第3部17章『フォンテーヌ』3
ふと、フォンテーヌはテーブルの上に1通の手紙が置かれているのに気づいた。皿の下にそっと挟まれ、でしゃばらず控え目な置き方がされている。彼女は怖々それに手を伸ばして、静かに抜き取った。
それは2つ折りの白い紙で、右下に火を吐くグリフォンの箔押しがされている高価そうな便箋だった。もっとよく見れば、周囲に炎を模った透かしまで入っている。
そこには、地上世界の共通語文字と地下世界のヌスフェラート文字両方で文章が書かれていた。フォンテーヌがどちらの文字を読めるのか判らないのだろう。この手紙はヌスフェラートが送り主だろうかと一瞬思ったが、彼等の言語は地下世界の主流でもあるから、そうとは決めつけられなかった。
手紙の内容はこうだった。
《―――ようこそ我が島へ。君を歓迎する。
君を悪いようにするつもりはないから、どうか安心して欲しい。
ここにいるのが、決して君の本意でないことは重々承知している。
このような手段に及んだことを、どうか許して欲しい。
君にどうしても協力してもらいたいことがあるのだ。
君を驚かせたくないから、当分は誰も近づけない。
身の回りの世話は必要だから、君が部屋を出ている時に出入りはするが、
顔は合わせないようにしておくよ。当分は私も姿は見せないつもりだ。
まずはこの環境に慣れるのにも時間がかかるだろう。
この島で好きなように過ごして寛いでくれ。
欲しい物があれば、同じように手紙で知らせてくれれば、
可能な物は何でも揃える。
もし、私と会って話をする余裕ができたら、
その決意が固まった時に、やはり手紙で知らせてくれ。
その時、ゆっくり話をして君に解ってもらいたい。
君が協力してくれれば、やがては故郷に帰してあげるつもりだ。
本当だよ。私の望みは、君の命や永住ではない。
私の時間は限られている。どうか助けて欲しい。
良い返事を待っている―――》
フォンテーヌは手紙を手にしたまま考え込んだ。文面は知性的で思慮深いが、この暴挙の後であるだけに、すんなりとは受け入れられなかった。どこまでが本心で、どこまでが詭弁なのかが判らない。外世界では悪い奴ほど甘い言葉を使うというから、これがそういうことなのかもしれない。
どちらにせよ、平和なエリア・ベルの世界しか知らないフォンテーヌには、圧倒的な経験不足から判断をつけることができなかった。あの村には悪人も罪人もいないから、いざ本物に会った時に見抜けるか、見当もつかないのだ。
しかし、これで誰にも会わず、姿を見かけもしない理由がわかった。賢明な手配だ。予告もなしに、もし今日誰かと出会っていたら、自分がどんなに恐怖に毒されるかしれなかった。このままにしてくれるなら、この方がいい。もう少し時間があれば、脱出の為のいい方法が浮かんでくるかもしれない。
そうフォンテーヌは考え、ベッドに腰掛けて長く吐息した。
浅い眠りで落ちつかずに何度も目を覚ましては、それでも出歩く気にはなれず、ベッドで無理矢理横になって目を閉じているうちにまた眠りに落ちる、という夜を過ごし、翌朝フォンテーヌが起床した時にはとても疲れていた。食事もしていないから、体の内側から空虚な力なさが染み出てくる。
部屋の中は全く変わっていない。食事を下げる為に人が入って来ることはなかったらしい。扉を開けると、そこにはワゴンが置かれていて、彼女の朝食が載っていた。異次元や異界の食べ物は口にしてはならないと言うが、フォンテーヌは今後の為に敢えて食事を摂ることにした。
ワゴンの上には新しい花が飾られている。また出掛ければ、その間に誰かが部屋に入ってテーブルの花も替えるのだろう。でも、一晩でお役御免になるのも可哀想だから、フォンテーヌは花瓶の花を手助けし、輝きとハリを取り戻させた。
ワゴンの銀食器の中にはスープとパン、それに数種類のフルーツが盛られていた。どれもエルフ食に近いから、フォンテーヌは全てに手を伸ばして、少しずつ食した。今日はまた1日中島を散策して、ここから出る方法を考えるのだ。多少なりとも力をつけて気を確かに持たなければ。
食後、フォンテーヌは同じ服装のまま館の外に出て森に繰り出した。昨日開けた扉は閉じられていたが、その代わりに手入れをしたらしく、隙間に詰まっていた苔や埃が取り除かれて開き易くなっていた。そして1日中外で過ごし、雨が降った時には木の下や岩陰で雨宿りし、植物や土や湖、鳥、海、魚の小さな声と相談して脱出の方法を探した。
全く妙案が浮かばずに日は傾き、次第に光が薄れていき、闇の濃さに我慢できなくなる頃にはまた館に戻った。
部屋はまた綺麗に整えられ、今度は違ったドレス数着と食事がたくさん用意されている。彼女の好みを探ろうと、あちらも試行錯誤しているらしい。食べ物は、彼女が朝に手をつけた物を参考にして徐々にエルフの好みに近づいていく。
しかし、食事だけは仕方なしに摂ることがあっても、用意された服にだけは手をつけなかった。フォンテーヌは正真正銘エルフ製の服を決して離さず、日中湖の中に入っては洗って乾かしていたのである。デザインが近い物を用意してくれてはいるのだが、あの村で育った植物の繊維でできているドレスでなければ嫌なのだ。
次の日になっても、その次の日になっても同じ事が続き、状況は変わらず、新しく変化していくのは花や食事やドレスばかりであった。生まれてこの方、村での集団生活しかしたことのなかったフォンテーヌは、こんなに孤独な生活をするのは初めてで、日増しに仲間恋しさが募っていき、食事も普段より少ない量しか喉を通らないものだから、どんどん体も心も弱っていった。
まだ発狂するには至っていなかったが、毎晩涙を零し、シクシクと独り泣きした。どうしてもこの島を抜け出す方法が見つからない。手紙の主に、ここから出してくれと頼むしかないようだ。でも、そんなことはおそろしくてできない。自分に従わないと知った途端、謎の人物が豹変してどんな行動に移るか全く予想がつかないのだ。
そんな風に、何の返事も要求もしないフォンテーヌが毎晩泣き続けているので、さすがに困ったらしい謎の人物がまた手紙をテーブルに残していった。
《―――何日かすれば君が慣れてくれるのではないかと思っていたが、
私の予想以上に、君にはこの環境は合わないんだね。
君が病気になっても可哀想だから、急ぐことにしたよ。
本当は直接君と会って話がしたかったが、
君は私に返事をすることすらおそれているようだから、手紙で教えることにする。
私にも君にも、時間がないからね。
君に助けてもらいたい、という話のことなんだが、
実は私の身内は病気でね。何とか助けてやりたい。
説明するのは難しいのだが……どうやら君のようなエルフの体の神秘を研究すれば
身内を救う方法の糸口が見つかるかもしれないと強く期待しているのだ。
だから、君の体の一部――――つまり髪の毛や血を、
少し提供してもらえないかと思っている。
できることなら、もっと色々なことを調べさせて欲しい。
ちょっと針を刺したり、髪の毛を少し切ったりするだけだから、
君の体を傷つけるつもりは全くないよ。
身内を救う手だてを、他に思いつかないのだ。
エルフと接触できる機会があまりに少ないので、
君を強引にここに連れて来てしまったことは本当に申し訳ないと思っている。
だが、君が承諾して提供してくれれば、1日とかからずに事が済む。
そうすれば、すぐに元の所に帰してあげるよ。
どうか、この願いを聞き届けて欲しい。頼む――――》
フォンテーヌは文中の『血』という言葉にすっかりおそれをなして手を震わせた。
血? 血を何に使うというの? どうやって取るというの?
何ておそろしいことをこの人は要求するの?
彼女は全くもってこの呼びかけに答えるつもりはなかったし、どうにか安定させていた心持ちも、これですっかり乱れてしまうようになった。
できることならもう館には戻りたくないのに、夜の真っ暗闇はどうしてもおそろしくて耐えられず、仕方なしに部屋で過ごしているから、最近では殆ど眠れていない。
手紙の返事がなく、彼女の様子が一層おかしくなるだけなので、謎の人物は遂に痺れを切らして、夜にこんな手紙を送って寄越した。
《―――このままでは良くない。今夜、君に会いに行く。
どうか驚かないで、怖がらないで、待っていて欲しい―――》
これで、フォンテーヌはすっかり取り乱した。手紙を読んですぐに館を出なければと思ったが、外の闇の中に出ていける余裕はない。扉を開けて部屋の外に出て、何処か他の場所に隠れられないかとも考えたが、この慣れた部屋以外の場所にいきなり行くのも、これから来るらしい誰かと会うのと同じくらいに怖かった。
もはや八方塞で、息が詰まりそうな程に追い詰められている。暖炉の炎や部屋の花は小さな声で必死に慰めよう、落ちつかせようとしていたが、彼女の耳には届かなくなっていた。
そうして部屋中を当て所もなくウロウロと歩き回り徘徊していると、やがて人の足音がカツンカツンと部屋に近づいてくるのが分かった。訪問者の存在を知らせようと、敢えて足音を消さずにその人は歩いているのだが、それをフォンテーヌは忍び寄る悪魔か何かのように感じて、狂ったように恐怖心を募らせた。
足音が扉の前に止まり、一呼吸置いてから控え目なノック音が響いてきたが、彼女には雷が落ちたかのように聞こえ、思わずヒッと叫びを漏らしてしまった。部屋の隅にしゃがみ込み、両手で頭を抱えて家具の陰に隠れる。
数回ノックを繰り返しても彼女が返事をしないでいると、暫くしてから《開けるよ》という言葉を地上の言葉とヌスフェラート語両方で言うのが聞こえてきた。男性らしい低い声だ。扉のノブが回り、ゆっくりと引かれた。キィィという音と同時に、もっと大きな彼女の悲鳴が突き抜けていく。
フォンテーヌはおそろしくて最初は目を覆い、顔も伏せていたが、何も変化がないので確かめずにおれなくなり、ブルブル震えながら顔を上げて戸口を見た。
そこには1人の男が立っていた。部屋の中にまでは入らず、ただ入口で自分の姿を彼女に見せる為に、そこで静かに佇んでいるのだ。
それは、これまでに見たこともない青ざめた肌色の容貌の人物だった。見たことがないものの、話には散々聞いていたので、フォンテーヌはすぐにこの男がヌスフェラートであると判った。ハイ・エルフの全体的な白さからすれば、殆ど邪悪的なまでに体色全体が暗黒に属している。しかも噂通り、目の周りは闇の霧に染まっていて、いつでも夜の中に生きているような目をしていた。
フォンテーヌはいっぺんで我を失い、ただ、ただ叫んだ。不運の姫君の物語も頭に刻み込まれているから、ヌスフェラートは悪の権化でしかない。フォンテーヌは来るな、寄るなと叫びに叫んで、彼が何か呼びかけているのに少しも耳に入れようとはしなかった。
やがてヌスフェラートは、今は無理と悟って扉を閉じ、退散していった。フォンテーヌはその晩、泣き続け叫び続け、夜を明かした。
朝が来た時には殆ど力尽きかけていたが、ずっとここにいるのはおそろしいので早々に館を出て、森の中でぐったりと眠った。
夜になれば闇をおそれてまた仕方なしに石の牢獄に戻り、するとまた置き手紙がされていて、あのヌスフェラートが来ることがわかり、姿を見せた途端に泣き叫んで大いに拒絶した。ハイ・エルフの姿をした者が戸口に立ったこともあったが、ハイ・エルフを良く知らない者が模倣をしたことが判る不完全さで、フォンテーヌはすぐに見抜いてしまい、それも拒絶した。何日も何日も、そんなことが続いた。
もう、彼女は見知らぬ鬼への恐怖で完全に毒されてしまい、彼がどんなに穏やかに話しかけても、ひたすら地獄の闇に取り巻かれる悪循環の中に陥っていた。