第3部12章『ディライラ狂想曲』8
「あちらへ行くのは危険です! おそろしい事が起きているんです!」
ソニアはフィンデリア姫から、目にした事をそのままに教えてもらった。カルバックスも共に目撃しているから、錯覚や一個人のヒステリーではない。だが、俄かには信じ難いことだった。
下方を見やれば、その噂の獣が達して大蟻と壮絶な噛み付き合いを行っている。ソニアに人並み以上の視力はなかったが、この距離からでも獣が人間の衣服を纏わりつかせているのが分かった。背筋にゾクリと悪寒が走る。
ビヨルクで雪猿の痛ましい様を目にしてきたばかりだったから、そんなことも起こり得るのかもしれないとソニアは思った。
だが、何故大蟻と衝突しているのかが皆目解らない。
獣の暴れ振りに見入っているうちに、ソニアは逃げ惑う兵士を見つけた。それは、先程逃走の途中で姫とはぐれた護衛役の兵士達だった。4人いたのが、今は3人になっている。大蟻と戦って道を切り開きつつ、獣と大蟻の乱闘から必死で逃げようとしていた。
「――――――あなた達はそのまま避難を!」
「いえ! 私も行きます!」
ヒラリと屋根を飛び下りるソニアにフィンデリアも続いて階段を降り、屋根伝いに兵士達の居場所へ急いだ。
壁を蹴り、屋根を蹴ってソニアが到着した時には、兵士は大蟻と獣両方に道を塞がれて追い込まれていた。選りすぐりの護衛役だが、目にしてきたもののあまりのおそろしさに1人は涙を流して息を切らせていた。
そこへマント姿の者が上から降ってきて、見たこともない技で大蟻も獣も吹っ飛ばしてしまうものだから、何も言葉が出ない。
「――――――他に逃げている人はいますか⁈」
1人が首を振った。強張る唇でどうにか声を出す。
「わ……わからない……! もう……この辺りは魔物たちばかりだ……!」
「では避難しましょう! 突破します!」
ソニアは衝撃波で魔物が一時的に減っている道を選んで走った。護衛官達もそれについて行く。前方に現れた大蟻も走りながら吹き飛ばしていった。
別の通りに出ると、そこはもう道も壁も黒光りで埋め尽くされていた。西側で獣との戦闘が起きているから、群れの殆どがそちらに関心を向けて警戒をしている。ソニアは駆け抜けた。
「走れェェっ‼」
立て続けに真空刃を連射して、大蟻達が攻撃する間もなく吹き飛ばし、活路を切り開いて先導を続ける。
すると、強力な敵がいると知った後方の大蟻が酸放射を始めた。全速力で遠ざかれば免れられるのだが、飛び道具に匹敵する素早さと正確さで的を狙う上、後続の護衛役は少し遅れてもいたので、運悪く1人の足に酸がかかってしまい、その兵士は転倒してしまった。
「――――――シドラ!」
仲間が気づいて足を止める。ソニアも振り返った。だが、すぐそこまで獣が達してきていた。屋根を越え、壁を越えて湧き上がって来る。酸の放射が続き、それを避けるので精一杯で近づくことが出来ない。そうしているうちにも獣が飛び降りて倒れる兵士を踏み付けにし、爪が背に食い込んだ。
「――――――もうダメです! あの人も変わります! 早く逃げて!」
上からフィンデリアの叫びが届いた。高みから顔を出し魔法で援護射撃している。カルバックスがふと他方に目をやり、姫を抱いて飛び去った。そこへ間髪いれず甲虫が突っ込んで来て壁に体当たりした。
護衛役は喚きながら仲間に背を向けて走り出した。ソニアも倒れた兵士が泡を吹いておかしくなっていくのを目にする。ブルンと震えが走り、総毛立った。身を守らねばならないのは解っているのだが、見届けない訳にはいかず、一太刀振るっては何度も今来し方を振り返り、変身の様をしかと目撃した。姫の言う通りのおそろしい何かがここで起きている。
新たな獣が立ち上がるのを認めたところで、ソニアはもはや前方にだけ目をやり、行くべき道の障害を見据えた。
大蟻と甲虫と蟷螂と大蜂とが、入り乱れて行く手に立ち塞がっている。頭上では飛びムカデが疾駆乱舞だ。
「ワアアアアアアアァッ‼」
ソニアは渾身の力で踏み込み、真空刃を繰り出した。ある者はバラバラになり、ある者は遠くまで吹き飛ばされ、ある者は墜落した。
上からも次々と大蟻が降ってくる。マントに蟻の返し付きの足が引っ掛かり、ソニアは大きく立ち回った。足がもぎ取られマントにぶら下がったまま残る。護衛官も必死で剣を振るった。
激しい動きでもはやマントは乱れ、ソニアの姿は晒されていた。護衛官はその姿に驚くが、気を留めている余裕はない。ソニアが切り開いた道に続き、しきりに後方にも注意しながら走り続けた。
やがて一同は公民館や役所の並ぶ円形広場に出た。フィンデリア達も3人を見つけて合流する。もはや他に人間の姿はなく、広場を埋め尽くしているのは魔物達ばかりだった。
ソニアは身振りで皆を伝書屋の壁にピッタリつけさせると、1人身を乗り出して剣を振るいながら風を発生させた。広場を回転しながら流れるうちに、どんどん風は強まって旋風に変わっていく。虫類は翅を広げていない限りはあまり風の影響を受けない。
だが、そこにソニアは火炎魔法を投じた。旋風に取り込まれた火炎は龍のように広場を1周し、2周、3周とするうちに炎を増して広場中を炎の海にした。そこはまるで竈の中のようになり、みるみる虫達を燃え上がらせる。熱気が一同をも圧し、皆は顔を背けた。
頃合いと見てソニアは風を止めた。炎はすぐに切れたが、広場ではまだ燃えながら暴れている者が幾体かいた。しかし、概ね一掃出来たようだ。
術者として見たこともない技にフィンデリアもカルバックスも驚いて目を見開き、護衛官達も感嘆の声を漏らした。この人と共に行けば生き延びられるような気がしてくる。
その時、上空から何かが落下してきた。
ニルヴァ王子率いる精鋭隊はマントの戦士を見失い、独自に西側を目指してひたすら虫との戦闘を重ねていた。逃げ遅れの人々は全く見当たらず、フィンデリア姫を見つけることも出来ない。
「何だ⁈ あれは……⁈」
上空を見上げている兵士の1人がそう言った。見れば、国教会の尖塔の側で虫人同士が戦っている。双方あまりに素早いから見分けるのは難しいが、とても人間には見えなかった。訳は解らないが、仲間割れなどして戦い合っているのならば放っておくしかない。
そうしていると、ある建物の上を魔術師の姿が一瞬過ったのを見つけた。姫の従者に似ていると思ったニルヴァ王子はそちらを目指した。
飛びムカデの雄叫びと衝突音、そして蜂の高い翅音が交錯する空に漂い、ヴィヒレアは我が目を疑った。
マキシマと名乗る流れ者の外骨格は、元の流線型から更に丸みを帯びて肩と腰回りをより頑強そうなフォルムに変形させ、しかも所々を玉虫色に変えていた。一族にしかこの色を持つ者はいないし、この戦場には来ていない。
得体の知れない魔法で我が身を真似ているか、でなければ、本当に特質を盗み取っているとしか考えられない事態だった。それならば、時間に対する身の置き方が近づいて来ることの説明もつく。
2人は再度衝突した。下方で大きな火炎が上がるが、気に留めてはいられない。硬殻同士のぶつかり合いは太鼓を打ち鳴らすほどの音を辺りに響かせて、烈風にも叫びにも負けず街に轟いた。
刃の一旋で大切な右触角の先を断ち切られ、ヴィヒレアは僅かに感覚を狂わせた。身体が傾ぎ、バランスを取ろうと腕を伸ばし、胸部のガードが甘くなる。そこを過たず乱入者が刃を突き立てた。深々と鋭い刃が貫き、勢いのままに双方とも地に落ちていった。
逃れようとするヴィヒレアが翅を動かすので、乱入者はそうはさせるかと上から圧する力を強める。無理な動きは傷口を広げるので、ヴィヒレアも敢えて下がって行った。そしてマキシマのもう片方の腕が使われぬよう押さえ込み、絡み合うようにして街の円形広場に墜落した。
広場には、己が身から炎と煙を上げてのた打ち回る多くの蟻と甲虫がいた。外骨格が焼ける独特の臭気はヴィヒレアの苛立ちを更に高める。鎧のお陰で落下時の衝撃は殆どなかったが、胸部に刺さった刃物の傷は深刻なダメージを与えていた。
マキシマはヴィヒレアに乗り上がり、尚も刃を差し込んだままにして笑った。
「この胸の殻が1番強いと聞いていたが……完全無欠ではなかったようだな。オレの剣の方が勝った」
ヴィヒレアは鉤爪の手でマキシマを突いた。しかし貫けない。今までのようにいかない。
「同じ材質同士、ぶつかっても刺せないよ。刃こぼれしたり欠けたりする程度だ」
「……おのれ……‼」
何が起きているのかヴィヒレアは悟った。自身を強者たらしめている能力と才の恩恵を、この者に根こそぎ奪われようとしているのだ。
マキシマは胸から刃を抜き、止めを刺すべく、その刃で胸部の中央を狙った。ヴィヒレアは全ての足でそれを防ごうとする。
傍らで悲鳴が上がった。おそらく人間のものだ。マキシマは、新たに手にした虫の見る時間で一瞬だけチラリとそちらを見やった。そして、刃を止めてもう一度確かめるように見た。
炎は大気と抱擁を交わすようにゆったりと宙を舐め、陽炎が溜め息の如く立ち昇っていく。その向こうに4人の人間と、1人の幻が立っていた。全員が恐ろしいものを見る驚愕の眼差しをこちらに向けている。
マキシマはその幻に釘付けになった。鎧甲冑姿で草色のマントを羽織り、それが炎の熱気で揺らめいている。顔形、そして髪の色は、この大陸のこんな場所にいるはずのない者そっくりそのままだった。何時でも何処でも、眠っている時でさえ心の片隅に置いてある姿だから、見間違える訳がない。あるとすれば、あまりに望み過ぎて本当に幻を見ているということだけだ。
マキシマのこの硬直と躊躇をヴィヒレアは見逃さなかった。強い脚をかけて一気に跳ね除ける。マキシマはまともに食らって吹っ飛び、広場の公会堂の壁に叩きつけられた。
突如目の前に得体の知れない虫人が2人落ちてきて互いに争っているものだから、フィンデリアもカルバックスも護衛兵もソニアも皆、唖然とした。一方の虫人の手が武器となり、もう一方の胸部にグッサリと突き刺さっている。フィンデリアは魔物同士が戦い合うおぞましさにもうウンザリして、嫌悪感たっぷりに悲鳴を上げた。
すると、優勢と見られていた、乗り上がっている方の虫人がこちらを向いた。そしておそらく――――――こちらを凝視した。おそらくと言うのは、目らしきものが見当たらぬ完全なる兜を頭に被っている為である。そしてソニアは、その虫人がこちら全体ではなく、どうしてか自分を見ていると感じた。
ゾワッと項の毛が逆立つ。
その時、下に組み伏せられていた虫人が相手を蹴り飛ばして壁に叩きつけた。そして立ち上がり、4本の腕のうち2本を肩と胸に回して傷を庇い、残る2本を構えた。まだまだ戦う気だ。
ソニアは、凝視されたことが自分のなりに原因があるのではと気づいて、マントが乱れて殆ど正体を曝していたことを思い出し、慌ててまた体をきつく包んだ。
もう一度だけ全装甲の虫人はこちらを見て――――――そして飛び去った。
蜂の虫人が2体舞い降りて来て、残る虫人と何か言葉を交わしている。そして揃って何処かへ飛んで行ってしまった。
何が起きているのか、誰にも全く解らなかった。
男は緊急信号を発し、側近とすぐに合流した。主が息せき切って飛び込んで来たものだから、側近はとても驚いていた。戦いの模様は遠隔で観察していたので、主が命の危険に晒されている訳ではないと知っている。何故戦いを中断したのかが解らなかった。
「如何されました? 何事です?」
「有り得ん……! 有り得ん……!!」
主はひどく狼狽して青褪めていた。何かに取り乱すことが滅多にない人なので、ますます側近は不安になる。
「ディスパイク! 急いで調べてくれ! まず彼女の居場所を! そして第3広場にいる者が誰なのかもだ!」
側近には解せなかったが、とにかく言われた通りにした。主がこの世で話題にする女性はたった1人なので、《彼女》と言えばあの人しかいない。まずは彼等の拠点にいる部下と疎通し、専用監視役に状況を問い質した。そして同時にもう一方でこの街の部下に指令を出し、第3広場に向かわせた。
「今のは……一体何だったの……?」
5人はまだ呆然としていた。だが急がねばならない。
「――――――行きましょう! 早く!」
ソニアの言葉で4人は我に返り、炎燻る死骸だらけとなった円形広場を突っ切って中央広場を目指した。
まだまだ大蟻や甲虫、蟷螂が行く手を塞ぐ。今の一時で獣も背後近くにまで迫って来ているから、前方だけに集中するわけにはいかない。
「危険になったら飛びます! 私が呼んだら来て下さい! 皆さん!」
カルバックスがそう叫んだ。戦い続けて、彼も集中力の残りが底を尽きかけているから、最後の手段を慎重に取っておかなければならなかった。
ソニアが先頭になって真空刃で蹴散らせるうちは、それを頼りに突き進み、殿をどうにか護衛兵2人が勤めて、その中間でカルバックスとフィンデリアが援護した。フィンデリアは杖だけでなく懐の短刀も抜いて構えた。術者としての限界が近い証だ。
また上からバラバラと大蟻が降ってきた。皆に降りかからぬよう、ソニアは真空刃で弾き飛ばす。だから自分には手が回らず、甲虫の脚がかかった。
すると何処からともなく閃光が閃いて甲虫にヒットし、思いきり飛ばされた。フィンデリアでもカルバックスでもない。2人の方はソニアが放ったものと捉えたようだが、そうではなかった。
深く考えている暇はないのでソニアは先を急いだが、心の中で《もしや》というある予感が疼いていた。しかし、この人間達の前で真偽を確かめることも出来ない。とにかく彼女は不安に思いながら精霊の剣を振るい続けた。
「厄介な邪魔が入った。それに――――――西側のあの騒ぎは何なのだ?」
ヴィヒレアは宙を舞いながら2人の部下に問うた。2人は主の傷を気遣っている。
「わかりませぬ! 謎の獣が襲ってくるのです! 獣族の仕業なのかどうか……」
「部下からの情報によれば、人間が変身し反撃しているのだとか!」
「人間にこのような技が……? 信じられん」
ヴィヒレアはソドリムの街全体を改めて見渡した。既に破壊の痕は凄まじく、自軍の損失もかなりのものだった。中央広場には、大きな戦力であった大蜘蛛まで討ち死にしているのが見てとれる。事態を把握してから再度攻略するのが望ましいようだ。
「全軍に撤退命令を! ――――――撤退!」
2人の虫人はすぐさま司令官から離れて御下知を伝えに飛び回った。
側近ディスパイクは、煙草屋の上階テラスに身を隠しながら結果を伝えた。
「監視役の申しますには、もう何日も同じ所にいて全く動いていないはずだとのことです」
「全く? 少しもか?」
「領土内の、ある農村近くだそうです」
「それは……おかしいぞ? 目視で確認はしているのか?」
「それが……旦那様がちょうど用をお言い付けになって、人手が借り出されていたそうです。その為、現地の監視役は現在いないとか」
「――――――なんだって?!」
男は叫んだ。悪い予感なんて弱いものではなく、絶対に何かがあったとしか思えない十分な材料が揃っている。おそろしい勢いでグルグルと頭が回転していき、理由や原因、成り行きはともかく、今この都市に本来いるはずでない者がいる可能性が物凄く高まっていった。
「第3広場にいた人間を追っておりますが、人物の特定は出来ておりません。5人いまして、1人はかなりの手足です。先程遠距離で飛百足を仕留めていた者のようですね」
「それだ! 何者だ?! わからないのか!」
「……マントで体を覆っているものですから…………おや?」
ディスパイクは大きく外していた焦点を急に合わせて、主に向かった。
「あれは……お嬢様の鎧……?」
男の目は恐怖に見開かれ、顔はどす黒くなっていった。そして追跡を続けるよう言い渡すと、自分は飛び出して行った。
万一の事があってはならない。万一の――――――
男は懐から別の硝子管を出して第3広場近くに向けて高く、高く放り投げた。硝子の管は回転しながらキラキラと煌き落ちていく。
円形広場に達し、焼け焦げた大蟻の残骸を踏み付けにしていた獣が足を止め、また急に体を震わせ、バタバタと倒れ始めた。ギャアアアというおぞましい叫びが幾重にも折り重なって、身の毛もよだつような不協和音が響き渡る。
獣の体は縮んでいき、肌の色もどす黒く変色していき、ピシピシと亀裂が走った。体表を覆っていたイボだらけの皮が、まるで脱皮後の皮の如く薄茶色に残って、その中に萎んだ体が残されていった。皮が壊れ、剥がれ落ちて中身を露にしていく。破れずに残っていた衣服はそのままに体を包んで、倒れる者の体を隠した。
概ね人の姿に戻っていくが、一度抜けた頭髪は戻らず禿げ頭になっていたし、肌も健康な人間のそれとは違い、火傷を負った後のように赤らんで所々が爛れている。そして震えが治まると、そのままガックリと横たわり、二度と起き上がることはなかった。