第3部15章『麦畑の道連れ』4
守護天使たる国軍隊長が不慮の事故により消え去ってから8度目の夜となったトライアは、日に日に増す不安と焦りとに包まれていた。
王宮専属占い師マーギュリスによる吉報のお蔭で、一時大きな安心を得られたものの、やはり8晩目ともなると、いい加減に疑念が首をもたげてくるのである。口にすると実現してしまいそうなので、殆どの者はその不安を口にしないよう努め、まだか、まだかと明るく語らって見せたりするのだが、その調子も段々と落ちてくるようになった。
実の子ほどに親愛の情と期待と信頼とを彼女に寄せていた王も、王室のテラスから日に幾度となく、遠い、遠い空を眺めることが多くなった。政務はきちんと執り行っているのだが、何とも侘しいその姿を見て臣下達もしょんぼりとする。王を慰める方法など、誰も、何も思い浮かばなかった。
また、新たに強国ディライラが攻撃を受けたとの知らせが昨日入り、不安は募る一方だ。あのトライアスなしに、この国は皇帝軍の脅威にどう立ち向かえばいいと言うのだろう。
国民のほぼ全員が、起床時と就寝時に彼女の無事帰還を熱心に祈っている。1人の人間の安否を気に病んで、これほど多くの者が祈りを捧げることなど非常に稀であった。これほどの強い祈りならば、神の耳に届かぬ訳がない。
だが、依然として彼女からの音沙汰はなかった。
そんな8度目の夜を、王がテラスの長椅子に凭れて気だるく半月を眺め過ごしていると、長衣の従者が傍らにやって来て、こう告げた。
「陛下、例の占い師が再びお目通りを願っております。如何されますか?」
王は、ディライラ襲撃の知らせを受けた時よりずっと顔を強張らせてゴクリと喉を鳴らし、すぐに通すよう従者に言った。
間もなく、あの占い師がテラスを訪れ、王に深々とお辞儀をした。王はテラスにいた衛兵を2人共下がらせ、テラスの出入口も閉めさせて2人きりになった。
「何か……新しいものが見えたのか? マーギュリス」
王のおそるおそるの問いかけに、占い師はすんなり頷いた。
「それもございますが……本日はそれとは別に、少々お伺いしたいことがございまして、まかり越しました」
「……何じゃ、申してみよ」
悪い知らせをばかりを想像して構えていた王は、どうやらそうではないらしいことを見て取り、肩を撫で下ろしたが、緊張は続いた
マーギュリスはのっぺりとした平板な顔で暫し躊躇い、間を置いた。今日は水晶玉を携えていない。こうして身軽な状態で報告にだけ来ることの方が本来は多かった。
「……陛下のご不安はお察しいたします。先日の読みと、局面は変わっておりません。私の見る限り、あの方はまだご無事でらっしゃいますよ」
「そうか……そうか……」
王は文字通り胸をなでおろし、ホッと一息ついた。そして手摺りをポンポンと叩く。
「……私、先日見出しました光を究明する為に、その後何度も占いを繰り返しております。そうしているうちに……ふと気に罹ることが出て参りまして……」
「気に罹るとな?」
「……はい。あの方の行方と状況を見ているうちに、あの方にまつわる幾つかのエネルギーを捉えました」
「エネルギー? ……どういうことじゃ、それは」
マーギュリスは王に手招きされ、更に近くに歩み寄り、膝も落として、耳元で囁くように言った。
「それ自体はごく普通なことです。エネルギーとは、主に生命反応の光です。誰にも様々な相関関係がありますから、何かしらのエネルギーが側に取り巻いているもの。今回あの方の周囲にも、幾つもの強い反応が見受けられました。……前回は私、それを強い運という形でお伝えしましたが、それらが人格を持つ数体の生命で間違いないと判明したのです。こんなに強いものは滅多にお目にかかりませんから、はじめは私も人格だとは判別できなかったのです。……どうやらあの方は、とても強力な者達と繋がりがあり、しかも、その多くに守られている様子でございますね。光に囲まれた、これほどの護方陣は初めて拝見しました」
「ほう……! それは……まこと良いことではないか!」
王は機嫌を良くして笑みを浮かべた。篝火に照らされた顔は黄昏色に輝いている。
だが、占い師の方は相変わらずの無表情で、慎重だった。まだ先があるのだ。
「しかしながら……陛下、私が驚きましたのは、その光の多様さなのです。エネルギーはそれぞれの特徴を示して、大きさや色を変え、また光り方を変えます。あの方を取り巻くエネルギーの殆どが、通常の人間に見られるものとは明らかに異なっておりました。どうも……人間ではないようなのです」
「何と……」
王はポカンとした。おそれより先に好奇の光が目に覗いたものだから、占い師はその反応に少々驚く。そして大したものだと思った。
「残念ながら、私はこれまで人間を専門に扱ってきたものですから、それらの光が何であるのかを特定することはできません。例えば――――どのような種族であるか等です。ただ、大変重要なことに、その中に……あの方の血縁と思われる繋がりの糸を見せる光もありまして……、それが故に……」
王は、彼女から直に聞いていた話から、ある程度は知っていたし、覚悟はしていた。だからそれに対する驚きは然程大きくはなかったのだが、こうして裏付けとなるような事実を知らされると、また感慨深かった。
もっと狼狽され問い詰められるかと思っていたマーギュリスは、思いの他、話の腰を折られなかったので先に進めた。
「それが故に、あの方も……もしや普通の方ではないのではないかと……そう思いまして」
王は細く長く溜め息をつき、身を起こして長椅子から立ち上がり、テラスの柵に寄った。手をかけて、湖面に映りチラチラと揺れる街の明かりを見つめる。
もう、こうして1人、自らの才で彼女の常ならぬ生まれに気づいてしまった者がいる。
「やはり……そうだったのか……」
「では……陛下は既にご存知だったのでございますか……?」
半月に雲がかかり、ほんの暫く夜闇の深さが増し、湖も闇に沈んだが、やがて雲が風に流されて形を変え、月が顔を出すと、再びテラスに晧晧と月光が射し込んできた。
王は背を向けたままで言った。
「……確かに、あの者は自分の生まれを不思議に思い、悩んでおった。見た目もあの通り垢抜けておるからな。自分は人間ではないのかもしれぬと……怯えておった。だが、確かな手掛かりや証拠は何ももなかった。惑わせる物が稀に転がっているに過ぎなかったのじゃ。しかし……そなたがそこまで見えたのなら……あの者は本当に人間ではないのかもしれぬ」
王は振り返り、真直ぐにマーギュリスを見た。
「……しかし、ワシは今までのように迎えるつもりじゃ。あの者が何であれ、血の事などとやかく言うて何になろう? ワシは、あの者自身に惚れておるのじゃからのう」
「陛下……」
「……そなたに頼みたい。どうかこの事は……2人だけの秘密にしてはくれまいか?」
この王の度量の大きさを改めて知り、マーギュリスは平伏した。この王であったからこそ、稀有な若き戦士が現れても怯まず積極的に採用し、今のトライアスが生まれたのだろう。
「陛下のお心とあらば、勿論、仰せのままに致します! 決して他言は致しますまい……!」
王はウン、ウンと頷いてマーギュリスの肩を取り、叩いた。
「あのような者がこの時代に……何故この国に生じたのか、ということは……我々では推し測れぬ意味があるのやもしれん。我々の判断であの者を追い詰めることがあってはならないと思う。じゃが……これから先、あの者は苦難の道を歩むのやもしれんな。それがあの者の運命ならば、ワシ等はその行く末を見守ろうではないか。マーギュリス」
「御意に……!」
テラスの2人を見守る半月の顔は、さざめき波立つ湖面にも映り、その月影は幾つにも千切れて揺らめいては、また寄り合い、その形を戻した。乾期の始まりである心地良い風は、そうして戯れに波を立て、炎を揺らし、木々をくすぐっていく。もうじき成熟する花の青い香が漂い、風に運ばれていった。
これからは、1年で最も美しい季節である。
復興作業に忙しいディライラ城に再びフィンデリアと従者が訪れると、王や王子達は色めき立った。てっきり死んだものとばかり思っていたからである。姫が虫軍の撤退に巻き込まれ、そのまま連れ去られたことは王も知るところで、ホルプ・センダーにもその知らせを飛ばしていた。
ニルヴァ王子もエミリオン王子もフィンデリアと旧友のように抱き合い、ディライラ王は実の娘を迎えるように彼女を労わった。今回の襲撃において、彼女が街を守る重要な役割を果たしたことは間違いないから、功労者としても丁重にもてなした。
国王一家が無事であったことを知ると、フィンデリアもとても喜んだ。そして今回の襲撃による損失の程度についてなど、国家の要人同士らしい情報のやり取りも行い、その後は彼女が質問攻めにあった。ソニアとの約束で伝えられない事もある彼女は、概ねこのように語った。
撤退に巻き込まれ、あの虫達の国に運ばれてしまい、その後、捕虜として皇帝軍本部にまで連れて行かれてしまったが、そこを命懸けでどうにか脱出したのだと。その際、ソニアは2人を逃がす為に食い止め役として残ってしまい、その後どうなったのかは解らない、ということにした。
皇帝軍本部などという、この上なくおそろしい場所に行ったということが何より皆の恐怖心を掻き立て、そこから脱出できたということが、転じて強烈な賞賛へと変化させた。
あの美しい女性が身代わりとなり、そんな地獄に残ったことがエミリオンには信じられず、どんなに酷い拷問や責め苦に遭っているだろうと考えて男泣きした。
本部はどんな所であったかを皆はできるだけ詳しく知りたがり、フィンデリアは魔法のキリムや、何人もの強力そうな将の姿、そして地下城の絢爛豪華さを語ってみせた。アマンネルとスコラは目をまん丸にして口を開けたまま、王妃にしがみ付いて話に聞き入る。
このディライラでも原因不明であった、人間が変貌する例の怪については、皇帝軍においても謎のようであること、そして虫軍の邪魔をした正体不明の戦士がいたらしいことも教えた。
話が終わると、是非ここでゆっくりして行くよう王に勧められたが、フィンデリアの目的はあくまで顔見せと情報交換だけであり、サルファ王の無事と避難場所も解った今、滞在の必要はないので、キッパリと申し出を断った。
そして彼女はナマクアへの流星術者の調達を願った。ソニアの身に起きた事について、彼女を待つ人々に知らせる義務があるのだ。確かにそうだと王も納得し、早急に術者が用意された。今日は運良く、城内に適格者がいたのである。
またすぐに来るよう王も王子達も言ったが、フィンデリアは「そのうちに」とだけ答えて、心遣いに礼を言った。そしてカルバックスと共に一路ナマクアへと向かった。
姫の指示でトライア城都まで2人を運んで来た術者は、そこで早くもお役ご免となり、ディライラに帰された。ソニアが何者であるか等の詳細を術者に知られぬ為の配慮である。ソニアが無事に帰り着くまで、誰にもあのマントの戦士が何者であったのかを教えない約束だったから、消息不明の今でもそれを守ろうとしたのである。
2人共、身なりはますます薄汚れていたが、構わず丘の上のトライア城を目指した。
ディライラのソドリムと違って、商業性より芸術性が前面に出ているこの国に姫は大いに関心を示し、鮮やかなタイルの散りばめられた石畳の道や噴水広場を見物し、街頭演奏家や踊り子や工芸家の多さにも感激した。
貧しく虐げられた環境下で創造の精神が芽生え培われる、叫びのような芸術というものも世の中にはあるが、ここまで大きな規模で成熟するには、その下地に豊かさがなければ到底成し得ない。余程この国は平和で豊かなのであろうとフィンデリアは見た。
街の建物1つ1つの高さ大きさはディライラに劣るかもしれないが、建物自体の美しさは決して引けを取っておらず、何とも趣がある。
ここに戻りたがっていたソニアのことを思うと、フィンデリアはまた胸が詰まった。
薄汚れたなりの娘と男が城の検問にかかれば、当然ながら怪しまれた。荷の出入りや雑多な人の出入りを行う日用の門と、兵や重要人物の出入りを行う正門とは区別されていたが、フィンデリアは日用門の人の列を見て、正門の方を選んでいた。本来は堂々とここを通れる身分である。
訝しげに睨まれ、槍を突きつけられ誰何されると、フィンデリアは凛として身分を名乗り、続いてカルバックスが、まだ持っていた王家の宝剣を差し出して見せた。ここでの反応もディライラの時と同じだった。赤制服の門番は1人が残り、もう1人が走ってこのことを伝えに行った。
この国は亜熱帯だから、どの兵士も膝から下が出ている。それも物珍しくて、待つ間にフィンデリアは歩哨の装束や、城内にチラリと見える黒制服の兵士の姿もよく観察した。
やがて外交に詳しい官吏が現れ、改めて剣を検分すると、よくよく見れば2人の服装にもサルトーリ独特の柄――――《サルトルの涙》と言われる無数の縦筋と雫文様――――があしらわれていたので、すぐに入城を許可し、丁重に迎え入れた。
まず貴賓室でのもてなしを勧められたが、フィンデリアは明快に断り、公務によって多忙でなければ是非ともすぐ国王に面会したいと申し出た。
その要望は直ちに王へと伝わり、許可を貰い、フィンデリアはそのまま王室へと通された。面会場所が謁見の間でないのは、王が床で休んでいたせいである。王室手前でそのことを教えられたフィンデリアは、済まなく思いつつも颯爽と入室した。ソニアからも王の容体については少し聞いていたので、なるべく手短に済ませるつもりだった。
「急の訪問に応じて頂き、かたじけのうございます」
トライア王は孫がいてもおかしくない老齢の人で、顔色優れず床に伏していた。訪問者の為に今しがた上半身を起こしたばかりで、背に幾つものクッションを詰め込んで支えにしている。侍女2人と王妃が両脇で介添えをしていた。
フィンデリアはベッドの前で膝をつき、深々とお辞儀をした。カルバックスは体ごと地に伏した。
「……サルトーリの姫君だそうですな。よくぞ、このような遠き国に参られた」
「第3子、王女フィンデリア=ドラ=ミスラ=サルトルです。お目にかかれて光栄でございます。このような成りで入城いたしましたこと、何卒ご容赦下さいませ。急ぎご報告すべきかと存じまして、身形整える間もなく参上致しました」
「……ワシは、国王ハンス=パモア=エン=ドゥ=トライアである。急ぎの報告とは……どのようなことであろう?」
フィンデリアは面を上げ、王をジッと見て伝えた。
「ソニア=パンザグロスと名乗る女性戦士は、こちらの国の軍隊長でお間違いございませんでしょうか?」
王の顔色が変わり、目を見開いて身を乗り出した。王の身を心配しつつも、王妃と侍女も手を出さず、彼女の発言に大いに驚いて息を飲んでいた。
「身の丈高く、珍しき花の色の長い髪を持った方です。貴国の紋章である、女神の像が刻まれた刀身の長い剣を携えておられました」
「――――――おお……! ソニアじゃ……! ソニアじゃ……!」
王の目は潤み、頬の血色は少し良くなった。どれほど信望の厚い関係であったかが、すぐに見て取れた。
「そなた……ソニアに会うたのですかな……? そうなのですかな……?」
王はベッドから降りようとまでした。それを王妃と侍女が強く止める。
王妃に「近う、近う」と呼ばれ、フィンデリアの方から王にもっと近づいた。
「私達は、あの方に命をお助け頂いたのです」
王はすぐに近衛兵隊長を呼ぶように従者を走らせた。城内にいた赤制服の若き将がすっ飛んで来て、王室に駆け付けた。
「アーサー! この方はサルトーリの姫君じゃ! ソニアに会うたのだと! 助けられたのだと!」
目が充血気味の黒髪の男は、国王に負けず劣らず、その知らせに顔を輝かせた。こんなに喜んでいるのに、報告の結末が痛々しいものであるから、フィンデリアの胸が痛んだ。
糠喜びをさせたくなかったので、先にフィンデリアが断った。
「結論から申し上げれば、我々は彼女を見失いました。安否はわかりません。ですが、あの方がこの国に帰還されたがっていたことをお知らせし、命をお助け頂いた御礼を国王陛下にお伝えするべきと思い、この度参った次第です」
国王と近衛兵隊長の浮き沈みは実に判り易く、双方ともが落胆し、溜め息をついた。
しかしこの2人にとって、これは初めて知らされた失踪後の消息なものだから、やはり希望は膨らんだ。
「姫君よ……! ようよう、詳しく聞かせて下され! 何もかも、全部!」
こうして長い物語りがされることになったのだが、王はまず、このまま一国の姫を立たせたまま喋り通しにさせる訳にもいかなかったので、ベッドの傍に椅子や卓の用意をさせ、飲み物や食べ物など、出来る限りのもてなしをしながら話を聞くことにした。
フィンデリアとカルバックスは卓に着き、王はベッドで横になったまま、近衛兵隊長は兵士らしく勇ましい立ち姿のままで、王妃は王のベッドに腰掛けて話の輪に入った。
この国の重要人物達が、ソニアの出生について、どの程度知り得ているのかまでは本人に聞いていなかったので、フィンデリアはここでも、今後ソニアの障害となり得る異種族との関わりの話題だけは伏せて話を進めた。
「彼女は、まずスカンディヤに飛ばされたと話しておりました。陥落後の北方国ですから、移動手段を見つけるだけでも大変手間取ったようです。そしてようやく中央大陸ガラマンジャにまで辿り着き、私達はディライラの主都ソドリムで出会ったのです。彼女はナマクアへ飛べる流星術者を探しておりました。そして、その当初は身分を隠しておりました。名も、ナルスと名乗って。また刺客が来ることをおそれてのことです。私には所用があったので互いに目的が達成できると思い、彼女を私の従者ということにしてディライラ城に赴き、流星術者手配の約束も成されたのです。一晩待たされましたが、翌朝にはこちらに帰還できるはずでした。ところが運悪く、その朝、ディライラは皇帝軍に襲撃されまして……街と人々を守るべく、私も彼女も戦ったのです」
つい先日受けたばかりの襲撃報告に彼女が関与していたと知って、国王は呻いた。近衛兵隊長も悔しそうに歯を食い縛っている。そこに自分もいたかったらしく、武者震いさえしていた。
「あの方の働きは大変大きく、皇帝軍が撤退に至った一因であることは間違いありません。大きな戦力を削がれたことを敵方も悔しがっておりましたから」
切なく、痛々しく、だがそれでも誇らしさが湧き上がって、王は何度も頷いた。
「しかし……私は事故に遭い、撤退する軍に巻き込まれてしまいました。あの方はそれを助けようと側に来てくださり……共に皇帝軍の本部にまで連れ去られてしまいました」
王妃が悲痛な叫びを上げた。
「……私達は、急に殺されるようなことはなく、何とか敵の目を誤魔化して巧く逃げ果せられそうになったのです。ですが……私の……故国サルトーリの仇がそこにいまして、私は戦いを挑みました。私だけが残れば良かったのですが……このカルバックスもあの方も私を助けに来て……あの方は、私達が流星術で無事帰還できるよう1人残られ、私達だけを行かせました。それきり、どうなったのかわからないのです。私が……あの方をそのようなことに……!」
フィンデリアは卓に突っ伏した。王も近衛兵隊長も悔しそうに目を閉じる。部屋中で、深くくすんだ溜め息が漏れた。
ただ1人、カルバックスだけは我が姫君の行為に対する誇りと、それを助けたソニアに対する敬意とを表して、少しも負い目に感じる様子なく背筋を伸ばしていた。
「……あいつらしい……」
そう呟いたのは近衛兵隊長だった。眉根を寄せ、顰めっ面を作っていながら、口元は笑んでいる。王もそれに何度か頷いた。
その空気があまりに苦しかったから、少しでも解すべく一従者カルバックスが言った。
「……無責任な発言かもしれませぬが、是非とも申し上げたく存じます。ほんの短い間ながら、あの方と共にいる間、我々は何度も奇跡的な幸運を目に致しました。あの方は運に愛されているのではないでしょうか? 運の女神がついておいでですから、私はあの方のことを全く諦めてはおりません。あの逆境を乗り越えて、悪魔共の巣窟から逃げ延びられるのではないかと信じております」
都合で詳細は伝えられないながら、妖精ポピアンが側についている希望を教えたかったのだ。全くの孤立無援状態ではないし、ただの人間が側にいるより余程心強い数々の技を持っていた。だから本当に、カルバックスはソニアの無事を信じていた。
彼の熱心なその説明が、不思議と国王にも近衛兵隊長にも伝わったようだった。フィンデリアも顔を上げ、ソニアの持つ運を共に認めた。
「あの方がお戻りになられましたら、私は心より御礼申し上げたいと思っております。それに、あの方は少しでも早くこの国に戻り、国防に専念されることを望んでおられました。ですから、命を救って頂いたこの私、一旦火急の折には我が身命を賭してトライア国防に尽力したい所存でございます!」
国王はまた頷き、フィンデリアを手招きした。彼女は席を立ち、ベッドの傍らに寄って膝をつく。王は彼女の手を取って、優しくその甲を擦ってやった。こんなにも若い姫君を責める気など、この国王には更々なかった。
「そなたは……そなたの国の仇を討つという使命に燃えていたのじゃろう。そして、ソニアは兵士らしく人命を護ることに魂を燃やしておった。……互いに、互いの成すべき事をした結果なのじゃろう。ワシはそう考えることにする。起きてしまったことを悔やんでも、取り戻すことはできぬ。ワシも……あの者の無事を信じて待つとしよう」
「国王……」
フィンデリアは瞳を潤ませて王の手に接吻し、王もまた少女の手を引き寄せ、接吻した。
「さぁ、今度はもっとゆっくり、詳しく話を聞かせておくれ。あ奴のディライラでの戦い振りや、皇帝軍本部の様子などをな」
「はい……! 勿論です!」
フィンデリアは笑み、近衛兵隊長もまた「あいつの暴れぶりを聞かせてもらおう」と笑った。
そうして詳細が語られるうちに、早くも城内には、ソニアがディライラに出没していたらしいという噂が立って、急速に広まり伝わっていった。
詳細を把握して不定期刊行の新聞を出せば大売れすることは間違いないから、民営新聞の記者も早速城門を叩く。だが、今暫くはその物語を味わう特権を持つのは王達だけとされた。全てを知るのは彼等だけにして、国民達は必要な部分だけを知ればいいのだ。
命を奪うことは出来なかったが、あの獅子将に一矢報いることのできた今、これまでのように焦って獣軍の出現を待ち侘びる必要もなくなったから、フィンデリアは国王の誘いを受けて暫くこの城に滞在することにした。ここでソニアを待つこともできるし、何かあれば、そのまま防衛に参加できる。
国王も王妃も我が娘の如くフィンデリアを迎え、近衛兵隊長も彼女と同い歳の妹がいるとかで、実に優しく接してくれた。フィンデリアはこの国で如何にソニアが愛されているかを知り、改めて彼女の無事を願い、皆と共に彼女の帰還を待った。