けもせずに真正面からそれを受けて胸に傷を負ったが、それさえもたちまち薄っすらとした線だけになり、やがて塞がった。
彼はまたやって来る。ソニアは泣き叫んだ。
「――――――やめて!! 来ないで!!」
彼女は先程より強く踏み込んで剣を振るった。今度はもう少し深い傷がついて、衝撃に彼の歩みも止まり、彼はジックリ胸の傷を眺めた。仕草だけで、彼の心がどんどん傷ついているのが解る。言葉で拒絶されるだけでなく、こんな傷まで負わされるほどに否定されているなんて。
傷が増えることは、彼の炎に油を注ぐばかりだった。ソニアは逃げ続けるしかないが、島を脱出するほどの能力はなく、彼の方は追い続けるしかない。もはや2人だけで解決することのできない悪循環に嵌り込んでいる。
「――――――オレを殺せるものなら、殺してみろ!! お前の手で殺してくれ!! 終わらせてくれ!!」
ほんの少し前にフォンテーヌに聞かされたばかりの言葉と重なって、ソニアは心底震えた。
「――――――いやああああああっ!!」
見かねたポピアンが力を取り戻して飛び込み、再度魔法火炎の壁を作った。
「――――ソニア!! もう行こう!! こいつを倒すのは無理だよ!! ソニアにこいつは殺せやしない!! ソニアがしなくていい!!」
そう言っている間にも、彼が火炎を押し分けてやって来た。
ソニアにも重々解っている。剣で倒せなければ、あとは風と魔法でビヨルク城の地下にいた化け物を倒したように火炎で取り巻き、燃え尽きるまで風を起こし続けるしかない。こんな強靭な体ともなれば、どのくらい風を起こし続ければいいのか見当もつかない。彼が死ぬまでそれを続けるなんて、そんなことは絶対に耐えられない。あまりの苦しみに、自分が先に死んでしまうかもしれない。
ああ、トライアス!
私は帰りたい! どうぞ力をお貸し下さい!
ゲオルグは腕を変形させて鞭のようにし、ソニアの剣持つ手を捕らえた。そしてもう片方の手でポピアンを打ちつけた。
ソニアは逃れられず、そのまま彼の突進をもろに受けて後方に吹っ飛び、大木に押しつけられた。懸命に剣を握り続けるも、腕は全く振るえず、彼の腕が素早く大木ごと彼女を絡め取って何重にも緊縛した。
強く食い込んで少しも動けない。苦しみにソニアは呻いた。
ようやくソニアを手中に納めて、安堵した彼の動きは緩慢になった。徐々に頭部だけ元の形に戻っていき、傷つき易い柔らかな肌質になり、翠玉色の瞳も現れた。
激しい雨に打たれてはいるが、それでも彼が泣いていると解った。
頭部だけ元に戻したのは、彼女を感じたかったからだ。ゲオルグは身を寄せ、彼女に頬摺りした。体の形はおかしいが、これは抱き締められているのと同じだった。
彼の肌触りと震えが伝わり、お互いが全身ずぶ濡れで、それに心の奥底には深い同情もあったせいか、水のように、ソニアの中に何かのヴィジョンが流れ込んできた。
澄み切った黄昏色の空。一点の曇りもない、快晴の夕暮れ時だ。
染みも汚れも傷もないのはその空だけで、その下には酷く破壊された街並みが広がっている。壁は損壊し、道にも深い亀裂が走っている。戦場だったらしい。至る所に死体が転がっている。人間だけではない。たくさんの魔物のような何かもだ。
そんな中、クレーター状に穿たれた穴の中で横たわり、死に瀕する者がいた。
彼だ。
この島ではない、何処か別の土地で彼が滅びようとしている。体のいろんな所が欠けていて、滅びが間近なのは確かだ。
見上げる空は美しい金色。どこまでも透けてゆく光の色。
ソニアは目を閉じ、身震いした。
彼の、この先の末路を見てしまったのだろうか……?
真実であれ、そうでないのであれ、確かな事は、今の彼女に到底彼を殺すことはできないし、いつか彼の滅びる時があるとしたら、それは他の理由によるということだ。それは間違いない。この先も、彼女が彼に手を下すことはできないのだから。
今ここで、彼は死なない。あるのは、別れだけ。
なんとしても、ここから脱しなければ。
今の衰えた体では力ずくの脱出はできないから、何か他の手立てが必要だった。
ソニアは、考えるという訳でもなく、この状況下で自然とある行動を取った。
まず、頬摺りする彼の耳元で、彼の名をそっと呼んだ。何度かそれを繰り返すと、彼女が何か言いたいのかと思い、彼は頭を少し離して間近で彼女の顔を覗き込んだ。
彼女に、本当に彼を傷つける気があるのなら、いつでも首筋や耳に噛みつける体勢だったが、ずっとそうしなかったし、彼もそんなことはされると思っていないのか、あるいはどうでもいいと思っているのか、構わず密着していた。
関係が全くの元の状態に戻ることは有り得ない。だが、これまでの思い出と、彼への感謝を示し、ソニアはごく親しい者に対する振る舞いをした。彼の目を一時見つめ、そしてできるだけ前に頭を差し出して、彼の唇にそっと柔らかく唇を重ねたのだ。
人間世界でも、親しい者同士はキスを交わす。身内など、ごく親しい間柄の者には唇同士の触れ合いを行う。ソニアには、それに値する身内がないから機会は殆どなかったし、彼の方はそれ以上だった。
ヌスフェラート社会でも同様に唇での挨拶を交わすものだが、彼の特殊な生い立ち上、彼の記憶にある人生の中では、本当に愛する者とのそれはかつて一度もなかった。
まるで、彼女と初めて出会った時のようだった。
いや、それよりずっと強い幻惑にかかったかのように、彼の思考も体も時も全てがストップしてしまった。
たった一度のボタン押下だけで丸まって眠ってしまう獣のように、泣き叫ぶ赤子が母親の腕に抱かれて途端に泣き止むように。自分の中に、こんなスイッチがあったのかということだけでも驚きだった。
気づかぬうちに、彼の上半身はただのヌスフェラートに戻っていた。緊縛していた鞭状の腕はただの腕に戻り、彼女を強く抱き締めている。
その腕が、内側から吹く突然の強風に圧され、浮き上がってしまった。
まるで風の塊を抱き締めているようだ。
唇同士も離れ、ゲオルグはその姿をしかと見た。
決意で新たな色の白光に輝くソニアが、風の守りを鎧として己に包ませながら、凛として彼を見据えている。汚れに汚れ、苦しみにまで塗れているというのに、その姿の何と神々しいことだろう。
「さようなら」
ソニアはその一言だけを告げ、小さな旋風となって飛び立ち、己の跳躍と風の力で空に舞った。烈風は雨を凶器の如く辺りに叩きつけ、木々も枝を軋ませ、唸りを上げた。嵐の種、嵐の芯がそこにいるかのようだ。
そこへ、すかさず流星が決死の覚悟で嵐に突進し、ソニアに合流した。風の力と星の飛翔力で、そのまま海に向かって飛んで行ってしまう。
追わなければ、と彼の心の奥で声がしていた。
しかし、今の彼は全く腑抜けていて、少しも力が入らなかった。ただ立ち尽くし、去りゆく光を見守るばかり。
一度マキシマになってから元に戻ると、反動で思うように魔法や力が発揮できない無力の時間が発生する。マキシマであった時間が長いほど、使った力が強ければ強いほど、それは長く深かった。
今のこれは、それ以外の何か別の要因も働いている。
動けない。動かなければならないのに。
やがて、沖に出た白い光と星は、この島の魔法制限の領域を脱し、その場から本物の流星となって空に弧を描き、嵐の上空へと消えて見えなくなってしまった。
取り残されたただの男は、森の木々と同じく風と大粒の雨になぶられ、翻弄され、洗い流されていった。
光の矢が大海を過って、幾つも瞬きをしないうちに中央大陸ガラマンジャの内陸に辿り着き、夜の草原に転がり込んだ。
経度がさして違わぬ土地に来たようで、時刻的にあまり差のない夜の闇が広がる。ここは打って変わって好天で、空を無数の星屑が飾り、瞬いていた。
流星の光は人の形になり、ソニアと妖精になって、この草原に場違いなほどずぶ濡れの体をぐったりと横たえ、息をついた。風は適度に穏やかで、とても爽やかだ。
自分の息遣いが落ちついてくると、流星の到来に驚いて騒いでいるらしい獣の遠吠えや鳥の警戒音の響きが耳に入ってくる。木々に空を覆われておらず、風にそよぐ植物の音も、木々の葉擦れではなく叢のサワサワという触れ合いだったから、ここが広大な草原地帯だと判った。
ソニアは寝転んだまま星空を見上げ、何度も深く吐息し、長いことぼうっとしていた。キョロキョロと辺りを窺い警戒を絶やさないのは、ポピアンばかりだ。
「ハァ……ハァ……。ソニア……最後に居た所に来ちゃったわ。慌ててたから。一番最近いた所に行くのが一番楽なのよ。……暫く姿を隠してないと……また、あいつが来るかも……」
ソニアは全くポピアンを見もせず、身を隠そうと身じろぎもせずに空ばかりを眺めていた。ポピアンの方だけがソワソワとソニアの反応を窺っている。
「……私に……黙っていたのね」
その呟きに、ポピアンはソワソワを止めて首を竦めた。ついさっきあんなに咎められたばかりだから、また始まるのではないかと構えている。
「……あなたが1人で勝手に村を抜け出したのではなくて……エアルダイン様か誰かの命なんでしょう」
「……そうよ。隠していたかったわけじゃないんだけど……エアルダイン様に口止めされていたの。ソニアの出生のことは、まだ教えちゃいけないって……」
「……どうして? 私の本当のお祖母様だと解っていたのに……どうしてあの村にいる時に誰も教えてくれなかったの?」
ポピアンは俯いて吐息した。
「……外の世界で生きている人だもの。暫くはこれまで通りの生き方をさせておいて、様子を見ながら少しずつ教えようとしていたのよ。……あたしの役目は、ソニアの生活を見守りつつ、危険があれば何時でも守って、皆にも知らせることなの」
そんなことだろうとは思っていたから、ソニアの反応は薄かった。ずっと、もっと大きなことに心捕らわれていた。
今いる場所があまりに静かだから、ほんの少し前まで浴びていた雷鳴と轟音、風の唸りと叫びが鮮明過ぎるほどに頭の中で反響している。
そしてまた、大きな溜め息を1つついた。
「……本当に……お母様はあの人を捨てたのね……? 村人達も……皆してあの人を追い出したのね……?」
ポピアンは気まずそうに目を逸らし、未だ納得のいかぬ様子でそっぽを向いた。長年、当然の行いだとされてきたことが急に否定されて面白くないのだ。
彼女が答えずにいると、ソニアは独り言のように続けた。
「……私……とてもショックだわ。どんな理由があれ……手放す方法は他にもあるはずなのに……よりによって捨てるなんて……そんな人が母親だったなんて……」
ポピアンはビクリと肩を震わせた。かつて行った事への罪悪感は強くなかったが、エアのことを、その娘が誤解するのだけはどうにも耐えかねた。これまでの全てのことはエアの為だ。だからこそ、彼女に対する誤解は許せない。
「……違うの」
囁き声だったが、静寂の中で耳によく届き、ソニアはポピアンを見た。
「……え?」
「……違うのよ」
とても大事なことだという予感があって、ソニアは身を起こした。ポピアンはフルフルと体を震わせている。ソニアがきっと酷く憤慨すると解っているからだ。
「……何が?」
ソニアは顔を近づけてポピアンを覗き込んだ。
「……エアは……あいつを捨ててない」
ソニアは目をまん丸に見開いた。
「何よそれ……どういうこと……?」
「……捨てたのは……私達なの。……皆で……エアが村に帰ってくるようにって……そう望んでた皆で……だから……エアは捨ててなんかいないわ」
ソニアは思わず手を伸ばしてポピアンを掴んだ。
「そんな……! 何てこと……!」
ポピアンは急に、子供じみた地団太を踏んでボロボロと涙を零した。当時の憤懣をそのままに身を捩らせている。
「だって……だって……エアがとても好きだったのよう!! みんな大好きだったのよう!! なのに……エアがあんな目に遭って……苦しめられて……許せなかったの!! あの男のことも、その子供のことも!! だって、あんなにそっくりなんだもの!! あんなに憎たらしい顔をしているんだもの!!」
ソニアの喉が震えた。そして唐突に、改めてフォンテーヌの言葉の意味が真に理解できた。
『私達のしてきたことの報いなのです』
まるで石で頭を殴られたような衝撃だった。
あぁ……! 何てことだろう……!
「エアは……エアは……あんな子供でも、ちゃんと可愛がってたのよ……! 自分の子だからって……そう言って抱いてたわ……! そんなことしなくていいのに……! あんな奴の、あんな子供なのに……ちゃんと優しく抱っこして……笑ってたのよぅ! ソニアは……すぐに樹液に浸さなきゃならない体だったから……たった一度抱き締めてもらっただけなのに……! あいつの方は1人で丈夫に生まれたから……あいつの方が沢山……ずっと沢山エアに抱かれていたのよぅ! 1月もずっと育てられていたのよぅ! エアの乳を吸って……エアの子守歌を聴いて……そんなの……とても許せなかったのよぅ!!」
パシッ
ポピアンはソニアの震える手の軽い払いを受けて弾き飛ばされた。転がりながらも、彼女は続けた。
「みんなで相談して……エアの見ていない隙にあいつを連れ出して捨てたわ!」
ポピアンは身を起こしてソニアを見上げた。その姿は――――――当時同じように彼女のことを打ち据えた母の姿と重なっていた。
「……後で気がついたエアも……そうやって怒ったわ。すぐに連れ戻すよう言った。私達は突っぱねようとしたわ! でも……エアは物凄く怒ってた。あんまり怒って許してくれないから探しに行ったけど、もう見つからなかった。物探しの呪文で問い掛けたら、あの男の手に渡っていることが判ったわ。あの男が責任を取って自分の子を育てるのなら、それが一番いいじゃない。だから、そう言ってみんなでエアをようやく納得させたわ。エアは……ずっと嘆いてた。『あの子は可哀想な子だ』って、ずっと心配してた……!」
ソニアは怒りに体がブルブルと震えて、きつく顔を顰めた。
「あなたは…………あなたはあの人に対して……二度も罪を犯してしまったのよ!! それも、とても酷い罪を……!! それがどれほど重いものか解っているの?!」
ポピアンはワアッと泣き出した。まるで子供のようだ。ゲオルグと相対していた時とは全く違う人物がそこにいるかのようだ。ぺたんと座り込んだ格好のまま、手でゴシゴシと涙を拭っている。その仕草までが幼く見えた。
この妖精には――――――或いは妖精というものには、複数の人格があるのではないかとソニアは思った。
「あなた以外の、あの人を捨てることに賛同して加担した人達だってそうよ!! あの人は元からおそろしい人なんかじゃない!! 本当はとても優しくて感じ易い人なのよ!! だって、そんなお母様の血を半分は受け継いでいるのだもの!! 当然でしょう?! それを……あなた達が皆で寄って集って苦しめた……! あの人があんな風になってしまったのには……あなた達にも責任があるわ!!」
ポピアンはワアワアと大泣きし、ソニアは威圧的に見下ろした。日頃は寛容な性格の彼女でも、こればかりは許すことができなかった。
「……エアルダイン様の命だろうと何だろうと、もう勝手に私について来ることは許さないわ……! ここでお別れよ!」
「ソニアぁ……」
ポピアンは涙でぐしゃぐしゃの小さな顔でソニアの厳しい顔を見上げた。説得や、その場凌ぎの謝罪で許してもらえるような隙の全くない、完全なる拒絶だった。その姿を見て、ポピアンは反論する気など全く起きなかった。




