第3部16章『孤島の宮殿』9
うたた寝をしていたことに気づいたポピアンは、ハッと目を覚ました。ソニアが何処かで急にパッタリと動くのを止めてしまったものだから、それにつられてポピアンも眠気に襲われたのだ。だが今はまた動き始めている。まだまだ宮殿内を見回るつもりらしい。
ポピアンはベッドから身を起こして、眠らないように座った。傍目には眠れない人物のように見える。目覚ましの呪文もあるが、ここで使えば監視役に見つかってしまうので、唱える訳にはいかない。入れ替わる前の方が、姿の見えない分、その点ではいろんな事ができたので楽だった。
ポピアンは立ち上がって青磁の大きな壷に生けられた牡丹を1輪抜き取り、香りを鼻一杯に吸い込み溜め息した。牡丹から微かに《頑張って》と応援する声が聞こえてくる。
うん、頑張るよ。頼みはあたしだけだもの。
ポピアンは、とにかくソニアが早くケリをつけて脱出してくれることを願うしかないと思い、花1本1本との対話を続けた。こうして時間を潰すつもりだった。
結局、部屋で休むと言って1人篭ってしまったソニアが、やはり眠れないようで花を弄んでブラブラしていることがゲオルグに伝わった。脱出を目論んで周囲を観察するような行動ではないから、今にも逃げ出されてしまいそうな不安はそれほどなかったが、彼女が言っていたことと併せて考え、彼女の精神状態の方が心配になった。
『この宮殿は落ちつかないわ』『雨に打たれたい気分だったの』『怖い夢を見て……』
父のこと、皇帝軍のこと、色々な問題を抱えていて忙しいのは確かだったが、一番大切なのは、何の迷いもなく彼女である。
だから彼は、ソニアが落ちつくまで、せめて数日は全ての時間を彼女の為に捧げ、後の事は捨て置くべきかもしれないと考えた。他の事は、どう拗れようとも修正が効くし、それ程拗れるとも思えなかった。だが、ソニアに関しては、彼女の何を失おうとも取り返しのつかないダメージを受けてしまう。どの痛みが深刻かで選択するしかない。
兄として、もっと早くこうしているべきだったと思い、ゲオルグは自責した。そして知らせに来た部下に命じて、ガルデロン伝に彼女に呼びかけるようにした。
小一時間花と対話していたポピアンは、部屋の扉を誰かが控え目にノックするのに気づいた。自分が起きているのを知っているから、気になって来たのだろうと思った。ベッドで眠っていたら、邪魔にならぬよう物音すら立てないはずだ。
監視を通してこちらの様子が解っているのを教えているようなものなのにと考えながら、ポピアンは扉の前でノックに応えた。
「何?」
「お休みの所、申し訳ございません。起きてらっしゃる音がしたものですから」
殆ど音は立てていなかったから、余程耳聡い部下がいるのか、或いは訪問に対する苦しい言い訳をしているのだろう。一先ずポピアンは扉を開けてガルデロンを中に招き入れた。
「寝つけないのでございますか? ソニア様」
「……ええ、具合は良くないんだけど、なかなか……」
「何かお持ちしましょうか? お酒を少し召し上がるとか、柔らかいお茶を召し上がるなどすれば落ちつくのでは」
「……お酒はいいわ。飲むか判らないけど、お茶だけ用意してもらえる?」
「かしこまりました」
ガルデロンはゆっくりと頭を垂れて承知した。
「もし、気分転換されるおつもりがあれば、これからゲオルグ様が遅い夕餉をなさいますので、ご一緒にお茶を楽しまれては如何でしょう? ソニア様さえよろしければ、ゲオルグ様の方からこちらに参られると仰っておられますが」
ポピアンはそうきたか、と返答に困った。ガルデロンはともかく、できるだけ術を見抜かれない為には一番会いたくない人物だ。ずっと部屋で起きているのに彼を受け入れなければ、明らかな拒絶であるし、かと言って彼を寄せ付けないよう茶を飲んで横になれば、眠らずにいるのがとても困難になる。でも、そうして布団の中で目覚めの呪文をそっとかける方が無難かもしれなかった。
だが、一方では今ソニアが何処にいるのかも気になっていた。宮殿を少し歩いて彼女の位置を探りたい気もする。そうすれば、彼女の意図がもう少し知れるに違いなかった。
そこでこうした。
「……気分転換はしたいわ。だから、少し宮殿内を散歩する。それで疲れてなかったら、その後お兄様の所に行くわ。そのままここに戻って寝るかもしれないし」
ゲオルグには会わないつもりでの発言だった。
「かしこまりました。そのようにお伝えしておきます」
そうして、ポピアンは花一杯の部屋を出て宮殿内散策を始めた。監視役とガルデロンがいるから、ソニアの居場所を探りながらも、側まで行くことはできない。距離を保って回り込むように動き、位置を特定しようとした。ソニアの方もよく動いているようだから、突き止めるのは難しかった。
ハッキリしているのは、出入口を探して外周部を廻る動きはしていないということだ。何かを調べて見つけようとしているらしい。ソニア側で失敗して見つかることはあるまいと思っていたが、なるべく警戒を緩くして動き易くなれるよう、ポピアンは自分の方が目立つようにした。色々注文をつけたり、何度も座って休憩を取ってみたりなどしたのだ。多くの魔物達の意識をこちらに引き付けておけば、ソニアの助けとなるだろう。
そのうちに、偶然を装ってやって来たゲオルグとバッタリ出会い、ポピアンはギクリとした。彼の方は「会えるかと思って歩いていたら会えた」と、それほど隠しもせずに微笑んでいる。彼の夕餉に同席して茶を楽しむつもりが彼女に全くないことを、とうに見抜いているのだ。
出会えたことを彼女が全く喜んでおらず、瞬間的に表情を強張らせたので、彼の目の光は沈んでいた。
「……外はまだ嵐だからね。中でばかり過ごしてはつまらんだろうが……あと一晩で嵐は抜けるだろうから、明日には外に出られるよ」
「……お花が沢山あるから、中でも平気よ。ただ……気分が良くないの。それに眠れないし」
「そうか……どうだい? これからオレは食事なんだ。さっきは少ししか話せなかったから、母上のことや父上のこと、それにオレのことを、もっとゆっくり話さないか? 気分転換にもなるんじゃないかな」
彼がとても一緒にいたがっているのが、ポピアンに伝わってきた。今の所は少しも怪しまれていない様子だ。具合が良くないことと、ソニアがずっと静かな抵抗をしていたお蔭で、多少の違和感や拒絶感は全てそのうちの1つとみなされているらしい。ポピアンにとっては好都合であった。
それに、具合が悪いと拒めば、別の意味で面倒そうだった。そうするならベッドで横になるつもりで行わなければならない。
バレることが一番危険だから、付き合うことは避けるべきなのだが――――――ソニアとしてこの男と対話できる機会をポピアンは面白く思い、敢えて受けることにした。
「……いいわね、そうしようかしら。もう少し回ったら、私も行くわ。先に行ってて下さる?」
一時の言い逃れではなく、本当にそうする気のようだと見て取ったゲオルグは、とても嬉しそうに笑みを浮かべた。
「あぁ、わかった、待っているよ。ゆっくり回っておいで」
例え彼女が後1刻も2刻も歩き回ろうとも待っていそうな期待ぶりで、彼はホールに向かって行った。ガルデロンも嬉しそうにしている。
ゲオルグと長時間対面する心構えと準備の為に、ポピアンはもう少し宮殿内を巡り歩き、ソニアが今は階下の北側にいることを確かめてからホールに向かった。
長い、長い通路の至る所にいる魔物達、暗鬼や悪魔や子鬼は、彼女の姿が見えると姿勢を正して杖や鎌を引き、頭を垂れていく。何処に行っても、彼女は女王様かお姫様のような扱いを受けた。
その光景を見ているうちに、ポピアンはまたこの姿を持つ娘のことを思った。
あの男について生きたとしてもこれだけの権力を持ち、しかもトライアという人間世界での郷土では軍隊のトップを勤める将だという。全く、生まれながらに力を兼ね備えた者だ。そして天に召されることがあれば――――――更に驚くべき役目が用意されているのだ。全く大した血筋に生まれついたものである。
外界から遮断され、自然光の射さぬ薄暗い通路。外ではまだ嵐の音が続き、風雨と稲妻が叫びを上げている。この長く続く不穏な道は、ソニアが進まねばならぬ未来の道そのものに思えて、ポピアンは瞳の色を陰らせた。獣面の油灯が列を成して牙剥く迷宮は、こうして歩いているだけで彷徨っているような感覚に取りつかれる。
長い道程の後、ようやくゲオルグの待つホールに辿り着いて、朝のように両脇の悪魔が大きな扉を開けた。ほんの数刻前まで姿を見せぬ状態で他人に意識されることのなかったポピアンは、普段と違うサイズで動き回り、しかも注目を浴びて、自分に対して何かしらの行動が成される度に、一々胸をドキリとさせた。
広間に入ると、朝と同じく硝子越しに嵐の森を眺めているゲオルグの背中が見えた。食事は始めておらず、彼女が来るまでそうして待つつもりだったようで、ワイングラスだけを手にしている。
どんなに待たされても、その時間すら幸せだと言うように彼は笑顔で迎え、「待っていたよ」と優しく言った。
暗雲渦巻くポピアンの胸の中で、少々痛みが走った。
この男も……不幸な奴よ……
ガルデロンはまた2人きりにさせて、自分は厨房に消えた。彼女用の席には既にティーカップが用意されて温められている。本来食のいいソニアが昼食も夕食も摂っていないので、何か摘まむのではないかと様々な軽食も並べられていた。正直空腹だったポピアンは、少し手を伸ばすつもりだった。完全に警戒している訳ではないことを示すのにもいいはずだ。そうすれば監視の手も緩むであろう。
ゲオルグに誘導されて席に着き、ポピアンはふうと溜め息をついた。彼は彼女の額をそっと撫で、体調を診断しながら視線で愛でた。彼女も一時目を合わせたが、すぐに視線を逸らし、ただ口元だけで笑んだ。その陰のある様子を見て彼は手を止め、目を伏せ、俯いた。
「……新しい部屋はどうだい? まだ落ちつかないかな」
「昨日の部屋よりずっといいわ。花が沢山あって、とても素敵。……これでお天気が良ければ、日の光が入って、もっと明るくなって綺麗なんだけど」
「……そうだな、こう嵐が続いてはな」
彼は、花を喜んでいる彼女の頬を撫でて嬉しそうに笑んだ。ソニアにまつわることでこの男が見せる優しさも笑顔も、実に温か味がある。
ポピアンはその様子を見て、惜しいことをしたものだと思っていた。花の美しさを解れるのに、それだからこそ、ソニアを愛でられるのだろうに……。それもこれも、半分は彼女の血を受け継いでいるからなのだが、しかし残念なことに、この男の見た目も生きる世界も、殆どのことは反対のあの男に完全に属してしまっている。憎しみと嫌悪感を催させるこの色、目の光、付き従う部下の種類にこの建物――――――
「今日はいろいろと歩き回ったようだが、どうだったい?」
「……とても広い所だから、びっくりしたわ。こんなに大きな建物の中って初めてよ。植物園も動物園も、見たことのないものが多くて面白かったわ」
給仕が来た所で、彼はカップを温めていた湯をボウルに空けて給仕に渡し、自分の食事の世話より先に茶を注がせた。数種の薬草と花をブレンドした柔茶の香りがフワリと漂って鼻をくすぐり、ポピアンはたっぷりと息を吸い込んだ。
「いい香り」
「人間達もよく飲むリンドロンやミンテスを入れてるよ。これなら慣れてるだろう」
ポピアンはカップを手ずから受け取って、もっと良く香りを楽しんだ。彼女の術がほぼ完璧だから、その姿は何処から見ても、目を閉じてウットリとするハイ・エルフだった。
そんな彼女を一心に見守る彼の眼差しは、妹愛しさで満ちており、奥底の怖れや不安を十分に覆い隠すほどに和やかな空気で包まれていた。
「そう、あの湯浴みをした浴場もとても良かったわ。あんなに広くて良くできたもの、初めて見たわ。温泉っていいわね。体がポカポカするもの」
彼女が柔茶を楽しんでいるのを見届けると、彼も自らの席に移動した。腰かけると、すぐに給仕が手早く料理を運んでくる。
「ここは海底火山がせり上がってできた島だからね。あの浴場の石材は、みんな火成岩なんだよ。だから冷め難くできてる。世界中のいろんな所で、いろんな種類の温泉が出てるが、ここのもかなり成分がいいんだ。かつてはご先祖が滞在中に、魔法や薬でなかなか治らなかった病が癒えたこともあったらしいからね。だから昔は、地上世界の調査拠点というより、湯治目的がメインの別邸としてこの宮殿が使われていたんだよ」
「へぇー」
「ここの設備は、いつでもお前の好きなように使うといい。湯浴みもいつでもできるぞ。1日中あの状態だからな」
ポピアンは、それは嬉しいと言わんばかりにニッと笑って頷いた。これからずっとここにいることを既に決めたような反応だ。とても喜ばしいはずなのに、どうにも鵜呑みにできず、ゲオルグは食事と彼女とをチラチラ見比べた。
何かが違う。彼女から、言いようのない疎外感が感じられた。どこかが、彼女らしくない。《どこが》とは説明できないのだが、彼の好きな彼女の何か、ソニアをソニアたらしめているものの何かが無くなってしまっていたのである。
ゲオルグはそれを、彼女が心の底で彼を拒絶している為だと考えた。トライアを諦めておらず、精一杯彼に偽りの笑顔を見せて、その実、裏では嫌気が差しているのではないだろうか。だとしたらゾッとする。
ゲオルグが、人の何倍もの年月の経験を積んでいるにも関わらず、ポピアンの変化を見抜けずそう考えたのは、その変化ぶりがあまりに見事な為であった。彼女の瞳の色も、髪の色も、肌の色も、声も微笑みも、総てがソニアそのままなのである。しかも彼女はここに来てから体調を崩しているから、これまでの記憶にある健康的な彼女と照らし合わせて見比べることができない。多少違って見えても、自らが施した技のせいだという負い目があるから、余計に直視して疑うことができないのだ。
こんなに近くにいるのに、ソニアが遠くなったように感じられて仕方なく、ゲオルグは憂鬱になり、頭が重くなった。やむを得ないことと解っていても、やはり辛かった。
「……早く……嵐が過ぎるといいな」
「……そうね」
彼女の心を繋ぎ止め、以前のように心から笑ってくれるのなら、それが道具であれ技であれ、魔法や薬であれ、宝石であれ、彼は必死で探し求め、手に入れようとするだろう。
ポピアンはハーブの香り高い柔茶を口に含んでホウと吐息し、また微笑した。
「……お話しして、お兄様。さっき言ってたことを」
「……ああ、そうだね。まずは何が聞きたい?」
「お兄様のことが聞きたいわ。私と別々に……どんな風に暮らしてたのかを」
ゲオルグは、ヴァイゲンツォルトのエングレゴール領地の森にある森番小屋での暮らしから語り始めた。物心ついた時には既に世から隠され、乳母とだけ接触する暮らしであった、あの日々を。
ポピアンは、彼女個人として特別な関心を示し、彼の話に聞き入った。