第3部14章『伏魔殿』5
ヌスフェラートの将と鱗人は暫くそこで様子を見ていたが、やがて動き出した。何者かは判らないが、場の空気が変わるほどの力を持ったあの人間は只者ではない。強敵に出遭って戦士の血が目覚め、その正体を知り、戦ってみたいという衝動が生まれたのだ。
ホールに残ったのは動けぬ獅子と、彼を見守るホワイト・タイガーだけだった。獅子は血塗れの顔で尚も人間達が消え去った後を見やっている。彼ほどの強者が急所に傷を負ったせいかもしれなかったが、獅子の様子はどこかおかしかった。ホワイト・タイガーはそれを案じ、何度も具合を尋ねて医療班の到着を待った。
カルバックスは前だけに集中し、追い風に助けられて、とても2人の者を牽引しているとは思えぬ速さで上を目指すことが出来た。衛兵の多くが下階に降りていたから、一度突破した後はあまり敵に遭遇することなく飛び続けることができる。
噴水広場を抜け、滝のホールを抜け、向かい合う竜のオブジェにまで辿り着いた。後から燕の速さで衛兵達も飛んで来る。ソニアは飛びながら真空刃を放って後続に叩き付けた。壁が壊れ、爆風が彼等の行く手を塞ぐ。それでも後から後から衛兵達が飛んで来た。
そして鱗人とヌスフェラートの将の姿も認められるようになった。ソニアは追い風を吹かすのを一時止め、後方に噴射させて火炎魔法を放った。風に飲まれた火炎は炎の瀑布となって流れ込み、通路を焼き尽くす。
再び追い風に切り替えて速度を上げるが、あの鱗人とヌスフェラートの将だけは炎をものともせずに突き破ってきた。あれを近づけたら、この人達の脱出が難しくなる。
ソニアは何度か大火炎を起こして勢いだけでも削ごうとした。後少しで地上だ。
彫像の立ち並ぶ大ホールにまで達し、カルバックスはそのまま発着台のあった上階にまで上昇した。空が見える。ここでソニアは手を離した。
「――――――行け!! 私が食い止める!!」
「――――――そんな!!」
2人は驚いて飛行を止め、滞空した。有無を言わせぬ迫力でソニアは叫んだ。
「――――――行けぇっ!!」
チラリと鱗人の姿が見える。もう、行くしかなかった。戸惑うフィンデリアを今度こそしっかりと抱き締めて、カルバックスは涙を零しながら発着台に向かって飛んだ。幸い誰もいない。ソニアは追いついた鱗人に向かって真空波を放った。
「あぁっ!!」
振り返らずにカルバックスは集中し、星となる。姫も同じ光に取り込まれた。そして流星となり彼方に飛び立つ。ソニアはその軌跡を確かに見届けた。追跡の流星は特に見当たらない。これなら、もう追っても間に合わず2人は無事逃げ延びるだろう。
後は自分が生き延びるのだ。
鱗人が、真空波を払い除けた手を翳したままそこに立ちはだかり、ニヤリと笑った。ヌスフェラートの将も追いついている。
「見事、逃がしたな……! お主、何者だ!」
ソニアは答えず走り出した。鱗人の掌から光る球が幾つも生み出され、一斉に飛び立ち、彼女の進む通路を柱から天井に至るまで破壊した。
同じように発着台から外に出ようと思っていたが、それが出来なくなり奥へと進んで行く。飛翔してこそ、どうにか逃れられた相手なので、駆け足ではあっという間に追いつかれた。
球の1つに背を弾かれてソニアは吹っ飛び、突き当たりの壁に叩きつけられた。信じられないくらいその鱗人の動きは速く、気がつけばもう彼女の体を踏みつけにしていた。
「入り込んだのは3人だけか? お主もサルトーリの人間か?」
先程まで対峙していたあの皇帝もおそろしかったが、その鱗人に触れているのは、違う意味でもっとおそろしかった。動物的本能で感じる様々な危険を、この生命は寄せ集めて仕込んでいるような波を持っている。こんな感覚を覚えたのは初めてだ。
そしてまた同様に鱗人の方も、足蹴にすることで伝わってくるこの人物の波の中にキラリと光るものを感じた。
「そなた……天使か?」
その時、ふいに彼の目の前で閃光が弾けて顔を刺した。すかさずソニアは身を返して逃れ、すぐそこにあった下り階段に飛び込み、転がるように駆け下りて行った。何処でもいいから駆けに駆け、外に出る道を探す。鉢合わせになったヌスフェラート兵にそのまま突進し、精霊の剣の鋭い捌きで槍を断ち、足を斬って倒れさせた。
「外に出て! 何とかして外に!」
姿を消しているポピアンの声が耳元でする。ソニアは走り続け、極力人の気配が薄い通路を選んで突き進んだ。あの鱗人達が追って来ているのを感じる。
この聖堂の造りは複雑で、階段や螺旋状の道や脇道が入り組んでおり、まるで迷路のようだった。これより下に降りると外が遠くなるだけだから、昇り階段や通路しか選ばずに走る。幸い上部は重要機関が集まっておらぬらしく、行く先は殆ど無人に等しかった。
行き止まりになり、ここで一度ソニアは足を止めて壁に背を付き、物音や気配に耳を済ませた。抑えようとしても自分の息が煩い。
すると、背後に強烈な存在感を感じた。気がついた時には壁から鋭い刃が飛び出て突き破り、その刃は形を変えてグニャリと曲がると、彼女を抱き込むようにして捕らえ、壁ごと力任せに引いた。壁が崩れ、ソニアはそのまま後ろに引かれて運ばれる。
咄嗟に剣を振るうが、その手をはっしと掴んで押さえられ、彼女の目がその人物を捉えるより先に声が届いた。
「来なさい!」
手をグイグイと引かれ、ソニアは走る。頭を振るって埃や石屑を払い落とし見てみると、それは玉虫色の外骨格を纏ったあの謎の戦士だった。触角がないし、ヴィヒレアとは形が違うからすぐにそれと判る。謎の戦士はソニアの手をしっかりと握って、薄暗い通路を走り導いていた。
「あなたは……?!」
「君を逃がす! ついて来るんだ!」
訳も解らず戸惑いながらソニアは一緒に走った。その人が本気で逃走路を探しているのを感じるから、嘘を言っているとは思わない。
しかし、噂の当人が現れ、こうして人間を助けていることがあまりに不思議で困惑した。この人は、人間を守ろうと戦う異種族なのだろうか?
道も知らぬソニアの逃げ方とは違って、この人は明らかに勝手知ったる動きをしていた。迷いもなく通路を選び、階段を駆け上がっていく。
やがて光射す新たな通路にまで達し、謎の戦士はそこで早くもソニアを引き寄せて肩を抱いた。そして、そのまま光が2人を包み込む。星となって通路を抜け、開いた口から飛び出して都市を横切る。誰も追っては来ない。
戦士は追いかけて来る星がないか注意して、何度か後方を振り返り見た。切り立った山脈が足下に広がり、それが同心円状に連なって重なっているのが見える。雲の中に入った後は、もう光だけが辺りを包んでいて何も分からなくなった。
助かったのかどうかよく解らず、まだ戸惑い困惑するうちに光の世界が終わり、ソニアは草の上に手をついた。何処かの野原に着地したのだ。
ハッとして見上げると、そこでは謎の戦士が後ろ向きに離れながら、もう去ろうとしていた。そして一言こう言った。
「もう、あの都に二度と近づいてはいけない……!」
「――――――待って、あなたは――――――」
その人はすぐにまた光になって、流星呪文発動のビリビリと伝わる波だけを残して彼方に飛んで行ってしまった。
ソニアはただ呆然と、何処とも知れぬ草原の田舎道に座り込んだまま、星の消えて行った軌跡だけを見つめ続けた。
ポピアンが姿を現し、ソニアの肩に乗ってガックリと手をつき、長々と溜め息した。
「助かったぁ……」
フィンデリアとカルバックスも無事に人間の街に到着していた。流星術は直近にいた場所に戻るのが最も容易い性質がある為、この地上世界で2人が辿り着いたのはディライラのソドリム港だった。
港を見下ろせる高台の草原に降り立った2人は、光から元の人間の姿に戻った後も暫くその場で放心していた。本当に生き延びたのか、人間の世界に戻れたのか、実感が湧いてこない。膝が落ち、ペタリと座り込む。
ここから見渡す限り、ソドリム港は早くも復興作業を始めており、人々が忙しなく働いていた。崩れた屋根を修復する為に高い所へ昇っている者もいるし、一度全て壊して立て直そうと、壁を叩き崩している人足もいる。船は何隻も港を離れており、漁船の姿も幾つかあった。ディライラ城の旗も、王権の健在を示して風に頼もしくはためいている。
息をしている。動いている。
フィンデリアはカルバックスに目をやった。無精髭の中年男は涙と煤で汚れに汚れ、乞食のようななりだった。彼もまたフィンデリアを見る。彼女の目からポロポロと涙が零れ、流れ伝う筋となった。彼も同じように涙を流れるままにした。
姫は震える手を伸ばし彼を掴むと、その胸を揺すった。
「あの人を……置いてきてしまったわ……! あの人が身代わりになってしまった……! 私が死ぬべきだったのに……! こんな風に助かってしまうなんて……!」
カルバックスも手を震わせながら姫の肩をそっと抱いた。
「あの方は……特別です。死なずに済むかもしれません。私は決して後悔しませんよ。謝りもしません。あなたが助かった……! ありがたい……! こんなにありがたいことはありません……!」
カルバックスは泣きながら笑っていた。そこには、亡き父や兄達全ての思いを引き継いだ庇護と愛しみの温もりだけが輝いていた。
もう、彼の胸を揺する気力はフィンデリアにはなかった。彼女はそのまま首を落とし、彼の胸に頭を押しつけて激しく泣き出した。カルバックスは大きく彼女を包み込んで抱き締め、ひたすらに慰め、愛しんだ。
彼女がこんなに激しく泣くのは、サルトーリを旅立ったばかりの最初の夜以来だった。己が使命の為に涙を封印し、鞭打つような生き方をしていた彼女が、1つの目的を遂げた反動と罪悪感によって箍が外れたのだ。
カルバックスは王や王子達に感謝の言葉を述べ、ソニアがあの伏魔殿から逃れられるよう神に繰り返し祈った。そして、いつまでも、いつまでも、泣き続ける少女を抱き締め、あやした。
侵入者を逃したらしいという話を、獣王大隊長ラジャマハリオンは治療の床で聞いた。獣族も魔法は得意ではなく、日頃は自らの高い治癒力に任せているのだが、今回ばかりは傷が重いのでヌスフェラートの手を借りて、彼等の魔法と技で傷の治療をしていたのである。
専用の治療院で石造りの診察台に座り、ヌスフェラート医師の診察を受けた後、彼は治療呪文を受けて傷口を塞いだ。
威力が目から脳に達して突き抜けているので治療は慎重に行われ、何度か違った角度から治療呪文が当てられ、問診もたっぷりと行った。
医師の見立てでは今のところ異常はないようだったが、回復した目の働きも脳の働きも経過を見る必要があるとだけ獅子に念を押していた。ヒールによって当初潰れていた眼球も再形成され、元通りになっている。
ずっと心配そうに側についていたホワイト・タイガーのダージリアンも安心し、一息ついた。
ラジャマハリオンは治療院を後にし、仲間達と合流した。地下城内部はまだ混乱の真っ只中だ。事態の把握と残党探しに兵士達は走り回っている。
怪我の後遺症なのか、何やらゆっくりと辺りを見回すことが多くなり、彼の動き全てが緩慢なので部下達は心配し、何度か具合を尋ねた。念の為休養を取るといいという者もある。彼はそうだな、と返した。
ヴォルトもロキバルドもまだ上の方で動き回っているようで姿が見えない。先に遭遇したのは魔導大隊のゲオムンドだった。負傷したという話を聞いて詳細を尋ねに来たのだ。彼は見たことだけを語った。人間が入り込むようでは警備が緩んでいるとゲオムンドは言い、彼も同調した。
ゲオムンドは最後にエルフを見なかったかとも尋ねた。彼はその話を聞いていると伝え、自分も挨拶に行こうと思っていたのだが姿は見ていないと教えた。《そうか》とだけ言うと、ゲオムンドは何やら苛立った様子でそこを立ち去った。
まずは皇帝に会い報告をしなければならないので居室に向かうのだが、取り巻き達が今回のことで口々に怒りをのぼらせ毛を逆立てている中、相変わらずラジャマハリオンだけは、何やら1人違う様子で静かに歩いていた。もう仲間達もしつこく問いかけはせず、ただ見守っている。
ラジャマハリオンは目の傷を負ったにもかかわらず、同時に激しい胸の痛みを感じていた。目を癒した今は、胸の痛みしか残っていない。こんな感覚は久々――――――いや、初めてかもしれなかった。
彼の目に、自分ほど紅くはないが、それに近い色の髪を持つ娘の姿が焼き付いている。彼に殺意のこもった緑柱石色の光を投げかけるあの眼差し。
仲間がいたとは言え、後から追いついて来た様子だった。あの娘はたった1人でこの敵地に乗り込み、自分の下まで辿り着き、報復を挑んできたのだ。確かにサルトーリ城からの脱出の瞬間を覚えているあの少女が……。
これほど健気で意地らしいことがあるだろうか?
なんと美しいと思ったことだろう……!
ラジャマハリオンは自分のこの感動に驚き、戸惑っていた。自分が襲った国の、しかも人間の娘にこんなに心動かされるとは、あの光の矢には何か魔術でも仕掛けられていたのではないかとさえ思う。
この胸の痛みを、疼きを、何と名付けてよいのかまだ解らない。
いや、解っている、本当のところは。だが……認めたくない。
こんな心の内を明かせる訳もなく、彼は一言も口にせずに黙々と歩き続け、地下への道を辿った。




