第3部15章『麦畑の道連れ』3
「嫌……! 違う……! 違うんだわ! 私は皇帝軍の人の娘なんかじゃない!」
ソニアは急に笑い出した。現実逃避に走る者の血迷った振る舞いかと彼は一瞬思ったが、彼女の目は幾ら苦しみに喘いでいても、まだ正常だった。
「きっと何処かの人間と、母様の間に生まれた子なのよ! だって……だって私の耳……これは人間と同じだもの……! 人間が好きで、共に生きたいと思うもの……! 私には、ヌスフェラートではなくて人間の血が入ってるのよ! だから全然似てないのよ!」
彼は労しそうに首を振った。あんまり哀れだから、この苦しみごと彼女を食べて自分の中に隠してしまい、守ってやりたいとさえ思う。
「……言ったろう? オレ達は双子なんだよ。父も母も同じだ。……どんなに認めたくなくても、オレの父はお前の父なんだよ」
「有り得ない……! そんなこと……! 嫌……!」
ソニアはそこに座り込んでしまった。彼女はもう1つ、彼の知らぬ事で苦しんでいた。それらを合わせたら、もはや身を裂かれるように痛みが走る。
彼も共に膝を折り、決して離れぬよう肩を抱き続け、顔を覗き込んだ。ソニアは震えながら呟いた。
「……私が、どうしてこんな所にいるのかって……言ったわよね? 私だって……好きでこんな所になんかいないわ……! トライアを離れたくなんかなかった……! でも……仕方がなかったのよ……! 刺客に襲われて……飛ばされてしまったんだもの!」
彼はひどく驚いた。ずっと彼が知りたかった、空白の間の出来事だ。彼は何時も彼女に監視をつけ、何か異変が起きていないか常時見張らせていた。だが、それが先日、あろうことか知らぬ間に父によって監視役を全て取り払われ、いつの間にか彼女を見失っていたのだ。
愚かな監視役は、彼女に着けさせた現在位置を知らせる魔法具の座標しか見ておらず、それがトライア領内から動かぬから良しとして何も報告をしなかったのである。
彼が慌てて調べさせたところ、その座標地点には捨てられ土塊に塗れた魔法具しかなく、肝心の彼女の姿は何処にもなくて、その一帯の森は酷い有り様になっていた。
その後、トライアの人々が刺客に襲われ消えてしまった彼女のことを話題にしているのを、ようやく先頃掴んだばかりなのである。
「……どういうことなんだい?」
嫌な汗がジットリと出てきて、悪寒が走るのを彼は感じた。もう、どこかで気づき始めている。
「……あなたと最後に会って……間もなくのことよ。魔物が襲ってきて、戦ったわ……! あんな気持ち悪いもの、初めて見た……! 虫のようだけど蝙蝠みたいな翼を持ってて、イカのような脚や触手が何本も生えてるの。それが皆、私を狙って攻撃してきた! あれは……どう見ても刺客だったわ!」
特徴を聞いただけで、その魔物の名が解り、ゲオルグは芯からゾッとした。あの化物が、最高の殺人兵器が、彼女目掛けて放たれたと言うのか?!
吐き気がして、また眩暈に襲われ、彼は地に手をついた。
「その魔物は、殺した後で色んな毒を撒き散らすのよ。……その成分の中に、流星魔術の効果が入ってたらしくて……私は気がついたらスカンディヤに飛ばされてたわ……!」
おそろしい……! 何ておそろしいことだろう……! 飛ばされるだけで済んだのが逆に奇跡だ。飛ばされて死ぬことだってあるのに……よく今ここで生きて……
ゲオルグは震えながら、そこに膝をついたまま再び彼女を強く抱き締め、ギュッと掴んだ。
信じられない! おそろしい! まさかとは思っていたが、こんな事が……!
「クソォっ……! クソォっ……!」
「……あなたの父がナマクア攻めの大将なら、私に刺客を差し向けたのもその人よね? ……本当の父親だったら……実の娘をあんな風に殺そうとしたりする……? だから私は違うんだわ……! 娘なんかじゃないのよ……!」
「馬鹿な……!」
彼は盛んに首を振って現実に抗った。
父の命で監視が取り払われ、その直後に彼女が襲われた。ほぼ間違いない。あの人ならやりかねない。テクトのことはまだ知らぬはずなのに、その時点でこんな事を……!
父を憎いと感じたのは、母の死を知らされて以来だった。しかも今度の炎は、あんなものでは済まなかった。教えて欲しかった物事を隠されていた不満と、大切なものを奪われかけた衝撃とでは全く違う。しかも、自分の心を知っていながら、あれほど頼んでいながら裏切ったのだ。
彼の中ではほぼ確信していたが、父がどういう人物かを彼女に伝えるのは止めておいた。憤怒は自分の中にだけ留めておけばいい。そんなおそろしい男が父と知ったら、この妹がどれほど落胆し、我が身を呪うか知れない。そんな目には遭わせられない。
「どういう事なのか……オレには解らない。……だから調べてみる。……真相を確かめるよ。君のテクトでの活躍を知って、他の誰かが差し向けたのかもしれないし。オレ達の大隊に、そんな魔物はいないんだ……! きっと他の大隊が手柄を横取りしようとしたに違いない! 父上が……お前を殺そうとするもんか!」
「……本当に?」
2人は見つめ合った。2人共が涙を流して震えていた。ゲオルグは頷き、また彼女の頭を抱いた。彼女は泣き続ける。
「私……トライアに戻りたくて……色々手を尽くすんだけど、なかなか旨くいかなくて……ようやく辿り着いたのがディライラだったのよ。そうしたら……今度はそこで皇帝軍の襲撃にあって……また流れ流れて、ここまで来たの」
ディライラから先の事は彼も知っている。数々のおそろしい場面に遭遇し、彼も生きた心地がしなかった。虫達の王国に入り込み、ヴィア・セラーゴに連れて行かれ……
「お願い……! 私をトライアに連れて行って……! あの国を守らなきゃ……!」
彼は切なく嘲笑した。
「それは……できないよ。お前を死にになんか行かせられるか」
「あの国に何かあったら死んでしまうわ……!」
彼女の必死の懇願も、彼は同じくらい必死の思いで跳ね返す。
「オレは……お前に何かあったら死んでしまう……!」
ソニアは彼の腕を掴み、顔を離して間近で嘆願した。
「なら……一緒に行きましょう……! 人間の世界で一緒に生きるのよ! お兄様は人間を何とも思っていないんでしょう? 憎んだり、滅ぼしたいと思ってる訳じゃないんでしょう……? 私を守るのなら、トライアを守る私を守ってよ……! 一緒に世界の為に戦いましょう……!」
これは、未だかつてない誘惑だった。彼は言われてすぐに、ああ、いいよ、と答えそうになったくらいだった。彼女にこんなに強く願われたら、何だって叶えてやりそうになる。
だが、危うい所でその言葉を押し留めた。
皇帝軍は決して止まらない。ということは、彼女と共に人間側につけば、自分達2人だけで全軍を相手にするのと同じことだ。そんな無謀なことは出来ない。彼女と共に暮らせる一時の幸福を取って早死にするようなものである。
それに、実を言えば人間は好きではない。愚かで、弱くて、意地汚い。そんな性質を持っているだけで罪とも言えるものを満載しているのだ。
全てが間違いだったのだ。彼女だけが不完全に生まれてきたことも、その後、人間と暮らしてしまったことも。
「……お前と暮らすことは、オレの長年の夢だ。だが……皇帝軍と戦うことはできないよ。それに、お前にこれ以上の無茶はさせられない……!」
「だったら……! 私はやはり1人で帰るわ……! お兄様が手を貸してくれないのなら、何としても流星術者を見つけてトライアへ帰る……!」
「――――――ダメだ! 行かせない!」
手を離したら、それきり今生の別れとでも言わんばかりの強さで彼はソニアを抱き締め、掴まえていた。
「皇帝軍のおそろしさは、もう解っただろう? 勝てっこないんだ! お前は死ぬ!」
「でも……私は行くの!」
「ダメだ! ダメだ!」
「負けようが死のうが関係ない……! もし死ぬなら、トライアで王様達と死ぬ!」
「そんなのは許さない!」
こんな風にして、愛の為に自分を掴んでいる人の体を彼女に振り解くことはできなかった。渾身の力で、彼を傷つけるくらいの覚悟で暴れなければ、この腕から逃れることはできない。そんなことは、彼女にはできなかった。
涙が零れ、やるせなくて、切なくて、苦しくて、呻きながら、それでもソニアはやはり彼を抱き返した。ようやく知った、本物の家族なのだ。アイアスのように去ったりせず、ずっと側にいてくれて、自分を本当に愛してくれる兄なのだ。
「あのまま……あの時別れたまま……会わなければ良かった……!」
「ソニア……」
「いつか……こうなることは解ってたのに……! お兄様だと……やっと知ったのに……私達は……!」
「言うなソニア! 言わないでくれ!」
これでは、あの時と状況は殆ど変わらなかった。言葉も、あの時とそっくりそのまま繰り返しているような気がする。傷と溝はますます深くなり、膿まで出始めていたが。
「私は……お兄様とは戦いたくない……! お父様とだって戦いたくないのに……!」
「誰が……お前と戦ったりするか……! 父上とだって戦わせたりなんかしない!」
「私はどうしても行くわ……! 他に道はないの……! 選ぶのは私でなくて、お兄様よ! 皇帝軍とお父様を取るか……人間世界の私を取るか……!」
「――――――行かせない!」
ソニアは涙をできるだけ抑え、呼吸を落ち着け、整えていった。嗚咽を飲み込み、吐息する。そして彼の目をジッと見つめ、表情だけで嘆願した。
彼もまた共に息を潜めていく。彼女が次に何を言い出すか知れないから、おそろしくて震えが止まらなかった。
「……もう、ここで私を戦わせたりしないで……! トライアに帰る為に、あなたと戦いたくなんかない……! お願いだから離して……!」
「――――――嫌だ! 行かせるものか!」
そして我が決意を示すべく、痛いほどに彼女を掴む手の力を強めた。
「オレを刺すか? 殴るか? ……してみろ! それでも決して離さない!」
「お兄様……」
彼の頬摺りに涙がまた零れる。どうしても力を入れられず戸惑い、彼女もあまりの苦しさに眩暈を感じて、ひたすら無防備になっていた。
もはや、彼は本当の決断を迫られていた。ここで彼と戦うなどと言い出しているのだ。この手を離せば、戦なしに2度と彼女の顔を見ることはできないだろう。2度と、こんな風に愛しい彼女を腕に抱くことができないだろう。
彼は右の手を彼女の首元まで滑らせ、愛撫するような仕草から、そのまま一気に鋭い爪を立てて、彼女の白い項に突き刺した。
4本の爪が深々と入り、彼女は焼け付くような熱さを感じ、擦れた呻き声を漏らした。
「……お……お兄様……?」
こんな感覚は彼女にとって初めてだった。ただ刺されたのとは違う痺れが全身を駆け巡り、支配していく。手足は痙攣し、呼吸も覚束なくなった。
そのまま崩れそうになる彼女を彼は抱きかかえた。次第に血の気が引き、ただでさえ白い顔がもっと真っ青になっていくのを見届ける。
「……毒…………なの……?」
ソニアは彼の顔に手を伸ばすが、届かず、すぐに上げていられなくなる。瞼も落ちかけてきた。
「……私を……殺す……の……?」
彼は早鐘を打つ胸の痛みに耐えながら、瞬きもせずに真直ぐソニアの顔だけを見つめ続けた。そして優しく額を撫で、涙も拭ってやる。
暫くそうしているうちに、彼女の手は力なくダラリと垂れ、最後まで彼を信じて見開いていた一心な瞳は閉じられ、涙が零れた。
傾きかけた陽光は長閑なままで、彼女の心を表して一時吹き荒れていた風もすっかり治まり、また微風に戻っていた。鳥の鳴き交わしもまだ続けられている。それは、天国のような田園風景での、昼下がりの狂行だった。
彼は彼女の頬を撫で、額を撫で、そして、そっと頬に口付けした。
「……ソニア……」
意識を失い、すっかり力の抜けた彼女の身体はぐったりと重くなり、彼の腕の中で横たわる。
「――――――それは毒か?」
突如、他に誰もいないはずの背後から鋭い声が飛んで来たので、彼はビクリとして振り返った。
やはり、そこには誰もいない。轍と草原が広がるばかりだ。すぐそこには2、3本の木が立つ場所もあるが、声の距離感からしてそこからではなかった。だが、何かがいる。
ソニアのことに夢中でずっと気がつかなかった彼も、急速に神経を研ぎ澄ませて辺りに気を張れば、確かに何者かの気配があった。
「――――――答えろ! それは毒か?」
今度は別方向から再び声が響いてきた。移動が素早い相手らしい。声は甲高くて、鈴を鳴らすように不思議な反響をする。
「……何者だ! 姿を見せろ!」
彼はソニアをしっかりと抱いて離さず、四方を睨みながら手を翳し、掌を光らせて威嚇した。曲者の位置が判ればすぐにでも魔法をお見舞いできる。
ソニアが起こす風に近い気流の動きが始まり、下から吹き上げるようにして彼を取り囲んだ。彼自身が発するエネルギーでその風を圧し、反発する。このように気流に動きをもたらすことが出来るのはエルフか、でなければ、その者自身がとても強いパワーを持っているかだ。
相手がソニアではない他人に変わるや、彼の目つきは一変して鋭く暗くなり、何の躊躇いもなく相手を細切れにする容赦のなさが取って代わって表れた。
互いを探り合う緊張感が漂い、暫し沈黙が続く。
「……私はそなたをよく知ったる者だ! ……そなたがこの世に生まれ出でし時より、そなたを知っている! ――――――答えよ! それは毒か?」
「オレを知っている……? 貴様、何者だ!」
風が一層強まり、双方激しく圧し合って1歩も退かなかった。麦の穂が弄られ、道端の花が倒れる。彼は今や冷静さを取り戻し、持ち前の冴えを見せていた。
「――――――答えよ!」
「……ははぁ……貴様、妖精だな? ソニアと一緒にいたはずが、ずっと姿を見せなかったからな。……これは誘眠毒だ。眠り薬よ! 即効性の、かなりショックの強いやつだがな!」
その答えを聞いて、風は少し緩やかになった。確かに、彼の腕の中でソニアの胸はゆったりと上下している。
「……その娘をどうするつもりだ……!」
彼はフッと笑った。
「……どういう経緯か知らんが、妖精が共にいたとは驚きだ。エルフの村の者か? 何のつもりで彼女を守ってる?」
その問いかけに対する答えは返ってこなかった。ただひたすらに、憎しみに近い感情の波が繰り返し彼に向けて放たれた。
「まぁ、いい。……お前等にソニアは渡さん。こいつはオレのもとに連れて行く。これ以上、この世界に居させる訳にはいかないからな……!」
「何だと……?! その娘がそれを望まないと知っていながらか?!」
彼は腕の中のソニアに目をやり、切なく微笑し、そして頬を撫でた。
「……ああ。聞いてたんだろう? こんな風に力ずくで連れて行くことはずっと避けていたが……もう限界だ。彼女が納得してくれなかったのは残念だが、時間をかけて諦めてもらうより他ない。あんたもソニアを守りたいんだろう? このままにしとくと、死ぬぞ? こいつは」
「……そなたの助けは必要ない……! 他にいくらでも方法はある!」
「フフフ……貴様等の指図など受けん。貴様等の助けも信用していない。あの村の者なら、そのことはよーく解ってるはずだ。……オレのたった1人の妹だ。オレの手で守る。戦ってでも奪う気があると言うのなら――――いつでも相手になろう。オレを倒せるものなら倒してみるがいい」
じっとりとした険悪な沈黙が流れる。其処此処で空気が弾け、衝突した。
「……その娘は強いぞ。……もし彼女と戦うことになったら、何とするのだ!」
彼はまた腕の中のソニアを見やり、心苦しそうに目を細め……だが、謎めいた企みに覚悟を決めた笑みを口元に広げた。
「……何をする気だ?」
「……さぁな」
彼はソニアを抱きかかえたままゆっくりと身を起こし、改めて両腕でしっかりとソニアを抱え、涙で濡れた頬にまたキスをした。
理知に輝く翠玉色の瞳は強く空を射抜き、彼の魔力がマントをはためかせる。
「オレ達ハイ・ブライドに構うな。貴様等の村は貴様等だけで勝手に楽しくやっているがいい。――――――さらばだ!」
彼はソニアと共に光となり、星になって宙を舞い、そのまま空の彼方へと弧を描いて飛んで行き、やがて消えてしまった。
後には何も残されていない。
やがて新たな馬車が田舎道をやって来たが、今し方ここで事件があったことも知らず、ただ流星が飛び立った気配に馬が少し気づいただけで、後は何事もなく通り過ぎて行った。
風は穏やかで温かく、麦の穂の波は何処までも連なり、彼方に打ち寄せていく。目撃者はただ、道端の草花ばかりであった。