第3部15章『麦畑の道連れ』5
侵入者全員を取り逃がしたらしいことが判明していたヴィア・セラーゴには、不満と叱責の波が行き交っていた。
ハイ・エルフの訪問が同時であったことも大いに怪しまれたが、虫軍は、エルフの従者2人は確かに先に帰ったと主張して譲らなかったし、姫君もその後ただ目撃されていないだけで、おそらくハイ・エルフの秘術でこっそり帰ったに違いないと結論付けられていた。何しろあの姫がハイ・エルフだという点は皇帝が疑いもなく認めている訳で、そのハイ・エルフは世界的にも争いを好まぬことで知られている種族であるから、まさかあの覆面戦士と同一人物であろうとは、皇帝軍の誰も思わなかったのである。
衛兵も人間達の方に気を取られていたから、あの隙に姫君が通り抜けて行った可能性も確かにあると思って、絶対の主張はできなかった。
人間の姫が燃やした物は発見されたが、元が何であったのかはもはや判別できない灰になっていたし、全てが謎に包まれてしまった。素姓が解っているのは、あの人間の姫君だけである。
獣王大隊長ラジャマハリオンたっての願いで、姫を見つけ出し、どう始末をつけるかは全て彼等の大隊に委ねられることになった。
だから後は、出来る事と言ったら、破壊された城の内部を修復することぐらいだった。そして侵入手段を見つけ出し、再び起こらぬよう対策を取る。
しかし、他にも心安からぬ話があった。ヴォルトが《天使かもしれない者を遂に見つけた》と皇帝に報告したのである。天使である彼がそう言うのだから、きっとそうに違いないと皆は思い、警戒を強めた。
ヴォルトの言うには、姫を助けに来た覆面姿の戦士こそが、その可能性の高い者で、後ろに垂れていた茶髪の長さと声色から、おそらく女性ではないかと見ていた。そこで、それに該当する人物の情報を集めることが全軍に命じられた。
ただ1隊、虫王大隊だけはその正体を知り、伏せていたが、この問題に関して彼らは何の利もないので、女王キル=キル=ザビニの命で、真相は永久に封印すると決められた。
そして、あのエルフの姫の勇気ある行動も虚しく、皇帝軍に何ら変化はなく、戦の意志が依然としてあるものだから、どうやら試みは成功しなかったらしいと女王は密かに悔やんでいた。
そんなヴィア・セラーゴ内部の居室で、魔導大隊長ゲオムンド=ディオ=ド=エングレゴールは、珍しく息子からの呼び出しを受けた。部下から知らせを受けて連絡用の水晶玉を覗き込むと、そこにはいつになく険悪な表情をしている息子の顔が映っており、ゲオムンドを警戒させた。
日頃の達し通り、息子は決して彼のことを公の場では父と呼ばず、《閣下》或いは《ゲオムンド様》と呼んでいる。だが、その顔はこれまでに見たこともない程の怒りに満ちていて、だからこそ、いつにも増してこのゲオムンドに似て見えた。
ハイ・エルフとの再会があったばかりだから、その事に関係があるのかもしれないとゲオムンドは思った。何せこの息子は、非常に強く母親に会いたがっていたのだから。実は生きていたことを、もう知ってしまったのではないだろうか。今回の事はゲオムンド自身も全くの予想外で、息子を騙していた訳ではない。だが、あまりに欺き続けていたから、今度もそうだろうと捉えたのかもしれない。
息子の要望は、とにかく何処かで会って2人きりで話をすることだった。物静かに話してはいるが、脅すような威圧感に満ち満ちている。
それに怯むようなゲオムンドではなかったが、面倒なことになったと思った。この息子はなかなかに粘る所があって、一度このように言い出したからには、早く対応しないことにはどんどん拗れていくであろう。普段、全くと言っていいほど父に何かを願うことのない手のかからぬ男だったが、逆に一度反発するようになれば、どれほど厄介なことになるのか予想もつかなかった。
ゲオムンドは解ったと答えて、息子が指定する場所にすぐ赴くことにした。息子は、彼が本拠地としている宮殿ではなく、人里少ない荒野を会談の場に選んでいた。何故そこにするのかは尋ねず、ゲオムンドは装備だけを整えて出発した。
赤道直下の、荒野が砂漠になりかけている不毛の土地で2人は落ち合った。
ナマクア大陸北部は熱帯域で、広大なペルガマ領ではあるが、この辺りは全く統治されていない。時折、駱駝の隊商が通ることもあるが、月1回程度でとても稀だ。それに、ここならば他の大隊の偵察が来ることもまずないから、目撃されるおそれもなかった。
2人共、到着当初から人間の姿をせず、ヌスフェラートのままで相対した。
よく来てくれた、というような労いの言葉もなく、ゲオルグはゲオムンドを睨みつけている。
「……一体何用じゃ。ワシをこのような土地に呼び出し、その態度は」
赤い大地には直線的な風が吹きつけて、見事な砂模様が走っている。蛇の姿に似た波線が等間隔に並び、地図上の等高線をそこにそのまま描くように表れていた。空は水平線に近いほど白んでおり、真上はとても深い青に染まっている。彼方の白味は砂埃であった。赤い世界では、青褪めた肌の2人は鮮やかに浮かび上がって見える。
ゲオルグは早速切り出した。
「……ソニアを襲撃させましたね?」
そちらの事であったかとゲオムンドは驚いた。彼にとってはエアとの再会の方があまりに強烈で、襲撃の方は何の重要性も罪悪感もないことだったのだ。だが、計画時にも予測していた通り、この息子は激しく憤っているようだった。露見した場合に何をすべきかも、既にゲオムンドは計算している。
しかし、この息子が本気で怒りに燃える姿をこれまで目にしたことのなかったゲオムンドにとって、その憤慨ぶりは単に《激しい》という形容では済まされない、おそろしく殺意に満ちて制御不能な、予想を越えた域に達していた。
父が息子の激昂する様を見ながら答え方を考えているうちに、ゲオルグの方が続けた。
「私の部下を彼女から引き離し……私が気づかぬよう工作して……その間に刺客を送りましたね? ……しかも……あのスキュラを……!」
差し向けた刺客の種類まで判明しているのであれば、下手な嘘はもはや通用しないであろうから、ゲオムンドは慎重かつ大胆に胸を逸らして言った。
「……そうじゃ」
その答えは、息子の怒りの口火を切らせた。
「――――――何故ですか?! 説得して匿うまで、トライアへの攻撃を待ってくれとあれほど頼んだのに、それどころか彼女の方を襲うなんて!! 彼女はあなたの娘だ!! あなたは……自分の娘を殺そうとしたんですよ?! 本気だったんですか?!」
「……ああ、そうじゃ」
ゲオルグのこめかみと首筋に血管が浮き上がり、2人の周囲にだけ風の壁ができると、流れが変わって逆巻いた。
「――――――何故?!!」
爆発寸前の息子を前に、それが予想外の領域であっても、ゲオムンドは怯まず睨み返した。
ゲオルグは歩み寄り、腕の届く所にまで来て父を見下ろす。
「……お前はあの者にばかり感けて、本来の任務が疎かになっている。進軍にとって、何もかも、あの娘が妨げとなっているのだ。目を覚ませゲオルグ! 我等の今後にとっても、あの者は危険だった! 消すことが一番の解決法なのじゃ!」
「――――――ふざけるな!! あんたは自分の保身しか考えていない!! あんたは、邪魔なら私のことも平気で殺せるんだ!! 血も涙もないとはこの事だ!!」
「――――――馬鹿者! それでも我が息子か! 大きな目的を前に感情に流され、うろたえおって! おまえがそんなに簡単な男だったとは失望したぞ!」
ゲオルグは牙を剥き出し、歯を食い縛った。
「息子だって?! あんたの息子であると同時に、私は母上の息子でもあるんだ!! 同じ母上の娘を放っておけるか!! 私はあんたじゃない!! あんたなのは半分だけだ!! 息子との約束を平気で破り、娘を残忍な方法で殺すことが出来るのが父親だとしたら……私はそんな父親は要らない!!」
「ほう……言うたな」
ゲオムンドは皺だらけの口に嘲笑を浮かべた。遂にこの自分に真っ向口答えをし、歯向かうようになった息子のことを成長したと思いつつも、頭の片隅では、もしもの時にどのように始末しようか考え始めていた。
「……私は、もうあんたの言う通りには働かない!! 自分のやり方でやる!! それに――――――今度ソニアに手を出したら、私は間違いなくあんたを殺す!! 父であろうと何であろうと、誰にもあいつは殺させない!!」
「……あれは生きておるのか?」
「あんたの部下は失敗し、彼女を飛ばしただけだ!! 今は私が保護している!!」
ソニアが彼方に飛ばされたことは知っていたが、それで死ぬ確率が高いから様子を見ており、トライアに戻ったという報告も受けていないから、このゲオムンドはてっきりソニアが死んだものと思っていたのだ。彼は口惜しそうに目を伏せ、顔を顰めた。
「しくじったか……」
その反応はますますゲオルグの神経に障った。本当にこの人には一片たりとも後悔というものがない。
「トライアのことも、彼女のことも私が決着をつける!! だから、あんたはもう何もするな!! もし、何かあったら……」
「殺す……かね、このワシを」
「……私だって父殺しなどしたくない……!! させないでくれ……!! だが……彼女に何かあれば、私は間違いなく、あんたを殺す!!」
「…………」
ゲオムンドは目を薄くしたまま、ジッとゲオルグを見つめた。怒りには若さが必要だとでもいうように、ゲオルグは若く血に漲り、怒りに燃えていたが、ゲオムンドの方は目だけを冷徹にギラギラと輝かせ、その他一切は死神のように落ち着いていた。
しかしながら、心の奥底では息子に対する怖れが蠢き始めている。
「……息子よ、落ち着け。まずは冷静になれ」
「私はいつだって冷静だ!! むしろ、落ち着いて改める必要があるのは、あんたの無情さの方だ!!」
「ゲオルグ……」
ゲオムンドは、杖持たぬ左手の方を息子に差し出した。こんなことは長年のうちでも初めてだ。幸い、そんな振る舞いにほだされる程、ゲオルグは父の情を信じてはいなかった。173年間、この男と付き合ってきたのだから。
情を注ぎ合う対象は、もはやソニア1人でいい。彼女だけで十分だ。彼女が1人いれば、世界はそれで事足りる。他には何も要らない。
ゲオルグはやっと剣幕を抑え、だが、不敵さと油断のなさをそのままに残し、父に笑んだ。薄い、口だけの笑みを。
「……父上、私を殺そうとしても無駄ですよ。私の体は、もう、あらゆる毒に対抗できるようになりました」
ゲオムンドはギクリと目を見張った。
「簡単に暗黒界に放り込まれたりしないよう、対抗措置も取ってあります。あなたのやり方は、もう全部お見通しですよ。私を誰だと思っているんです?」
ゲオムンドは差し出した手を拳に変え、ワナワナと震わせた。
「お前……父に向かってそのような……!」
「……ディライラでのことは、もう聞いたでしょう? あれは私の実験です。そして――――――マキシマはこの私だ!」
ゲオルグはゲオムンドの目の前、みるみる変貌を遂げた。肌質が一瞬にしてツルリとしたものに変わり、それが膨らんで大きくなり、衣服を内側から破って虫人ほどの身の丈になった。肌は今や玉虫色に変わり、虫人かと見紛う外骨格を全身に纏っている。マキシマという戦士について報告された通りの容貌の者がそこにいた。
ゲオムンドの驚倒ぶりは言うまでもない。息子の仕事の進展具合を常日頃から部下に探らせていたのだが、この事は全く知り得ていなかった。彼は後退りし、危うく杖まで取り落としそうになった。
「……私は任務を疎かになどしていませんよ。人間だけを変異させ奴隷化する実験は、いい結果を出しています。私自身もこの通り、ヴィヒレアに勝てるまでになった。あなたに、力や剣でこの私を殺すことはできません。無理です。どんな方法だって、もはやダメですよ」
「お前……何と……」
「……私が、これまであなたの為に尽くしてきたのは、父であったからです。その未練がなくなれば、私が皇帝軍に与する理由は全くない。こんな事があろうとは思ってもみませんでしたが、例え1人になっても生き抜き、守りたいものを守れるよう、私はこのマキシマという作品を極め続けてきました。皇帝軍の為にではない……!」
ゲオムンドはゴクリと固唾を飲んで、母親が皇帝の望む女性であると知った時以来、久々に強く、子を成したことを後悔し、呪った。
「だが、あの強大な勢力と真っ向戦おうなどとは思いませんよ。そこまで愚かじゃない。あなたがこれ以上私を裏切らなければ、私はこれまで通り影の存在として魔導大隊の為に働き、あなたの為に力を貸しましょう、父上。条件はとても簡単なことですよ。もう、決してソニアに手を出さないこと。トライアに手を出さないこと。この2つだけは、何があっても私の手に委ねるのです」
「……むう……」
「……選択の余地などないでしょう? 譲歩しているのは、むしろ私の方だと思いますよ」
確かに、要求を飲むしかなかった。皮肉ながら、息子が積極的に嘘をつく性分ではないことを父は知っている。条件通りにしていれば、問題は起こさないだろう。それに時間をかければ、この息子を滅ぼす方法が見出せるかもしれない。実行するかどうかはともかくとして。
「……解った。お前の言う通りにしよう」
ゲオルグは満足げに首を傾いだ。
「……あなたは幸運ですよ、父上。ご自分で解っていないでしょうが。ソニアが生きていたからいいようなものの……もし死んでいたら、この取引すらありませんでした。あなたの為に娘が必死で生き延びた、そう思うことですね。それに、彼女はもう私の妹であると知り、あなたが父であるとも解っています。実の父に殺されかけたなどと思わせたくはありませんから、刺客は他軍の横槍ということにします。今後、この事は一切伏せておくようにして下さい」
「……ああ、そうする」
粗方重要な事項は言い終え、2人はジッと見合ったまま暫く動かなかった。普段殆ど目を合わせることもなく、こうして長く対面することもなかった2人だが、今日初めて立場が逆転し、視線を逸らすことなく互いを見ていた。
呪わしい、我が身に禍をもたらす子を持ってしまったものだとゲオムンドは思った。赤い荒野の中で玉虫色の外骨格は目が覚めるように映え、あまりに艶がいいから、青い空と太陽までがそこに映っている。
本来こんなに赤道近くの場所で、しかも陽射しの強い日中に会うということ自体が異例だった。気を遣って暗い場所を選びもせず、夜まで待つということもせずにゲオルグはここに呼び出し、ゲオムンドもゲオムンドでそれに応じたのだ。これが、そもそも今回の結末を暗示していたようなものである。
息子は主導権を取った今、それでも父を威圧して楽しむようなことはしなかった。
「……今回失望したのは私の方です、父上。ですが……あなたが私の父であることに変わりはない。あなたはこれまで、私を育ててきて下さった。それには感謝しています。……これ以上、私を失望させないで下さい」
ゲオムンドには、もはや言葉はない。翠玉色の瞳で、ただ、ただ息子を睨むように見つめ続け、陽射しの眩しさに顔を顰めていた。
ゲオルグはマキシマ姿のままでそこを去った。星となり、白く煙った地平の彼方に飛んで消えて行く。灼熱の赤い大地に1人佇むゲオムンドは、さながら赤い地獄に立つ死神そのものだった。
全ては、あの日が間違いの始まりだったのだ。
ハイ・エルフに惑わされ、子を成したことが。
ゲオムンドは、漆黒の隈に縁取られた翠玉色の瞳を暗く輝かせ、息子の消えた地平を睨みつけた。
今日、父を滅ぼさなかったことを後悔させてやる、息子よ。