第3部12章『ディライラ狂想曲』9
ソニア達は後少しで中央広場という所にまで来ていた。道の先に中央尖塔が見え、開けた先に無数の大蟻が犇めいているのがわかる。
すると、キィィンという高周波が頭上を駆け抜けていった。その耳障りさに5人は顔をしかめ、肩を竦める。その音を聴いた虫達は急に動きを止め、触角を上に向けた。そしてフルフルと揺らした。もう一度高周波が通り抜けて行く。大蜂がその発声源らしいとソニアはわかった。
命を受けた虫達は一斉に向きを変えて、建物も5人のことも無視して動き出した。5人は驚きながら道の端に寄って、壁にペッタリ背をつけて成り行きを見守る。
「……どういうこと……?」
そうしていると、何処かへ行こうとする虫達の後を追いかけて例の獣がやって来た。5人は思いきり身を仰け反らせて触れないように気をつける。5匹、6匹と目の前を駆け抜けて行って、去ろうとする大蟻に乗り上がった。
ところが、その直後に獣達は痙攣を始めて大蟻から転げ落ち、その場で蹲ったり、仰向けになってもがいたりした。見る見る人の姿に戻っていく。
「ああっ……!」
フィンデリアは思わず駆け出した。
「――――――姫! 触ってはなりません! 近づかないで!」
「でも……助けられるかもしれない!」
カルバックスとソニアは後を追った。フィンデリアはほんの少しだけ距離を開けて獣達の変化を見守っている。虫達はいくら側を通っても何故か攻撃をせず、ただ何処かへ向かうことだけを目的にしているようだった。
「これは……撤退でしょうか……?」
「判らない……! 何か別の攻撃手段に切り替える為の一時避難かもしれないし」
獣の方は、今や殆ど人間の姿に戻っていた。フィンデリアは涙をポロポロと零しながら彼等の痛ましい姿を眺めた。
「これは……何なの……? どうしてこんな……!」
目の前には、シャツもズボンも大きく破けて肌蹴ている少年と、エプロン姿の痩せた女が横たわっていた。力尽きて、動く気配はもうない。
すると後方から、更なる大群が波のように押し寄せて来た。
「――――――姫! 退いて下さい! 退いて!」
無惨な者の姿に目を奪われていたフィンデリアは出遅れて、押し合い圧し合いやって来た蟻にぶつかり、体が引っ掛かってしまった。虫の体や足には鋭い返しが多いから、衣服が絡まるととても厄介なのだ。
「あぁっ!」
フィンデリアはそのままズルズルと運ばれて広場に引きずられた。
「――――――姫!」
カルバックスが血相を変えて虫の群れに飛び込んだ。ソニアも後を追う。
フィンデリアは必死にもがいて大蟻の後足に絡まるマントを切り離そうとするが、なかなかうまくいかない。素材のいい布だから簡単には引き千切ることが出来ないのだ。マントごと体から外そうにも、強い力で引かれる中ではホックを外すこともかなわない。短刀は衝突時に落としてしまったから、切り裂ける道具もない。火炎魔法を放ってみたが、ひどい揺れの中で違う個体に当たってしまった。
そしてあまりに勢い良く進むものだから、フィンデリアは振り回されて、崩れ落ちた煉瓦に強かに頭を打ちつけてしまった。意識が朦朧とし、抵抗する余力がなくなる。
「姫ェ――――――っっ!!」
カルバックスは死に物狂いで追い縋った。ソニアは壁を蹴り上がって少しでも前に進む。
そうこうしているうちに中央広場に辿り着いた。視界が一気に広がると、そこにはあの巨大な運搬甲虫が降りてきており、また腹のパーツを開けて、それを足掛かりに続々と大蟻が中に昇って行くのが見えた。やはり撤退なのだ。
目的が明らかになった今、2人は大いに焦った。このままではフィンデリアがあの甲虫に連れ去られてしまう。
上空では飛びムカデが城を越えて彼方まで飛び去っていくし、甲虫も蟷螂も蜂も、自身で飛べる者は全く振り返ることなく東方へ向かっている。撤退に頭を切り替えた虫達は、まるで機械仕掛けの様にその他一切のことには関心を向けず、一心不乱に大移動を行った。
他方から矢の攻撃と魔法の炎が運搬甲虫に浴びせられるのが見えた。ニルヴァ王子とその一団が追撃をしているのだ。こちらには気づいていない。ソニアは姫がいるので強力な技を放つことが出来ず、足の素早い逃走に追いつくのも難しくて大いに焦った。大蟻の群れは濁流となってうねり、足元を掬うのだ。
巨大甲虫はゆっくりと上昇し始めた。まだ腹部は開いており、そこに次々と大蟻が乗り上がって行く。その蓋が端から1つ1つ対になって閉じられていった。満員となった甲虫はそうして離陸していくのだ。
姫を引き摺ったままの大蟻は、別の甲虫に向かって猛突進していた。ソニアはもはや運搬甲虫を『アイアスの刃』で叩いて阻止するより他ないと考えた。
しかしそこへ、気も狂わんばかりのカルバックスが無け無しの魔法力で飛翔して目の前を飛ぶので狙いをつけられなくなり、カルバックスはそのまま追いついて、姫を連れていく大蟻にしがみつき救出を試みた。後から後から他の蟻まで乗り上がって来るのでうまくいかない。気がつけば、もう甲虫の腹にさしかかっていた。2人が連れ去られて行くのが見える。
甲虫は上昇を始めた。姫とカルバックスはぶる下がった状態になり、一瞬大蟻の歩みが止まり、重みで引き摺られてしまう。
ここでようやくニルヴァ王子達の一隊が、誰か人間が巻き込まれ連れ去られそうになっているのに気づいた。が、あまりに絡み合っているから矢でも魔法でも狙えない。
ソニアはこれを逃したらお終いだと覚悟して大蟻の背を蹴り上げ、風を身に纏い高く、高く飛び上がった。そして閉じかけの腹に着地した。
「――――――あの人だ!」
幾人かがマントの戦士だと気づくが、助ける役には立たない。マントの戦士はそのまま甲虫の腹の中に入って行ってしまった。甲虫はますます上昇し、大きな翅を羽ばたかせ烈風を巻き起こす。
巨大甲虫の中はまるで建物のホールのようだった。幾本も走る節は柱の様であるし、シャープな曲線ばかりで構成された奇抜なデザインの講堂にも思えた。順々に腹が閉じることで中は暗闇に変わっていく。
完全に閉じてしまう前に姫とカルバックスを見つけなければ!
ソニアは蟻の上を飛び移って姿を探した。大蟻は奥から順に整然と並んで体を丸め、落ち着くと微動だにしなくなる。なんと統制された兵士だろうと、一方でソニアは大いに感心した。
そして2人を見つけた。カルバックスは姫のマントをどうにかこうにか取り外すことに成功していたが、今度は密集環境の為に自分も他の蟻に絡まってしまっていた。ソニアはそこに向かう。
だが、なんとも甘い香りが漂ってきて急に足が縺れた。おかしいと思ううちに、膝の力が抜けて転んでしまう。カルバックスも異常に気づいていた。2人の目は合っているのだが、それ以上近づけない。その香気を吸い込むと蟻達は心までも眠らせて、仲間同士身を寄せ合ったまま川石のように丸くなった。
カルバックスは姫を抱きかかえるようにして意識を失い、ソニアはその場で倒れた。意識が遠退く中で彼女が思ったのは、トライアで待つ大切な人達の顔と、こちらに手を差し伸べるアイアスの姿だった。
甲虫の腹の節が最後の1枚まで閉じると、内部は完全なる闇になった。
飛び込んだ戦士達が出てこないうちに、甲虫が全ての出入り口を閉ざして飛び立つのを見ながら、ニルヴァ達は呆然としていた。もうどうすることも出来ない。大撤退はおそろしく速やかで、大蟻の濁流のピークは過ぎ去り、今では遅れた者がパラパラと後を追う状態だ。
最後の甲虫も飛び立つ。間に合わなかった者はそれでも東を目指して進んだ。
城で防御に徹していたエミリオン達は、何がきっかけかは不明ながら、全ての虫軍が攻撃を止めて引き上げ始めたので、持ち場を守りつつその光景を見守った。
一定の高度を保って滞空していた巨大甲虫が、降りるのに十分なスペースがある広場に向かって滑空していく。飛びムカデは揃ってUターンし、こちらに向かってくると、手前で急上昇して城を乗り越え、東の方へ退却していった。蜂、蟷螂、甲虫が後に続く。空は黒い影でいっぱいだ。
倒れる者を抱き起こして肩を貸しながら共に立つ者、槍を支えに立つ者、大砲に寄りかかり立つ者、誰もが皆、とても安心など出来ずに肌をピリピリと震わせてこの光景を眺めた。
王室では、この知らせを受けた王と側近達が、頑丈で分厚い硝子窓越しに飛び去る魔物達の姿を見た。
ディスパイクは、尚もうろたえている主を見つけて悪い知らせを告げた。身元がまだ確かではないが、例のマント姿の強戦士は仲間を救うべく撤退する虫軍の中に紛れ、今や巨大甲虫の腹の中に入り、連れ去られてしまったと。
「全ての目を虫軍に向けて後を追わせろ! 絶対に見失うな!」
そう告げるなり、主は流星となって飛び立った。ディスパイクはお辞儀をし、自身も流星となり凄惨な戦場を後にした。
もはや虫が襲いかかる様子もなく、数体が時折横切るだけとなって、中央広場のニルヴァ達は剣や槍をゆっくりと下ろしていった。
「去った……」
勝利とは思えないが、ひとまず大嵐は過ぎたのだ。そこにドッと倒れ込みたい疲労と安堵を感じながらも、ニルヴァは気丈に指示を出した。
「残った敵にとどめを刺し、生存者を探せ! 安全が確認出来るまでは地下壕の者を外に出させるな!」
部下は4手に別れて街に散って行った。ニルヴァ王子は西側へと向かう。
そこへ、歌劇場で別れたきりの護衛官が現れて駆け寄った。2人は顔面蒼白で、王子を見つけるなりそこに跪いた。
「これだけか?! フィンデリア姫はどうした!」
「それが……先程まで共にいらしたのですが、あの最後の騒ぎの中で……」
「姫は蟻の魔物に引き摺られてしまったのです! その後を従者達が2人追って行かれたのですが……その後どうなったかはわかりません」
ニルヴァは硬直した。
では、あの巨大甲虫に取り込まれた者達は姫とその付き人なのだ! 何としたことだろう!
だが、救出の為に出来る手立ては何もなかった。あの強者が共にいるのなら、どうにかして自力で脱出出来るかもしれない。しかし、あんな化物の体の中に入って、しかも何処とも知れぬ地へ連れ去られて生きて帰れるとは思えなかった。あの、ほんの一時知り合ったばかりの健気な少女とは、もはや会えないのだろうか。
ニルヴァは深くショックを受けつつ、頭だけは働かせて指示を出した。
「この事実だけでも、仲間であるホルプ・センダーに知らせるべきだろう。使者を出すよう手配してくれ」
事態の収拾と人々の動きは速かった。城からも次々と兵士が送り出されて敵を一掃し、残るのは死骸と建物の瓦礫ばかりとなり、1刻1刻と時が経っても敵軍再来の様子がないので、地下壕からも民が出て来るようになった。
おそろしい死骸の山に人々は悲鳴を上げ、特に西側地区に集中している酷い有り様の死体はある人を卒倒させ、またある人を嘔吐させた。
何が起きたのか解らないが、大道入り口で落石により道が塞がれてしまっているし、その付近に馬車や馬が取り残されており、女子供や老人の死体が転がっているので、どんなに悲惨なことが起きていたのか窺い知ることが出来た。
その光景を目にした者は、自分達は日頃の達し通り地下壕に逃げたから助かったのだと口々に言い、生き残れたことを喜び合った。
炎にやられて焼け爛れたように見えるのに、不思議なことに衣服は焼けていない死体を回収して広場に集めて並べ、親類や見知った者がいないか、身元を判明させる為の時間が設けられる。その遺体を幾ら触っても、もう人間が変化することはなかった。外国人や地方から来ている者が多い港街だから、引き取り手の見つからぬ者が多い。
人々は泣きながら瓦礫や残骸を拾い集めて脇に除け、通れる道を作りながら「皇帝軍はおそろしい」「おそろしい」と口々に呟いた。
しかし、彼等の知らぬ所ではあったが、今日この都市が陥落せずに済んだのには、2つの大きな力が働いていたのである。虫軍にしてみれば、思いもかけない早期撤退だったのだ。
中央広場の巨大な蜘蛛の死骸や、裂けて墜落している飛びムカデの残骸を目にすると、改めて皆は震え上がったが、これを仕留める力が人間側にあったのだということも逆に驚きであり、そのうちに謎の強戦士の噂が兵士伝いに広まり、それがやがて民にまで広まっていった。そして、こう語られたのだ。
《英雄アイアスが戻って来た》と。
目撃証言がまちまちだから、ソニアと共に行動していた僅かな者でさえも、それは違うとは判らなかったし、訂正意見の方は伝達速度が遅くて弱いものだから、あっという間にアイアス再来の噂が近隣諸国を駆け巡ったのだった。
ディライラの攻防は直ちに世界各国に知らされ、情報収集の為に人員を派遣出来る諸国の術者が立て続けに飛来した。その中にはトライアからの使者もおり、虫の軍勢に襲われた都市を目の当たりにして震え上がったが、まさか、ここに彼らの守護天使トライアスがいたとは考えもつかなかった。
エミリオン王子は回復作業の指示に忙しくしていたあまり、トライア出身の戦士がここで帰還を待っていたことや、この戦に参戦していたことをその使者に伝えることなど全く思いつかず、他のことに頭を回してすっかり忘れていた。
トライア王室専属の流星術師は、ディライラ城とソドリムの港はこの襲撃に耐え、皇帝軍は一度引き下がったという情報だけを携えてトライアに去って行った。
ディライラ国王は大いに指導力を発揮して街の機能回復に力を注いだ。
アマンネル王女とスコラ王子は王妃にずっとくっついて泣き続けており、恐怖がすっかり拭い去れるまで、まだまだ時間がかかりそうだった。昨晩フィンデリア姫からおそろしい話を聞かされたばかりで、家族を失うことを心底おそれていた2人だったが、父も母も兄2人も誰も失わずに済んだので、それだけはとても嬉しかった。
しかし、そのフィンデリア姫はあのおそろしい化物に連れ去られてしまったというから、どうにも恐怖がいや増した。
そうして非力な子供2人を慰めつつ、王妃は揃って3人で今の無事を神に感謝し、失われた民や兵の魂の安らぎと、フィンデリア姫の無事を祈ったのだった。
人間が魔物に変貌し、それが短時間のうちに終わり、元に戻った時には死んでいるという怪現象については、皇帝軍の成せるおそろしい技とだけ認識され、虫のどれかが未知の病気を持っており、それに触れてしまうとああなるのだとされた。確かめようにも検証の方法がないので、謎は謎のままとなった。
虫の大軍勢は中央大陸ガラマンジャを東へと飛び、やがてその進路を北寄りに変えて進行した。そのうちに大山脈地帯に到達し、奥地へ奥地へと入っていく。魔法を扱える者は少なく、そもそもそんな必要のない優れた肉体や運動機能を持っているから、風が強かろうとも空気が薄かろうとも、それは彼らにあまり影響しない。
人足では到底踏破しきれないような、刃物状に切り立った高山が連なる。それらを越えて辿り着いた奥地には一大都市が築かれており、今そこにはあらゆる種族が犇めいていて、それぞれに新たな砦を設けていた。
虫軍は都市の北にある封印を解かれた巨大洞窟にそのまま突入して行き、急勾配を成してカーブしていく地下道を下方へ下方へと進んで行った。ずっと進み続けた先には彼等の世界があり、彼等の王国があるのだ。この地上は休息には向かないから、戦い疲れた者達は王国に帰るのである。巨大甲虫は歩兵団を満載して巨大洞窟内を飛び続け、温かく湿った地底を目指した。
その巨大甲虫の腹の中の真暗闇で、1つだけ蛍火が灯っていた。その光は横たわるソニアの顔を仄かに照らし、彼女を護るかのようにピッタリとそこを離れず、チラチラと瞬いた。
終章
終章です。
ちなみに飛びムカデは、風の谷のアレに出てくる『トビケラ』へのオマージュです。
デザインや色がちょっと違いますが。