第1部第3章『デルフィーの日々』その1
3.デルフィーの日々
この世でたった一人の家族と別れたソニアは、その後暫く笑うことがなかった。
別れの辛さを知っているリラも、「元気を出せ」とか「笑え」といった、一種暴力めいた発言は絶対にしなかった。必要なのは抱き締めてやり、清潔で温かな寝床を与えてやり、食べさせてやり、見守っていることなのだ。そして、リラはそうした。
何かして欲しいことがある時だけ、リラはソニアにお願いをした。最初にしたお願いは、自分を『リラおばさん』とか『リラばあ』とかいう風に呼ぶことだった。後も、触れ合いのきっかけを得る為に豆の皮むきや糸紡ぎを手伝ってもらったりするだけで、なるべく彼女を外で遊ばせるようにしていた。早くこの街に慣れて、友達でも出来るのが一番の特効薬の筈なのだ。ここで暮らすことになるとは知らなかった時分から子供達とは遊んでいたので、それは容易に違いなかった。
リラは、彼女が無事子供達に混じれているか外に出て探してみたりするのだが、なかなかそんな様子は見られず、いつも彼女は何処かに消えていた。そして楽しく遊んできた雰囲気もないのに、やたらに体や衣服が泥土で汚れて、顔にも擦り傷を作って来ることが続いた。涙の跡らしき頬の汚れもよくあった。
「今日は何処に行ったの?」
「……もりだよ」
「森で……何をしてたの?」
「……いろいろ」
問い詰めないよう気を払ってそれ以上は訊けず、いつもよく解らなかった。ただ、森は魔物が出るかもしれないので危険だから、奥には一人で行かないように言い聞かせておいた。商道入り口付近には衛兵がいて、一日一度は道を往復して警備に当たっているので安全な方だが、それ以外の場所はほぼ無法地帯だ。何が出るか解ったものではない。ソニアは黙って頷いていたが、リラは心配だった。
そしてある日、リラはこっそり彼女の後を尾けて行った。幼子とはいえ驚くほどはしっこいソニアは、リラの足ではすぐに見失ってしまった。それでも彼女が消えて行った方角にリラも進み、いつしか森の付近に来て、恐る恐る少し中に入ってみると、何か妙な音がするのでそちらへ静かに近づいて行った。
リラがそこで見つけたのは、木に向かって打撃の練習をしている幼子の姿だった。太くて頑丈そうな木を相手に拳を突いたり蹴りを入れたり、木の棒を剣よろしく握り構えて打ちつけたりしていた。若くて細めのよく撓る木を相手に換えた時には、打たれて一度反れた幹が跳ね返ってくるのを避けたり、また打ち返したりと、その動きに合わせた振りをした。以前からアイアスがやるのを見て真似ていた筋力トレーニングも数々こなしている。
5歳かそこらの子が真剣な顔で黙々とやるには、それは異常とも言える光景だった。大人でもこれほど集中力を持続させるのは至難の技だ。それを、移り気で当たり前の子供がするなんて。
リラは出て行くことが出来ず、止めさせることなどもっと出来ず、そこでずっと覗き見をして涙していた。幼子の方も時折涙を零し、それを拭ってはまた鍛錬に励んでいた。
この行動の意味と、原動力であると察せられる想いを知っているリラは成す術なく、ただそうして、幼子が怪我やアクシデントなく無事で終わらせるのを見届けるまでそこにいた。すると、辺りはもう夕暮れになっていた。
リラはこの事をひどく心配し、このままこの子が、友達も作らずに孤独な修行の道を歩み出すのではないかと頭を悩ませた。普通の親ならきっと止めさせようとするだろう。せめて家の側や街の中でするように言うだろうし、何なら兵士に稽古をつけてもらえるようにお願いするのかもしれない。
港衛兵は毎日欠かさず定刻にトレーニングをしている。腕白な男の子が兵士に憧れて、親に訓練参加の許可を強請ったり、チャンバラごっこから将来への特訓を始めたりすることはよくある。
だが、こんな幼い女の子がそういった道を希望することは滅多にない。いるにはいるが、男兄弟の中で育ったおてんば娘や、身近に戦闘力の必要を感じた不遇の子ぐらいであろう。大体、才能のある女の子は魔術師の道を選ぶことが多いものだ。
しかし、ソニアは明らかに戦士になろうとしている。実際、戦士は腕力にものを言わせる者ばかりの集まりだから、普通の女の子は希望してもなかなか強者は出てこないのだが……この子はどうなるのだろうか?
リラは本当の孫だったら止めていたかもしれないが、ソニアには「女の子だから止めろ」などとはとても言えなかった。それに、彼女に好きなようにさせてやって欲しいというアイアスの言葉も残っていた。それで、もう暫く耐えて見守ることにした。
この子は、ずっと見てきたアイアスを目標としているのだ。きっと、彼と同じ魔法戦士を目指しているのだろう。リラは、そう思った。
それから10日もすると、リラはソニアが子供達と遊び始めたのを見ることができて、ホッとした。トレーニングは相変わらず続けているし、日に日にその内容は格上げされていくようだったが、子供らしく遊びもして両立できるようになったのである。
ソニアの方から仲間に入っていった訳ではなくて、彼女と少し遊んで以来ずっと興味を持っていた子供達が、ある時彼女を捕まえたのがそのきっかけだった。
子供達は、漁師や商人を親に持つ者は朝から昼にかけてその手伝いをしていたり、学校に行っていたりするので、主に午後に集まって遊ぶことが多い。そこでソニアは、午前中に訓練をし、昼食と手伝いに一度家に戻って、その後また訓練に行き、陽が落ち始めてから帰りがけに子供達と合流して小一時間遊び、その後家に戻ってきてリラの手伝いをする、というスケジュールをこなすようになり、それが定番になっていった。
森での訓練中に事故があったら保護者たる自分の責任だと思っていたリラは、ソニアをその場所から遠ざける代わりに、度々こっそりと後を尾けて、いざとなったら自分が戦うつもりで長い箒を握り締めて、物陰から見守っていた。
またリラは、つい最近訪れていた男が英雄アイアスで、この子はその妹であるとは公表していなかった。どうせはじめから遠い親戚の子であると言ってあるし、真実を告げた所で、アイアスに『身内を置き去りにして行った冷酷な男』という批判が出る恐れもあったからである。リラは事情を知っていたから同情しかしていなかったが、話が妙な形に捩れ曲がって、何処でどう姿を変えて又聞きの者が誤解するかもしれないのをよく知っていたので、そんなことを避けたかったのだ。
遠方の貧しい親戚がやむなく幼子を預けに来た。それでいいではないか。善意の老女リラは、そうして良き保護者の役割を果たし続け、日に日に逞しく美しくなっていくソニアの成長を見守った。
ソニアは、この街で人間の子供がする集団の遊びというものの面白さを知った。追い駆ける者と追い駆けられる者とに別れて行う数々の鬼遊びや、人質交換ゲーム、球当てゲームなど、次から次へと新しいものに出会って、その巧みさに興味をそそられた。
一日の大半は兄アイアスを思うことに費やされていたので、眠っている時は彼の夢を見たし、食事をしていても彼の不在が苦しかった。それで苦しさを紛らわせる為に猛特訓をしているのだが、それを本当の仕事だとするなら、子供達との遊びは趣味のようなものだった。
本当の苦しみを解消させるには、少しでも強くなる事をしていないと役に立たなかったから、訓練は必須だったのだが、時に子供達と遊ぶと、ほんの一時だけそれを忘れることが出来て、いわば痛み止めの麻薬のような働きをしたのである。
もし遊びばかりをしていたら、やがて訓練をしないことには落ち着かなくなったろうから、どちらにせよ少しずつ遊ぶのが丁度良かった。街の子供達の方が、もっと一緒に遊べないことを残念がっていた。
髪色の違いや可愛らしさのせいで、最初はちょっかいを出されたり、いじめられたりもしたが、誰かしら守ってくれたし、ソニアの身体能力の高さや機知の高さを知ると、すぐに皆は重宝がるようになった。
彼女を守った子供も、事情のある可哀想な子だから優しくしてあげるよう親に言われていた者だったり、生来の正義感からの者だったりと、概ね優しい子供が多かったと言える。大戦で親を失った子も幾人かいるから、そういう意味での同胞もいたのだ。
デルフィーは大きい街だったので、全地域の子が一同に遊ぶ訳ではなく、やはり近所同士のグループがまずあって、他のグループとも多少の繋がりがあって、一番大きくは北側と南側に別れてのグループになっていた。ちょっと変わった可愛い子がいるというのは、北側――――ソニアの住む南側とは反対――――にも早くから伝わっていたので、一緒に遊んでみたいと思う子供はかなりいた。ずっと歳の離れた10代半ばの男の子ですら、足を伸ばして見に来るほどだった。
そんな訳で、グループ同士がちょっかいを出すこともあったし、喧嘩もした。ソニアはもちろん進んで小競り合いに加わる方ではなかったが、誰にも負けないくらい強くなるという彼女の目標の為に、力任せの傲慢なガキ大将から仲間を守るべく勇敢に立ち向かうこともあった。まさか本気で魔法や風を使ったりはしなかったし、使わなくても勝てるだけの実力が幼いながらも既にあったので、彼女はますます一目置かれていって、そのうち南側グループの四天王的地位に就かされることとなった。
彼女に憧れ慕ってくっついて歩く女の子も沢山いたし、男の子とも平気で気さくに乱暴な遊びをするので、ガキ大将の友達も多かった。何といっても、魔物達と育った子供なのだ。人はそのことを知らなかったが、その彼女が人間の子供との生活ごとき、物の数であるはずがなかった。
彼女が遊んだり笑ったりするようになってからは、訓練や遊びの出来ない夜に家のテラスで歌を歌ったり、夜烏の鳴き真似をすることがよくあった。鳴き真似は本物かと思われていたし、歌はささやかに放たれ風と共に流れていったので、何処の子が歌っているのか人々は解らず、リラはそれを不思議がっていた。そして、それを自分だけの秘密にして楽しんでいた。
そんな生活を送り、ソニアが兄アイアスを待ち続けて半年ほど経ったある日、ソニアはある奇妙な出遭いをした。
それは、彼女がいつものように夕暮れ時に遊んで鬼ごっこをしていた時のことだった。鬼が100数を数える間の定番位置によく使われている裏路地の隅で、彼女が数を数え終わって、皆を探そうと煉瓦の壁を越えるべく乗り上がってみると、そこでバッタリある男と出くわしたのである。
そんなことはよくあったのだが、この時はその男の方がやけに驚いて目を丸くして固まってしまい、その様があまりに印象的だったので、ソニアの方も男のことをジッと見てしまったのだった。
マントにフード姿の見知らぬその男を、ソニアは壁に膝を乗り上げたポーズのままで眺め、そして首を傾げて言った。
「……なぁに?」
子供らしい率直さでソニアに話し掛けられると、男はギクシャクとしながらも、ようやく動けるようになった。道を尋ねる旅人はよくいるが、ちょっと様子が違う。
「……人を探しているんだ」
「なんて人?」
男はソニアを見つめ、少し躊躇ってからやがて言った。
「……ソニアという女の子だよ」
様子がおかしいと思った理由はこれだった。彼は既に、この子がそうなのではないかと見当がついており、それを確かめるように彼女を見ていたのである。他の子供なら少し警戒するのかもしれなかったが、ソニアはそうしなかった。
「ソニアはわたしだよ」
「……他に同じ名前の女の子はいない?」
「うん、いないってリラばあがいってた。……お兄ちゃんだれ?」
クリクリの宵闇色の瞳に見つめられて、その男はまた暫く呆っと彼女を見た。
見知らぬ大人には気をつけろと普通の子供は言われているから、ちょっと変な大人がいたらいそいそと離れて行くものだが、この歳にして幾つもの旅と幾つもの戦闘を越えてきたソニアだったから、相手に悪巧みや殺意の欠片が全く無いのを肌で感じていて、恐れはしなかった。
そして、彼女には解らぬ理由でそこでやや放心している男の方が、あまりの衝撃にミスを犯してしまい、その手に変化が表れていた。マントから出ている彼の手が、とても蒼褪めた、打ち身をした時のアザに似た色をしていたので、ソニアはハッとして驚きの声を上げた。
「スゴい! お兄ちゃんへんげしてる人なの?」
我に返った男は慌ててソニアの口を押さえ、辺りをキョロキョロと窺った。誰かに見られていたら、今まさに子供の口を塞いで攫おうとしている者のように見えたかもしれないが、特に人が聞きつけている様子が無いのを見て取った男は、すぐにその手を離して、今度は人差し指で軽く彼女の唇に触れた。ソニアはすぐに意味を理解して囁き声で言った。
「……ないしょなんだ! そうなのね?」
男はまだドギマギしていたが、彼女が騒ぎ出しそうな様子を見せないので安心したらしく、ささやかな笑みを浮かべた。よく笑う人の頬の張ったそれとは違い、そういうことに慣れていない顔を少し緩ませたようなものだった。
ソニアはニッと笑い、男の手を取ってグイグイ引っ張り始めた。
「――――ねぇ、ねぇ! こっちきて!」
男は戸惑いつつも抵抗はしないで、されるがまま彼女について行った。
ソニアは街外れのその場所から更に離れて行き、木立の中に入って人目につかぬ場所を探した。自分の訓練でそのような場所を幾つも見つけていたので、知る中で希望に近い一つを選んでそこに行った。商道から外れているし、薪拾いや山菜採りの人がたまに来るだけで、それもこの夕方の時分にはもうないことだったので、人に会う心配はなかった。
ソニアは手を離すと、男の正面に回り込んで目を輝かせて見上げた。
「ほんとうはどんな人なの? 見せて! 見せて!」
手を見て彼女がパニックを起こさなかったことも男には驚きだったが、このリクエストにも男は大いに度肝を抜かれた。とても躊躇していたが、ソニアを見続けているうちに不安が消えていったようで、彼は黙ったままそれに応えて変化を解き、淡い霧が体表面から立ち昇ったと思うと、その中から真の姿を現した。
それは、手と同じ蒼褪めた色の顔の、中心に紫色の光を持つ翠玉色の目の人だった。ソニアの反応を待って緊張しているその男は、思いがけずソニアが嬉しそうに笑みを広げたので肩の力を抜き、フードも取り下げて土色の髪を露にした。くせのある巻き毛の短髪だ。
「わぁ! トゥーロンみたい! 色がにてる!」
「……トゥーロン?」
「わたしの家族だったの。あんきぞくに近いものだっていってた。お兄ちゃんもそうなの?」
予想外のことが続いて戸惑うばかりの様子の男は、そっと頭を振った。
「……いや、暗鬼族じゃない」
否定されて少々残念そうな顔をしたが、それでもソニアは家族に似た者と久々に会う嬉しさの方が勝っていて、目をキラキラとさせた。
「お兄ちゃんは、なんでわたしをさがしてたの?」
「…………」
男は言葉を捜していた。大人のそう言う仕草をソニアはあまり知らないので、それが、これから嘘をつこうとしている者の姿だとは思わなかった。
「……オレは、人の姿に化けて人の街を見て回るのが好きなんだよ。誰かに案内してもらおうと思って人に訊いたら……ソニアという子がよく教えてくれるだろうって言ってたんだ。だから、君を探していたんだよ」
「へぇー、じゃあ、あんないしようか?」
屈託のない顔でそう言うソニアに、男はまたフッと顔を弛ませた。
「……いや、もういい。……君に会ったら、君と話がしてみたくなった。ここでもう少し喋らないかい?」
「うん、いいよ」
男とソニアは、傍らのちょっとした崖に腰掛けて隣り合った。彼が『トゥーロン』という者のことをもっと教えてくれ、と言うのでソニアは喜んで語り、森での生活を話した。この街に来てから、人にはしたことのない話だった。どうしてか、人には話さない方がいいということを、アイアスの素振りや直感でソニアは解っていたのである。でも、この男になら大丈夫そうだった。
今度は逆に、ソニアの方が彼に何者なのかを尋ねた。大人同士なら所属や階級のことを訊くのだろうが、勿論、彼女の場合は種族を知りたがっていた。
「……オレみたいな者に会ったことはないのかい?」
トゥーロンには髪の毛が無かったし、この男のような大きな爪や、若干人より長い犬歯――――牙と呼べるギリギリの大きさ――――も無かったので、一緒にいるうちにその違いをソニアも解るようになっていった。それに、トゥーロンはもっと血管が目立っていたものだった。
「……ううん、ない」
男はまた思案して、どうすべきか決めていた。
「……人間でもない、暗鬼族でもない、別の鬼の一種だよ。ここにはあまりいないから、見たことがないんだろう」
「ふぅーん……」
全く恐れる様子のないソニアとそうしているうちに、男も心を開いていった。日々の出来事や森の仲間のことをもっと話して、互いに会話をとても楽しんだ。
やがてソニアは唐突にこう言った。
「……わたし、ほんとうはお兄ちゃまがいるの」
男は今までになく、その言葉にギクリと固まった。ソニアは特に気に留めなかった。
「アイアスっていうの。とっても強くてやさしいの。……あったことある?」
男は目を薄め、切なそうに遠くを見るソニアの横顔を眺めた。
「……いや、知らないな」
トゥーロンと同族でないということより、その答えはソニアを落胆させた。溜め息をついて彼女は続けた。
「わたし……もっともっと強くなって、お兄ちゃまが連れていってくれるのを待ってるの。だれにも負けないくらい強くなったら、お兄ちゃまがきっとくるの。そうしたら……わたしもお兄ちゃんみたいに、いろんなところに行けるんだ」
お兄ちゃまがアイアスのことで、お兄ちゃんが男のことだった。男はただ「そう」とだけ言い、物思わしげにソニアの体にある数々の傷に目を留めた。彼女の瞳はどこまでも真剣で、涙はなくとも、そこからはアイアスへの愛が滲み出ていた。男は暗い目で、ただ黙っていた。
やがて子供の声がしてきてソニアが「いっけない」と立ち上がったので、それを機に男も立ち上がって彼女の頭を撫でた。
「……楽しかったよ、ソニア。オレはこれでもう失礼する」
ソニアは一瞬悲しそうな顔をした。男はそれをお気に召して、より一層の柔らかさで微笑んだ。
「また……ソニアに会いに来てもいいかな? 内緒で」
ソニアは実に嬉しそうに笑って勢いよく頭を振った。
「うん!」
子供の声が近づいてきたので、男はまた人の姿に魔法で変化し、一瞬でちょっと顔色の悪い人間のなりになった。そして、手を振りながら駆けて行くソニアを目に納めながら、木立の陰に隠れた。ソニアが「ごめーん!」と進行方向に叫ぶと子供達の不平不満が聞こえてきて、それが可笑しかったので、つい男はニヤリと笑った。
「鬼がいなきゃはじまらないじゃんかよー」
子供達と合流したソニアは街に戻ってから、そう言えば彼の名前を訊くのを忘れていたことに気づいた。そして、今度会えたら訊こうと思った。人間世界に来てから楽しく生活が出来るようにはなっていたが、アイアスのいない虚しさは大きかったし、森の生活の素晴らしさには未だ勝らなかったので、久々にその懐かしさを思い出させてくれる異種族との触れ合いは、とても嬉しかった。そして、アイアスのように世界中を飄々と渡り歩く者の存在を面白く思った。
幼いソニアの心の中は、アイアスとの旅立ちへの希望が大半を占めていたので、男との出会いの奇妙さ、偶然さには然程気を留めず、それを考えるようになったのは、ずっと後になってからだった。
さんざ待たせてしまった仲間達に謝りながら、ソニアは鬼の役を務めて走り回り、皆を楽しませて挽回したのだった。
トゥーロンから『森に来た記念日』というものを教えてもらっていたソニアは、その記念日が4度過ぎたことを知っていて、それをアイアスに話したことから、彼と出遭った時、ソニアは4歳なのだということになっていた。
森には四季があったので、記念日が春――――木に小さな黄色い花が咲く頃――――であることも覚えており、アイアスはそれがカリオクという樹のことだろうと推察していたので、大体の月も判っており、人間が1年を12の月で区切る内の、花月と呼ばれる月をソニアの誕生月ということにしていた。
さすがに日にちまでは判らないので、花月初日を彼女の誕生日と定め、リラにもそれを話していたので、デルフィーに来てから最初の誕生日をリラが祝ってやり、ソニアは6歳になった。
6歳になると子供は次の学期から学校に通ってよいことになっており、希望者は無償の国営学校に参加できる。
強制ではないし、将来を漁師やただの嫁と定めた親の子は通ってこないことも多く、全員が教育に熱心という訳ではなかった。人々は一応日々の生活が大変だったし、確かに、学問を授けた所で、秀でていなければ文官の狭い門に入るのは至難の技だったし、明らかに有望と思われる素質の子でなければ、学校に通わせても大して将来の役には立たなかったのである。
だから魔術師を目指す子や、計算に優れていて、この街の会計士か城の管理官になれるのではという子、家柄の良さから人を統べる為に必要であろうと学びに来た子などが、学校に来ている生徒の主な人種だった。
リラはソニアに学校へ行く意志があるか訊いてみた所、2つ返事で「もちろん」と答えたので早速手続きをした。
将来戦士を目指すだけならば必要ではなかったが、ソニアは魔法も使えたし(まだ町民はそれを知らない)、読み書きも好きだったし、アイアスのような万能戦士を目指していることも知っていたので、リラは学校がその手助けをしてくれるであろうと思っていた。才を持つ子に豊富な学びの機会を与えるとどう育つのか、リラは楽しみだった。
1年を4つに区切って3ヶ月毎の学期があり、花月は学期の末月だったので、翌月の風月からソニアは学校に行くことになった。
知った顔が多く、年長者とはこれまで遊ぶ機会がなかったので、そうした年長の何人かが多少未知なだけであり、概ね気楽に学校生活を始めることが出来た。
街の中央にある波止場近くの2階建て煉瓦造りの公民館が学校として開かれており、それ以外の時間帯や休みの日などには、町民が会議をしたり婦人会が行われたりする場所だった。北側の子も通って来るのはここなので、遊ぶ機会が少なかった子ともよく知り合うことが出来た。
学年というものは特になく、国に認可され派遣されて来ている正式な教師が2人おり、生徒1人1人のレベルに合わせた課題を与えるというのが長年のあり方だった。その分上限もないので、生徒本人や教師がもはや要るまいと判断するまで在学することが出来る自由さがある。
だから優れた子はあっという間に年長者の課題をこなしてしまって、教師と本人しか理解できない域の学問をするということも多かった。
当然、通い始めてすぐにソニアは人から抜きん出てしまった。同じ歳の子供はまず字の読み書きから始めるのだが、既にそれが出来ていたし、地理の勉強でも世界中の国名や地名をあらかた知っていたし、『魔法』とうものの概念も、優秀な師からの伝授で幼くして飲み込んでいたのだ。
「すごいねぇ、本を見て知ってたのかい?」
「ううん、お兄ちゃまが教えてくれたの」
中年期の教師ザイーフと若い助手ティアナは、この子がもう魔法も使える子であるとは露知らず、教育熱心な兄が小さな妹によくここまで知識を植えたものだと、ただ感心していた。
学校に行くようになってからのソニアは、早朝の手伝いの後、学校に行くまでの間軽く稽古し、学校が終わって家で昼食を摂り、その後本格的な稽古をするというのが日課になった。勉強はすればするほど自分の強さになっていくことが解ったので、積極的に行っていたが、体を動かす量が減ってしまうとどうにも落ち着かなかったので、勉強があっても、その日はいつもと同じ位鍛錬に励んだ。
だから、学校のない日の夕刻ぐらいしかソニアは遊ぶことがなくなった。週4日という緩いスケジュールの学校ではあったが、7日の内4日もソニアが遊びに参加しなくなって、子供達は物すごく不満がった。小競り合いに彼女がいなければ箔がつかないし、喧嘩になった時には尚のこと戦力が足りなかった。勿論、そういった利用価値だけでなく、彼女と遊ぶことそれ自体がいつも刺激的だったので、彼女のいない鬼ごっこなどはどこか腑抜けていてつまらなかったのだ。
ソニアはソニアで、週3日の夕刻だけの少ない遊びを大いに楽しんでいたが、6歳の子供としてはやはり、その生活は病的と言っても過言ではなかった。だが、生い立ちの為、これまで来た道の不運の為に仕方のないことだった。麻薬は、治療薬にはならない。
ソニアにとって一番の心の憩いは、森の仲間やアイアスとの思い出に浸る時であり、もう会えない森の仲間はともかく、まだ生きて約束をくれているアイアスとの再会の希望に胸膨らませることなのである。病的で異常に見えても、彼女は彼女なりに自分の置かれた精神状況を悪化させない道を見出し、改善させていく方法を取っていたのである。
事情を知らぬ大人が彼女の世話をしていたら、どんな育て方をして彼女の異常な日々を終わらせようとしたか知れないが、幸いアイアスから全てを聞いているリラが保護者となってくれたお陰で、滅茶苦茶なことにならずに済んでいた。
ソニアは日に日に逞しくなり、知識を伸ばし、より理知的な目の輝きを見せるようになっていった。
アイアスがいなくなった今、彼女の疑問に答えてくれる便利な存在として教師がいたので、彼女は質問魔として覚えられた。その内容に彼等の方がドキリとさせられることもしばしばだった。
「どうして国によって魔物のいる種類がちがうんですか?」
「どうして白魔導士と黒魔導士では使える魔法がちがうんですか?」
「どうして戦士はお勉強しなくていいんですか?」
「どうして1年を12個に割ったんですか?」
「どうして国で神様がちがうんですか?」
ただの質問魔なら皆に煩がられたろうが、彼女が成績優秀であったので教師の方も問答を楽しく感じてさえいたし、やり取りを聞いているばかりの子供は呆然として、今まで形にならなかった疑問を彼女が代弁してくれたことで驚き、スッキリとしていた。もちろん煩がる者もいるので風当たりは良好とは言えなかったが、それでも彼女の質問欲求を抑えることは出来なかった。
やがて、城への道を目指している賢い子供と話が合うようになって、よく世界の不思議についてあれこれ語り合ったし、教師の方も、この子はいずれ城からお呼びか掛かるほどの人材になるだろうと思っていた。彼はこの時あくまで学者的なイメージを彼女に抱いていたのだが、それとは全く違う形でその予想は的中することになるのだった。
ソニアはよく学校から本を借りて夜に読んで勉強し、教師の勧めで図書館の読み物にも手を伸ばすようになった。学校では字を教えはするが、その字を使って学ぶのは実用的なことばかりで、文学作品に関しては全くと言っていいほど手を出していないのである。学校の時間も限られており、とてもそこまで学習範囲は伸ばせなかったので、教師がこれはと思う子には文学作品に触れて教養を高めることを促した。
このトライアという国では、トライアスという女神が古くから崇められており、伝説ではかつて実在した女王で、女戦士だったということになっていた。その功績と、国の守護的立場から、守り神として奉られたのが始まりなのである。
そのトライアスが各地を旅して見聞きした様々な出来事が幾編も載せられた古典文学があり、その内容の面白さにソニアは夢中になって、トライアスの足跡を辿った。あまりの古さだからフィクションかもしれないのだが、子供であるソニアは全てをそのまま事実として呑み込んだし、一般人には突拍子もない展開に思えるものも、様々な奇跡を見てきたソニアは難無く受け入れることが出来たのだった。
国民の誰もが本を読むという訳ではなく、文学好きの1、2割程度の人間しかそのような文学作品には手を伸ばさないし、大抵の人間が読むのは定期的に刊行される恋愛物の小説ばかりの小冊子なのだが、世界の旅への憧れや疑問だらけのソニアを満たしてくれるのは、むしろトライアスの方だった。
何より気に入ったのは、トライアスが異種族や魔物にも理解を示す人で、世界中で繰り返される争いに嘆いていて、どうにかそれを解決しようとしているところだった。魔物や異種族を家族にしていたソニアにとって、それは大いに共感できる点で、この人間世界に来てから人と話し合うことの出来なかった、禁忌とも言えることだったのだ。
ソニアは、良かった、昔こんな人がいたんだと思い、こんな女神なら崇めるに値するだろうと大いに納得して、今までは適当に合わせていただけの食前の祈りや、就寝前の祈りにも心がこもるようになったのだった。