第3部14章『伏魔殿』2
「そして、もう1つございます。私の前に謎の戦士が現れまして、戦いを挑んで参りました。完全なる妨害行為です。その者との戦いで深手を負いました故、撤退を決断致しました」
「何と……まことか?」
「今は傷も癒えておりますが、肩と胸を貫かれました」
「そなたの、その体をか……!」
どよめき声が上がる。皆がどれだけ、このヴィヒレアを強者として認識しているかが窺い知れた。嘘だろう、考えられん、等々の言葉が続いた。
「一体どんな奴なのだ? その者は。まさか人間ではあるまいな?」
「……見る限りでは人間ではありませんでした。一見、我等と同族かと思うような鎧を全身に纏っております。しかし我等のような触角はなく、目も見当たりませんでした。手足を自在に伸ばすことが出来、それを鋭い刃に変えて我が体を貫きました。その者は、名を『マキシマ』と名乗っておりました」
「『マキシマ』……何者だろう」
ブースのそこら中で囁きが交わされる。何処ぞの大隊が差し向けた妨害者ではないかとも思えるが、特徴からは何とも特定が出来ない。それに、何せヴィヒレアの証言だけだから証拠がなく、現実感に乏しかった。
低い声で誰かが言った。
「……遂に現れたのではないか? 新たな天使が」
一瞬会場中が静まり返る。しかし、冷静そうな声がすぐに反論した。
「人間を守る為に来たのなら、人間の姿をしているはずだ。これまでもずっとそうだった」
「だが、他の任務も帯びているのやもしれんし」
「…………」
更に他のブースから声が上がった。すぐ右隣らしい。
「実は、我等も新たな情報を手に入れたばかりです。我が手の者が聞いた所では、人間達が『英雄が帰ってきた』と騒いでいるとか。まだ確認不充分なので敢えて申しませんでしたが、これまでの煽動とは少し違っておりまして、非常に熱心に信じている者が多いようです。あの、かつての天使が戻ったと口々に言っているようで。発信地はディライラのようです。今回の戦場に出現したとの専らの噂です」
「ハハハ、《アイアス》か、馬鹿共め。それは有り得んのに」
何故かその他の者もせせら笑っている。愛おしい者の名前が上がってソニアの胸にドキリと痛みが走り、彼らの反応はどういうことなのだろうと考えた。
「……新たな天使かもしれぬし、そうでないかもしれんが、これはよくよく調査せねばなりますまい。今後進軍する際に、我等も妨害を受けるかもしれませぬぞ」
「ヴィヒレアよ、その者は何か言っていたか?」
「マキシマと申す者は、このように言っておりました。強き者を求め戦っていると。私のこの体が虫王大隊最強で、貫ける者はいないとの噂を試してみたいと」
誰かが笑った。ヴィヒレアに失礼に当たろうとも全くお構いなしに、大きな声で。
「――――して、その者にまんまと貫かれたわけか! ハハハ! 大胆な輩だ。面白い!」
「サールよ、口を慎め! 笑い事ではないぞ! ヴィヒレア殿ほどの者を負傷させたのだ。次はお前やもしれんぞ!」
サールと呼ばれた男はまだ笑っている。
「名のある兵から順に狙われるということなら、大いに名誉なことではないか! 望むところだ」
何人かは口篭もり、何人かは笑い、また何人かは更に叱責の言葉を浴びせた。
天幕からも声がかかる。
「……ガルマッサ サール・バラ・タン。ディルヒ ヴァイン ヨック」
「……ウナ、ソレル カーン」
皇帝にまで叱咤されたらしく、それきりサールという者は発言を慎んだ。
ここでまたヴィヒレアが続きを述べた。一時バラバラになっていた視線が再びこのブースに集中する。
「今回の件について、実はその他にもう1つお伝えすべき事があります。その為に、これまでアルス語を使わせて頂きました」
「ほぅ……どういうことだ?」
ヴィヒレアは真直ぐ天幕だけに視線を注いでいる。
「今回の戦場において、偶然現場に居合わせた方がおりまして、只今ご報告した事に関しましても全て目撃されているのです。その方が是非とも陛下にお会いし、お話がしたいとのたってのご希望でして、私は案内役を務めさせて頂きました。もしお許し頂けるのであれば、この場でご紹介したいと存じます」
また会場がざわついた。隣のブースから「証言者を無理矢理連れて来たな」と、あからさまな嫌味の囁き声が聞こえてくる。ヴィヒレアは一切を無視し、天幕とだけやり取りをした。
参謀長が言った。
「何者だ?」
「この度、私が負った傷を癒して下さった素晴らしい技をお持ちの方です。ご恩があります故、こうしてお連れ致しました。敵ではございませぬ」
天幕の中から声がかかった。
「来なさい」
「はっ」
許しが出てヴィヒレアは立ち上がり、ソニアに手を差し伸べた。ソニアの胸がドクドクと高鳴る。ソニアは振り返ってフィンデリアとカルバックスに視線を送り、一度頷いて見せた。2人も応える。ポピアンはソニアの肩に乗ったままだ。
ソニアはヴィヒレアの肘にある柔らかい手を取り、導かれてブース脇の階段からゆっくりと下に降りて行った。チラリと目をやると、他ブースの者達の顔が一瞬ながら見えた。全身鱗だらけの人とヌスフェラートが何人かと、ホワイト・タイガーをそのまま2足歩行にしたような獣人だ。
務めて堂々と気高く階段を降りて行くソニアに視線が集中し、その中の約1名は凍りついていた。
肩に乗ったままのポピアンはもっとジックリ周囲を眺めた。そしてある人物を見つけて顔色が変わり、とても憎々しげな様子で顔を歪め、目を細くした。
中央の立ち台に乗ると、ヴィヒレアが声を上げるより先にソニアが言った。
「私です、陛下」
ブースのそこここで囁きが交わされ、ヴィヒレアも意外そうにソニアを見る。
すぐに返事は来ない。
ソニアはもう一度ぐるりと辺りを見回した。ポピアンが演出とばかりにソニアの周囲を2、3周し、光の粉を撒き散らす。そんな妖精の姿に好奇の声が上がった。「何だあの女は」「あれはエルフか?」と様々な声が飛び交う。
中の1人、髑髏のようなおそろしい顔をしたヌスフェラートだけは何も口を利かず、ソニアをただ凝視していた。何だろうと思いつつも、ずっと見つめ合うわけにもいかず、他の者の姿も見てみる。
声からして、先程ずっと大口を叩いていた者らしきヌスフェラートが天幕の真正面に位置する席でふんぞり返っている。体格のいい武者だ。
そして全て見渡すうちに、ソニアはふと先程の髑髏顔の男が少しゲオルグに似ているような気がして、あれがもしや魔導大隊の長ではないかと思い、もう一度だけ目を向けた。これ以上ない、というくらいの驚愕を顔に表している。
やはり……そうなのだろうか?
そうしていると、天幕の奥でギシリと軋みが上がり、立ち上がる音がしたかと思うと、天幕が動いて中からヌスフェラートが出て来た。参謀長も他の者達も皆が驚く。皇帝カーンは、なかなか姿を現さぬことで有名な、やんごとなき秘密主義者なのだ。それがこうして直々に、自ら足を使って出て来たものだから、一同唖然とした。
何名かは気づいていたが、知らぬ者は一体この娘にどんな因縁があるのか見当もつかず、ひたすらに成り行きを見守るしかなかった。
ソニアはよくよくその人を見た。いつかカリストの魔法で対話した時と、そっくりそのまま同じ顔をしている。あの瞬間を思い出して軽い眩暈を感じたが、必死でそれを隠した。
老いてはいるが、背はそれ程低くない。大粒の宝石を幾つもあしらった冠が頭を飾り、冠の正面中央には威嚇的で煌びやかな角がついている。目の周りにはヌスフェラート典型の黒い隈が縁取り、いつもながら人間が見たら悪魔を連想させる形相をしていた。その中に浮かぶ瞳は真紅で、中央には紫色の恒星が燃え盛っていた。髪は老いを感じさせる灰色がかった白髪だ。エルフのように美しい直毛ではなく、緩やかなウェーブを描いて長く後ろに垂れており、一部が編み込まれている。
ソニアは視線を逸らさず真直ぐに皇帝と向かい合い、ゆっくりと頭を垂れた。天幕と立ち台の間に距離があったが、皇帝は目を見開いたままどんどん近づいて来る。
「そなた……遂に参ったのか?!」
ポピアンが手前で飛び回り、それ以上近づけさせないようにした。
「近づくな!」
皇帝は特に怒り出しもせずにそこで立ち止まり、何と笑い声まで上げた。
「何もせぬ。何もせぬわ。心配するでない、妖精よ」
ソニアは、下手に会話が始まってややこしくなる前に自分から話し始めた。
「ヴィヒレア様の仰った通り、私、この度の戦場で全てを目に致しました。人間の変化も、マキシマという謎の戦士の乱入も、確かにどちらもあった事です。これほど忌まわしきものを、これまでに見たことがありません」
話途中で、またあの大口男が言った。
「――――誰だ! あんたは! エルフが何の用だ!」
そこへ、皇帝より早く参謀長が彼に近づいて行き、目の前で声を押し殺しながら激しく叱りつけた。
「やめんか……! 未来の后妃だぞ……!」
大口男含め、知らなかった者はその言葉を耳にするとギクリとして眉を顰めた。
逆にソニアはその一言で、今のところは試みが成功しているらしいことがわかった。彼女は、取り方によっては自分とよく似たもう1人の誰かに思えるような言葉だけを使って、相手がどちらに取るかを試そうとしていたのだ。よく間違われるから、成功する見込みはあると思っていた。
「とても酷い傷を負ってらしたので、私はヴィヒレア様の手当てを致しました。そしてお願い申し上げたのです。陛下とお話が出来るよう、ここに連れて来て欲しいと」
その通りだと言わんばかりにヴィヒレアは頭を垂れた。
「戦場にいたなどと……では、そなたはまだ旅をしているのか?」
ソニアは答えず、ただ切ない顔をした。
「……陛下……私、どうしても一言申し上げたくて参りました。今回の戦はあまりに酷いものです。この世界に生きる者として、私には我慢なりません。ハイ・エルフは不関与、不干渉の立場ですが、私個人として、どうしても見兼ねるものがあるのです。どうか……こんな戦はもうお止め下さい……! 戦があるからこそ、このような不可解な事件も起こり得るのです。侵略などお考えにならないで……!」
こんなとんでもない事を皇帝に面と向かって言うものだから、居並ぶ者達は仰天して固まってしまった。すぐにこの場で斬り殺されてもおかしくない大それた発言だ。皇帝の性分をまだ知り尽くしていない者は、これでもうこの娘は死んだなと思った。
だが、誰もが驚いたことに、皇帝は尚も妖精の示した距離を保って、少しも気分を害した様子もなく、返って面白そうに笑みさえ浮かべていた。
「まこと……そなたじゃ。全く変わっておらぬな。ワシにそのような口を利くのも、そなただけじゃ。愉快、愉快」
「笑い事ではありません……!」
皇帝は、皇帝でありながら淑女に対する礼をそこで示した。ますます、この人が未来の后妃であるということが皆にも解ってくる。
「相変わらず、誰彼構わずに手を差し伸べておるのじゃな。そしてどの種族にも分け隔てのない慈悲を……。そんなことで、よくこれまで無事に生きておれたな」
間近で皇帝の表情を見られるソニアは、彼の瞳の中に以前と同じような、いや、それ以上の愛おしさが籠っているのを認めた。一体、自分に似た誰かとこの人の関係はどのようなものなのだろう?
「この戦のことは、後ほどゆるりと語らおうではないか。とても大切なことであるから。それより――――――そなた、遂に決めたのか?」
ソニアは一瞬躊躇し、それからそっと言った。
「……何をです?」
「白々しいことを申すな。ワシの気は変わっておらん。ワシのもとに来ると決めたか?」
ソニアは状況を汲み取って暫く考えた。しかしそれより先に、ポピアンが飛び回りながら喚いた。
「――――誰があんたの所なんかに! 許すもんですか! 絶対許さない!」
これだけ挑戦的なことを言われても、皇帝は全く意に介さない様子で笑っている。むしろ跳ね回る子犬を見て楽しんでいる風だ。
ソニアは手を差し出してポピアンを呼び、手に留まらせて落ち着くように言った。その素振りは、どう見てもハイ・エルフの姫君だった。誰も疑う者はいない。
改めてソニアは皇帝に目を向け、慎重にこう言った。
「……私が今回参りましたのは、あくまでも戦について意見を申し上げたかったからです。でも……陛下がこれからどうされるかによっては……私も心を変えるかもしれません」
「ハッハッハ! このワシに向かって、何とも大胆なことよ! まずは語らおう。長い時を埋める為には語らいが必要じゃ。もうすぐこの会合も終わる。それから時間を取ろうではないか」
ソニアはお辞儀をし、自ら虫王大隊の専用ブースに戻って行った。ヴィヒレアも一礼して戻って行く。
その後、皇帝の指示で会合の流れが元に戻り、残る大隊の報告がヌスフェラート語で成され、交わす言葉もヌスフェラート語に戻った。
ブースでヴィヒレアが囁いた。
「……驚きました。あなたが皇帝とただならぬ関係をお持ちでらっしゃったとは」
ソニアはそれに対して何も言えず、違うことを言った。
「お約束は果たしました。お願いしたいことがあります。この通り私は暫く滞在することになりそうですから、先にこの人達だけは無事に逃がしてあげてくれませんか? ここにいることは、まだまだ危険ですから」
「よろしいでしょう。お約束通りに」
フィンデリアとカルバックスは戸惑っていた。
「でも……」
「大丈夫です。心配しないで。あなた達だけは先にここを出て下さい。私は……やれるだけ、もう少しやってみたいと思いますから」
手を掴んで話さないフィンデリアに、ソニアは微笑んで見せた。
会合が終了しても多くがすぐにそこを立ち去らず、改めて中央に下りて来たエルフの姫に会うべく、幾人かがブースを降りて近づいて来た。ポピアンが鋭い眼差しを誰にも向ける。
はじめに挨拶を述べたのは、あのホルスという鳥人と側近だった。
「その節はお世話になり申した」
立ち上がった姿はさらに派手で、腹部は濃い緑色、尾羽が黄・緑・青と3色であることが判明した。腕輪と大きなペンダントをしている以外は特に服も装飾品も身に着けいていない。腕と足は嘴と同じ薄紫色だ。足は4本指と鉤爪をそのまま剥き出しにしている。
ソニアはよくわからず、ただお辞儀をして微笑んだ。
「再びお会いできるとは思いませなんだ。大変嬉しゅう存ずる」
側近の白い鳥人も深々と頭を下げた。
続いてホワイト・タイガーの獣人が挨拶した。
「副長ダージリアンにござる。長に代わってハイ・エルフ族に友好の情を申し上げる」
これにもソニアはお辞儀と微笑みとで応えた。
傍らでは、あの大口男がジロジロとソニアの様子を窺っていた。こちらはとても友好的とは言い難い雰囲気だった。彼女の皇帝への振る舞いといい、気に入られようといい、何よりこの戦を止めよなどと言う図々しさといい、全てが気に入らないのだ。
そして、ただ関心を持ってこちらを眺めている鱗人がいた。黄金色の目をしており、とても背が高い。鳥人も獣人も上背があるが、この鱗人はそれ以上だった。
ソニアは生来の性分で、鳥人の羽毛や獣人の滑らかそうな毛並みや鱗人の冷たそうな肌を触ってみたい衝動があったが、その好奇心は目の中にだけ閃かせ、表情や振る舞いは極力抑えた。
そして、ブースからは出ないながら、こちらを依然としておそろしい形相で凝視しているあのゲオルグ似の男もまだそこにいた。
いずれ后妃になるかもしれない重要人物に挨拶する必要を感じた者は、概ねそれを済ませ、急ぐ者は早々にそこを立ち去って行く。ヌスフェラート達はただ見ているだけで、正式に挨拶に来る者は1人としていなかった。
どうしてか、とても深く関わりがあるような気がしてならず、ソニアは鱗人と大口男、そして髑髏男のことばかりを何度も見た。
そうしていると、やがて隙ありと思ってか、大口男が近づいて来て一言嫌味を言った。
「戦いを止めようなんざ、馬鹿げた考えだ。陛下が笑っているうちに口を噤めよ。我輩はエルフなんざ信用しないからな。陛下が許しても我輩は許さんぞ」
「……あなたは?」
「大将サール・バラ・タンだ。よく覚えとけ、小娘」
「無礼者! ケダモノめ! 下がれ!」
ポピアンの怒りの飛沫にチラリと目をやり、サールは皇帝に気づかれぬうちに引き下がった。
どうしてか、彼を見ているとソニアはどんどん胸がムカついてきた。態度のせいかと思ったが、どうもよく解らない。体の奥底の世界から嫌悪感が込み上げてくるのだ。会ったばかりの人なのに、どうしてかとても憎く感じられる。それも激烈に。
ソニアはその感情の変化に戸惑い、それ以降なるべくサールを見ないようにした。こんなことは初めてだった。
その頃、ヴィヒレアと今回の事で話し合っていた皇帝が区切りをつけてソニアを呼んだ。覚悟を決めて、ソニアは皇帝と共に議場を退出していく。その背中を幾つもの視線がずっと刺していた。
皇帝は徒歩でズンズン進んで行く。ここは皇帝専用の道らしく、衛兵も誰もいなかった。人影があれば、それだけで曲者と判断出来るようにしているプライベート空間らしい。そうだとしても、本人に余程の強さと自信がなければできないことである。
ソニアはすぐ後をついて歩きながら、もし自分が刺客だったら、今こそ絶好の機会なのだろうと思った。そしてもし実際それを行ったら、この軍も戦も終わるのだろうかと考えてみた。
彼女には暗殺なんて騎士道精神から外れたことはできないし、この皇帝を殺したところで戦が止むとは思えなかった。かえって軍全体が逆上し、意気を高めて過剰に暴力的になり、世界中を粉々にするおそれがある。だから想像だけに留めた。
長い通路の先で侍者が立ち働いているのが見え、人影に気づくとサッと姿を消した。これが、この皇帝専用居住空間におけるルールのようだ。呼ばれぬ限りは、姿を見ても見られてもいけないのだろう。
辿り着いた先は、広い、広い居間だった。室内には中小の滝が流れ、無数のシャンデリアが天井を飾り、大理石の柱と黄金の彫像が林立している。部屋の一角の床は碁盤目状に区切られており、白と臙脂色で交互に色分けされ、その上に大きなチェスの駒が載っていた。1つ1つが人程の大きさで、魔物やヌスフェラートの姿が模られている。それらの駒は勝手に動き、特に操作者が見当たらないのに勝負を進めていた。
ふと見れば、暖炉の側には1匹の竜が寝そべっている。馬より少し大きいくらいのサイズだ。皇帝が来たのに気づくと、首をもたげて先端の分かれた舌をチョロチョロと覗かせた。
中央に大きなソファーがあり、皇帝はそこを勧めた。そして彼が手を翳すと煌びやかなカットグラスが2つ飛んで来て、血の様に赤いワインの入ったデキャンタもフワリと浮いて、栓が独りでに抜け、傾いてグラスの中にトクトクと中身を移した。全ての動作が手で行うよりも滑らかで素早く、優雅だった。物の所作に最も模範的な到達点があるのだとしたら、ここにあるものは全て、それら最高模範の動きをしているように見えた。
グラスの1つはソニアの目の前に滑って来た。ソニアはそれを手に取った。皇帝も手にし、彼は立ったままでグラスをそっと掲げた。
「……再会に」
ソニアも同じように掲げた。口はつけず、ただ手にしてジッと見つめ合う。皇帝は、視線で彼女を食べるのかのように熱い眼差しを向けていた。
ポピアンは警戒の視線を皇帝に投げながら、ここより先には近寄らせないという意思を見せて2人の間を滞空した。
「……何年かね?」
「えっ?」
「……最後にそなたと会うてからじゃ」
「さぁ……数えておりませんから」
皇帝は苦笑した。こうして目の前で対面し側にいると、皇帝からは強烈な覇力が伝わってきた。誰かと会ってこんな感じがしたことは未だかってない。まるで、休んでいるように見せかけて実は活動中の火山を10も20も集めたような不敵さが漂っている。この力が権力の源なのか、権力がこの力を作り上げたのか、それは解らない。