第3部18章『決裂』2
すると、また信じられないことが起きた。目の前の少女は人形のように無表情だが、そこから剥がれるようにして白い影が抜け出してきて身を分かち、ソニアの隣に立って、彼女を見下ろしたのである。完璧な姿のフォンテーヌだ。
フォンテーヌはささやかな微笑を口元に浮かべ、更に一歩進み出て、そしてソニアと重なった。白い霧に包まれたソニアは、その中で彼女の意思を感じた。言葉は頭の中にも響いた。
『あなたが来て、あなたと触れたことで、ようやく自分のことが少し解りました。これまでは、ずっと悪い夢を繰り返し見ていたようです。体と1つになっている時、私の心はとても鈍い。きちんと働きません。こうして離れている時だけ、思い出すことができる。理解することができる。
私は……全くどうしようもないことになってしまいました。村の掟を守らなかった罰を受けた私に、ウージェン様の奇跡は望めません。二度と元には戻らないでしょう。だから……どうか終わらせて下さい』
ソニアはビクリとして、霧の中で慌てふためいた。
「な……何を言うの……?」
『……お願いです。もうこれ以上は……辛過ぎる。私はもう半分死んでいます』
「……い……嫌……! そんなこと言わないで……!」
『あなたにこんな事をお願いするのは、本当に申し訳ない。でも……自分ではどうにもできないのです。誰かの力を借りなければ。……あなたにしか頼めません』
ソニアは霧の中で耳を塞ぎ、体を丸め縮こまった。声は頭の中でするから、小さくなることも消えることもなかった。
『私がどんなことになったのか、父にも母にも……誰にも知られたくありません。こんな姿を見せたくなんか……。だから、ここで終わらせて下さい。そして全て消して下さい。誰も見ることのないように』
「あぁ……ぁぁぁ…………」
『私のせいで、父と母を、これ以上悲しませたくないのです。こんなことになったなんて……あの人達は知らない方がいい。穏やかな結末だけをそっと知ればいいのです。私の為にも……どうか、ここで終わらせて下さい』
あなたは、私の為にこんなことになってしまったのよ! それなのに……!
『あなたのせいではありません。この姿になって、あなたと触れてから、私にはかえってものがよく見えるようになりました。あなたが何者なのかも、よく解ります。私にこのようなことをした人が何者なのかも、解りました。あなたのせいではなく……これは……私達がしてきたことの報いなのです。私がその犠牲として選ばれたことを、私は受け入れます。こうなることのきっかけを作ったのも私なのですから。あなたもまた犠牲者です。あなたのことは、決して悪く思いません。あなたは悪くない。こうしてお願いするのが、逆に忍びないほどです。でも、誰かにお願いしなければ……。どうか、頼みます』
そして白い霧は晴れ、元の薄暗い部屋でソニアは全身をガタガタと震わせていた。声が聞こえなくなったのでおそるおそる目を開け、辺りを見てみると、すぐそこで少女が白くボンヤリとした姿で立ったまま彼女を見下ろしていた。もう言葉は要らず、両手を組み合わせて祈りの形を作り、ひたすら懇願している。
できない……そんなこと……できない……!
今すぐゲオルグと渡り合って、何としても彼女を元に戻らせ、回復したらあの村に帰してやるのだ。こんな所で命を終わらせたりせず、何事もなかったかのように、あの村に帰って暮らすのだ。彼女の父親と母親に無事な姿を見せるのだ。だって、この人には生きて待つ家族がいるのだもの。
だが、今の自分は彼に敵うだろうか? 彼が拒んだ場合、力と頭脳で真っ向衝突する争いとなるのだ。それを覚悟で挑まねばならない。きっと、自分がここに留まることを確約すれば快く応じるのだろうが、トライアを捨てることもできない。何としても彼女と自分共々外世界に出なければならないのだ。彼が求めるものは何1つ手に入らず、手放すばかりのことだ。すんなりと進むわけがない。ここで彼女の願いを叶えられないのなら、逆にゲオルグを倒すことを覚悟で立ち向かわなければならないのだ。
そんなこと……できるのか?
もし失敗すれば、彼女はこのままだ。これほど懇願しているのに、この凶行の一因として責任を果たすこともできず、願いも叶えてやれず、この陵辱をこれからも味合わせるのだ。
どんなに激しい混乱の中にあっても、明らかなことは2つある。それは、彼女を今すぐこの辱めから救ってやらねばならぬということ、そして、今のソニアにゲオルグは倒せないということだ。今も、目の前の少女はひたすらに希っている。
『お願いです。……どうか怖がらないで』
ソニアは体の震えを止められなかった。心は今の現実に打ちのめされていた。だが、恐怖ではなく、悲しみと怒りが何より勝って彼女を震わせていた。ソニアは拳を握り締め、硝子から手を離し、体を折った。ギュッと身を縮め、丸くなる。
寒い……寒い……
そして体の中からは、紅蓮の炎が燃え上がり始めた。
「神様……! こんなことが……! ああ……!」
いくら神に呼びかけても、恨んでもしようがなかった。そこにあるのは血と、愛と、繋がりと、罪と、義務と、己の無知と無力さばかりだった。元は愛から始まっていた一連のことが、体を蝕む腫瘍となってソニアを苦しめ、傷つけ、血を流れさせ、愛は変形していった。
「あああぁぁぁ……!!」
ソニアはヨロリと立ち上がり、身を焼く炎の力を借りて体の力を奮い立たせ、数歩ずつ後退り、テーブルの傍らに立てかけてあった鉄の棒を手に取った。書類を乗せる棚の部品らしい。そして棒を振りかざして体勢を固めていった。
今から行うことは半端仕事では許されないから、可能な限り戦士の力を呼び戻して集束させていった。
震えは止まらず、涙が止め処なく流れ、全身全霊が痛みの叫びを上げ、このまま炎になりそうな熱さに包まれた。
フォンテーヌはソニアの覚悟を見届けると、最後に一度だけ頭を垂れて微笑し、生ける体の中に戻っていった。
硝子槽の中の白い肉体は、意思など何処にもないような様子で力なく揺らぎ、おぞましく美しく液中に浮遊している。
「おおおおおおお…………!!」
ソニアは炎の力で髪を巻き上げ、涙が沸騰しそうな瞳で硝子槽を睨みつけ、体をいっぱいに沈めた。そして一思いに突進し、鉄の棒を振り下ろした。
「うおおおおおおおおおおおっ!!」
大音声と共に硝子は打ち砕かれ、大きな破片が飛び散った。今のソニアの力でも見事に厚い硝子は大きく割れ、液体の圧力で外側に飛散し、部屋中に乱れ飛んで転がった。
液体と一緒に倒れ込むようにして滑り出てきた体をソニアは受け止めた。液体はヌルリとしており、しっかり抱えねば滑り落としてしまいそうだ。液体も体も温かい。
一瞬でも考え込んで躊躇ってしまえば二度と決行できないと思ったソニアは、そのまま白い体の首筋に手を突き当て、鋭い手刀で頚動脈を切った。
真っ赤な血が噴き出し、ソニアの顔に降りかかった。
フォンテーヌの目はゆっくりと閉じられ、再び開くことはなかった。あまりに出血の勢いが激しいから、失血で死に至るのは速やかだった。
ソニアは溢れ出る血で真紅に染まりながら、天に向かって叫んだ。
「あああああああああああっ!!」
フォンテーヌと共に、ソニアもまた魂の奥深い所で傷を負い、死んでいた。これまでに幾度となく敵を殺め、人々を守るという名目の上に血を流してきた彼女だったが、何の牙も武器も、戦う意志すらも持たぬ善良な生命を絶つのは、これが初めてだった。
『……ありがとう』
去りゆく微かな声が耳に届いても、それは少しもソニアを癒しはしなかった。永遠に消え去ることのないこの負債は、時の刻みと同じく、これからも彼女を傷つけていくだろう。
抱く体は冷えていき、白い体からもっと血の気が無くなっていく。
長くこうしてはいられない。今の破壊はさすがに外部でも気づいただろう。
ソニアは最後にもう一度、我が負債の顔を見た。人形のようだった肉体の、その死相は、今際の際、安らかに微笑んでいるように見えた。
何と虚しい笑顔だろう。
ソニアは心臓を鎖で縛り上げられるような苦痛に耐えながら風を強めた。亡骸だけを取り巻くように流れさせ、自分の体もそこから離し、距離を置く。
「――――――フレア!」
そこに魔法の炎を放ち、風の中で威力を強めさせて豪火に変えた。炎は体を取り巻く蛇のように纏わりつき、次第に全身を包んで繭状になった。今まさに誕生しようとする不死鳥の卵のようだ。
強力な火炎は短時間で遺体を焼き尽くし、炭化させていった。フォンテーヌの願い通り跡形もなくなるまで炎は体を包み、部屋はまるで竈の中のようになった。熱さなど顧みずに、ソニアは我が身をも焦がす勢いで炎を強め続けた。
感覚的に燃やすものがなくなったことを知って炎を終息させた時、そこには骨まで灰と化した山があるだけだった。
ソニアはよろけて壁に寄りかかり、そのまま崩れて蹲り、小さくなって体を揺すった。自分の身体も相当な火傷を負っていることにようやく気付くが、治療する気がすぐには起きない。
「うっ……うう……」
そして震える拳を何度も床に打ちつけた。次第に床だけでなくテーブルや棚までも打ちつけ、苦痛に歪んでいた彼女の顔は怒りに燃え、1点の目的だけを見据えた凛としたものに変わっていき、身を起こして辺り構わず設備を打ち砕き、叩き壊していった。
「――――――――うおおおおおおっ!!」
書類を破り捨て、本棚は全て倒し、部屋中を滅茶苦茶にしてから再度火を放った。
彼女の心の嵐を表して吹き荒ぶ風の中で、あっという間に炎は燃え広がり、部屋中を炎獄に変えた。
ソニアは部屋を飛び出して、涙を拭い、拭い、走った。本当は血だらけ煤だらけの顔身体も、見事に透明なままで異臭だけを放っている。
まだ騒ぎは聞こえないが、今に番人達が駆け付けてくるはずだ。
夢中で走っているうちに、気がつくと行きに通った部屋とは違う所に来ていた。炎の中で手近な扉から通路に出たのだが、それが別ゾーンへの入口だったらしい。引き返すより進むしかないからソニアは走り続けた。
暗くてよく見えないが、今は細い通路に出ている。一方向にしか伸びておらず、分かれ道も突き当たりも何もない。進むうちに行き止まりが現れ、そこは扉になっていた。
ソニアは立ち止まり、息を潜めて中の様子に注意を向けた。静かで、気配は何もない。ここも幸い鍵がかかっていなかったので、できるだけ音を立てぬようそっと中に滑り込んだ。
薄暗いが、中はよく見える。もうソニアは走らずにはおれなかった。こんな部屋には1秒たりとも居たくない。この部屋には30~40機の小振りな硝子槽が立ち並んでおり、見たこともない魔物ばかりが犇めいている。
ソニアは走り続け、涙溢れる目を何度も拭っては、また涙を零した。
その進行も、ある硝子槽の前で止まってしまった。林立する硝子槽の中のある1つが彼女の目に入り、その中身に焦点が合うや、ギクリと固まってしまったのである。
1つ目のイソギンチャクのような、はたまた、あの監視役のような外観の魔物。その触手は長く、槽内を何周もして揺らめいている。
「あ……ああああっ……!」
ソニアはやっとの思いでその部屋を飛び出した。出た所は、また小さな控え室のような所だった。壁際に棚が並び、ガラス瓶や木箱が陳列され、数着の白い衣が掛けられている。
そこで一息つき、ソニアは頭を回らせた。今の硝子槽には、ヌスフェラート語と共に数字の《2》が振られていた。その隣にも幾つか槽があり、1番から4番まであったように思う。他は皆空席で、中身があったのは2番だけだった。
あの魔物には見覚えがある。ソニアは背筋に悪寒を感じて肩を抱いた。北方王国の地下倉庫での出来事と、先程見た軍服の紋章にある赤い十字が瞬間的に過って結びつけられた。たった今の強烈な惨事の後だというのに、ソニアはまた愕然とした。
あまりにいろんな事がほんの僅かな間に起こり、もう壊れてしまいそうだった。だが、ここで壊れていられない目的があるから、ソニアはまだ冷静さを辛うじて繋ぎとめていられた。改めてトライアスへの祈りを呟き続け、それに縋る。
進むしかない。とにかく脱出するしかない。
準備室の扉をそっと開けると、そこには見慣れた造りの通路があった。この設計は――――――そうか。
ソニアは扉を開け放ったまま、ひたひたと通路を進んで行き、曲がり角で首を覗かせて先を見た。すぐそこにいるのは大鎌を手にした悪魔だ。こちらに背を向けて光の射す方角に警戒している。
ここは一繋がりの研究施設で、どちらの入口から入ってもまず控え室を通り、その奥の実験施設へと進んで行く造りなのだろう。その最深部、最も人目から離していた秘密の所業が、あの少女への行いなのだ。
ソニアはすぐに駆け出した。風の力を借りて悪魔の脇を一瞬で通り過ぎ、通路を突っ切る。そして開けた踊り場に出るやジャンプして、階段と魔物達とを眼下に見下ろしながら飛び越し、目に見えぬ弧を描いて宙を舞い、石の床に降り立った。
突如走り抜けていった風と血混じりの焦げ臭い臭気に、通路の番人は騒ぎ始めた。液体の持つ臭いも混じって強烈だったから、角々の番人もそれにすぐ気づいて騒然となった。
「――――――おい! 何の臭いだ?!」
「奥から急に風が吹き込んできた! 中から臭ってるみたいだ!」
幸い、関心は施設内の方に向けられたので、番人達は階段を上がって中に入って行った。
ソニアはその様子を見届けることもなしに、一度も振り返らず広場を後にした。走り走り、出口を求めて駆け抜けた。
何処に行っても臭いが残るから、後はもう風のように走り過ぎて魔物達に追いつかれぬようにするしかない。一刻も早く外に出なければ!
ソニアは少しでも事態を良くするべく、体に巻きつけていた布を走りながら脱ぎ、雲隠れの帯だけは外れないように注意して布を取り出すと、それで顔や身体をできるだけ拭って汚れを落とし、最後に投げ捨てた。その落し物に注意が集まって、暫くは撹乱できるだろう。
ソニアは扉を見つけて中に入り、窓でも何でもいいから、外界に出られる口を探して走り回った。何部屋か見て回っても窓すらない。ここはまだ宮殿の中央区域なのだろう。もっと外周部を目指さなければ。
ソニアは諦めてその部屋を出て、勘だけを頼りに遠くへと走り続けた。荒れ狂う胸の鼓動。途切れ途切れの息。何度も行き交う魔物達。刻一刻と騒ぎが大きくなっていくのがわかる。
できるだけ早く外に出なければ。警戒体制が強められて、何らかの術でもかけられたら、脱出まで困難になってしまう。
油灯の照明だけの薄暗い通路を長いこと走り抜けて、ようやく異なる色の光源に照らされている場所に出ることができて、ソニアはささやかな安堵を感じて足を緩めた。
通路の片側に窓の並ぶそこは、方角は不明ながら、外の世界に面した外周部なのだ。相変わらず風は強く吹き荒れているようで、木々が激しく弄られて波打っているのが見えるが、雨は一時止んでいるらしい。
窓を開ければ外の様子がもっとよく見えた。目の前に広がっているのは森らしい。あそこに行こう。
ソニアは下を見て、ここが3階分の高さであると知った。階下の暗闇にいきなり降りるのは危険だから、石壁に刻まれた溝や配管を手掛かりにして壁伝いに下がっていった。
最後の1階分は何も手掛かりが無いので、下に石や尖った物などがないのを確かめてから、ヒラリと飛び降りた。岩や木の枝が飛び出ていることもなく、雨でぬかるみ柔らかくなっているだけの足場だった。
一度だけ、ソニアは建物を振り返り見た。ただの巨大なシルエットでしかないが、フォンテーヌの夢の中で見たものと同じだった。窓々からは微かな光が漏れており、影があまりに巨大だから、まるで城のようだ。
このおそろしい空間から出られて自然の風を浴びたことで、やっとソニアの心にささやかな安堵の灯が点った。後は、ポピアンと合流してこの島から脱出するだけだ。
ソニアは立ち上がり、闇の森の中へと入って行った。