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Sonja〜ソニア〜  作者: 中島Vivie
第16章
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第3部16章『孤島の宮殿』1

 目覚めたソニアが最初に見たものは、荒い岩肌が剥き出しの壁と、トロトロと燃える油灯の炎であった。魔物が壁から頭だけ出している様に見える、牙剥く鬼面の型をした油灯には目立った油管らしきものは見当たらず、何処から灯油を引き込んでいるのかよく分からない。人間世界にはない技術だ。

 意識はまだボンヤリとしており、彼女はまず、目に映る物を何の気なく眺めた。ずっと向こうに壁が見える。長い通路の先にある行き止まりのようだ。そこに照明はないが、窓があって薄明かりが射し込んでおり、それで仄かに奥が照らされているのだ。

 彼女は横たわっていた。ようやく自分でもそれに気づく。通路の突き当たりの壁と思っていたものは、天井だった。中が空洞か、或いは中心部に空洞がある塔の下にいるような景観だ。壁は何処も曲面を成していて丸く、天井も円形だった。

 首を傾ければ、人の高さの所にもう1つ窓があるのが見えた。そこはかなり頑丈な金属格子で仕切られている。その隙間から、暗い空と星の瞬きが見えた。どうやら夜らしい。

 ソニアはゆっくりと身を起こした。体にうまく力が入らず、手も腕も震え、ようやくバランスをとって起き上がることができた。夢の中で体を動かそうとしても、それが上手くいかない時の感覚に似ている。

 床に座った状態で、彼女はもっとよく辺りを見回してみた。円形の床は、普通の部屋1つ分の大きさである。窓は2つ。出入り口の扉は2つ。1つは大きくて頑丈そうな鉄製の扉。もう1つは木製の小振りなものだ。今座っているのは床の中央で、そこには沢山のクッションが山と積み上がっている。今まではこの上に凭れていたのだ。その幾つかがクシャクシャと凹んでおり、ゆっくり形を元に戻そうと膨らみかけている。

 壁際には木製の卓と椅子、そして小さめの箪笥が2つ並んでいた。どれも壁の曲面に合わせてぴたりと嵌っている造り付けの品だ。それらには暗色のニス掛けがされており、油灯の魔物に似たデザインの装飾が取っ手や足に施され、魔物の目にはルビーが埋め込まれ輝いていた。重厚な仕上がりである。いかにも高価そうだ。

 そのルビーの目を見ているうちに、ソニアの意識は、ようやく霧が晴れるようにすっきりとしてきた。そして自分の身に起こった事、最後の記憶を思い出した。

 強烈なショックに襲われて、瞬間的に体を強張らせ、痛々しく目を閉じる。

 和解点を見出せなかったあの言い合い。涙。抱擁。そして……

 ソニアは自分の項を触ってみた。あの焼け付くような痛みを感じた部分には、傷痕らしき手触りや痛みは何も残っていなかった。もう治療をしたのだろうか。

 あれは、一体何だったのだろう……。

 ソニアは、その痛みを感じていた時に見たゲオルグの顔を思い出した。あの眼差し。泣きながら自分を見下ろし、でも決意に満ちて真直ぐだった、あの翠玉色の炎。

 どうしてこうなってしまったのか、彼が何をしたのか、自分がどうなってしまったのかは、まだ解らない。とにかく彼と別れることはできず、トライアへの道がまた遠退いたことは確かだった。

 ソニアは膝を抱え、深く、深く吐息し、顔を伏せた。ようやく彼を実の兄と知ったのに、早速訪れたのは喜びではなく、こうした苦しみだ。人々を、トライアを守る為には皇帝軍と戦うしかないのと同様、彼とも戦わなければならないのだろうか? そんな事だけは、絶対にしたくなかった。例えアイアスに命じられても、頼まれても、そればかりはできない。

 他に方法はないのだろうか。彼と戦わずしてトライアに帰る道は……?

 痛みや傷無しには成し得ぬという答えにしか行き着けず、やがて涙が溢れて、はらはらと流れ落ちた。

 そうして涙を拭ううちに、ソニアは自分の着ているものが変わっていることに気づいた。彼女はビヨルクで貰ったズボンとチューニックをずっと身に着けていたのだが、今は白いワンピースを着ている。フリルやレースの多い、ネグリジェに近いものだ。

 髪も、ポピアンの魔法で編み込まれていた形は解けて、垂れるままになっている。あの服も、精霊の剣も、覆面代わりに使った後で頭に巻いていた布も見当たらない。

 慌てて手探りで体中を調べてみたら、元々持っていた物で残されているのは、彼女が物心つく前から額に巻いている刺繍入りの細紐と下着と、形見を入れて首から下げている小さな巾着だけだった。

巾着の中も検めると、そこにはダンカンの形見である触角とパンザグロス家のペンダントが確かに入っていた。何を失っても、これがあることで彼女はホッとした。

 ここは何処なのだろう。兄に連れ去られてしまったのだろうか? ポピアンは?

 巾着を大事に懐にしまい、立ち上がろうとしかけた時、すぐ横手にある金属製の扉から、ガチャリという音がした。錠を外す音だ。そしてその後、扉は軋みを上げてゆっくりと内側に開いてきた。頑丈で打ち破ることの難しそうな鉄製扉の軋みは、水牛の鳴き声のように重くて長い。

 扉のノブに手を掛けて半身を部屋に入れているのは、長いローブを纏った暗鬼族風の魔物で、野にいる者よりずっと賢そうな顔立ちをしており、ローブも仕立てのいい品だった。そして「どうぞ」と囁くように言う。なんと、この魔物は人間の言葉を話すではないか。

 暗鬼の促しで扉脇から姿を見せ、ゆっくりと部屋に入って来たのはゲオルグだった。

 まだ体に痺れが残って満足には動けないながら、ソニアは咄嗟に少し仰け反り、後退ってしまった。その様子を見た彼も、そこで足を止めて表情を強張らせ、辛そうに視線を逸らし、顔をそむけた。

 彼が入った後、すぐに暗鬼は外に出て扉を閉じた。鍵のかみ合う音が反響する。長い回廊の端にこの部屋があるような、遠い音だった。

 自分が置かれている状況は、ここに彼がいて、出入口に錠が掛けられ番人が魔物であるとなれば、もうそれだけで大した説明などなくても理解できた。金属製の扉にだけ錠がかかっている所を見ると、木製の扉の方は厠など、出入りには関係のない空間に続くものなのだろう。

 2人共が切り出し方に戸惑い、様子ばかり窺う。彼は部屋をゆっくりと1周し、この環境を1つ1つ値踏みした。

 そんな彼の姿を目で追いながら、やがてソニアから口を開いた。

「……ここは何処なの? 私に……何をしたの……?」

「…………」

「……私……殺されたのかと…………。違うのね……? 私を攫ったのね……?」

彼は普段目にする時よりずっと高位そうな物々しいスーツを身につけている。リヴェイラの装束にも似た、人間の貴族が狩猟の時に着る正装に近いスタイルだ。これがヌスフェラートらしい生活をする時の扮装らしい。

 そんな、よりヌスフェラートらしい姿になった彼は、これだけは目を逸らさず真直ぐに彼女を見つめて言った。

「……どうしてお前を殺したりしよう。オレの大切な……たった1人の妹だというのに。ソニア」

その真顔は、勿論偽りのない、どこまでも真剣なものだった。今まで力ずくで彼女に何かを強制したことのない彼が、こうして初めて暴挙に及んでいることで何かの口火が切れたらしく、彼からはおそろしい魔性さえ漂って隠せなくなっていた。だが、やはりこの人が自分を深く思い、愛しているのだということも熱い波として伝わってくる。

 そして、その波と魔性が混ざり合ってソニアの胸に届いた時、彼女の中で初めて、彼に対するある種のおそれが芽生えた。この人の愛し方は、あと1歩で《偏狂的》と言える領域に踏み込みそうなものである。

 この人は、今後自分をどうするつもりなのか? ……或いはもう既に何かしたのか?

 ソニアの身構える様に彼は心痛め、呟くように言った。

「……あれは、ただの眠り薬だ。……お前をここに連れて来る為に、少し眠ってもらった。驚いたろうし……痛かったろうね……。済まない。こうするよりなかったんだ」

「……攫ったのね……」

「………………」

彼はまた視線を逸らし、今度は鉄格子のはまった窓際に移り、そこから外に目を向けた。

「……ここは何処なの?」

「……ここはオレの住まいだ。いろいろな設備が揃ってる。そして……他には何もない。ここは島だ。周りは全て海。一番近い陸でも、数百キロディーオスは離れてる」

今までは聴覚も少し鈍っていたようで、よく耳を澄ませば、確かに波の音が聴こえる。岸壁に打ちつけ、砕ける波頭が目に浮かぶ。

「……私を……閉じ込めるつもり……?」

「………………」

彼は鉄格子を握り締め、遠い水平線に海の嵐が生じて雷光が閃いているのを見つめながら、苦しそうな呟きを漏らした。

「……お前を……死なせたくないんだ……!」

彼はおそるおそる振り返り、ソニアの顔を見た。あの田舎道で見たのと同じ、悲痛そうで苦しみに満ちた眼差しが真直ぐ彼に向けられていた。

「……こんな所にずっと居ろとは言わないよ。この部屋は一時凌ぎのもので、これからちゃんとお前の部屋も用意する。今は支度途中なんだ。この建物の中も、島の何処も好きに出歩いていい。ここにはお前の好きな森も湖もある。川も海もある。狭い所に閉じ込めたりなんかはしないから」

「……でも、帰してはくれないんでしょう?」

彼は目を閉じて頭を振った。頼むから諦めてくれ、という心がありありと仕草に表れている。

「……可哀想だが、お前が自力でこの島から出ることは不可能だ。この島に船はないし、連絡船のようなものも来ない。出入りは流星呪文で行うしかないんだ。飛天呪文でも、距離があり過ぎて海を越えるのは苦労するくらいだ。……お前はそのどちらも使えない。これでは、出たくても出れんだろう」

ソニアは苦しみに顔を歪め、受け入れかねるとばかりに首を振った。

「私をトライアに帰して……!」

彼は切なそうにジッと彼女を見下ろし、その全身を目に収めた。戦士らしさのかけらもない服を着せてそうしていると、エルフらしさが引き立ち、その美しさに痺れが走る。ヴィア・セラーゴに乗り込む際に彼女がエルフの扮装をしているのを見た時にも感激したものだった。こうして戦いとは無縁な姿で、花のように美しく生活してもらうことは、彼の長年の夢だったのだ。母親もきっとこんな姿をしていたのだろうと想像することもできるのが素晴らしい。

 どうしても残念なのは、彼女が笑顔ではないということだった。

 ソニアは彼の目の前、ヨロヨロと立ち上がった。心配した彼は思わず手を差し出すが、ソニアはその手を避けるようにして何とか自力で立ち上がり、息も荒く言った。

「私を……帰して……!」

彼に言い合いを続ける気は全くなかった。今は堂々巡りになるだけだ。だから、差し出した手を戻してグッと握り拳を作り、《それだけは絶対にさせない》という強い決意を目に鋭く表し、彼女を圧倒した。

 その眼光があまりに強かったから、ソニアは眩暈を感じてバランスを崩し、またその場にへなりと倒れ込んだ。クッションの山が彼女を柔らかく受け止める。そしてそのまま、悲しさのあまりクッションに顔を埋めて彼女は泣き出した。

 あまりに憐れで見ていられず、彼は痛む胸を押さえながら扉に向かった。

「……明日の朝、また来るよ。…………おやすみ」

それだけ言い残して扉番に声を掛け、扉が開くと、彼は部屋を出て行った。番人は再び扉を閉ざした。しっかりと錠を掛ける音が響く。

 扉越しに聴こえてくる彼女の嗚咽に、彼の体は重くなる。扉を背に暫く目を瞑り、早く彼女が状況を受け入れてくれるよう祈り、そして番人に引き続きの役目を言いつけると、そこを去り、長い廊下を1人離れていったのだった。


 ソニアは、何故こんなに自分達を苦しめ、悲しい思いをさせるのか運命に訴えたかった。何故自分と兄は、双子の兄妹でありながら別れ別れで暮らし、こんなに違った境遇の中で異なる道を歩むことになったのか。何故もっと普通の兄妹として生を受け、父や母と共に暮らすことができなかったのか。

 彼は自分が心を変えることを願い、自分は彼の心が変わってくれることを願っている。それしか、戦わずに2人が共に歩める道はないからだ。

 でも、どちらとも一向に譲歩する兆しを見せはしない。だとすれば、どうしたらいいのだろう。皇帝軍が人間世界を席巻して滅ぼし、ヌスフェラートの天下が訪れるのを、何もせずに耐えて見ることなんか到底できない。2人が睨み合いを続けていられるのは、後ほんの僅かな時間だ。

 それを越えたら、自分は力ずくで方法を見出し、彼の手から逃れなければならなくなる。そんなことはしたくなかった。

 未来はとても暗い。深い霧と闇に包まれている。どうしたらいいのか。どうしたらいいのか。

 すぐに善い答えが浮かぶはずもなく、これほど苦しくて考えが及ばぬ時は、祈るしかなかった。ソニアはトライアスに、トライアの無事と自分の無事脱出を願い、瞼のアイアスにも同じように祈り、助言を請うた。パンザグロス家のペンダントが入った巾着を握り締める。

 皇帝軍を止めることもできず、トライアを護ることもできないのなら、自分が存在する意味は何もなくなってしまう。大切な人達が失われたら、生きていることなどできない。

 涙と長い祈りの後、ソニアは再び起き上がって鉄格子の窓に向かった。先程より少し痺れが抜けてきている。今まで、あの眠り薬が尾を引いていたらしい。それでもまだ不安定さがあったから、鉄格子に手をかけて体を支えながら外を見た。

 夜空に星が輝いている。だが、もうすぐ雲がかかりそうだった。嵐が近づいてきているのだ。彼方で雷光が弾けると、厚い雲が青く照らされる。

 雲に隠れてしまう前に、ソニアは改めて星にも祈りを捧げた。

「……ナルス……いえ、ソニアだったわね。黙って聞いて」

ふいに耳元でポピアンのヒソヒソ声が聴こえた。ソニアは驚き振り返ろうとしたが――――――

「――――――ダメ! 動かないで! ……何も知らないフリをして外を見ていて頂戴」

ポピアンにそう言われ、ソニアは振り向きかけた顔を戻し、鉄格子に向き直った。格子の外の風は強い。この分では、嵐の到来は後数刻のことだろう。

「……ずっと、ソニアを監視している魔物がいるの。ここにもまだいると思うわ。……だから決して声を出さないで。あたしがこうして耳の側で喋る時以外は交信できないわ。目も耳も使って見張っているのよ。気をつけてね。……あたし、ソニアがここに連れて来られる時に、一緒にくっついて来たの。ソニアにしがみ付いてたから、見つからずに済んだのよ」

ソニアは大いに安堵し、深く、長く溜息をついた。あぁ、良かった! ポピアンがいてくれれば、兄と戦わずにここを脱出する方法が容易に見つかるだろう!

 風が強く吹き付けてきて、ソニアの前髪とイヤリングを揺らした。ポピアンの声は小さいから、嵐前の強風が吹く間はなるべく黙っていた。

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