第3部16章『孤島の宮殿』8
その頃、ポピアンはガルデロンと共に花一杯の部屋に戻っていた。妖精の彼女にとって、この場所は宮殿中の何処より寛げて好きだった。
ソニアを精一杯歓迎する為に手入れが行き届いているから、花の1本1本が活き活きとしている。世界中から集められているから季節感もない。少し息切れしかかっているものを見つけたら、ポピーは誰にも気づかれぬほんの一瞬で少し力を貸して元気付けた。
この花達を見ていると、ゲオルグがどれほどソニアを可愛がっているのかがよく解る。それは、この妖精にとって複雑で、一種の憐れみすら感じることだった。
鏡台に映る、自らが生み出した偽りの姿が悲しい微笑を湛えているのを知って、彼女はつい見入ってしまった。術の出来映えを得意には思いながらも、この姿の娘が背負う宿命に切ないものを感じ、胸が詰まる。
そして、この娘を一心に愛する男のことも思った。ソニアを見守るうちに、実に長いことあの男を観察できて、ポピアンには深く思う所があった。
「さぁ、お座り下さい。御髪を乾かしましょう」
ガルデロンに促されて、ポピアンは鏡台の椅子に座った。彼の言いつけで2人の暗鬼が現れ、呪文で穏やかな炎を起こし、温風を作った。その中でガルデロンがブラシで丁寧に髪を梳くことで、徐々にルピナス色の髪が乾いていく。そのブラシも部屋の豪華さに見合った、傷1つない鼈甲細工のものだった。
「ありがとう、とても気持ちがいいわ」
礼を言われると、ガルデロンはとても嬉しそうだった。ポピアンは、この従者が心底主人に尽くすのが好きな性分と見ていたので、少しでも自らの偽りに気づかれぬよう、彼の意識を喜びに向けさせようとした。
現実がどうであるかは別として、もしソニアが始めから人間と暮らしておらず、あの男と共にここで暮らしていたら、幸せだったのだろうかとポピアンは思った。まぁ、だが、それは有り得ない。そして――――――許されない。
ポピアンは鏡の向こうのソニアを見、その面影の向こうにある人を想い、吐息した。この従者も、あと少しでソニアが消えれば、さぞや激しく落胆するのだろう。どうにか、落ち度を責められぬよう、巧く去ってやりたいものだとポピアンは思った。馴れ合うつもりはないが、この従者にも他の暗鬼にも恨みない。
悪いのは――――――一番悪いのは、今ここにいないあいつなのだ。
「ソニア様は、この後どうなさいますか? お休みになられますか?」
ガルデロンがブラッシングを続けながら尋ねた。ポピアンは、鏡台に載せられた花瓶から黄金色の薔薇を1輪手に取って香りを嗅いだ。そしてホッと吐息する。
「そうね……まだ具合がそんなに良くないから、今晩はもうこの部屋でゆっくりするわ」
先程のように突然飛び出したりはしないかという不安が、明らかに彼の顔に過っていた。
「……さっきは怖い夢を見て、外に出たくなっちゃっただけなの。多分、お兄様の言っていた副作用だと思うわ。お湯に浸かって大分落ちついたから、もう大丈夫だと思う。心配しないで」
「左様でございますか……。何かございましたら、いつでも私をお呼び下さい。ゲオルグ様にもお取次ぎいたしますから」
「……うん、わかった」
そうして温風とブラッシングの心地良さを存分に味わいながら、ポピアンは目を閉じて、ソニアがどうしているかを感覚で探った。まだこの宮殿内にいるようだ。ひとまず、あの浴場を無事に出ることはできたらしい。後はもう、自分の正体がバレない限りは大丈夫だろう。そう思って、ポピアンは小さく安堵の溜め息をついた。
ソニアは広い宮殿1階を歩き回ったが、出入口らしきものは見つからなかった。外の見える窓は幾つか見つけていたのだが、扉はない。どうやら構造上、そのようになっているらしい。何処か別の階か、或いは別の通路から外に出られるのかもしれなかった。
本当に急ぐのなら見つけた窓から無理矢理外に出ればいいのだが、無茶な出方をして見つかりたくはなかったし、まだこの宮殿内に気になる部分もあったので、ソニアはまっしぐらに飛び出そうとは考えていなかった。
途中、何度も魔物達とすれ違い、後にする。彼等はちょっと振り返って首を傾げることはあるものの、それ以上気にも留めないので、今のところ問題なく行きたい所に行くことができた。
どうしよう、出入口を探しつつ、あの場所も調べてみようかとソニアは思った。ポピアンは自分の居場所がわかると言っていたから、まだ宮殿内にいると判るはずだ。ここには謎が犇めいている。自分に知られるのは都合が悪い為、厳重に隠されているものが沢山あるに違いなかった。皇帝軍の一員として、彼が何をしているのかも知っておくべきだ。身内だからこそ、そのことに少なからず責任を感じる。
そこで、散策中に見つけた倉庫を1つ1つ確かめに向かった。うまくすれば何か身に着ける物も見つかるかもしれない。
ソニアはまず2階で見張りつきの要所を1つ見つけて、その場所は初めてだったが足を止めた。吹き抜けになっており、階段の下に2人、階段途中に1人、通路入口にも1人と、かなり人員配備されている。いかにも怪しい場所だった。
普通なら何でもない高さなのだが、今は一飛びで上に上がれるか判らなかった。階段を見上げ、どうしようか暫く悩む。これだけ番人がいる中を、1段1段階段を昇ってすれ違うのはあまりに危険だ。素肌であの大鎌に斬り付けられたら一溜まりもないだろう。
そこでソニアは、できる確信は持てないながら、とりあえずジャンプを試してみることにした。嵐の音と番人達のお喋りで、助走の足音はそれ程聞こえないだろうが、それでも極力歩数と踏み込みを抑えて床を蹴り、舞い上がった。
力が出ない!
ソニアは予想以上に体が言うことを聞かなくて驚いた。体は舞い上がったものの、手摺りを越えるどころではなく、ようやく手が届いてぶら下がることが出来ただけだった。彼女は慌てて体を持ち上げ、なるべく息を切らせにようにして手摺りに乗り上げ、どうにかこうにか上に着くことができた。幸い誰も気づいていない。
ソニアは通路前の踊り場で息を整えて様子を見た。目の前に通路番がいるが、すぐそこに不審者がいることを全く察知していない。ちょっと辺りを見回しているだけである。
足音を忍ばせてソニアは番人の隣を通り、息を止め、冷や汗しながら通過した。少し空気が動いたことを肌が感じて何気なく振り返っただけで、番人はそれ以上気に留めなかった。欠伸までしている始末だ。魔物も人間の兵士のように暇を持て余してダレてしまうのを目の当たりにして、ソニアは苦笑した。
その通路には誰もいなかった。突き当たりで道が右に曲がっており、その先に金属性の頑丈な扉が物々しく待ち構えていた。この宮殿にしては珍しく機能性重視で装飾の殆どないシンプルな造りで、くすんだ赤銅色の扉には手摺り状の取っ手と大きな鍵穴があるだけだった。
ソニアはその鍵穴にそっと手を触れ、僅かな風の感触で内部構造を感じ取った。これならできるかもしれない。ソニアは右手を鍵穴に乗せ、その先にだけ空気を圧縮させていった。可能な限り凝縮させ、空気を固く、重くしていく。そして手を軽く捻り、空気も動くと、カチリと鍵がゆっくり開いた。こうして大概の扉は開くことが出来る。彼女が人前では滅多に見せぬ、隠れた秘技であった。
ソニアはそっと取っ手を引き、静かに、静かに扉を開け、入れる隙間ができるとスルリと身を滑り込ませ、慎重に閉めた。
中は真っ暗闇だ。松明魔法のできないソニアは、代わりに魔法の炎を指先に灯して照らした。よく見ると、そこは本物の倉庫であった。ろうそく1本程度の明かりなので隅々まで見渡すのは難しいが、かなりの高さと奥行きがあるようだ。壁に油灯の彫刻があるので、通常はそこを灯して中を照らすらしい。
進入がバレると面倒なのでソニアは油灯には手を付けず、指先の炎だけで物色した。木箱や紙箱が整然と並び、主に日持ちのする食料や燃料、布や木材が貯蔵されている。内容的に人の出入りが多い倉庫だろうから、早く出た方が良さそうだった。
ソニアは手近な所にカーテン素材かテーブルクロスらしき丈夫な布地を見つけ、手に取って広げてみた。小ぶりでちょうどいい。ソニアはその生成り地に白い刺繍の入った布をサッと体に巻き着けて、当面の着衣にした。彼女の体に巻かれた布地は同じように見えなくなった。傍目には小さな炎が勝手にフワフワと上下して進んでいるようにしか見えないだろう。
ロープも見つけ、それをベルト代わりに腰に巻いて、簡単に脱げないように固定した。これで大分マシになった。
用が済むと、ソニアはまた扉に戻って炎を消し、物音に気をつけて外に出た。助かったことに、閉じれば自然に鍵のかかる仕掛け扉だったので、侵入者の痕跡を残すことなくそこを後にできた。
今度は通路をスタスタと進んで番人を通り過ぎ、一気に手摺りを越えて下の床面に舞い降りる。風のクッションで足音もあまり立てずに済んだ。
通路番は風が吹き抜けていったことを不思議に思い、首を傾げて振り返り、倉庫入り口にまで行ってみたが、扉には何の異常もなかったので、この嵐のせいで何処かから風が吹き込んで来たのだろうと無理矢理結論付けて、落ちついたのだった。
すっかりブラッシングも終わり、ガルデロン達も退出して1人きりとなったポピアンは、花だらけの部屋で戸惑った。ソニアは随分と宮殿内をウロウロしているらしい。出入口がそんなに見つからないはずもないだろうから、どうやら探索に勤しんでいるようだ。
これまでの流れを思えば、それも致し方ないことだった。皇帝軍に関することを少しでも調べようとしているのではないだろうか。何も情報を得ずにただ故国に帰ったのでは、折角の機会を無駄にしているとも言えるから。
これでは、ソニアが何時脱出に移るか解らないので、ポピアンはひたすら待機するより他ない。暫くは花を見て回り、ベッドに腰掛けてソニアの気配を探っていたが、ずっとそうしているのも不自然なので、具合の悪い者らしく、やがてベッドに横になった。
ポピアンもずっと緊張感の続く陰の護衛役として飛び回っていたから、完全に疲労していた。ディライラでの戦いから数えれば、ソニアのような戦闘や服毒こそないものの、彼女よりずっと少ない睡眠時間で目を光らせていたのだ。こうして横たわると眠ってしまいそうで困ったが、ポピアンは極力起きているよう心掛けて、ソニアの気配を追い続けた。
薄暗い部屋の奥、仄かに発光する液体で満たされた硝子槽の前に1人座り、調整に次ぐ調整を行っていたゲオルグは、呼びかける部下の声に気づいて振り返った。
ここには様々な装置や機材が林立しており、慣れていない者は進む道の選択に迷うほどである。その中をスルスルと掻い潜ってやって来たのは、ガルデロン直属の部下だった。その暗鬼はお辞儀すると淡々と述べた。
「ソニア様は湯浴みの後、お部屋で御髪を乾かされまして、今はもうお休みでございます」
「……そうか、ご苦労だった」
湯浴みしてさっぱりした姿でスヤスヤ眠るソニアの寝姿を思い浮かべて、ゲオルグはずっと無表情だった顔をやや綻ばせた。薄紫色に輝く液体の中を気泡が揺らめきながら立ち昇り、その明かりが彼の顔半分を照らしている。この部屋では、暗鬼もヌスフェラートも肌が白い種族に見えてしまう。
「では、引き続き頼む。飲み物もこれまで通りに。それから、警備も気をつけてくれ」
「かしこまりましてございます」
暗鬼はまた頭を垂れて、優秀な部下らしくスッと背筋を伸ばして厳かに退出して行った。
室内は湧き上がる水泡の音で満たされ、リズミカルに永遠の行進曲を奏でている。
ゲオルグは何度目か知れず、この宮殿内に妹がいる喜びをかみしめ、また逆の側面が持つ刃に、それが壊されてしまうことをおそれた。
世界はいつ終わってもいい。だが、彼女との繋がりだけは失いたくない。
一時、彼女の安らかな眠りに祈りを捧げた後、彼はまた硝子槽に向き合い、心を科学者に戻した。
ソニアは別の警護区域に侵入していた。設計も先程のものによく似ている。見張りをすり抜けて鍵を開け、入った先は、そこも倉庫だった。
ここは主に燃料となる物を貯蔵しているようで、油、石炭、蝋等が積み上げられている。爆薬らしき、炸裂する炎のマークの描かれた木箱や樽までがあったので、ソニアはなるべく魔法の炎を使わずに中を探った。ここは火を持ち込まずとも中が見られるよう、始めから熱のない照明が使われて最低限の視界を確保してくれていた。
使い方の解らない鉄球や鉄箱もある。さしあたって必要はないので、ソニアはそこもすぐに後にした。
ガルデロンに見せてもらった、あの内部図を持ち歩きたいものだが、模型のあったあの部屋に辿り着くことさえ難しかった。部屋の前の広場を見つければすぐに判るが、そこが何処にあるのか全く解らないのだ。とにかく進めるだけ進んで、出会った場所で侵入を繰り返すしかない。
2階を廻っても、出入口らしき物にはとんと出会わなかった。ここにはそもそも出入口は存在していないのだろうか? 外への出入りは流星術や飛天術のみで、発着台しか用意されていないのだろうか?
廻っているうちにまたソニアは疲れてしまい、番人の気配が少ない一角の石階段に腰掛けて休憩を取った。
ポピアンはどうしているだろうかと考え、あまりこの探索に時間をかけてもいられないと思うようになる。浴場で見た彼女の変化は完璧だったが、長時間自分に成りすますというのはきっと困難に違いない。その為、彼女自身が自室での休息を願って1人きりになるだろうから、今晩はまず安全だろうが、朝を迎えるのは避けた方がいい。だから、こうしていられるのもあと数刻のことだった。
もしポピアンの変化がバレて捕らえられるようなことがあったら、彼女がどんな目に遭うか解ったものではない。そんな危険を冒す訳にはいかない。
額に手を当て、目を閉じていると、一瞬、またあの啜り泣きが耳を掠めたので、ソニアは顔を上げ、辺りをよく見回してみた。
番人が近づいて来る時は先に気配に気づいて、その後から足音や話し声が届いて来るものだが、この啜り泣きは音も気配も半々ずつ同時に飛んで来るような感覚だった。
確かに泣いている。夢なんかではない。そして近くにいる。
ソニアは確かめたくなって立ち上がり、声の在り処を探し始めた。風に乗ってやって来る隣町の祭のように、切れ切れで掴み所がない。
この宮殿のどんな謎より、今のソニアには、この声の正体を突き止めることが一番重要だった。これを解決せずに脱出することは、心の消化不良を起こしそうなのだ。
階段を上がり、角を3つ曲がった所で、通路の先を白いものが過った。この宮殿に白い者はいないから、あれだとすぐに解りソニアは後を追った。
油灯の炎がチラチラと揺れる暗い通路を、姿のない者が神出鬼没の白い影を追っている光景は、何とも奇妙で幻想的だった。風と風の追いかけっこのようでもある。嘆きが掠れるように飛んで来ては、それを追うソニアの動きで油灯の炎が弄られ、光を震わせる。
そのうちに、遂にソニアは今までで一番ハッキリと白き者の姿を目に捕らえた。紛れもなく長い直毛を持つ薄い衣を纏った娘が、通路の突き当たりでスッと扉に当たり消えてしまったのだ。
ソニアは立ち止まって目を疑い、おそるおそるその扉に近づいた。最初から閉じている扉で、穴が開いている訳でもない。あの影はここを通り抜けてしまったのだ。
監視役の魔物も通り抜け術を会得していたから、同じ技を持つ魔物の一種なのだろうか? それとも、完全なるエネルギー体――――幽霊なのだろうか?
ソニアは、その扉を開けてみた。そこは客間らしい寝室の1つだった。昼間ソニアが休んだ所とは違うが、天蓋付きのベッドがあり、窓から射し込む雷光だけが唯一の照明で、途切れ途切れに中の様子を見せていた。
ベッドに突っ伏して、誰かが泣いている。
ソニアはゆっくりと近づいて行った。姿も消しているし、声もかけていない。それに扉が開いたことにすら気づいていない様子なのだが、その白い人に近づいて行くと、それだけで悲しみと恐怖とが流れてきて彼女を包み込み、それが体内に染み込んで来るのが解った。
すると、その悲しみを共有した為か、その人物は姿の見えないソニアの存在に気づいて顔を上げ、目が合った。
やはり娘だ。髪が長くて、耳も長い。
その瞬間、ソニアは気が遠退き、感覚を失った。
『来ないで! 来ないで!』
『……落ちついて、話を聞いてくれ』
『あっちに行って!』
『……心配しないで、怖がらないで』
『いやあぁぁあああっっ!』
恐怖と叫びが一気に押し寄せて目覚めると、彼女はまたゲオルグの視線から必死で逃れようと、部屋の隅に体を縮こめていた。同じ夢を繰り返し見ているようだ。だが、とても生々しくて、手足には絨毯や壁のザラリとした感触があるし、古い家具の匂いまでが鼻を刺激していた。
ここまで怯え、おそれる必要もないくらい、目の前のゲオルグは穏やかな視線を向けているのに、それでも説明のつけられない恐怖が心の奥底から溢れ出て噴出していた。
『……君に協力して欲しいんだ。話を聞いてくれないかな』
『いやあぁぁぁぁあああああっっ!』
彼女は激しく泣き咽び、髪を掴んで顔を伏せ、暗闇に隠した。
顔を上げる毎に部屋の花が増え、戸口に立つゲオルグは同じ調子で同じことを彼女に語り続けている。彼女が拒む限り部屋の中には入って来ないのだが、段々と彼の目は暗くなっていく。彼女の方も、当初ほど騒がずに身振りだけで彼を拒絶するようになっていく。
最後の方には、儀式化された定番のやり取りでしかなくなっていた。彼女は決して彼の話を聞こうとしないし、彼の方も進展がなければ現状を維持するつもりしかないようだった。どちらかが根負けするのを待つ、長い冷戦の状態だ。
彼女はいつも天に祈っているのだが、この場所は特別なバリヤーがあるようで、仲間とのやり取りも全く出来ないし、何の助けもやっては来ない。
日に日に、彼女の希望の光は費えていった。
彼女はソニアではなかった。別の名を持つ、別の娘だった。鏡に映った自身を見た時に、ソニアはようやくそれに気づいた。
そこに映っているのは、違う顔の、もう少し若いハイ・エルフだった。恐怖と悲しみの為に頬が痩せこけてしまっている。
追い詰められた小動物のように、怯えが過ぎて狂気の兆しが目に宿っていた。戦で家族を失ったり、過酷な体験をした人が、心の病に陥った時の様子に似ているとソニアは思った。内にも外にも無数の刃が飛び出して、彼女自身をも傷つけている。このままでは傷が深まるばかりだ。
ソニアは殆ど彼女になっているので、彼女の心をそのままに感じ取っていた。だが、遠い所で傍観している自分もいて、その自分はこの現状に苛立っていた。こんなに警戒しないで、ゲオルグの話を聞いてあげればいいのにとも思うし、ゲオルグにも早く彼女を解放してあげて欲しいと思っていた。戦の虜囚でもあるまいに、どうしてこんな敵対関係を築いているのかが、ソニアには解らなかった。
ハイ・エルフの清らかさを知っているから、この娘が自業自得な環境にいるとは思えないし、ゲオルグの優しさも知っているから、それなりの理由もなくハイ・エルフの娘を監禁するとは考えられない。だからこの夢は、全くの謎だった。
雷鳴と稲光でソニアは元の暗闇に立ち戻った。白い影と同じく、ベッドに突っ伏す格好で膝をついている。娘の姿はもう何処にもなかった。
これは、あの娘の夢との共鳴なのだろうか? 娘の世界とこちらを行き来する度に酷く消耗し、全身に汗をかいていた。用意されたものを口にしないようになって少し時間は経ったが、まだ影響は残っているので、ますます体は重く感じられた。
これ以上疲労し、脱出する力を失ってはならないと思うが、次第に明らかになるこの娘の存在を知ってしまったことで、尚のこと宮殿を離れることが出来なくなってしまった。
この娘はどうしたのだろう? 一体何があったのか? どうしてここにいたのか? 死んで幽霊になり彷徨っているのか? それを確かめずに去ることはできない。もし、まだ何処かに閉じ込められているのなら、連れて一緒に逃げてやらなければならないだろう。姿の見えない今を利用して、探せるだけ宮殿内を探索しなければ。
ソニアはフラフラとしながらその部屋を後にした。