第3部18章『決裂』4
彼女がおとなしく捕まるはずもなかったが、それでもあまりに暴れるので、已む無くゲオルグは一度地に降り立った。そこだけ木立が切れて広場になっている。最近大木が倒れたばかりで、天井が大きく開いたのである。思いがけず光を獲得した予備軍達はまだ若くて細く、少しも視界を遮ることはなかった。
「――――――何故逃げる! この島からは出られないと解っているだろう!」
抗う反動でぬかるみに転んだポピアンは、泥にまみれてキッとゲオルグを睨み上げた。広範な領域でひっきりなしに稲光が閃くものだから、互いの姿がここではよく見えた。睨んでいながら、ポピアンの口には笑みが広がる。
「ここに閉じ込めていられると、本気で思ったのか?!」
彼女がこんな凶悪な顔つきで鋭く攻撃的に毒を吐くのを見たことがないゲオルグは、ドキリとして萎縮した。柔らかな子猫と思い腕に抱いていたものが、蛇であると知ったような驚愕ぶりだった。強風に、彼のくせ毛も巻き上げられる。
相手が怯んだと知って追い討ちをかける狼のように、ポピアンはさらに食って掛かった。
「――――――愚かなものよ! 未だ気づかぬか! たわけが!」
ここでようやく、コトリと音を立ててスイッチが入るように、ゲオルグの中である疑念が晴れた。
「何……だと……?! お前……ソニアではないな……?!」
ポピアンは彼から離れるようにして立ち上がり、ニヤニヤ笑いを続けながら一歩ずつ後退した。
「――――――今更気づいても遅いわ! 変化術は私の方が上のようだね!」
ゲオルグはみるみる怒りに覆われていき、こめかみの血管が浮き上がり、手を震わせながら掲げて炎の球を生み出した。彼の目つきもまた、おそろしく凶悪で鋭いものに変わっていく。
「……貴様……あの時の妖精だな?! ソニアを何処に隠した!!」
「――――――もうあの娘を追うのは止めるんだね! 彼女を縛るのはおよし! お前にその権利はない! 自由にしておやり! それが――――――お前の、せめてもの罪滅ぼしなのだから!」
自らの熾す炎に照らされている彼の顔が不快そうに歪んだ。
「……罪? 罪滅ぼしだと?! 何のことだ!!」
この時を待っていたと言わんばかりに、ポピアンの目が冷酷に輝き、笑みにも一層悪意と攻撃性が表れていった。そして強風の中で背筋を正し、判決を下す裁判官然として彼と向かい合った。
「お前と話していて、そうなのではないかと思っていたが……そうか……やはりお前は、何も聞かされていないのだな? あの男から」
ソニアに似せたはずの顔は、もはや全く違うものになっていた。目尻が釣り上がり、ポピアンのそれに近くなっている。顔の模倣が一番難しいので先に綻びが出たが、その他の形や色は依然としてハイ・エルフのままだった。ルピナス色の髪が激しい気流に弄られて波打ち、彼女の体も打ちつける。
それら一切をものともせず、獲物だけを捕らえる集中力でポピアンはゲオルグを見据え、叫んだ。
「――――お前が……! お前の父が……! エア様を――――――そしてソニア様までも不幸にしてしまったのだぞ!!」
ゲオルグは目を見張り、そこに硬直してしまった。掌の火炎球は少しずつ萎んでいき、やがて消えて無くなった。彼の顔を照らしていたものはなくなり、稲光でのみ相手の様子が解るようになる。
本当に何も知らぬらしい彼を相手に、ポピアンは恨みに満ちた危険な復讐の光を目に宿して、宣告を続けた。
「……お前は自分が兄で、彼女が妹だと思っているようだね。だが……それは大きな間違いだ!ゲオムンドも知らなかっただろうが、時間的にはソニア様の方が早く生を受けている! お前の方が後なのだ! 彼女こそが……お前の姉なのだ! そして――――――お前は真の双子ではない!!」
ゲオルグは何1つ言葉が出せなかった。勿論頭から信じたわけではないし、どちらかと言えば訳の解らぬ戯言に聞こえる。だが、自分でも本当の所はよく知らない出生の話だから、呆然と聞き入ってしまった。火炎球を生み出していた手は下げられていた。
彼の理解を待たず、ポピアンは更に続けた。
「お前とソニア様は、確かに同じエア様の血を引いている。血縁であることは間違いない。だが、父親が違うのだ! つまり――――――お前達は異父姉弟なのだ!」
ゲオルグの目はポピアンに向けられていたが、その焦点は手前の虚空に据えられていた。彼の中でぐるぐると、疑問や事実や、聞いてきた話の処理が行われていた。馬鹿な、有り得ないと、何度か呟きが漏れる。
彼は冷静だった。
「オレ達が……双子ではないと言うのならば……ソニアに負担がかかってしまったというあの話は……あれは嘘だということになる」
ポピアンは眉を吊り上げて即刻否定した。
「――――――いや、それは真実だ」
ゲオルグは嘲笑し、屁理屈を捏ねる子供相手に間違いを正すように頭を振った。
「そんなことは有り得ないよ。一腹に父の違う姉弟が存在することなど、我々の胎生には起こり得ない」
ポピアンはますます胸を反らして顎を突き出し、少しも怯んでいない様子で、彼が不安を高める時間をたっぷりと与えて効果を見てから、威圧的ながら抑えた声色でこう発した。
「お前達ヌスフェラートはな。……そして人間も。多くの人型種が、お前の言う通りの体をしている。だが……エルフ族にはその神秘が起こり得るのだよ! お前が知らなかったのも無理はない! 全てのエルフ族は、この神秘を古来よりひた隠しにしてきたからね! 如何に自然界の神秘を研究しているお前でも、手に入らぬ知識だったはずだ!」
ゲオルグの目が、今一度見開かれた。これから明かされる新事実に対する一科学者としての興味と、それによって覆されるかもしれない自己の存在価値への不安が交錯し、強風以上に弄られる。それでも、彼女の語りを止めてはならないとだけ体は判断し、そこに立ち尽くした。
彼の反応を大いに面白がりながら、ポピアンは続けた。
「研究者のお前なら話は早いだろう。……エルフの女の胎生は、他のどの種族とも違う。だからこそエルフたり得るのかもしれない。人間やヌスフェラート……獣族でさえも、一度腹の中で子が決定すると、その後は出産が終わるまで次子を結ばない。世に言うところの双子とは、この時同時に2人決定したか、或いは1人の子が途中で分かれて2つになったかだ。三つ子以上もまた然りだ。だが……エルフの女の場合、その体は一度の妊娠に対して一度の出産の仕組みではないんだよ! 例え子が決定しても、その後も結びの営みは続くんだ。何故そうなったのかは神のみぞ知るだが、おそらく、少しでもこの素晴らしい種族をお増やしになろうとしたんだろう」
ここまで聞いただけで、彼はもう十分に事が飲み込めた。ソニアと自分との間に、どのような流れがあったのかは容易に想像がつく。だが、それでも根本的なところの謎が解らなかった。なぜ、《罪》とまで言われなければならないのか。
「……解っただろう? つまり、ソニア様が既にエア様の中にいて、お前はその後から結ばれたのだ! そして――――――それが故にお前と、お前の父は深き罪を負ったのだ!!」
凄まじい強光がカッと視界を真っ白に照らして、突き抜けていった。足元が大音声に震える。何処かに雷が落ちたらしい。地の底から響く震動が足から腹に、腹から心臓に伝わって背骨を掴まれた。 今にも大雨となりそうな気配の雲が上空で厚く重く垂れ込め、闇を連れて来ているのに、まだ辺りは風だけの独壇場となって吹き荒れている。
その中に、白き流れが混じっていることを2人は知らない。
「……オレが……オレが……後からできて……その為にソニアが弱く生まれたことか……?」
「……それもある。が……それだけではない!」
ゲオルグは半端なソニア姿の宣告者から一時も目が離せず、ポピアンの方も彼の反応を堪能しようと、舐めるように睨みつけている。視線での勝負は圧倒的にポピアンが優位で、ゲオルグはひたすら射抜かれるばかりで震えていた。
「そんな神秘を持つが故に、エルフはとても厳粛な生活の掟を持っている。万が一にも腹の中で争いが起きてはならないから、子が無事誕生するまでの間は決して結びの儀式は行わない。だが……お前が割り込んで来た。そしてヌスフェラートの欲深さで、お前はソニア様のものとなる恩恵を奪い取った! 結果、お前は無事に生まれ、ソニア様だけが不完全な体となったのだ!」
「…………オレが…………」
見えない何者かに叩かれてでもいるように、彼は何度もビクリと身体を震わせた。もっと叩いて責めたいポピアンはこれではまだ足らず、激しい憤りが彼女からビリビリと発され、そこら中で弾けた。
「勿論……エルフはそうならないよう気をつけている。だが、お前ができた。どういうことか……解るだろう……? ソニア様を授かったことにも問題があって、エリア・ベルは……ことに母上のエアルダイン様はエア様を罰していて、一時期村を追放されていた。エア様は……当然の如くそれを受け入れて結界外での生活をした。そんなエア様を……お前の父は……! ゲオムンドは……!」
それが彼女にとってどれほど辛い悲劇だったのかを示すように、ポピアンは目を閉じ、ぐっと悲しみを飲み込んで打ち震えた。そして改めて、念入りに的を絞って矢を射るように瞳を開け、彼を射抜いた。引き絞られて放たれた眼光は鋭く彼の胸を貫いた。
「あれほど悲しみを背負っておられたエア様を……お前の父は卑劣にも禁呪にかけて幻惑し、犯してしまったのだ!!」
その言葉が放たれた瞬間、彼の世界は無風、無音の空間に陥った。白い風もパタリと止んでいた。雷電までが彼を責める特大のナイフのように幾度も振り下ろされ、突き刺さってくる。彼は雷の直撃を受けたかのように硬直し、今にも倒れないのがおかしいくらいに動かなくなった。
無音のはずなのに、ポピアンの声だけは尚も彼の耳に届く。
「……追放処分が解かれて村に帰ることを許されても……もはやエア様はエリア・ベルに戻ることはなかった。あの方は……あのままハイ・エルフの姫君として暮らしていれば、間違いなく次期代行としてその道を歩むことができる方だったのに……輝かしい未来が、あの方にも、村にも約束されていたのに……。エア様が、何故その時村に戻らなかったと思う? 事の非はエア様にあらぬから、許されて帰ることができたのに……!」
ポピアンは本物の悲しみと苦痛で顔を歪めて涙を流した。彼女は、そんなにもエアという人物を愛していたのだ。
「エア様はなぁ……やがて生まれてくるお前が、村でどのような目に遭うかを心配されて、村に戻らなかったのだぞ!! お前の為に……お前の為に……!!」
視界が白く閃く。足元が響く。彼はピクリとも動かず、それこそ本当に雷に打たれた木のようにただ立っていた。生きていないのに、炭化して形を留め、崩れることができないからそこにあるように。
ソニアの耳には悪魔のせせら笑いに聞こえた夜鳴きの鳥の讃歌は、彼にとっても同じ響きを持って責め立てているように聞こえてきた。
「やがて生まれてきたソニア様の体が未熟で……望まれた子でないお前の方が完全で……! それがどれだけ……エア様を苦しめたと思う!! ソニア様の看病の為にその場所を離れられなくなったから……結局……その後二度とあの方は村に戻ることはなかったのだ……!! お前の為に……あの方はエアの名を継ぐハイ・エルフとしての将来を捨てることになったのだ!!」
数種類の刃に痛めつけられながら、ゲオルグはそれでも立っていた。頭が働いて、生きていた。自分でもそれが不思議だった。そして、ようやく、掠れた弱々しい声で彼は口を利いた。これほど押し潰された苦しい声は、ポピアンも本人さえも初めて耳にした。
「……では……オレは……母上には決して……望まれなかったのだな……? 生まれた後は……その前も……母上を……それほど苦しめるくらい……オレは恨まれたのだな……?」
その場の誰にも判らなかったが、その時ほんの一瞬、ポピアンの震える瞳には躊躇の光が走った。彼女は意志の力でそれを隠し、強く刻印する如く頷いた。
「――――――当然だろう!! だから――――――そなたは捨てられた!! それ以上お前を手元に置くことは、エア様には苦痛以外の何ものでもなかったのだからな!!」
ゲオルグは釣り糸の寿命が切れた人形のように首を落とし、ガックリと下を向いた。肩も腕も全て落ちているから、一回りも二回りも小さくなったように見える。
そんな彼を白い風が包んで支えていた。
これまでのあらゆる出来事が結びつけられて、彼を残酷な確信に導いた。彼は、ポピアンの言葉を現実のものとして受け止めていた。全て納得がいくからだ。
まず、あの父ならそんな事はやりかねない。魔法界の禁呪には色々とあるが、あの人はその幾つにも手を染めているはずだ。相手を幻惑して操り、力ずくでものにする恋の呪文など生易しい方だ。母の同意を得ていないどころか、おそらく拒絶されている状態で――――――あの人は自分の欲望だけを叶えたのだ。相手のことなど、そして他の人々も負う苦しみのことなど少しも気に留めないで。
だから自分は望まれるはずもなく、もっと悪いことに、望まれて誕生した異父姉の首を絞めて、それが故に更に母を苦しめて――――――
一時でも、自分の処遇を心配して村への帰還を見送ってくれたことが、とんでもなく身に余るほどの思いやりなのだろう。
だが結局……望まれたソニアの方が哀れなことになっていたから……その思いやりさえも失われて、自分は憎しみの対象となったのだ。
捨てられて当然の……
「……それを……父上が……探して引き取り……育ててくれた……。そういうわけか……」
ポピアンは勝ち誇った顔をして悦に入った。
この妖精にこんなに憎まれるのも、以前村を訪れようとした時に村人達に酷く冷遇されたのも、これで全て納得がいった。
今この瞬間、彼の中で、崇拝の対象であった、全ての光の源であった母親の像がくすみ始めていた。生涯一度も会うことができず、望んでももはや叶わぬ存在であっただけに、聖母像は彼の心の中でひたすらに美化を続けていたのだが、その位置は、高みのステンドグラスが地に引き下ろされるぐらいに真っ逆さまに堕ちていった。
全ての原因は父と自分だ。だが……子を捨てる人だったなんて……それほどの苦しみだったのだろうとは思う。だが……自分は捨てられたのだったなんて……
正に硝子製の如き聖母像は、高みから落ちた衝撃で音を立てて砕け散り、その破片が彼の心の深淵にまで煌きながら落下していった。破片は、落ちながらその先々で幾度も暗き淵を傷つけていく。
闇だけでできた大海に落下し、どっぷりと浸かり込んで、彼は暫し浮遊していた。もう二度と上がってこられないと思えるほどの深みだった。
だが、そうしていると、彼自身でも驚いたことに、不意に炎が発生して辺りを熱し、暗い海を煮えたぎらせるのを感じた。
あんまり苦しいから、あんまり辛いから、訳がわからなくなって親を求めて泣き叫ぶ子供の如く、心の底から生まれた渇望だった。
散々怒鳴り散らして息が上がっているポピアンの見守る中、彼の肩はわなわなと震え、息遣いも荒くなり、食い縛る歯から軋みが上がる。
「……ソニア……」
彼がその名を何度も口にしながら身悶えているのに気づき、ポピアンはまた噛み付いた。
「――――――そなたが彼女を望むことは許されぬ! あるとすれば、全てを彼女の為に捧げ、彼女の下僕となって人間世界で共に暮らす道だけだ! 彼女には自由を与えてやれ! こんな所に閉じ込めて、これ以上彼女の足枷となるな! そなたにその権利がないのは、これで重々解ったろう!」
全身を震わせて苦痛に身を捩らせていた彼の中で、炎がどうしようもなく高まって閾値を越えてしまった。泣いているのかと思ったら、いつの間にか笑っており、布を裂くような痛々しく細い笑いが、徐々に狂気じみた高笑いになっていった。
「……ヒヒヒヒヒ…………ヒヒ…………ハハハ……ハハハハハハ!!」
彼は突如ポピアンに踊りかかった。あまりの素早さにポピアンは胸倉を掴まれてしまい、乱暴に引き寄せられて顔を突き合わせた。
狂気の光を宿した彼の形相に、ポピアンは不覚ながら一瞬おそれをなした。
こいつもやはり悪魔の息子だ!
「――――――ソニアは何処だ!! 何処に隠した!! 言え!!」
気の触れた彼の刃に圧倒されつつも、ポピアンはそれを意志で押し退けてニイッと笑った。
彼の掴んでいた体は一瞬で薄靄に変わり、彼はドレスだけを虚しく手に掴んだ。元の小さな妖精姿に戻ったポピアンが服をすり抜けてきら星となり、彼に皮肉の笑みを見せつける為にほんの一瞬だけ滞空して、透き通る薄羽根と花弁の如き衣装を顕にした。
暗闇の中の1つ星はあっという間に森を横切って彼を置き去りにした。
ゲオルグはドレスを投げ捨て、すぐさま飛び立って後を追った。
「――――――言えぇっ!! 何処だぁっ!!」
ぬかるんだ泥土に残されたのはポピアンの着ていたドレスだけで、美しい布は泥水色に染まり汚れていった。
何処かから嗚咽が響いてくる。それは泥の上をビチャビチャと刻んでくる足跡と一緒にやって来た。ドレスの側まで来ると足跡の進みは止まり、ドレスがくしゃくしゃといじられて、その中から細紐と巾着がフワリと宙に浮いて消える。長年ソニアの額を飾っていた大切な紐と、大切な形見入れだ。
嗚咽と足跡はまた移動を始め、星の消えた方へと進んでいった。