第3部12章『ディライラ狂想曲』7
フィンデリアは1つの魔方陣で抑えていた路地を御しきれなくなり、仲間と共に更に西側へと移動していた。今や蟻は屋根を越えてもやって来るので、新たな防御の適地を見つけなければならない。
西側から今まで以上の騒乱が聞こえてくる。何が起きているのかわからないが、先に鼻につく刺激臭が漂ってきて皆は顔を顰めた。ホルプ・センダーでラングレアの戦模様を聞いていたフィンデリアは、これが蟻の発した酸の臭いに違いないと思った。
「――――カルバックス! 見て来て!」
姫の命で魔術師カルバックスは飛天呪文により舞い上がった。高い建物の屋根に上り、馬車広場を見やる。
他の建物の陰になっていて、よくは解らないが、都市からの出入りに使う1番の大道である坂道に何か問題があったようで、道を上っている人の群れの最後尾から後ろがプッツリ途絶えて、後に続く人影が認められなかった。通れなくなっているのだろう。既に広場地域には大蟻が達しているのが見える。
姫から遠く離れるつもりのないカルバックスは、すぐに飛び下りて状況を伝えた。
「馬車通りは塞がっているようです! おそらく追い詰められているでしょう! 敵も大勢入り込んでいます!」
そうしているうちに、また新たな種類の魔物が乱入して来た。全身火傷をしたような肌をしている、尾のない豹のような獣だった。虫類ではない。そして、何故か服を着ている。一同は驚き立ち竦んだ。
「……これは何……?!」
すると不思議なことに、獣は彼らには目もくれずに大蟻に襲いかかっていった。目の前で魔物同士の激しい戦いが始まり、大蟻の酸放射が開始された。
共通の敵と戦っているのに、それでもこの獣には味方という雰囲気が全くない。酸の強烈な臭いが鼻をついて、皆は顔を歪めながら少しずつ隅の方へと後退った。
「仲間割れでもしているの……?!」
戦闘はますます激しくなり、安全なエリアはどんどん狭まり身の置き場がなくなっていった。とにかくこの場を離れなければと、僅かな逃走路を見出して走る。カルバックスは姫の盾となるようマントで壁を作りながら伴走した。
転がり込んで来た獣の爪に、1人の兵士が肩を裂かれて叫びを上げた。フィンデリアは追撃する大蟻を火炎呪文で撃退して兵士を守った。
「――――早く!」
兵士は肩を押さえながら追いかけた。が、やがて転んだ。フィンデリアは手を貸そうと引き返し駆け寄るが、石畳の道で兵士は痙攣を起こして身を捩らせていた。どう見ても、ただ転んだだけではない。フィンデリアが手を伸ばすので、カルバックスが強引に引き戻した。
「何かおかしい! 触ってはなりません!」
「でも……まだ生きてる!」
抗うフィンデリアを、この時ばかりは渾身の力で捕らえてカルバックスは引っ張って行った。
「お離し! 見捨ててはなりません!」
フィンデリアはいつまでも抵抗して兵士に目を向けていたものだから、突如兵士が変身を始めたのをしかと目撃した。
「あ……ああ……!」
姫が奇妙な叫びを上げるので、カルバックスもつと兵士のいた方に目を向ける。そして同じく、それを見た。兵士の服はそのままに、あの火傷をした獣が出来上がっていくのだ。
フィンデリアは膝の力が抜けた。ガクリとよろける彼女をカルバックスがしっかり抱き留める。これまでどんなに勇ましく戦ってきた彼女も、これだけはどうにも堪えらえられなくなり、吐き気がこみ上げてきた。そしてカルバックスがこれまでに聞いたこともない恐怖の叫びをいっぱいに上げて、彼にしがみ付いた。カルバックス自身も正気を保てるギリギリの境界線にいた。もう、逃げるしかない。
「姫、脱出しましょう!」
フィンデリアはそれでも健気にそれを拒んだ。
「だめ……! 街を見捨ててはなりません……! 何か、とてもおそろしい事が起きている……! 見届けなければ……! 知らなければ……!」
カルバックスも一人間としてその必要性を感じはしたので、いきなり流星にはならず、姫の言う通り街に残ることにした。姫を腕に抱いたまま飛天呪文で舞い上がり、付近で1番高い建物の屋根に乗る。ここまでは蟻も蟷螂も獣もなかなか登っては来ない。その代わり飛びムカデの攻撃を受ける可能性があるので、身を潜めなければならなかった。
2人には起きている事の意味が全く解せなかった。どうして魔物にやられた人間が同じ魔物に変わってしまうのか。そして、その魔物は何故大蟻と戦っているのか。理解不能な時は、起きている事を少しでも目にしておくことだ。後で考えて結論を導き出す材料に出来るように。
2人は鐘のある櫓に隠れて街を見下ろし、自然と流れ出てきた涙を拭った。
ソニアは大蟻の歩兵団に手を焼いていた。あまりに大多数な上、壁であろうが塔であろうが地面と同じように易々と歩き進んで行くので、一度に複数を退治するのが難しいのだ。ひたすら1匹ずつ斬っていくより他ない。
それは時間の無駄にも思えたので、彼女はそこで一旦攻撃を手を止めて建物を駆け登り、救いの手が要りそうな逃げ遅れの人がいないか目を凝らして探した。
西側の広場で何かが起きている。しかも公道に大きな岩が幾つも落ちて道を塞いでいた。あれをどうにかしなければ避難民の行き場がない。
ソニアは屋根伝いに駆け出した。瓦が砕け落ちていく。多くの家屋が所々飛びムカデにやられて煉瓦が転がっており、壁が崩れて室内が剥き出しになっている。テーブル等の家具類が転がり、カーテンがはためいていた。
ソニアの姿を捉えて飛びムカデが急降下してくる。彼女は真空刃でそれを迎撃し、真っ2つに裂けた身体は彼女の両側に轟音を上げて落下し、建物を破壊した。
その一部始終を目撃していたフィンデリアは驚き、目をいっぱいに見開いた。あのマントの色はあの人に違いない。しかも異変の中心へ行こうとしている。フィンデリアは櫓から飛び出して姿を晒し、声を限りに叫んで呼び止めようとした。カルバックスも続いて走った。
「――――待って! 待って――――――っ!」
駆け続けるソニアは盛んに手を振る人影を見つけ、それがフィンデリアと知り方向転換した。建物から建物へと飛び移り、大きく屋根を越えてマントを翻らせ、姫とカルバックスの前に着地する。
「――――ご無事でしたか!」
「ナルスさんね! まだいらしたとは……!」
「出発が遅れたのです! そのうちにこうなって――――」
そこへ、また飛びムカデが叫びながら突進して来た。姫とカルバックスは思わず身を竦ませ、手を取り合いいつでも飛べるようにし、ソニアは振り向き様、鮮やかに『アイアスの刃』を放ち炸裂させた。飛びムカデは自ら身を分かつようにスッパリと体を分裂させてそのまま落下してくる。
ソニアは2人を庇うように立ち、風を起こして残骸の進路を逸らし、身を守った。落下の衝撃で家屋の破片が飛び散り、土煙が上がる。フィンデリアもカルバックスもその場に固まったまま口を開けていた。
「……1人、強戦士がいるようですね。遠距離からあの大物を仕留めています」
側近がまた目の焦点をボンヤリと外したまま主にそう告げた。男はまだ広場近くの高みから街を観察し、時を待っていた。
「人間か?」
「……そのようです。姿を隠していますから断言は出来ませんが、人間を助けていますから」
「ほう……見てみたいな」
男が興味を示してそこへ行こうとしかけた時、側近が更に言った。
「……お待ち下さい。来たようです。城の上にいます」
男はすぐさま関心をそちらに切り替えて城を見やった。この距離では判別が難しいが、確かに人程の大きさの者が上空に浮いている。男はニヤリと笑った。
「よし、ご苦労だった。後は指示を待て」
そう言うと、男は側近の目の前で見る間に姿を変貌させてフワリと宙に舞い上がった。
城で防備に当たっていたエミリオンは、侵入して来る蜂や蟷螂を退けるべく、弓矢隊と術者隊の指揮を執っていた。蜂は次々と射られ落ちていく。太くて大きな矢を機械仕掛けで発射出来る機械弓の威力は覿面だった。しかし、とにかく数が多い。矢が尽きれば対処が難しくなってしまう。それまでにどうにか戦局が変わってくれぬものか願った。
そうこうしているうちに城の真上に巨大な甲虫が現れて滞空し、空からバラバラと大蟻の群れが落下して来たものだから、城内は大いに混乱した。
「倒せ‼ 倒せ――――――っ‼ 入れさせるなぁ――――――っ‼」
エミリオンの怒号であらゆる兵士と術者が手当たり次第に侵入者を攻撃した。
城内では父王が指揮を執り、出入り口を全て固く閉ざして敵が入り込んでくるのを防いでいる。中には戦えない者ばかりが避難して戸を守り、内側からも押さえていた。ディライラの軍司令官も逆側の北断崖と東断崖を守って奮闘している。
飛びムカデが時折突撃してきては大砲や人を攫い、空に放り投げた。あまりに優れた機動性と破壊力だ。これではラングレアが早々に撤退を選択したのも頷けるとエミリオンは思った。
見る限り、都市も痛めつけられて散々なことになっている。この攻撃が半日以上続くようなら、自分達も撤退を余儀なくされるであろう。
「何としても守り抜け――――――っ‼」
下では兄ニルヴァが戦っている。地獄に近いのは下の方に違いない。だからエミリオンは勇気を奮い起こして叫び続けた。
街に向けるわけには行かない大砲を出来る限り海か内陸に向け、変動可能な目いっぱい上まで砲台を傾斜させて飛びムカデや運搬甲虫を狙った。運搬役の巨大な甲虫は特に何の破壊活動もしないが、いつまでも上空で待機している。帰還用に控えているのだろう。
そして上空を狙ううちに、エミリオンはある1個体に気づいた。その一体だけ他とは違って、空中にありながら人の様に直立しているのだ。2枚の上翅だけを盛んに動かして、下2枚は休ませ垂らしている。その長く優美なこと。そして体全体を覆う外骨格の色は玉虫色に輝いていた。
その個体は城の上にいながら、城ではなく街の方に関心を向けているようだった。そして滑るように街の方へと飛んで行った。
おそろしく目のいい虫人は、街の戦模様を一望しただけで自軍が予想に反して苦戦を強いられていることを知り、原因究明に向かった。何やら飛びムカデは空中で砕け散るし、ずっと遠い西側の地域では謎の魔物と自軍が必死の攻防を繰り広げていた。城攻めなど後でいい。
虫人は虫王大隊の紋が入った長槍を手にしているだけで、その他一切の武器防具は身につけていない。長槍も地位を示す為に持っているだけで、1番頼みとする攻撃手段ではなかった。鎧も武器も、全ては自分の体がその役目を果たしているのである。
そして唯一の装飾品として、触角の付け根中央に真紅の宝石を飾っていた。平たく研磨された輝石だ。大将であることを示す物である。虹の輝きを放つ素晴らしい外骨格は、閃く魔法の炎を映していた。
ソドリム中心にまで来た時、虫人の前をふいに影が過って進路を遮断した。虫人は翅の角度を変えて急停止した。鳥や竜と比べても、空に生きる者の中で虫類ほど見事に急停止を行える者はいない。
目の前には、体長のほぼ同じ何者かがいた。相手も全身を外骨格で覆っている。一瞬虫人は仲間かと思った。
だが、よく見れば少し違う。虫人の首と、胸と腹の間はとてもよく括れて美しいカーブを成しているものだ。しかし目の前の者は虫人ほどの目立った括れと隆起の落差を体に持っておらず、人間やヌスフェラートが防具で全装甲している姿に近かった。それでいて、金属素材等で出来た人工物を纏っている様子はない。しかも翅は見当たらず、別の力で浮いているようだ。
虫人は直感的に、この謎の者は自分と同じように優れた外骨格を持っていると判断した。
「あんたが虫王大隊のヴィヒレアか?」
謎の者は出会って間もなく単刀直入にそう尋ねてきた。この地上に住まう大多数の者が使う共通語を用いているが、この虫人もそれを解することが出来た。何故ならば、虫王国で使用される言葉はヌスフェラート語とこの共通語であり、この地上では主に共通語の方を使用していたからである。しかし、この者が共通語を使ったのは、それとは別のところに理由があった。
「……何者だ? そなた、我が隊の者ではないな」
飛びムカデや蜂が行き交い、足元では大蟻達の激闘が行われている戦乱の中、2人は互いの姿をじっくりと観察した。虫人は口に当たる部分だけ柔らかな組織を剥き出しにしており、それ以外の部位は全て芸術的な玉虫色の外骨格で覆われている。片や乱入者の方は、一切の表面が流線型の集合体と言える外骨格で包まれていた。どちらも戦闘に適した姿形をしている。
「ヴィヒレアだな?」
「……だとしたら何だと言う」
「……あんたが虫王大隊最強だと噂に聞いている。あんたのその体を貫ける者は存在しないだろう、ともね。それが本当かどうか試してみたいのさ」
「……何だと?」
味方だとは思っていなかったが、あからさまに挑戦的な事を言うので、虫人ヴィヒレアはやや体勢を構えた。
「全世界で最強の肉体は竜族か虫族のどちらかだ。本当のところはどうなのか――――確かめたいんだよ」
「貴様……このような戦場でよくもふざけた口を――――」
乱入者は、話が終わらぬうちに軽くお辞儀をして礼を見せてから突進した。虫人も素早く反応し、唯一露にしていた口元も頭部側面からスルリと滑らせた外骨格で覆い、完全体となって相対した。
乱入者の両肘は突き出て刃物の形状をしており、肘から先はそれより更に大きい刃物と化している。蟷螂の鎌の様でもあり、それよりもっと凶器らしい危険性がキラリと光っている。
虫人ヴィヒレアは、まず手にした槍で攻撃を受けた。前評判通りの俊敏さだ。薙ぎ払い、突き出してくる手の攻撃を無駄のない動きで受けては流し、相手の型を探った。
虫族や竜族は他種族から神秘的に思われている部分が多く、特に時間感覚において人間にもヌスフェラートにもあまりない特殊さがある。おそろしい高速運動でも、彼等にしてみればゆっくりとした連続動作にしか見えないこともしばしばなのだ。このヴィヒレアもそんな性質の強い戦士で、乱入者の攻撃を際どく掠るようなことは一度もなかった。
なんだ、この程度の者かとヴィヒレアは拍子抜けし、一気に攻撃に転化して長槍の切っ先を乱入者に向け突き立てた。
――――――が、刺さらない。槍は弾かれ、外骨格をツルリと滑った。それを乱入者は叩き落した。そして笑っている。
ヴィヒレアは軽く苛立って両腕(6本足のうちの上4本全てだ)をバッと広げ、武器と化した先端を露にした。折り畳まれていたものを伸ばすと、そこには鋭い鉤爪と刃物が隠れていたのである。飾り物の槍が貫通せずとも、この武器が思い知らせるはずだった。
ヴィヒレアは4本の手で、絡み合わないのが不思議なほど統制された高速攻撃を繰り出した。鉤爪が見事乱入者の上腕を刺す。それは外骨格に食い込み、確実に内部組織を傷つけた。しかし、乱入者は焦る様子もなく攻防を続けていた。今度は上肢に刀が刺さる。なかなか頑丈な鎧だが、この調子ならいずれ攻略出来そうだ。
しかし――――――
ヴィヒレアがふと気がつくと、先に傷つけた上腕の切り口から胆汁色の泡がブクブクと湧き上がり、何かが起きていた。そして、みるみる組織が回復し、外骨格までが再生され、継ぎ目のない完全な鎧に戻った。虫族の中には自己再生能力に秀でた者がいるが、それでも、ここまで早くは再生しない。自然には考えられぬ驚異のスピードだった。だからこの乱入者は少しも焦っていなかったのだ!
この回復現象にヴィヒレアが気を取られている一瞬の隙を突いて、乱入者は左腕を突き出した。十分な間合いを取っていたのに、ヴィヒレアは肩に衝撃を感じる。刃物状の手がグンと伸びて、そのままヴィヒレアの体に達していたのだ。
そして驚いたことに、美しい玉虫色の外骨格を突き破って内部にまで刃先が通っていた。痛み以上に、その事実がヴィヒレアを震撼させた。余所者の体を自分が貫けるのは当然のことだが、他人の体が己の鎧を打ち破ることがあるなんて――――――
ヴィヒレアはサッと身を退けて、翻りながら乱入者の手を肩から引き抜いた。乱入者は笑っている。今の結果に大変気分がいいようだ。
「我が名を問うたからには貴様も名を名乗れ! 何処の何奴だ!」
乱入者はツイと腕を引き、胸に寄せた。そうすると刃はもう元の長さに戻っていた。伸縮自在なのに、固定時には恐ろしい硬度を持っているらしい。
「強き者を求め、戦っている。マキシマと呼ぶがいい」
「流浪の戦士か……?!」
ヴィヒレアは怯むことなく堂々たる風格を持って戦気を迸らせた。
「――――――よかろう! 受けて立つ!」
そして2人はまた攻防を開始した。先程のような油断がないから、ヴィヒレアの猛攻撃は恐ろしく速く正確で、容赦がなかった。
戦士として特に際立ったところのない凡庸な立ち回りをする乱入者は、あれよあれよと言う間に体中を刺し貫かれた。手足を切り落とされたり頭部に攻撃を受けたりすることだけは免れていたが、どう見ても一方的に虫人有利としか思えぬ戦いだった。
胆汁色の泡が其処彼処に湧き立ち、乱入者の傷口を癒すが、傷が増えていくのと塞がっていくのとどちらが速いのか分からない状態だ。
そして何立ち回りしたか数え切れぬほど互いの刃を交えているうちに、ヴィヒレアはあることに気づいた。少しずつだが、鉤爪と刃の攻撃を乱入者が受け流すようになってきたのである。見切られたというより、相手の速度に変化が起きているようだった。この感覚は、同族の戦士と戦う時にしか味わったことがない。同じ時間感覚の者と相対する世界でしか。
ヴィヒレアは戦いつつも混乱した。一体こいつは何者なのか? 同族なのか?
今度は明らかに乱入者がヴィヒレアの刃を避けて身を反転させ、肘の刀を突きつけた。これがヴィヒレアの胸を掠めた。
追いついて来ている!
ヴィヒレアは一度身を退き距離を開けた。そして胸の傷を確かめる。内部にまで達していないが、見事に横一文字の傷が外骨格表面に走っていた。虫人のプライドが揺らいだ。
そして乱入者の方は――――――流線型の優美な外骨格に新たな変化をもたらし始めていた。