第3部12章『ディライラ狂想曲』6
船や家屋に次々と大きな虫が取り付いて、穴を開けている。飛翔力の強い者から先着して都市攻撃を行っているようだ。屋内に逃げ込み隠れる人間と、おそれて家の外に出、街を脱出しようと走る人間とが半々で入り乱れていた。あんな巨大な虫が家に取り付いたら、おそれをなして飛び出すのも無理はなかった。
ソニアは、人間に直接危害を成している魔物を選んで薙ぎ払っていった。そして、つい慣れで鋼鉄の剣を抜いたものの、もう一度それを鞘に納めて、今度は精霊の剣を抜いてみた。
所持者の戦闘意思に反応しているのか定かではないが、何故か剣は青白く発光しており、見事に柄がソニアの手に吸いついて、己の手そのものとなった。試し斬りというのは彼女の好きな考え方ではなかったが、これが絶好の機会であることは確かだ。
ソニアは心の赴くままに精霊の剣を振るった。あまりの軽さに、彼女の素早い乱舞を一切制約することなく剣は風を斬り、ヒャンヒャンと爽快な唸りを響かせて次々と大蟷螂の首を断ち、腕を断っていった。
あまりの驚異的効力にソニアはすぐ虜になった。初めて自分の能力を最大限引き出せる武器に出会った悦びは例えようもない程だ。
彼女がちょっと剣を振るうだけで、ずっと先にある家屋の窓ガラスに亀裂が走り、得意の風を起こさずとも剣の舞いだけで十分に風が発生し、道往く人の衣服を巻き上げた。
首を失っても暫く動き続ける蟷螂をそのままに、ソニアは民家の屋根に登った。見渡すと、そこここで魔法の閃きが見て取れる。街中の術者や戦士が戦っているのだ。
そして第2陣の到着が分かった。竜かと思える長大な何かが、体をくねらせながら何十体と空を飛翔してくるのだ。あんなものはソニアでも見たことがない。近づいてくると、それが黒光りする巨大なムカデだと判った。ムカデだが、何対もの翼があって空を飛んでいるのだ。
城から大砲が発射された。街に砲弾を落とせないので、海に向けて放てる少ない機会を狙っての攻撃だ。その弾がムカデの1、2体を打ち落としたが、それくらいでは殆ど減らしたうちには入らなかった。
見るからに強力そうな敵軍に、ソニアは躊躇せず上空目掛けて『アイアスの刃』を放った。踏み込んだ民家の屋根瓦が割れて崩れ落ちる。正面から刃の威力を受けた飛びムカデは頭から真っ2つに裂けて分かれていき、そのまま街に落下していった。真空刃の連射により3体、4体と次々ムカデは空中分解して街に落ちた。巨体であるだけに落下の衝撃と音が大きい。衝突した家屋はバラバラに砕け散っていく。あの残骸に当たるだけでも致命的だろうから、少しでも早く人々が避難してくれることをソニアは願った。
ソニアの真空刃を免れたムカデは、家屋や人を容赦なく打ち砕いていく。人は空高く吹っ飛び、壁も屋根も崩れていった。これは竜の攻撃に匹敵するのではないかとソニアは震撼した。
まだまだ後続軍が到着する。続いてやって来たのは、美しくW字の編成を組んで飛ぶ大きな蜂の群れだ。翅や長い手足を除いた胴体部の大きさは、人と殆ど変わらない。蜂部隊は上空で5隊に分かれて下降した。
W字の中央先頭にいた者だけ明らかに体色が異なり、身の丈も大きく、外骨格が鎧のように変形していた。あれがこの部隊の指揮官と見て、ソニアは中心隊の下降地点を目指した。向かいながら何度も真空刃でムカデを撃ち落していく。指揮官は中央広場に降り立ったようだ。
逃げ惑う人や犬猫の流れを通り過ぎ、途中で何体もの蟷螂や甲虫を斬り倒しながら、まっしぐらに中央広場へと向かった。
広場に並んでいた簡易テントは全て無惨に倒れ、火のついた所もあった。そこでディライラ兵や魔術師、戦士達と虫軍との戦いが繰り広げられている。
硬い外骨格で覆われているせいで魔法は全体的に効き難く、目などの急所をピンポイントで狙わなければならないので、術者は苦戦している。戦士もまた関節を巧く狙わなければ相手に傷をつけられず、弾き返されてしまう為、正確さと技術を要した。
そんな中、蜂は素早い飛翔と針の攻撃で兵士達を翻弄し、刺し貫いていった。その様を、一体だけ色の違う大蜂が見下ろしている。
ソニアはすかさず、その大蜂目掛けて飛び上がり、斬り付けた。突然現れたマントの戦士に大蜂は驚き、自らが持つ槍で応戦した。ソニアはこうして接近戦をすることで、初めて敵の姿をよく見ることが出来た。蜂の6本足は下2本だけが直立歩行用の足になっており、上4本が人間で言う所ところの手として機能している。動きの滑らかさといい、それはとてもよく発達していた。これが、ソニアが初めて見る虫人だった。
よく見れば、その口も普通の虫とは異なって柔らかそうな組織で出来ており、細やかな発音が出来そうな唇を持っている。
「――――――お前がこの軍隊の将か?!」
通じるか分からぬが、ソニアはそう発した。虫人はその唇を動かした。
「主は何者だ」
口まで利けることを知ってソニアは驚嘆した。しかも言葉が通じるなんて。一体、世の中にはあとどれほど未知なる生命が存在するのだろう?
「――――――通りすがりの戦士さ! お前は大将か?! それとも上がいるのか?!」
「さぁて、どうかな」
「――――――ならばいい! 用はない!」
ソニアは様子見の為に遊ばせていた剣の軌跡を殺傷用に切り替えて、瞬く間に虫人の首を斬り落とした。頭を失った体は痙攣しながら崩れ落ちていった。こいつが大将のはずはないとソニアは睨んだ。
すると、広場中央から複数の悲鳴が上がって、ズシリと震動が走った。目をやれば、そこに大きな黒い塊が出現している。見る間にその塊は解けて、8本の足を地に食い込ませた。大蜘蛛だ。それは、これまでにソニアが見たことのある魔物の中で1番巨大なものだった。
屋根を飛び降りて、ソニアは広場の中心へと向かった。ざっと見た限りでは、あの大蜘蛛とまともに渡り合えそうな相手は1人もいない。どんな動きをして、どんな弱点を持つのか全く知らぬ敵だったが、ここは自分が食い止めるより他ないとソニアは決断して飛び込んで行った。
現場では、倒れ込んでいる数人を除いた他の者はできるだけ大蜘蛛から離れようとしていた。ソニアは負傷者に当たらぬようコースを気遣って真空刃を放った。精霊の剣で生み出されたそれは、今までの比ではなかった。マナージュの実を食べた効果もあるに違いない。彼女の『アイアスの刃』は、今や通った軌跡そのままに大地にまでざっくりと爪跡が残る域に達していた。
まともに食らった大蜘蛛は金切り声を上げてひっくり返り、ジタバタと足を捩らせて悶えた。何が起きたのかよく解らない人間達は、目を白黒させて戸惑っている。
暫く悶えていた大蜘蛛は、やがてコロリと反転して再び体勢を整えた。蜘蛛の中でも、足が長くて巣を張り獲物を待つタイプとは違い、これは攻撃狩猟タイプで、太くて短い脚をした敏捷な性質のものだった。
大蜘蛛は負傷しながらも8本足を巧みに使ってササッと後退し、どれが今の攻撃の主か見極めようとしている。大小合わせて12個の目が広場中を廻った。そんな中、怪しく光る剣を手に1人だけ涼やかに立つマント姿の者を見つけ、大蜘蛛は直感でこいつだと見抜いた。
空ではまだ飛びムカデが駆け巡っているし、甲虫が家屋を破壊し続けている。その中を縫うようにして蟷螂や蜂が人間を見つけては襲っていた。そちらの対処に移る為にも、少しでも早くこの化物を止めなければならない。ソニアは剣を深く構えた。
ニルヴァ王子は部隊を率いて城から出動し、住民救出に向かった。城の防衛は弟エミリオンと父王に任せて、自分はフィンデリア姫もいる街の戦いを選んだのだ。飛びムカデは城をも襲うが、今のところ大砲と術者の攻撃で集中的に寄られることは防いでいる。むしろ被害は下々の街に及んでいるから、尚のこと先に行かねばならない。
ニルヴァ王子は果敢に街の中心部へと兵を進めて行った、剣にも魔術にも長けた精鋭揃いだから、次々と蟷螂や甲虫を仕留めていく。自身も剣を振るって直接蟷螂の鋭い鎌とぶつかり合い、首を一太刀で落としていった。
実は彼にとって、本物の命懸けの戦闘はこれが生まれて初めてだった。幼い頃から剣術の達人に英才教育を受けてはいたが、前の大戦時にはまだ幼過ぎたし、今大戦も国内遠征にすら出ることを許されていなかったので、機会が全くなかったのだ。
これまで思い描いていた光景より、ずっとおそろしく奇妙で悲惨なものが眼前にあった。首のない死体。胴体が真っ2つの死体。だが彼は、それ程自分が恐怖に打ちのめされ萎縮していないことを知った。理性が精神の核を守り、混乱や発狂から守るべくバリケードを築いているのだ。
そして、この同じ世界に自分より若く腕力もない少女がいて戦っているのだということも、心の支えになっていた。
中央通りの東区域に民の姿は見当たらなくなり、虫の一団を突破した先には、更に目を疑う怪物が待ち構えていた。王墓の小丘ほどもある黒い大蜘蛛が盛んに足を動かして広場中を這い、時には高く飛び跳ねて中央尖塔に乗り上がっていた。
「――――何だこれは?!」
隊員皆が口を開けて束の間硬直し、高みを見上げた。命令がなければ、次に何をすればいいのか全く見当がつかない。
ニルヴァは、軒並み倒れている市場のテントの残骸が散らかる中で、たった1人避難せずに大蜘蛛と相対している人物を見つけた。マントの色で、それがあのホルプ・センダー入り予定の謎の人物と判った。あの様な渋い草色のマントはなかなか見ない。
マントの戦士は仄青く光る不思議な剣を手に、離れた距離から素早く腕を振るった。あまりに速いからその瞬間がよく見えず、炸裂音と大蜘蛛の絶叫で何らかの技が放たれたのだと解る。大蜘蛛は空中で体勢を崩して、足の1本がもぎ取られて背面から落下した。ズウンという重い震動が走り、体が僅かに浮き上がる。
ずっと戦いを見ていた広場の衛兵が、王子を見つけて近づいた。
「――――ニルヴァ様! ここは危険です!」
「民はどうした! 地下壕へ入ったか⁈」
「概ね間に合っております! 残りは他の地域へ行きました!」
そして衛兵は熱く目を輝かせて王子に言った。
「よ……よく解らないんですが、あの人が善戦してるんです! 物凄く強いんです! 遠くからでも敵のことが斬れるし、叩けるんです! しかも時々魔法まで使っているんです! あんなの……見たことありません! もしや……英雄アイアスなのではないかと皆で言っております!」
ニルヴァはマントの戦士が繰り出す技の威力に目を奪われた。
依然として飛びムカデや大蜂が疾駆する中、青い剣の一太刀でまた大蜘蛛の足が1本断たれ、二太刀で2本目が断たれて思うように動けなくなり、最後には直接大蜘蛛の頭上に乗り上がって首関節に深々と剣を突き刺した。中枢神経に達して全身がビクンと震え、次には抜いた剣を振り翳して飛び降り様に一気に首を斬り落とした。まるで大岩が滑落するようにゴロリと転がり、広場を飾るオブジェになった。
剣士は大蜘蛛の胴体の前で剣を胸に番え、目を閉じて祈りを捧げる。その騎士道溢れる振る舞いは、ますます英雄アイアスらしさを醸し出していた。
「英雄だ……英雄が帰ってきたんだ……!」
次第に興奮が広まり、衛兵達は残る敵を倒すべく走り出した。
ニルヴァは、これがホルプ・センダーに加わるのに求められる条件かとショックを受けつつも、昨日この人物が全く違う名で呼ばれていたことを思い出して、あれが英雄本人とはまだ結論付けていなかった。
マントの剣士はすぐに広場を離れ、西側を目指して走り去って行く。
「――――我らも西へ行くぞ!」
ニルヴァの号令で部隊は再び動き出した。
フィンデリアは歌劇場から街の西側寄りに移動していた。なぜか西側に向かって逃げて行く人々が多い。フィンデリアは、街を抜け出す為に唯一の大道である西の傾斜路を目指しているのに違いないと思った。そして、それが危険を孕んでいることも予感していた。あの大道に人々が殺到したら、いかに広い道でもトラブルが起きるだろう。それに、そこを魔物に狙われたら、もっと酷いパニックが起こるはずである。だから姫はそれを防ぐ為に、西側の敵を少しでも減らそうと移動した。
その頃、また新たな影が上空を過った。大きな、大きな、空飛ぶ戦艦かと思える黒い影が空を旋回している。その戦艦は7つも8つもあった。目を凝らしてよくよく見れば、それも巨大な虫で、下から見る限り平たい形をしたレンズ豆色の甲虫だった。
その平たく節くれ立った腹がパカリと開く。節毎に、薄翅を覆う殻の如く外骨格が1枚1枚分離し、正中線から外側に向かって全てが開かれると、その中に隠されていた無数の細やかな黒い粒がバラバラと落下を始めた。それが何なのかはわからない。
落下地点に近い者は逸早くその正体を知った。黒い粒は地上に達すると酒樽ほどの大きさと判り、しかも一度バウンドするや身を解いて細い6本足を露にした。しなやかな長い触角もスルリと現れる。大蟻の大歩兵団だ。翼を持つ種類は少ないから、こうして歩兵は戦艦の如き運搬兵によって運ばれてきたのである。伸び上がれば人より全身の長い大蟻は、続々と家屋に取り付いて強靭な顎で破壊し、人を見つけては襲いかかった。
フィンデリアは細い路を見つけて、ここを塞げば大量侵入を防げるという地点で防壁を築いた。素早く魔方陣を石畳の道に敷き、カルバックスらに守られる中、出来るだけ念入りに呪文詠唱をして、陣を確かなものとした。そして完成するや、そこから離れて衛兵達も下がらせた。
先頭を行く大蟻の姿が見えたと思ったら、それが弾丸のように這い進んでくる。息を止めてタイミングを計り、蟻が陣に足を掛けるのを認めるが早いか、フィンデリアは火炎呪文を唱えて陣を発動させた。ただ放つよもずっと強力な火柱が立って大蟻は飲み込まれ、全身が燃え上がる。外骨格は耐火性に優れているが、細い触角は簡単に焼け、感覚が狂い歩行が覚束なくなった大蟻を衛兵が仕留めるのは容易かった。
壁を這いやって来た大蟻も次々と火柱の餌食になる。これで暫くは蟻の大軍の一部を抑えられるだろう。辺りはみるみる焼け焦げた蟻の残骸で一杯になっていった。
街の混乱する様を、男は宿屋のテラスから眺めていた。避難しようという素振りは少しも見せていない。虫王大隊の構成はとても興味深く、彼の好奇心を存分に刺激しており、飛びムカデの空往く様は美しいとさえ思った。この世で虫類ほど数学的に均整の取れた肉体をもつ種族はない。
向かいの建物の最上階が衝突により崩される。どうやら全軍中1、2を争う破壊性を持っているようだ。それを統御するに値する頭脳的な将がいるかどうかは、まだ定かではなかったが。
下の道を逃げ惑う人々は、一目散に右手の西方向を目指して駆けて行く。その後を蟷螂が追い、大蟻も迫りつつあった。まるで蟻に肉を被せてノロマにした者達が狂乱しながら走り回り、その後をスリムな骨だけの姿で黒い殺人虫が追跡しているようで、何とも滑稽である。
噂によれば大蟻は腹に仕込んだ強烈な酸の攻撃も出来るらしいから、それも使い始めたら、ますます面白いことになるに違いない。だが、蓄えに限りがあるから無闇に使用しないようで、まだ肉弾戦だけをしている。
「……そろそろ出られた方がよろしいかと」
背後に控える無表情な側近がそう言った。室内は男と側近の2人だけだ。
男はチラリと西側に目をやった。ずっと向こうの馬車広場に黒山の人だかりが出来ている。もう頃合いだった。
「……よし、西広場の2体を動かせ」
男がそう告げると、側近は無言のままテレパシーで部下に命を下した。一時目が虚ろになり、焦点が合わなくなる。内部世界では遠く離れた部下とさかんにやり取りを交わしていた。
男はテラスから飛翔してヒラリと屋根に登り、空一面を覆う運搬甲虫と飛びムカデの勇姿を眺めながら、西を目指して身軽に屋根を飛び越えて行った。所々で魔術師の放つ火炎や氷炎の閃きが上がる。
時折、爆音と共に飛びムカデが空中分解して墜落していくので、男は目を留めた。城からの砲撃が成功したのだろうか。だがこの街に向けて? それとも人間にしてはなかなかの強戦士でもいるのか?
気になったが、計画を先に進める方が重要だったので、男はすぐにまた西に向き直り、屋根を飛び移って行った。部下に指示を出し終えた側近も後から追いついて来た。
西の馬車広場は、この都市から逃れようと試みる人々でごった返して危険な状態にあった。我先にと人を押し退けて馬車を進める者あり、荷物を背に負い斜面を攀じ登ろうとする者あり、幾ら兵士が地下壕への道を示して叫んでも、殆ど誰も耳を貸さずに脱出だけを考えた。
騒乱の音が大き過ぎて、実際に兵士の声が届いていないことも理由にあったが、常日頃まずは地下壕へ避難するよう教えられているのに、いざ珍奇なおそろしい大群を目にするや、地下壕への避難で命が助かるとは思えずパニックを起こし、それで本能的に現場から遠ざかろうとしてしまっているのだ。
子供を抱えている人、子供を手で引く人もいる。パニックを起こして正常な判断が出来ず、人々は全く状況を理解していないが、こんな群衆の中にいることは致命的と言えた。
街道へ出るために上る大道の入口では人々の押し合い圧し合いが起き、通常なら馬車5台が軽くすれ違える坂道が濁流と化して、所々でうねり零れていた。
突如、坂道の入り口で爆発が起こった。人々の幾人かが吹き飛ぶ。崖から岩が崩落してきてゴロゴロと積み上がり、道を塞いでしまった。行き場を失った人々は恐怖の叫びを上げ、その叫びがますます恐怖を煽って混乱を引き起こした。
眼下に見下ろすその光景を、男は涼やかに目を細めて眺めた。
無理矢理押し進む大男に踏み付けにされた子供が気を失い、それを母親が半狂乱で抱きかかえている。それを誰も気に留めない。力の弱い者は倒れ、その上を体の大きい者が乗り越えて行った。先程押し倒された老人がいたが、もはや何処にも見当たらない。おそらく死ぬだろう。
「……見よ、実に愚かな生き物だ」
「……まことに」
嘲ってもおり、しかし男は儚んでもいた。そこそこ知性はある種族なのに、危機には何と弱く脆いことだろう。何かを教訓にするより忘れることの方に長けているから、こうなるのだ。実に惨めで、無様だ。
男は懐から硝子製の細い管を1本取り出した。両端とも溶接されて全くの密閉状態にあり、その中には濁った薄褐色の液体がトロトロと揺れている。この硝子管に焦点が合うと、男の目は翠玉色に煌めいた。
「せめて――――――美しい獣となれ」
男はそう呟くと硝子管を空高く放り投げた。ガラス管はクルクルと回転しながら広場の上を遠くまで飛び、やがて群衆の真っ只中に落ちていった。
変化はすぐに起こった。群衆の中心にいた人々が次々と泡を吹いて倒れ込み、身を折り捩らせて手足を痙攣させた。その現象がどんどん広がっていく。異変に気がついた時には、その人間も既に遅く、すぐに同じように膝を落として喚き声を上げた。バタバタと、円が次第に広がるように人が倒れていく。効果覿面だ。
そのまま死んでしまうかに見えた人々は痙攣を続け、それはやがて軽い震えに変わり、その身に更なる変化を見せ始めた。
まず肌の色がどす黒くなっていき、枯れ木ほどの色になると、今度は緑味を帯びてブクブクと大きな疣をこしらえた。まるで森に棲むイボガエルのようだ。頭髪はバラバラと抜け落ち、どんな色の瞳も真っ赤に染まって虹彩は漆黒に変わり、腰を曲げて4つん這いになっていった。手足の爪は伸びてクルリと湾曲し鉤爪状となり、肘が伸び、肩が伸び、足の曲がり方が変わり、大地を駆ける獣の骨格へと変貌していく。背からは幾本ものスパイクが出現して衣服を突き破った。それで、この獣は完成した。
その獣はどうしたことか、真人間を見つけては襲いかかった。殺さずとも、一噛みするか少し傷をつければそれだけでいい。負傷した人間は泡を吹いて倒れた。そして同じ変化のスペクタクルを披露する。計算通りの動きだ。問題ない。
男は笑みを浮かべて屋根からヒラリと舞い降りた。獣が襲いかかってくる。男は全く構えず、獣がやって来るのに任せた。獣は前足を男の胸にかける――――――が、それを寸前で止めた。
鼻をヒクヒクさせて匂いを確かめると、バッと離れて他の獲物を探しに行く。その後も何頭かが男の近くまで来たが、男が人間の姿をしているにも関わらず、獣はどれ1匹として男を傷つけることなく通り過ぎて行った。
男は満足そうに笑みを広げた。
大蟻歩兵団の先頭部隊が到着したようだ。まだ人間の姿をしている者は、大蟻と獣の両方に挟まれて絶望の叫びを上げている。
男は人間の言葉で、手近な獣にこう命じた。
「蟻をやれ」
獣はウオォンと雄叫びを上げて、今度は大蟻をターゲットに切り替え攻撃を開始した。
獣には未だ人間の衣服が破れずに残っている者が多く、元がどんな者であったかが窺い知れる。エプロン姿の若い娘、兵士、ベストを着た子供、腕章をつけた水夫。
獣は果敢に大蟻と衝突し、甲殻対牙とで白兵戦が始まった。敏捷さに差はないが、食らいついたら離れない顎の強さと牙の鋭さで獣は大蟻の頭に齧りつき、胸にも穴を開けた。
突如訳のわからぬ敵軍が出現したので、大蟻は慌てふためいた。彼等は触角の震動で後続部隊にこの出来事を伝える。皆が一様な姿をしているので、見た目には誰が命を発したのか解らないが、大蟻は酸の発射を決意して獣に向け次々と放った。もろに酸を浴びた獣は絶叫し、顔を溶かされて転げ回る。これで五分五分のようだ。
男は大蟻の様子を確かめた。これが重要なのだ。山ほどいる黒い大蟻兵は、どんなに獣に噛み付かれ裂かれても、ただ負傷し命を落とすだけで、何かに変貌する徴候は見せなかった。長時間観察していなければ確実とは言えないが、今見る限りでは特に異変はない。人から人、獣から人へは感染するが、虫への感染は無いようだ。
これでいい。
男は狂乱をそのままに、再び民家の屋根へと舞い上がって次なる目的の為に視線を移した。側近はまだそこで待機していた。
「……来たか?」
「まだわかりません」
男は待つ間、西側広場の激しい戦闘と上空で起きている活劇とを見比べて楽しんだ。また飛びムカデが裂けて落ちていく。大砲ではないようだ。一体何者が戦っているのだろう。