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Sonja〜ソニア〜  作者: 中島Vivie
第18章
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第3部18章『決裂』1

 硝子窓を流れ伝う大量の水と、時折閃く雷光の演出の中で遅めの晩餐を続けながら、ポピアンはゲオルグの昔話に耳を傾けていた。

 変化術に気付いていないから、彼は目の前の人物がどれほどの齢と経験を重ねているかをまだ知らない。硝子窓の外で展開される嵐の荒れ狂いぶりと、内側のこの空間の静けさ――――ことに殆ど揺らがぬ燭台の炎は、外世界の騒乱には簡単に動じぬこの2人の冷静さを、そのまま表しているかのようだった。

 彼女は茶と少しばかりの軽食を口にするだけで、彼の方も食事の進みはとても遅かった。昔語りがメイン料理となり、それに少しずつナイフを入れて1口1口味わっているのだ。

 彼は、妹が己の過去を共有していく穏やかな喜びを感じながら語りを続け、彼女の方もそれに大いに関心を示して話に聞き入り、味わい、時に質問を投げかけては、彼の生きてきた世界を少しでも現実に近づけて思い描こうとした。

 ポピアンは彼の父、ゲオムンドのことを多少知ってはいるが、息子である彼のことはあまり知らなかった。その彼が、これまでゲオムンドとは違った生き方をしていたらしいことを知り、思いの他、そのことに自分が悦に入っているのを感じた。彼は、彼に似合いの孤独な生活をしてきたのだ。もしゲオムンドそのままの生き方をしていたら、純粋な怒りばかりが湧いてきたかもしれないが、彼のある意味惨めな人生を知って、怒りの代わりに、彼女は暗い満足感を得ていた。

 そう、それでいいのだ。ただ幸せになることなど、お前には許されないのだから。

 ポピアンはその感情を顔に出さぬよう極力務めてカップの茶を口に含み、相槌を打ち続けた。

「もし……お母様が生きているうちにその事を知ったら……どうしていたの?」

今は地上世界での暮らしと、母の死を知ったところの流れまで進んでいた。どれほど会いたかったかを彼が切々と語るので、ポピアンがそう尋ねたのだ。

「……必ず会いに行ってたよ。どんな邪魔や妨害があろうと、オレは母上を探しに行った。そして、母上のご迷惑でなければ、どんな事でもしたかった」

ポピアンの心に、ある光景が浮かんだ。そして彼女の目が暗く沈んだ。

 彼女の反応1つ1つに怯える彼は、そのほんの一瞬の翳りを見逃さず、ドキリとした。今の話の何が彼女の気に入らないのだろうとヒヤヒヤする。

 自分が如何に家族との暮らしを求めているか、その心を知ってもらえれば、多少なりともソニアの同情心を得られるのではないかと期待している彼にとって、本心を見せぬ彼女が時折チラリと覗かせる闇色の霧は、彼の胸を痛ませた。

「会えなかったのは……残念ね」

彼女の真意が解らずゲオルグは戸惑い、それを隠す為に皿の上を弄った。

 タイミング良く給仕が新しい料理の小皿とお茶のお代わりを持って来たので、話は一時中断した。

 ポピアンの作り笑いは、今ではもう殆どなかった。


 仄明るく紫色に染まる光の領域と暗がりとが交錯する雑多な部屋の奥で、ソニアは床にへたり込んだ格好のまま、ようやく正気を取り戻した。

 今の今まで見ていた幻影が何なのか、すぐには飲み込めずに混乱した。まるで心がこの身体を離れて遠い所へ行き、そこで大急ぎで物語を見て帰ってきたかのようだった。

 自分ではない、他人の物語とハッキリ解っているのに、あまりに生々しかったから、自分も同じ体験してきたかのような疲労感と時の経過を感じた。この僅かな時間で、急に年をとったように思う。

 そして、幻影を見た混乱が治まり切らぬうちに、目の前にあるものに意識が集中されていった。なぜなら、目の前にいるその人と目が合ったからだ。

 と言うより、その人の方はずっとこちらを見ていた。今の幻影を見る直前もそうだった。それを思い出した。この人は私を見ている。

 この人――――――

 ソニアの呼吸と心臓は止まった。

 大層手の込んだ造りの硝子槽。その中に満たされた、発光する紫色の液体。その中に浮かんでいる白いもの。その目。

 それは、これまで何度も見かけ、そして夢の中で鏡越しに姿を認め、今また幻影の中で見てきた少女のものだったからである。

 フォンテーヌ。

 ソニアは無意識に、心の中だけでなく言葉でその名を口にしていた。彼女を捕らえた男は知ることもなく、口にすることもなかった、その名を。

 名前で少女とソニアの繋がりは一層強くなり、確信へと導かれていった。

 あなたは、フォンテーヌ……

 ソニアの体は、ガタガタと震えだした。あまりにおそろしいからだ。少女と思しきその人の目はそのままだが、その他一切は見る影もなくなってしまっていた。

 これを表現する言葉があるとしたら――――――そう、作りかけの人形。

 頭部の左側面はそのままハイ・エルフらしいのに、右側面は髪の毛が全くなく、あの長い耳さえ見当たらない。着衣の類などは身に着けておらず、裸のまま液中に浮かび漂っており、白い肌の表皮が半分近く無くて、皮を剥がれた獣のように、その下の赤い毛細血管を剥き出しにしている。生まれた時からこういう姿の、珍奇な海獣のようだ。

 長い髪の毛はゆったりと海藻の如く揺らめいて、波打っている。液体が循環し、水泡も止め処なく湧き上っているから、揺らぎのダンスには事欠かないのだ。この部屋の中で淀みがないのは、その水泡や揺らぎばかりで、ソニアは置物のように全く動くことができなかった。

 事態が理解できていくほどに、重い鎖が手足に絡まっていくのを感じる。そして同時に、だからこそ立ち上がって動いて、よく見なければならないとも思う。この状況を把握し、打開する糸口を見つけなければ……

 理解しなければ……

 ソニアは震える手をどうにか手近な装置に伸ばして支えにし、怖々立ち上がった。生まれたての草食動物が立ち上がろうとするのよりも、ずっと覚束なくて、危なっかしかった。

 物心ついてこの方、今まで一度も、こんなに体の力を失ったことはなかった。得体の知れない試みにより腕も足も細り、足元が揺らぎ、その上、心までが深刻な打撃を受けて眩暈に見舞われる。

 気持ちは少女から離れていないので、一瞬でも目を離したくないのだが、どうしても立ち上がる為に頭を下げて肩に力を込める必要があり、ソニアは俯いた。

 すると、そこにあるものに気づいてハッとした。

 手を掛けていたのは平たい硝子槽で、ここにも同じ色の液体が満たされている。そして宝飾店や武具店が品を陳列するように、その中に貴重なものを並べていた。片方だけの細長い耳。そして、ハンカチーフのように薄くて白い何かの数々――――――皮膚だ。

 ソニアは思わず身を仰け反らせ、立ち上がりかけていた体を倒し、危うく仰向けに転びそうになった。そこにテーブルがあったので背がぶつかり、手をついて支えにした。

 敢えて数えてみるまでもなく、少女の体から欠けているものと一致しているに決まっていた。ソニアはこんなことをする意図が全く解らず、ひたすら震えながら涙を零した。

 少女のことも、ショーケースの品々も、ずっと見ているのは耐えられなくなり、度々目を背けてギュッと瞼を閉じ、違うものの観察に逃れてしまう。

 そうしているうちに、今度は支えにしているテーブルに置かれた書類の上にある記録本に気づいた。大きめで厚みのない数冊の張本があり、一番上にある本の題字に目が留まったのである。

《――――――ソニア――――――》

ヌスフェラート文字でも何でもない、この地上の人間が使う言葉で書かれていたから、彼女にもすぐにそれと判ったのだ。

 表題を見ただけで、彼女の口の端から小さな叫びが漏れ出た。今、この瞬間に時間を止めてもらいたい。ここから先には進みたくないという思いがどっと強まって、硬直してしまった。これが良い事のはずがない。おそろしく悪い事に違いない。その確信が強まる。

 先に進みたくないのに、でも、自分の名前が書かれている以上、中を開いて見ない訳にはいかない義務感が背後から追い立てるように彼女を刺した。

 ソニアは震えながらその本に手を伸ばし、そっと触れて革の感触を確かめた。蜥蜴か蛇か、何か鱗状の体表を持つ魔物の皮を使って表紙にしている。その中身を何度でも入れ替えられるよう、紐で片側が閉じられている様式の高価そうな物だ。その表紙中央に金具が打ち込まれており、タイトルの書かれた厚紙を出し入れできるようになっている。タイトルの紙も、つい最近作られたとは思えない経年劣化の黄ばみとインクの色抜けを表していた。

 この本は長い。この計画も長い。この……

 ソニアはもう一度目を閉じ、深く息をついた。自然とトライアスへの祈りが口をついて出、縋るように言葉を紡いだ。祈りの言葉がこんなに震えたことはかつてなかった。

 そして静かに表紙を捲った。表紙と本文とを保護する中紙も捲ると、そこにはヌスフェラート文字と人間の文字の入り乱れた記録文がびっしりと踊っていた。こんな書面は見たことがない。

 基本的には人間の言葉で書いており、その中の重要な部分を他人には解らぬよう暗号化しているのか、ソニアには解らない文字や数字の羅列があり、文中唐突にヌスフェラート文字が入り込んで、何らかの動作や名称を表現していた。彼女の印象としては、地上の言葉でそれに相当する表現が見当たらず、そこだけをヌスフェラート語に頼ったというような感じだった。

 ゲオルグの筆跡は知らないが……おそらく、これは彼の手によるものだろう。

 暗号化とヌスフェラート語に阻まれて解らない所だらけの中、ソニアは解る言葉だけを辿ってみた。

《第○日――――――……の徴候なし。……後の肌の……は、やはり遅い。肌の……から見て、

 それによる……後の成果が窺われる》

《第○日――――――……の徴候なし。耳殻の再生は順調。……も問題ない。しかし、……を全て替えても、他の体……まで老化が遅まることはないようである。しかし……の血を持つ者への……を行ってみなければ結果はわからない。その為の……を探さなければ……》

《第○日――――――……の徴候なし。やはり……は見つからない。そもそも……は有り得ない。ソニア自身に……をしてみなければ……は確かめられないようである》

 記述の中に再び自分の名前を見つけて、ソニアは数度目の時間停止を願った。時の神は彼女のことになど気づいていないのか、或いは全く無視しているようだ。返って時はゆったりと流れるだけで、より残酷に彼女を包んでいる。周りの時間だけ流れが緩やかになり、それに反して意識だけが早回りし、何度も何度も衝撃を彼女に与える。

 1日毎につけられている観察記録の最後には必ず時刻とサインがあり、走り書きながら《ゲオルグ》と読めるようだった。

 断片の繋ぎ合わせからの推測でしかないが……どうやらゲオルグは、この自分の体を変えようとしていたらしい。それも寿命を延ばす為に……。彼は言っていた。『お前にだけ負担がかかってしまったんだ』、『時間も体も取り戻せない』、『肉体活性の能力が、人間並みに落ちてしまっているようだ』と。だから彼は……

 ソニアは再び少女を見た。作りかけの人形は、意志があるのかないのか判らぬものの、まだソニアのことをジッと見つめている。液体の中にいて瞬きの必要がないようで、怖いくらいに凝視している。

「あぁぁぁ…………」

ソニアはよろけながら硝子槽に近づいていき、ペタリと手をつけると膝を落として貼りついた。ガラス面を擦る高い音が響く。

「……なんてこと…………」

みるみる涙で視界がとろけ、光と混じり合い、像が歪んでいく。気泡が少女の体を伝って滑らかに這い昇っていく様子は、曇り硝子の向こうに見える雪景色のようだった。

 ソニアは泣きながら硝子をペタペタと叩き、やがて拳にして、繰り返し、繰り返し叩いた。

「わあぁぁぁぁぁ……! バカヤロウ……! バカヤロウ……! バカぁぁ……! 人でなしぃ……!」

彼女の口から珍しく罵声が出て、叩く震動で液中の泡がその都度震えた。紫色の雪景色の中で、少女はそんなソニアを眺め続けている。

「私の為に…………私の為にこんなことに……!」

自分の存在に、こんなにも強烈な罪悪感を抱いたことはない。かつてトゥーロン達と逃げ惑っていた時代、自分がいることで魔物の領域に入ることを拒まれてしまったことがあった。その時に感じたもどかしさと怒りも覚えているが、これは、それの比ではなかった。鞭で止むことなく叩きつけられている様だ。痛過ぎて、苦し過ぎて、もう半分訳が解らなくなっている。

 だが、どんな刺激にも波があって、一番押し寄せている時と、暫し引く時とがあった。一度涙を拭うだけの冷静さを取り戻した時、ソニアはしゃくりあげながら改めて少女の姿を見上げた。

 こうして近くで見てみると、少女の眉間に小さな金属板が食い込んでいるのに気が付いた。細かいことは判らないが、それが施されているというのは、とても深刻な状況だということだけは直感が告げていた。彼女はもう元には戻らない。助からない。

 ソニアはその結論を認めたくなくて、頭を盛んに振って全身で否定した。

 そんなことはない! ここから連れ出して、あの村に連れて行けば、あの人達の秘術ならきっと彼女を救うことができる! きっと元のように完全なハイ・エルフとして生活することができる!

 しかし、そうして否定していても、彼女の知識だけでは、この少女をこの水槽から出して安全なのかどうかさえ解らなかった。直接ゲオルグに問い詰めて安全に解放させるしかない。だが、ここまで嘘を重ねてきた彼が、しかも自分をここに閉じ込めようと拉致までした彼が、そんな事に応じるとは思えない。思えなくてもやらなければならないが、それで解決するとは思えなかった。

 この事が知れれば、自分達兄妹はあの村の人々からおそろしく憎まれ、疎まれ、贖罪を求められるだろう。命で贖わなければ釣り合わないかもしれない。勿論罪は償いたい。だが、今、本当に自分が一番したいのは、トライアに帰り、あの国を守ることなのだ。それと同時に行うことはできないだろう。許されないだろう。

 こんなことがあるなんて……!

 ソニアは少女と見つめ合いながら涙を拭い、何度も謝罪した。

「ごめんね……! ごめんね……!」

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