第3部16章『孤島の宮殿』10
ソニアはその後も探索を続け、新たな警戒域に足を踏み入れていた。白い影は見当たらず、行く先も行く先も本物の貯蔵庫ばかりである。
書類が保管されている資料庫あり、薬品ばかりが並ぶ薬庫あり、1国の城にも劣らない品目と貯蔵量である。馬などの交通手段と、外部交流がないだけで、ここは1つの島国なのではないかと思えてきた。分家でもなく、別荘程度の拠点でこれなのだから、エングレゴール家の本宅ともなれば、どれほどの領土と規模かは計り知れない。
ソニアは別の警戒域を探索するべく乾物庫を後にして、また通路を進んだ。曲がり角のない1本道で、向こうから2人の魔物がやって来る。ソニアは壁にぺったりと背をつけて、2人と触れ合わぬよう精一杯体を平らにし、息も止めて、通り過ぎるのを待った。胸の鼓動がドクドクと耳にまで伝わる。本当に見えていないのか、今でも疑ってしまい安心できなかった。
彼らは大鎌を手にこんな会話をやり取りしていた。
「――――これからずっと、今みたいな警備をせにゃならんのかな」
「仕方あるまい、お嬢様がいるのだから」
「ゲオムンド様がお見えになる時以外はのんびりとしたものだったが……やれやれ、これから大変だ」
「あそこにお嬢様を近づけるなってことは――――…………っとああやって……」
「…………ガルデロン様が………………ないだろうよ……」
「…………だな」
「…………あぁ、ゆっくり…………」
2人が通り過ぎて暫く経ってからソニアは呼吸を再開し、今耳にしたことを反芻した。あの2人は、警備役を交代して休みに入ったばかりの様子であった。ということは、今自分が向かっている方向の何処かに、2人のいた警戒域があるのだろう。そこは、これまでに見てきた所とは違う物かもしれない。自分の探していた何かなのかもしれない。
ソニアはキラリと目を輝かせて、ヒタヒタと素足で通路を進んで行った。それほど進まずして、開けた空間が目の前に広がった。中央に四角い噴水があり、その四隅を4匹の魔獣像が囲んでいる。そして壁2面に添うように階段が回り込みながら昇る造りになっている。階段下と中段の踊り場と上部入口、それに各通路からの入口と合わせて合計6名の悪魔がそこで歩哨をしていた。
各々大した緊張感は持っていない様子で、だらだらと立っている。きっと、今はポピアンが解り易い場所で誰かと一緒にいるのだろう。ここに来るはずもないから、こうしてのんびりと気を緩めていられるのだ。
ソニアはまた床を蹴って階段上に昇った。まだまだ力は復帰しておらず、やっと手摺りに手が届くだけだ。体を持ち上げて手摺りに乗り上げ、ようやく這い上がり、踊り場に転がり込んだ。
見れば通路入口だけでなく、その奥にも番人がいる。傍目にはこれまでの要所と変わらないようで、でもここだけ更に警備が厳重だ。となれば、ますますこの場所は怪しい。しかも通路奥の番人は、これまでの悪魔とは一味違った、より屈強そうな体つきをしていた。優秀な者をここに配備しているらしい。
ここを通り抜けることは難しいかもしれない。ソニアはそう思いながら、まずは入口番の脇を通り抜けた。そして通路途中で番人を観察して、隙はあるか、どのタイミングで進むのが良さそうか探った。暗紫色の肌は艶々としており、その上に黒革の鎧を纏って肩に巨大な鎌をかけている。リラックス具合を表して、暗紫色の尾がユラユラと猫のように揺れていた。
あの尖った鼻と尖った耳が自分の存在を捉えないことを願いながら、ソニアは一気に真横を通り抜けた。
風が少し起きたのと、番人が大欠伸をしただけで、何事もなく奥に行けた。この悪魔もせいぜい人間並みの嗅覚しかないようだ。人間でも訓練を受けて風上の敵を嗅ぎ分ける能力のある者もいるが、ここの番人達はそれ程でもないらしい。お蔭でソニアは助かった。
姿を隠し気配も消した今、彼等がソニアを見つける可能性はもはや『音』と、彼女の失敗しかないようなものだった。
角を曲がると、その先に見えたものは、これまでより一段と頑丈そうな金属性の扉と、鍵穴のない片手ノブであった。ソニアは扉に近づき、造りを調べた。
開いたままの錠がぶる下がっている。施錠するのは用の済んだ時だけなのか、一旦開錠するとそのままにしておいてあるらしい。これなら、扉を開く際の軋みにだけ気をつければ楽に中に入れる。番人は外からの侵入にだけ気をつけているから、こちらが視界に入る位置に立っておらず、背中半分だけを見せていた。
扉の向こうに人の気配はしない。ソニアは空気の流れをこちら向きにさせて、少しでも番人に音が届かないようにしてそっと扉を開けた。幸い、音は殆どしなかった。立て付けが精巧で、しかもよく使って手入れがされているのだろう。
体が入るだけの隙間ができたところで中の薄闇に身を滑り込ませ、ソニアは内側からそっと扉を閉じた。通路は元通りの状態に戻っただけだ。
空気が変わった。これまでの倉庫とは違う臭いがする。空気も淀んでいない。真っ暗闇ではないのだが、彼女の目には光量が足りず、辺りの様子が判らなかった。しかし、奥の方から何やら規則的な連続音が届いてくる。だからすぐに魔法の炎で辺りを照らすのは躊躇われ、彼女はジッと様子を窺った。
何者かが動く気配や、その時に生じる独特の空気の流れは感じられない。連続音は、森の奥の小さな、小さな滝が、ベールのように並んで垂れる苔を伝って、雫を1粒1粒幾つも垂らしながら奏でる合唱に似ていた。大丈夫だ。気づかれないだろう。
ソニアは指先に炎を生み出して辺りを照らした。今いる空間はさほど大きくない。奥にまだ部屋が続いているのは確かで、扉もある。ここはまだ控え室といった程度の雰囲気だ。着衣の上から羽織る為の白い衣が数着、傍らの壁に掛けられている。用途は不明だが、人間世界の医師や薬師が、仕事にこのような白いローブを羽織ることがあるので、それに似ていると思った。
中央には四角い卓があり、部屋の壁側には沢山の木箱や空き瓶が並べられている。照明用の魔獣像がここの壁にも顔を覗かせていた。
ソニアは奥へ続く扉に近づいた。雫の連続音はその向こうからしている。彼女は一度炎を消してから扉を開けた。これも重くて気密性の高そうな造りだ。少し隙間が開くと、向こうから青い光が射し込んできた。この先は炎の照明を使わなくて良さそうだ。ソニアは入る前に隙間からその向こうを覗き見た。
見たこともないほど大きな瓶が沢山並んでいて、その中が照らされている。この光が部屋中を染めているのだ。もっとよく見る為にソニアは中に入り、扉を閉めて全景を目にした。
ソニアは息を飲んだ。
瓶のように見えたものは、硝子製の大きな管だった。酒樽ほども太さがあって、天井近くまで高さがある。それが壁際と部屋の中央にズラリと並べられていた。中が空っぽのものも1つ2つあるが、それ以外は全て光る液体で9割方満たされている。この中を気泡がひっきりなしに湧き上がっていくのが音の源だと解った。まるで逆さ向きに降る雪をスローモーションで眺めているかのようだ。
液体自体が光っているからすぐには判り辛かったが、その中で何かが浮かんでいる。1つの管につき1つという具合だ。
ソニアは硝子管に吸い寄せられるようにして近づき、手を触れた。ほんのりと温かい。
青い液体の中を、毛むくじゃらの生き物が漂い浮かんでいる。多分獣人だ。気泡が毛を撫で回すようにして這い昇っていく。生きているのか死んでいるのかは判らない。その体には数本のチーブが繋がっており、おそらく血と思われる赤い液体のやり取りをしていた。そのチューブは上方に伸び、金属の蓋の中に消えている。その先がどうなっているのかは不明だ。
気泡の和音は、次第にソニアの恐怖感を高めていった。ただの雫に聞こえていたものが、だんだんとヒステリックな響きを帯びてくる。
隣の管には別種の獣がいた。縞のある体で、細い尾が揺れている。その隣には虫族がいた。管からはみ出さんばかりの大きな蜂が、美しい羽根をそのままに収まっている。蜂に繋がるチューブの中は、白い液体が行き来していた。
ソニアは吐き気を催すと同時に膝の力を失い、そこにペタンと座り込んだ。他の硝子管にも、違った種類の魔物が入っているようだ。
家畜小屋のような檻でもなく、棺でもない。これは一体何なのか。ここで何をしているのか。ソニアにはさっぱり見当がつかなかった。ただ、ひたすらにおそろしいと感じる。自分が震えているのに気がついたのは、大分経ってからだった。
ずっとここにいても答えは浮かんでこない。ここに長居してはならないと感じたソニアは、這いつくばって別室へと移動した。隣室は、戸のない入口で繋がっているだけだった。
そこは多少液体の色こそ違えど、同じように硝子管の並ぶ部屋だった。ここにはサイズの小さい種族や動植物ばかりが集められていて、硝子管のサイズもその分小さい。階段状に管は高くなり、壁一面に硝子管の林ができていた。
中身を直視したくないという思いと、しかし見なければならないという義務感に挟まれて、ソニアは喘ぎ、知らぬ間に零れていた涙を手で拭いながら前進した。
悪夢の延長だと思いたいが、素肌の感触があまりに鮮明だから、《現実である》という疑う余地のない威力を持って次から次へと迫ってくる。
これは一体何なの? 何の為にこんな物を作ったの? この人達はどうやってここに来たの? 何者なの?
ソニアは壁から飛び出して曲がりくねっている配管を手掛かりにして、ようやく立ち上がった。まだ何も判っていないのに、この和音に一生追いかけられて逃れられないような気がしてくる。
見るものも見終えて、ソニアは早々にそこを立ち去った。その先には少しばかり暗い通路が続いていた。この方がいい。あんな気味の悪い部屋に出るくらいなら、いつまでも闇の通路を歩いていたいと思った。
その先にあったのは、大きな、大きな水槽だった。プールのようでもあるが、硝子張りの壁で水溜を取り囲むように通路が一回りしている。水溜は足下の更に下まで深さがあり、一番先まで見通すことはできなかった。通路の片側が完全に硝子張り状態なので、ソニアは手をついて中をよく見てみた。
深みで、大きな黒い物体が浮遊している。虫のような外骨格で覆われた魔物だ。はっきりと見えていないのに、ソニアは一瞬で凍りついて目が釘付けになった。もっとよく見たい。そんなはずはないけれど……でも……もしやあれは……
壁からは何本ものチューブが出ており、以前は他にも住人がいたことを思わせる空きスペースがあった。合計で10数体収まりそうな所に、残されたほんの2、3体が隅で眠っているのだ。
もっとよく姿を見せて。動かなけりゃわからない。
その要望が届いたのか、夢見る魔物はふいに手足を動かした。節足の他に、伸縮自在の触手までが蠢いている。
解ってはいたが、今まで薄々どこかで気づいてはいたが、そうして証拠を目にしたことでソニアは完全に打ちのめされ、眩暈で倒れ込んだ。あまりの吐き気に、傍らの排水溝に本当に吐いてしまった。胸がむかつき、胃が捩れる。
ゲオルグは嘘をついていた。自分の大隊にそんな魔物はいないどころか、彼の本拠地であるこの宮殿内にいるではないか! あの刺客が! しかも出動した後らしく、欠員席があんなに空いている。
彼が差し向けたのではないことは本当だろうが、だとしたらやはり、父親が行ったことなのだ。ゲオルグはその事実から彼自身と自分とを守るべく偽ったのだ。
何ておそろしい一族なのだろう……! だからこそ彼は、自分をここに隠して必死に守ろうとしているのだろうか? あぁ……こんなおそろしい一族の血が自分に流れているなどと思いたくない……! 一刻も早くここを立ち去って、トライアに帰りたい……!
ソニアは涙と胃液を垂らしながら、またしても這いつくばってその場を去ろうとした。おそろしい場所だとは思っていたが、もうこれ以上は居られない。十分だ。
その先はようやく少しホッとできる居住空間になっていて、ソファーとテーブルがあった。部屋の様子も見ずにソニアはソファーに横たわり、眩暈が回復するまで待つことにした。涙が止まらず、しきりに手で拭っては溜め息をついた。
ひとしきりそうして身を横たえていると、何者かの視線を感じてソニアは目を開けた。すぐそこで、例の白い少女が物珍しそうにソニアを見下ろしている。姿が見えないはずなのに、少女はボロボロのソニアを落ちつかなげに眺めていて、目が合って暫くすると身を翻らせて何処かに消えてしまった。
ソニアは身を起こして少女の姿を探した。何処にも見えない。薄暗いその部屋には幾つかの調度品が置かれているだけだ。壁には手の込んだ刺繍紋様の細やかなタペストリーが掛けられ、ヌスフェラートの文字でエングレゴール家の家系図らしきものを描いている。
そこにはトルソーもあり、軍の正装らしき立派なスーツがかけられていた。魔導大隊の紋様である心臓と杯を手にした髑髏が刺繍され、艶やかな輝きを放っている。
その髑髏の額にある赤い十字を見て、ソニアの思考回路は一瞬止まった。その十字を見つめ、ジッと固まったまま、時間と夢の狭間に落ち込む。
これを何処かで見た。何だったっけ。
この近日色々な事が起こり過ぎたので、それが何だったのか、すぐに思い出すことができない。ようやく頭を掠めることができても、ここでの現状とすぐに結びつけることが出来ず、戸惑った。
信じられないので、ソニアはまず少女を探すことにして、その部屋を出た。
そこはまた控え室のようで、とても狭くて、壁には白い衣と手袋がかけられていた。消毒用らしいアルコールの臭いもする。これまでの空間は何処も清潔なのだが、そのクリーンさはどちらかと言うと荒野に近かった。湿り気や有機養分など、生命を育むものを全て徹底的に排除して、石ころだけになっているような無機質さだ。
その先には、また小さめの部屋があり、中央に金属製の台があった。ベッドなのかテーブルなのか曖昧な高さだ。その側に金属製の可動式台があり、その上には幾種類ものナイフと鋏、鋸、針と糸、金属の皿が載せられていた。ナイフはまるで鏡のように挑戦的な光を放っている。
これが何なのか訳も解らず、ソニアは中央の台に近づいて行き、よく観察した。台の真上には大きな照明の宝玉が据え付けられ、今は月光よりも更に弱い光をボンヤリと放っている。部屋全体は、まだ若い月に照らされている夜闇の如く青に染まっていた。
ソニアは台に手を触れてみた。
その瞬間、あるヴィジョンが彼女の中を走り抜けていった。慌てて手を離し、ソニアは逃げるように壁へと後退った。
もっと明るく照らされたこの部屋の中に、何人もの暗鬼達が集って、白い衣を纏っている。そしてナイフや鋏などの小道具類を手に黙々と作業をしていた。台に横たわっていたのは、血染めの生き物だった。
ソニアは両手で目を覆い、誰かに聞かれるおそれも構わず噎び泣いた。こんなおそろしいものは見たことがなかった。戦いでぶつかり合い、激しく吹き出す血飛沫は幾度も目にしているのに、静寂の中、強固な意志を持って黙々と行われる作業はまるで儀式のようで、腕や首が飛ぶのよりもずっとおそろしく思えた。食肉用に家畜を潰す光景を見たことはあるが、あれとは全然違う。素早く肉を分解していくのではなく、弄っていると表現した方がいい。
こんな部屋にはいたくない。ソニアは壁に手をつき、フラフラと出口を求めて歩き、別の扉を見つけて中に入った。
そこも同じ造りの準備室だった。何処からも入れるようになっているのだろう。その先に金属を網状に張っている扉があって、その向こうからまた気泡の弾ける和音が流れてきた。この先にまた、あの硝子槽があるのだろうか。
ソニアは、自分の体が動くのが不思議だった。こんなに心が泣いているのに、まるで何かに引かれて進むかのようだ。
ソニアはその扉も越えて中に入った。どの扉も音静かに開いては閉まる。そこはざっと見渡して、机と書棚ばかりの部屋だった。机の上には書類の山が積み上がり、棚も行く手を塞ぐように立ちはだかって道を狭めていた。
その奥から紫色の光が射し込んで、部屋に明暗のコントラストを生み出している。気泡のダンス音も光も、同じ所から流れているようだった。思いの他、広い空間のようだ。
ソニアは光の元を目指して歩き、物に触れぬよう気をつけながら体を動かした。
3つの書棚を越えた所で、その光の正体が明らかになった。やはり硝子の管がそこに立っている。しかし、これまでの物より高度な造りらしく、幾多の装置と配管を周辺に侍らせていた。硝子管のデザインも曲線を成して美しい。この装置にランクがあるとしたら、これは王侯貴族並みの出来だった。この禁断の空間の奥の奥に、たった1つだけひっそりと、まるで人の目に触れさせぬように、それは鎮座ましましている。
紫色の液体が満ちて発光し、重力に逆らう雪が天を目指してゆらゆらと昇っていく。その中にいるのは、魔物でも動物でもなかった。
おそろしい姿と成り果てているそれをよく見る間もなく、ソニアはその中の者と目が合い、途端に意識を失った。彼女は霧の中へとさ迷い出て、何者かの導く夢の中へ連れ去られていった。