第3部16章『孤島の宮殿』3
翌朝、狂風に激しく叩かれて叫びを上げる雨戸の耳障りな音でソニアは目を覚ました。風の悲鳴と雨戸の金切り声が、ひっきりなしに続いている。ずっとこの音を聞いて眠っていたのかと思うと、頭が重く感じられた。体全体もだるい。
長年体を鍛えてきた彼女は、戦闘などで消耗しても、一眠りしてよく食べればスッキリ回復する健康体だったのだが、あれほど眠った後だというのに、胴体四肢が全てシャッキリとしなかった。首や肩も動かして具合を見てみるが、いつものように力が入らない。体を酷使し過ぎて筋肉がパンパンに膨れ上がった時の感じとも少し違う。まだ、あの眠り薬のショックが残っているのだろうか。
雨戸を開けて外を見てみたかったが、止めた方が良さそうなので、天候は想像するだけにした。外が見られないので時刻もわからない。今は何刻くらいなのだろう。
すると、早々に耳元でポピアンの声がした。
「おはよう、ソニア。あんまり調子良くなさそうね」
ソニアは溜め息でそれに答えた。
「……昨日、エリア・ベルに連絡が取れないか試してみたんだけど、この島全体に魔法がかけられてるみたいで出来なかったの。助けは呼べないみたい。だから、あたし達で何とかしなきゃね」
「何とか……しなきゃ……」
ソニアは怪しまれない程度の独り言でそう答えた。
喉の渇きを覚えてソニアはゆっくり立ち上がり、卓上の呼び鈴を鳴らした。体調を表すように主張の小さな冴えない音になってしまったので、もう一度強く鳴らすべきかと思った時、向こうで誰かが動く音がしたので鈴を下ろした。驚くほどの耳聡さだ。獣並みではないだろうか。
足音が近づいて来る。そして扉の前で止まった。
「おはようございます。お目覚めでございますね」
「おはよう、ガルデロン。何か飲み物を持って来てくれるかしら」
「はい、かしこまりました、ソニア様」
そうすると、別の足音が長い廊下をやって来るのが聞こえた。その者が扉前で止まり、物を手渡すカチャカチャという音がした後、錠が下ろされて扉が開き、ガルデロンが姿を見せた。その手にはもう飲み物一式を持っている。実に速い連携だ。王宮の召し使いに勝るとも劣らない。
丁寧なお辞儀をしてからガルデロンは入室し、卓にトレーを置く。まずは洗顔用のボウルと水の入ったピッチャーを下ろし、それから振り返ってソニアの前にトレーを置いた。トレーから足が出て、簡易テーブルに変身している。そこには冷たい水の入ったグラスと、熱いお茶の入ったポットとカップが並んでいた。グラスもピッチャーもカットが細やかで、ポットとカップは紋様が緻密な陶器製品だ。どちらも国王や国賓の食卓で使用するようなクラスである。何だか、自分がお姫様にでもなったかのような気分だ。
ガルデロンは形の崩れたクッションをポンポンと1つずつ叩いて形状を戻し、くしゃくしゃになった上掛けもたたんで、その上に載せた。ソニアはその様を眺めながらグラスの水を飲み、次にポットからカップへ茶を注いで、少しずつ口にした。
ガルデロンは整えを済ませると、次の命令を待って静かに直立した。ソニアは顔も洗い、ボンヤリと熱かった頭を冷やした。用意されたタオルは植物香がして爽やかだ。彼女に気を遣って色々と手の込んだことをしているらしい。
顔を拭きながらソニアは言った。
「……私、外に出たいわ。散歩がしたいの」
「かしこまりました。それでは、お召し変えをされては如何でしょう」
ガルデロンは洋服棚を開いて中を見せた。中には数着のドレスが並んで下がっている。
「急ぎご用意したものですので、お気に召されますかどうか……。お好みのものがなければ、お申しつけ下さい。新たにご用意致しますから」
ソニアは洋服棚の中を見た。1着1着、どれもきちんとサイズを測ってから調達したらしい。全く、いつの間にこれだけのことをしたのだろう。
ここにあるのは、人間世界の貴人が身に着けるドレスより、やや派手なものが多い。どうやらヌスフェラート世界の仕立てのようだ。トライアでの普段着は亜熱帯域らしく肩も脚も出ていて、それを腰で帯留めしているだけの動き易いものだったから、ここにあるドレスは馴染めそうにないものばかりだ。生地の重量だけで、何倍もありそうである。
ソニアは一番シンプルな肩の開いたドレスを選び、手に取った。上は開放的なビスチェだが、下は裾の長いサラサラのロングドレスで、走ったり馬に乗ったりするのには面倒そうな、シルク素材の水色のドレスだ。
「……私、こんなに長いのは着慣れてないの。もっと動き易いものを用意してもらえる? 今のところはこれを着るから」
「かしこまりました。では、もう少し丈の短いものをご用意するように致します」
「これ……選んだのはお兄様?」
「いいえ、あの方はお忙しいので、ドレスを用意する命だけを賜りまして、私が使いを出しました。エングレゴールのお嬢様に相応しいものを調達させましたが、お気に召されなかったのは大変残念でございます。申し訳ございませんでした」
「……いえ、いいのよ。それよりエングレゴールって?」
ガルデロンは目を丸くして「おや」と大層驚いた。
「これは……まだご存知でらっしゃらなかったのですね。エングレゴールは、ヌスフェラート界での名門に当たる一族の名でございます。お父上はゲオムンド=ディオ=ド=エングレゴール様。現在の当主であらせられます。ゲオルグ様は唯一のご子息であり、ソニア様も唯一のご息女でらっしゃいます。あなた様の本来の正式なお名前は《ソニア=レジエナ=ド=エングレゴール》なのでございますよ」
ソニアは他人のことを話しているようで実感がなく、ドレスを手に暫し呆然とした。そしてやがて、「そう」とだけ言った。
ガルデロンがドレスに手を伸ばして着替えを手伝おうとするので、1人でやるからいいと、ソニアは彼を下がらせた。女性だから女の従者を寄越すという発想はないらしい。これは後で知るのだが、この島には女性と呼べる従者は他に誰もいないのだ。
ソニアは着慣れぬドレスをどうにか着てみせ、胸元の紐をギュッと縛り上げ、リボンも結んだ。そして薄いストールを肩にかけた。
着替えが済んだと声をかけると扉は開かれ、ガルデロンが手を差し伸べ、外へと誘導した。
「大変お似合いでございます。さぁ、どうぞこちらへ」
大して警戒する素振りも見せなくて、部屋から出るのはとても簡単だった。何だか拍子抜けしてしまうくらいだ。この部屋に閉じ込めていたのは、自分が勝手に出てしまうことを防ぐ為ではなく、自分に危害を及ぼす侵入者の方にこそ警戒の重きを置いていたのかもしれないとソニアは思った。
廊下は左右にとても長く、定間隔で油灯が通路を照らしている。番人は扉脇に1人と、右手通路の遠い突き当たりに1人見えるだけだ。
すると、その通路の向こうから別の魔物が早足にやって来て2人に一礼し、ガルデロンの耳元で何かを告げた。槍を手にした鎧武装の獣である。「わかった」とガルデロンは答えた。仲間同士の疎通も人間語と同じようだ。
「ソニア様、お散歩の前に朝食を摂られてはいかがでしょうか。只今、ゲオルグ様がダイニングにいらっしゃるようなので、もしよろしければご一緒に、とのことです」
鎧姿の番人は、見慣れぬ白い人をまじまじと観察している。そして大変緊張していた。扉の番をしている暗鬼の反応も同じだ。主人が1人増えれば、それは身構えてしまうであろう。何せ、今までに見たこともない白い娘であるし。
ソニアは、ここは受けるのが自然か、断るのが自然かを少し考えてみた。可能な限り兄を説得する試みは続けるべきだと思うし、彼の生活パターンを知った方が脱出の方法が見つかり易いかもしれなかった。
「……わかったわ。すぐに行きます。お兄様にそう伝えて」
獣は槍を手に会釈をし、くるりと踵を返して足早に通路を戻って行った。
ソニアの返答にガルデロンはホッと顔を緩ませた。昨日の2人があまり旨くいっていなかったのを知っていたのである。兄と妹が、出来るだけ側近くで穏やかに過ごしてくれるのなら、それに越したことはない。
「……ゲオルグ様が誰かとお食事をされるなんて、いつ以来のことでしょう。偶にいらっしゃる旦那様とされることがあるか、ないかといったところですから」
「……ゲオムンドというお父様のことね? ……今度はいつ頃いらっしゃるの?」
「さぁ……突然にやって来られる方ですから。お帰りも早いですし」
ゲオルグは否定していたが、刺客を差し向けた張本人がその男である疑いがどうしても捨て切れないソニアは、もしその人が今ここにやって来たら、ますます状況が悪くなりそうな気がしていたので、できるだけ現れないで欲しいと思った。
「では、ご案内します。こちらへ」
ガルデロンに連れられて、ソニアはゲオルグが待つダイニングとやらを目指した。
長い通路の先にはまた通路、そして広間に出てはまた通路の繰り返しで、内部は迷宮のように入り組んでいる。その角々には時折、武装した警備の者がいるのだが、城などと比べれば無防備に等しい体勢である。人間と違って侵略される側ではないから、その必要もないのだろう。昨日の説明では、ここは絶海の孤島らしいから、あるかないかの侵入者に対して大雑把な警戒だけすれば、それで事足りるのだ。
警備役に多いのは、背に翼を持つ、ヌスフェラート以上に悪魔に近い様相をした魔物だった。目は白目の部分と瞳との区別がない真っ黒なもので、先が針のように尖った尾を持っている。頭髪は全くないから暗鬼族の方に近いのかもしれない。彼等は槍や大鎌を手にしており、よく手入れされた切っ先は鏡の如き強い光を放っていた。
虫達の王国では虫達が警備を務めており、他種族の影は見当たらなかったから、この様に異なる種族を従えているのはヌスフェラートだけなのかもしれない。
何処の壁にも魔物顔の油灯が浮き出ていて、目と口から光が漏れている。ソニアは軍隊長の時と同じ抜かりのなさで行く先々をチェックし、屋内構造と警備体制を頭に納めていった。平静を装っても眼光だけはどうしても鋭くなり、戦士然とした精悍さが滲み出てしまう。
見る限り、自分がここを脱出しようとすることへの警戒は殆ど成されていないようだった。島から出られないと信じきっているのだろう。それに、ポピアンの言っていた、姿の見えない監視役がいるだけで十分と考えられているのかもしれない。
「……随分と広いのね」
「この宮殿は、この島の4分の1を覆うほどに広がっております。全てが8階建てではありませんが、各階層の面積分も合わせれば、住空間はその何倍にもなります。ここへいらしたばかりのソニア様では、お1人でお歩きになると、道に迷われてしまうかもしれませんね。私は長年暮らしておりますから、隅から隅まで把握いたしております故、暫くは私をお連れ下さい。何処へなりとご案内しましょう」
「どのくらい長く住んでいるの?」
「ゲオルグ様やソニア様がお生まれになる前からでございますよ」
彼はサラリとそう言った。では、この人は当然ながら自分より年上であり、この建物も相当年季が入っているのだろう。ソニアは感心して「へぇ」と声を上げた。年季と広さの分、おそらく山ほどの秘密や技がここにはあるに違いない。
「……私の部屋を用意してくれると聞いているけど、それはもう終わっているのかしら?」
「もう暫くかかるでしょう。申し訳ございません。昨晩もあのようなお部屋で。本日中にはご用意致しますから」
「いえ、いいのよ。もしまだだったら、できれば森の見える部屋にしてもらいたいと思ったの」
「左様でございますか、かしこまりました。森と海が見える、いいお部屋がございますので、そちらにするように致します。きっとお気に召されるかと」
「ええ、お願いするわ」
衣裳だけでなく部屋に関しても注文をつけるくらいなら、ここでの暮らしを前向きに考え始めたらしいらしいと受け止めて、ガルデロンはニッコリとした。ソニアが喜べば、ゲオルグが喜ぶ。もっと、もっと喜んでもらいたいと思う。
長らく通路と広間を通り過ぎて、トライア城の端から端まで歩いたと思える頃、ようやく2人は大きな扉の前に到着した。天井が高いから扉の高さもかなりあり、人を縦に5人くらいは連ねられそうだった。暗色漆がけで、ヌスフェラート世界の神話らしき彫刻がビッシリと施されている、大した作品だった。
左右、上下で4区分されており、それぞれの世界に4大要素の神と思しき者が描かれている。ハイ・エルフの村での創世記と、この扉が語る世界創生神話に大きな違いがないのだろう。
扉前には深い臙脂色の絨毯が敷かれており、この場所が重要人物以外の立ち入りを拒んでいる雰囲気を見事に演出していた。
扉の両脇に立つ大鎌の悪魔2人が、ガルデロンとソニアを認めるや、恭しくお辞儀をして、ゆっくりと扉を開いた。その大きさから想像される重量のわりに、扉の開く音は驚くほど静かだ。設計も施行も完璧に精密で、経年変化による歪みもこまめに微調整されているのだろう。さすが、ヌスフェラートの技術は隙がないとソニアは思った。
「――――――ソニア様をお連れ致しました」
扉の向こうは同じく天井高く奥行きのある空間で、シャンデリアが絢爛に輝き、突き当りには下から上まで総硝子張りの窓が広がっており、全面的に島の景色を見せていた。
岩壁に波が打ち寄せ、雨が硝子を叩きつけているので、今は滝の向こうの世界を見るようだ。硝子が割れることをおそれて板で補強するようなことは一切していない。特殊な魔法技術で守られているか、硝子自体が強化されているのかもしれない。空の色はどんより暗い鼠色だ。
縦長の空間中央には縦長のテーブルがあり、背凭れの高く細長い椅子が幾つも並んでいた。硝子窓を背にする1席にだけ、特別豪華な金装飾と革張りの椅子があって、一目で当主の座と判る。
その席の傍で、ゲオルグが立ったまま硝子窓越しに外を眺めていたが、すぐ2人に気づいて振り返った。まだ食事はしていない。彼女が来ると聞いて待っていたのである。
昨日の今日だから、これまでの出会いのように笑顔で迎えることはできず、彼は緊張と気遣いで一杯の顔をしていた。そしてその中に、彼女がここに来てくれた喜びが少し混じっている。
彼はドレス姿でやって来た彼女のなりに目を奪われ、息を飲んだ。シルク光沢のドレスは彼女の瞳と髪の色に合って、しかも白い肌を引き立てて眩いばかりだった。髪も垂らしているから、ヌスフェラートのドレスを着ているとは言え、全くエルフそのものである。
ソニアは反抗的な表情は見せず、しかし怪しまれないよう眼差しまでは警戒を解かず、口元だけを少し笑わせてみた。
「……おはよう、お兄様」
すっかり見とれて言葉を失っていたゲオルグだったが、やがて柔らかく笑みを広げた。
「…………素晴らしい……とても、よく似合っているよ、ソニア。……いや、本当に、これほど美しいご令嬢は見たことがない」
ソニアはガルデロンに連れられて窓辺にまで行き、改めて間近でゲオルグと見つめ合った。彼女の警戒を心に留めつつも、彼は衝動に抗えず、そっと彼女の髪を撫でた。
「一度でいいから……こんな格好をさせてみたかった。戦士じゃなくて、エルフのような」
彼の目は本当に優しかった。まだおそれが心の内にありながら、それでもソニアは心が痛んだ。これから、この人の目を盗んで逃げるのだ。その時、この人はどんなに悲しみ、傷つくだろう。
だからソニアは、先ほどガルデロンに頼んだ服の他に、このドレスも残しておいて、滞在中に着る機会があれば、また来てあげようと思った。一番の望みは叶えてあげられないのだから、せめてこのくらいは応じたい。
ソニアはゲオルグの案内で、当主席のすぐ左脇にある席に着いた。彼はその向かいの、当主席右脇に着いた。双方とも当主の次席に当たる座である。最高の上座は当主ゲオムンド用として空けているようだ。
すぐに食事の世話をするヌスフェラートが出てきて、2人に会釈した。皿や飲み物が運ばれて来る間に、ガルデロンがゲオルグと簡単に話をする。ソニアがドレスや部屋に対してつけた注文を報告すると、ゲオルグは「そうか、そうか、確かに」と笑み、その通りにするよう命じた。彼女が注文をつけてくれるのは、ガルデロン同様、彼も嬉しいのだ。
「散歩か……。今日はこの通りだから、宮殿の外に出るのは止めておいた方がいいだろう。食事が済んだら、中を見て回るといい。外のように植物が生えている所もあるし、水が流れている所もある。面白いと思うぞ」
「……えぇ、そうするわ」
「ガルデロン、案内を頼む」
「はい、仰せのままに」
その後、ガルデロンは2人の食事の邪魔をせぬよう退いて自分も厨房に行き、給仕役に回った。
料理長のヌスフェラートは年配で、目の隈の入り方が独特な小男である。左側だけ下方に伸びて涙のようになっていた。ヌスフェラートの隈には人それぞれ生まれつきの違いがあるらしい。
その男とガルデロンとで次々運ばれ、並べられる料理は、基本的に人間のものと大きな違いはなかった。ウリケラで彼は人間の食事をしていたから、勿論問題ないのだろう。穀物、豆、肉、野菜、卵など、様々な食材が使われている。
メニューによっては、2人の皿を見比べた時にソニアの方にだけ盛られているものがあったが、それはトライアでの慣れや好みを配慮してのことらしい。そして、歓迎を表する装飾として、食べ物を細工した籠や蓋の他、植物や動物を模したものが添えられていることもあった。
彼女が気だるそうにしているので、ゲオルグは首を傾いで心配した。目つきは医師のような観察眼になり、彼女の体を透かして中まで見るような仕草をしている。
「……体調はどうだい? よく眠れたのかな?」
「……あまり良くないわ。体が重いの」
「そうか……あの薬がまだ影響しているのかもしれない。そのうち良くなると思うが、あまり続くようなら言ってくれ。すぐに診るよ」
硝子の壁には雨が激しく打ちつけ、滝の途切れる間がない。こういうのも美しいものだとソニアは思い、度々外に目をやった。そして、その向こうの、遠い、遠い国を思った。
「トライアは……」
ゲオルグの手がピクリと止まった。彼の気分を害するであろうと解っていて、ソニアは続けた。
「トライアは……今が乾期の始まりで、これからたくさん花が咲き、とても美しいのよ。そうしたら、祭の準備が始まる。王様は……祭が大好きだけれど、今、とても具合が悪いの」
エアルダインの地球儀を通して見た、顔色の悪い王の姿が思い出され、ソニアは苦しく目を閉じた。
「私のことを心配して……どんなに心痛めてらっしゃるかしら……王様……」
ゲオルグは、ソニア同様すっかり食事の手を止めていた。そして辛そうな彼女の様子を見て、そっと吐息した。
「あの方……こう言うのよ。私が側にいる時は体調がいいから、『守護天使は病も撃退してくれるんだ』って……」
彼は乱暴に怒り出したり無理矢理止めたりせずに、また、彼女の独り言に付き合って里心を強めるようなこともしなかった。暫く放っておき、やがて一言呟いた。
「……早く忘れるんだよ」
2人に時間があれば、こうしてゆっくりプレッシャーをかけながら、どちらが根負けするか試すことができるのだが、そんな余裕はない。それがソニアには残念だった。でも、少しでも心を懸けてくれないか、願わずにはおれなかった。
今はただ、自分がここを出て帰り着くまで、トライアが無事でいてくれることを祈るしかない。
食事が済んだ後、ゲオルグはもう一度ガルデロンと打ち合わせてソニアを頼んだ。そして彼女と向かい合い、そっと頬を撫でた。彼の瞳は苦しそうだ。
「……早く、ここに慣れてくれるといいが……」
ソニアが目を逸らして顔を背けてしまったので、彼は今一度、愛を示したくて優しく抱き締めた。ソニアも、それには抱き返して応えた。
「お前が……こうして無事でいてくれることは、何よりありがたいよ。太陽が昇るより、風が吹くより、ずっと大切だ」
ごめんなさい。でも、私はここにはいられない。ソニアは心の中で謝り、既に別れの言葉を述べていた。
もう一度、彼は間近で彼女の顔を覗き、笑みを浮かべる。
「夕方までには、お前の部屋を整えるようにしよう。……そうだ、お前の好きな花で飾るのもいいな」
ソニアは薄い笑みでそれに応えた。
「オレはこれから仕事がある。何か用のある時は、すぐに呼んでくれ。では頼んだぞ、ガルデロン」
「かしこまりました、若様」
そう言ってガルデロンは頭を下げると、またソニアを連れ立ってホールを退出した。
美しいルピナス色の髪と白い肌が消えて見えなくなるまで、ゲオルグはソニアの後ろ姿を目で追い、見送った。
大きな扉が音静かに閉じられ、再び1人きりとなると、室内は一層静まり、窓の外の嵐がより耳に響くようになる。風の叫びと滝のような雨は、誰かが外で大泣きしているかのようだ。
1人佇んでいたゲオルグは、そっと言った。
「……ディスパイク、ソニアの様子はどうだった?」
すると、その声に応えて、壁から生えるように魔物がぬうっと現れた。数百の蛇を集めて、暗黒の靄で繋ぎ止めたような姿の者だった。真っ黒い蛇が各々シュルシュルとのたくり、細い2股の舌を覗かせている。闇の中心には巨大な1つ目があり、その虹彩は血の様に赤く輝いていた。
胴体四肢の区別がない魔物は、目を閉じて礼に代え、敬意を払った。
「特に変わった事は何もございませんでした。朝お目覚めになるまでは、ずっとお休みでしたし、お目覚めの後すぐにガルデロンを呼ばれました。ゲオルグ様とガルデロン以外の者とは一切口を利いておりません」
「……そうか、引き続き頼むぞ。妖精がこの場所を嗅ぎつけている可能性がある。必ずソニアを探して助け出そうとするはずだ。まさかとは思うが、エルフまでもが助けに来るかもしれんし」
「はい、心得ております。一時も目を離さない所存でございます」
「……妖精は姿を消す術を持っていた。あいつ等の力は侮れん。目に見えるものだけが敵と思うなよ、ディスパイク」
「はい、承知してございます」
ゲオルグはまだ、ソニアが去った後の扉ばかりを見つめていた。その瞼が切なく伏せられる。
「……ソニアがそう簡単に諦める訳がない。助けがなくても、1人で事を始めるかもしれん。何か徴候があったら、すぐに知らせてくれ。どんな事でも」
「承知いたしました」
数百の蛇は再び壁の中に沈んでいき、姿も気配も消えてなくなった。ゲオルグは嘆息し、不安を残しつつ、彼の行くべき所へと向かって行った。




