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Sonja〜ソニア〜  作者: 中島Vivie
第18章
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第3部18章『決裂』3

 ポピアンは、果実の搾取液と茶のブレンドされた白磁のカップを持つ手をふと止めた。傍らではゲオルグが静かに食事を続けている。

(……出たか……)

ポピアンは雲隠れの帯の位置が遂に宮殿外に出たことを感じ取り、ソニアの脱出を悟った。やれやれ、随分と長くかかったものである。

 ソニアがもっと宮殿から遠ざかるまで、もう暫くはこのままでいるのが良かろうと判断して、ポピアンは何食わぬ顔でまた一口、甘美なブレンドティーを口に含んだ。

 長い沈黙も気まずいから、あれから暫く彼に質問を投げかけ、それに答えさせることでポピアンは場を繋いでいた。だが、2人とも無理に笑って見せることがなくなり、どうしても気まずい雰囲気が漂っていた。今はもう取り繕う必要もない。自分の正体がバレさえしなければ、彼がどう思おうと関係の無いことだった。

 ふと見れば、ゲオルグが何度目か知れず食事の手を止めて、こちらをジッと見ていた。こうしてつくづく眺めると、どこにハイ・エルフの血が入っているのか判らないほど、全くのヌスフェラート面である。ヌスフェラートをじっくり見る機会があまりなかったから定かではないが、純粋なハイ・エルフと比べたら、その外見には天と地ほどの違いがあった。よく見れば純血のヌスフェラートより若干肌の色が淡く、目の隈も薄いのだろうが、それだけのことだ。今の今までは、そう思っていた。

 だが、その眼差しにだけ、一瞬母親の影を見たような気がして、ポピアンはドキリとした。ほんの一瞬のことだったので、何処が似ていたのか、もうさっぱり解らない。

 彼女の謎めいた視線と様子にたまりかねて、ゲオルグはやおら立ち上がった。そして彼女の隣にまで来ると、肩にそっと手を乗せた。

「…………オレが嫌になったか……?」

ポピアンは顔を背け、何も答えを与えず、それが返って彼を苦しめると解っていて沈黙した。ゲオルグは腫れ物に触るように彼女の髪を撫で、そっとすくい、長々と溜め息をついた。仕草で、この人はもう泣いているとポピアンは思った。

 ゲオルグは腰を屈め、椅子の背凭れごと彼女を抱き締めた。額を彼女の肩に乗せ、髪や頬を愛撫した。

「……こんな……戦さえ起きなければ……!」

彼の苦悩がポピアンに伝わり、彼の方にはソニアらしくない波が伝わった。やはり何かが違う。何が違うのか、それが彼には解らない。ここまで彼女に心閉ざされてしまったのだろうか?

 ポピアンは椅子からそっと立ち上がり、1歩退いて彼から離れた。彼女の明らかな拒絶だ。彼は酷く傷ついた顔をしていた。目が潤んでいる。

 ソニアとして、ポピアンは言った。

「……私を、トライアに帰して。私は帰りたいの」

彼の顔にはどんよりと暗く雲がかかっていき、悲しく、険しくなった。

「……それほどに望む土地なのか……? 死に場所に選ぶほどに……」

「…………」

ポピアンは目を逸らして、視線を食卓上の花に落とした。小振りの百合は2人の諍いを見て悲しんでいる。花好きの彼女が珍しく、そんな百合をお人好しだと思った。

 再び見上げれば、彼はそこで顔を歪めて一筋涙を零していた。ポピアンはまた一瞬ドキリとした。

「……お前が死んだら……オレも死んでしまう。……生きていられない」

ポピアンはそれに負けず、目を細めてスッと顎を引き上げ、ハッキリと言った。

「……それでも、私は行かねば。私を帰して、お兄様」

彼は否定するように頭を振って、そして項垂れた。テーブルに両手をつき、ガックリと落ちそうな肩を懸命に支えている。そうして暫く体を震わせていた。

 すると――――――彼は唐突に目の前の食器類を払い、呻きながら壁に向かい、拳で壁を打った。白磁の皿やカップやカットグラスが床に落ちて砕け、ヒステリックな音が部屋一杯に響いた。

 あぁ、物の壊れる音というのは、何と心を傷つけ破壊するものだろうとポピアンは思った。追い詰められたからって、物に当たる者はエリア・ベルには殆どいないから、改めてこの男が汚らわしく思えてくる。やはりあの男の息子。

 音を聞きつけ慌ててやって来た給仕のヌスフェラートとガルデロンは、そこで対峙している2人の様子を見ると、また慌てて退散していった。長年のうちで若君があんなに取り乱しているのは数えるほどしか知らない。いや、あんなに苦しんでいるのは――――――初めてかもしれない。とてもではないが、自分達に対処できる問題ではないと判断したのだ。2人だけにさせておくより他ない。

 ゲオルグはテーブルを叩いた勢いのまま、そこに膝を落とし、頭を抱えた。歯軋りするように苦い呻き声が口から漏れ出る。

「何故それほどまでに人間を選ぶ……?! オレは……オレは……この世の何よりもお前を尊いと思っているのに……! 死ぬほど……お前を愛しているというのに……!」

 なら、死ね。

 言葉にこそしなかったが、ポピアンは頭の中でそう囁いた。そして哀れな男を尻目にゆっくりと窓際に歩んでいき、硝子窓の外で強風に煽られる森の樹冠を眺めた。それから、硝子窓に映る彼の惨めな様を眺めた。

「……なら、トライアで私を守ってよ。一緒に暮らしましょう。皇帝軍のことは捨てて、私の為に生きて」

ポピアンなりに、ソニアのことを思っての発言だった。罪深いこの男も、ソニアの為に全てを捧げて生きるのなら、それを許してやらないでもない。その機会くらいは与えてやりたいと思った。

 だが、あの田舎道でのやり取りと変わらず、その選択肢は彼にはないようだった。どうしたって、それでは結果的に彼女を死なせてしまうと信じているのだ。確かに、あの軍勢の顔ぶれも覇力もおそるべきものがある。それが正しい判断かもしれない。

 だが、ソニアは特別なのだ。彼が思っている以上に、彼女を守ろうとする力は大きく働いているのである。この自分がいるように。

 彼は頭を抱えているばかりで、彼女の問いかけには答えなかった。「無理だ」、「有り得ない」と独り言ちるばかりである。それでも一応、彼女と共にいられるという誘惑とは大いに葛藤しているらしい。

 ポピアンは森の彼方に焦点を戻した。ソニアは順調にこの宮殿から離れていくようだ。

「……じゃあ……やっぱり、ダメなのね」

彼の返事はない。ポピアンは目を細めて哀れな男の様を見納めた。そして、我知らずニヤリと笑んだ。この口で別れを告げられる悦びとともに。

「……なら、私はここには居られない」

ハッとしてゲオルグが顔を上げた時には、もう遅かった。ポピアンの放つ破壊魔法が大硝子を打ち破り、爆音と閃光が走ると、幾多の破片は嵐の闇に飛び散っていった。強化されているガラスなのに大きく穴が開いてしまい、彼女は振り向きもせずに、その向こうの闇の中へと身を踊らせた。

「――――――ソニア!!」

ゲオルグが這うようにして窓際に駆け付け、闇に身を乗り出すも、彼女の姿はもうどこにも見えず、漆黒の森と吹き荒ぶ風だけがそこにあった。

 雷雲が今も尚、上空を渦巻いており、遠雷の閃きが彼の青白い顔を照らす。また雷雨のピークが訪れそうな轟音が足元を揺るがせていた。


 長時間の降雨でぐしょぐしょの原生林の中を、張り付くような羊歯の葉に足を擦られながらソニアは進んでいた。足場が悪く、とてもぬかるんでいるので何度か滑ってしまい、血の上から今度は泥まで被っていた。

 焦って進むと無防備な肌を岩や植物の葉で切ってしまいそうだから、できるだけ慎重におそるおそる歩いている。闇の森で唯一の光源は稲光だけだ。目を痛めないよう瞼を薄く開けて、瞬間的に浮かぶ像を目に焼きつけ、それを頼りに足場を探りながら進行方向を選んだ。

 模型の記憶からすると、もう少し歩けば例の海岸線に出るはずである。

 頭上では夜鳴きの鳥が嵐の讃歌を高らかに歌い、この強風の中ではそれが小悪魔のせせら笑いにも聞こえた。目の前が真っ暗闇だと、悪夢のような映像が容易に甦るらしい。色も感触も臭いも頭に焼き付いていて離れず、四方八方からソニアを刺して苦しめた。

 ずっと涙が止まらず、今は流れるままにしている。胸の痛みに時折立ち止まり、彼女はあらゆるものに救いを求めた。

 アイアス、アイアス、お兄様

 私、もうあなたと一緒に旅になど行けないくらい手を汚してしまいました。立派なあなたに、どう顔向けしたらいいのか解らない。

 あの村の人達にも、あまりに申し訳が立たない。

 アーサー、王様……

 私はあなた達の下に戻りたい。戦いたい。

 私が今どうしているのか、どんな事をしたのか、あなた達はまだ何も知らないのでしょうね。

 こんなこと……誰にも話せない……誰にも……。

 どうしたらいいの?

 足元に気をつけているつもりでも、やはり丈の高い草で所々を切っていて、幾つもの傷から血が滲み出ていた。濡れた体のせいで今は全身が寒くてしようがない。ソニアはぶるりと体を震わせて吐息した。

 あぁ、ポピー、早く来て。

 振り返り見ると、木々の隙間から覗く宮殿の影は本当に大きかった。光の漏れ出る窓が無数に並んでいるのが見える。湖岸からトライア城を見るのより大きいようだ。城下街の一角を合わせてようやく対等かもしれない。

 もう、あれに捕まってはならない。

 ソニアは滑らかに傾斜する坂を下っていき、下り切った所でようやく木立が開けたのを知った。稲光の輝きで、白い砂浜が映ったのである。ようやく海岸線に達したのだ。

 砂浜に出てしまうと風を遮る物がないし、見つかってしまうかもしれないから、ソニアは砂浜の手前ギリギリの木立で歩みを止め、そこで腰を下ろした。身を縮め、肩を抱き、頭をもたげる。

 ゆっくりと静かに、心が叫びを上げ始めた。胸の中をズルズルと刃物が食い込んでいくような、いやらしい痛みが繰り返し続く。拳を強く握り締めて、ソニアはそれを堪えた。ここ数日手入れのできなかった爪が突き刺さり、血が流れていく。それでも、力を緩めることはできなかった。

 頭上の雷雲よりずっと暗くて重いものが彼女に圧し掛かり、噛みついている。重くて、重くて、ソニアはただ身を固くした。このまま泥になって雨に流され、海に消えてしまいたい。そう思った。


 その頃、ポピアンはまだ森に入らず宮殿内にいた。ソニアの居場所にいきなり向かうことはせず、何度か宮殿内で姿を目撃させて注意を引こうとしているのである。宮殿内は水の波紋が重なり合って干渉していくように徐々に騒然としていき、今ではそこら中を番人が走り回っていた。

 妖精の飛翔力は羽根の力学ではなく神秘の力によるものだから、妖精の姿をしていなくても彼女は難無くソニア姿のままで飛び回り、あっちのテラスで降り、こっちの窓で姿を現し、ということができた。

 いざソニアと合流して脱出という時に誰にも邪魔をされたくなかったので、できるだけ宮殿内にだけ敵の目を引き付けておきたかったのである。

 ポピアンは花がいっぱいの部屋を見つけてテラスに降り立った。ソニアの為に用意されたあの部屋だ。ポピアンは人がいないことを確かめて中に入った。まさかここに来るとは思われていないから、誰もいない。

 ポピアンは衣装箪笥に直行して、中から丈の短いドレスを見つけて取り出した。ソニアの要望に応じて揃えられた物の1つだ。薄手のワンピースで、肩も胸も大きく開いている。ソニアは十分な物を身に着けていないかもしれないから、これを持っていこうと思った。

 服を手にすると早く届けてやりたくなり、もう頃合いかと判断して、ポピアンはテラスから再び飛び立ち、そのまま海岸へと向かって滑空していった。


 爆発後、騒然となっていたダイニングルームには、何だ、何だと慌てふためき馳せ参じた魔物達が主を取り囲んで指示を待っていた。

 中でもガルデロンは、彼女のことを安心して見ていただけにショックと動揺が激しく、自分の見ていぬ間にソニアが姿を消してしまったことが残念無念でならず、オロオロと歩き回っていた。何としても見つけ出したいと思い指示を待つが、ゲオルグは水晶玉を手に1人佇んでおり、それに向かってブツブツと呪文を呟いている。ガルデロンも魔物達も、そんな主から少しだけ離れて円陣を組むように控えていた。

 じれったく思いながら、ガルデロンはしきりに何か言った。

「――――――この島からは出られぬはずでございます! 空から捜索させまして、地上はアルカロン達に任せ――――――」

「……いい、何もするな」

ゲオルグは水晶玉から視線を外の闇に移した。側近のディスパイクがとうにそこら中へ捜索の目を走らせており、自身も駆けずり回っている。が、発見連絡は何も無かった。

 ガルデロンはおそるおそる主の顔を覗き込んだ。主の目は何者をも寄せ付けぬ鋭い光を放っており、殺気にも似た、尖った緊張感が覆っていた。ガルデロンは閉口した。

「……誰も来るな。いいな」

「は……はい」

呪文の残りをゲオルグは唱え、水晶玉を闇に向かって掲げた。青い光が水晶玉の中心から発生して部屋中を強く照らした。控えている魔物達は強い光が苦手だから、顔を背けたり目を閉じたりする。

 やがてその光量は落ちていき、水晶だけが月のように発光すると、その中から一条の光の矢が飛び出して、ある定方向に向かって伸びていった。森の方を指している。何かとこの水晶玉を糸で繋ぐように光の筋はピンと張られ、闇の中に消えていた。

 ゲオルグは目を薄くして、割れた硝子窓の穴から飛び出して行った。飛翔し、光る糸を辿って行く。後に残された者達は呆然と強風に弄られていた。

 とても良くない事が起きてしまった。ガルデロンにはそれが感じられる。何もするなと命じられた以上、彼はそこでただ手を組み合わせて震えながら気を揉むしかなかった。


「……ソニア? ……ソニア? 何処にいるの?」

風の悲鳴に混じってポピアンの声がしてきたので、ソニアは顔を上げた。本当に自分の居場所が解るようで、声が近づいてくる。すぐ側の木の幹に手を掛け、キョロキョロとしているもう1人の自分が目に止まった。

 ソニアは立ち上がる気力がなくて、座ったまま首だけをそちらに向けた状態で姿を現した。居場所の目星がついていたポピアンはすぐにソニアを見つけて駆け寄ってきた。

「――――――良かった、無事ね! ほら、服を持って来たわ! 早く着て!」

ポピアンの差し出す服を手に取るも、ソニアの瞳の虚ろさと涙に気づいて、ポピアンは首を傾いだ。

「……どうしたの? ソニア」

ソニアはただただ涙するばかりで、言葉が出てこない。ポピアンもシュンとした。

「……そうね。……辛いわよね」

彼女の同情が見当違いのものであることは明らかだったが、それで良かった。ソニアは何も言わず、ポピアンから目を反らして涙を拭い、気だるそうに立ち上がった。もう、クタクタだ。身も心も。

「さあ、早く出ましょう、こんな島! 着替えて、ホラ!」

ポピアンは手早くドレス以外の下着やサンダルなどを脱いでソニアに渡した。自分はもうすぐ元の姿に戻るから、用のない物ばかりだ。そしてソニアの準備が終わるまでは、何かあった時の為に偽の姿を保っていた。

「着替えたらすぐに出るわよ! まずは飛んで島を離れるわ! どうも移動系の魔法も弱まる傾向にあるから、この島の結界を抜けたら流星術で一気に逃げるわよ!」

フォンテーヌには怖くて試せなかった脱出法だ。ソニアの胸はまた締め付けられた。

 ポピアンは風の様子を見て飛び立つ方角を定める為に砂浜に出て、真っ暗な海と空とを眺めた。活発な雷雲が流れている。雷避けの魔法も使わなければ危険かもしれないと思い、考えながらまず自分に術をかけた。

 ソニアは木陰に隠れて帯を解き、下着とドレスを身に着けた。身体の汚れを落とす暇なんてないから、そのまま上に着ている。これで多少は動き易くなった。脇と胸元が大きく開いていて、細い紐を何周もさせて巻きつけるドレスだ。その紐を巻き終えて、最後に硬く結ぼうとしながら、ソニアはポピアンに目を向けた。

 海に立つシルエットが見える。すると、空から何かが飛んで来てポピアンを掻っ攫っていった。

「――――――きゃあっ!!」

その瞬間、稲光が閃いたので、ソニアはそれがゲオルグだと解った。ポピアンを両腕に抱え、強く押さえ込んでいる。

 ソニアは青ざめて急いで紐を結び、雲隠れの帯を腰に巻きながら後を追った。サンダルも履けていなかったので、肩に掛けたまま素足で走る。その格好では追い辛く、しかも飛ぶ者の追跡だから思うようにいかなかった。

 まだ自分と思われているのなら滅多なことはされないと思うが、それでもポピアンが心配だった。ソニアは悔しさに顔を顰めて、ポピアンの声だけを頼りに闇の森を走った。「離して」と繰り返し叫ぶのが聞こえる。きっと、自分の居場所を知らせる為だ。さっきまではポピアンらしい声だったのに、今はすっかりソニアのものに変わっていた。

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