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Sonja〜ソニア〜  作者: 中島Vivie
第10章
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第3部10章『雪原の彼方に』11

 回復して立ち上がったソニアは、1人現場の様を眺め、そして焼け爛れた化物の真っ黒い死体に目を落とした。あの刺客といい、この化物といい、皇帝軍の差し向ける魔物とは何と汚らわしく邪悪で、おぞましい者達ばかりなのだろう。世界各地に出没している侵略部隊の構成員も、このような者達なのだろうか?

 その時、化物の炭化した体が一部崩れ落ちて、その下の姿が僅かに見えるようになった。体表を覆っていた化物の体で保護されていたのか、中で包まれていた雪猿の体はまだ保たれている。

 こんな忌まわしい化物に体を乗っ取られていた、この哀れな雪猿の叫びを思い出し、悲しみと苦しみに胸が詰まって、ソニアは一粒の大きな涙を零した。

 その雫が頬を伝い、くすんで血だらけの床にポトリと落ち、煌く細かな星になって散ると、その場所が仄かに輝きを放った。本物の星がそこに落ちてきて光の素を散らし、発光し始めたかのようだった。

魔物が苦しむのも、人々が苦しむのも、もう見たくない。脅威に晒されずに、また脅威にもならずに、穏やかに、建設的に、平和に生きることはできないのだろうか?

 現場の検証や王子達の具合を見ることに皆が夢中になっている間、ソニアは背を向けて次々と涙を零し、それが石の床に落ちる度、光が増え、強くなっていった。

 幾つか光が寄り集まった所で、増幅する仲間を見つけたかの如く星は急速に膨らみ始め、ゆっくり、ゆっくりと広がっていき、ソニアの足元を照らし、目の前の黒焦げ死体をも包み、四方に領域を伸ばしていった。

 目を閉じているソニアはそのことに少しも気づかず、瞼の向こうのアイアスや森の仲間やトライアの人々のことばかりを思い、心で語りかけていた。

 部屋中を包みそうな頃にはようやく他の者が気づき、その異変に慌てて辺りを見回した。得体の知れない現象なのだが、その光の中にいると心地良くウットリとするばかりで、体の中に清水が流れて洗われるようだった。

「これは一体……何なんだ……?」

閉じた瞼の向こうが明るく変化したことに気づいたソニアも目を開き、驚いた。床一面が光苔を着床させたように仄かに白光を放ち、それが壁さえも這い登っていた。薄暗く黒ずみ汚れた空間が、見違えるように美しくなっていく。

 刺客の遺体が死後に正体不明の異変を起こした記憶も新しいから、何か恐ろしいことの前触れではないかと警戒し、周囲を見回した。

 彼女自信が驚きキョロキョロと見回しているのにも関わらず、メルシュ王子だけがただ1人、この光の源が彼女であることを察し、瞬きも忘れて観察した。まだ零れ落ち損ねていた彼女の頬に光る涙が地に落ちると、そこが一段と明るく発光する。光の川の中で蛍が発光するようだった。

「ナルスさん……」

彼に声を掛けられ、その表情と視線から彼の思うところを理解したソニアは、自分の仕業である可能性に気づいて足元を見た。涙の跡がより強く輝いているのを知り、あまりの驚きに涙は止まり、呼吸さえも忘れてしまった。

「あなたは……」

メルシュ王子が瞳を輝かせ、頬を紅潮させて近づいて来る。

「素晴らしい……! あなたはやはり……私が思った通りの方のようだ……!」

ソニアは訳がわからず戸惑い、とにかく頭を振った。

「私じゃ……ない……」

「……いえ、あなたですよ。私は見ていました」

信じられずにソニアはまだ頭を振り続ける。つい最近、同じ色の光を目にして見覚えがあるのに、それが自分のせいだとは信じられないあまりに、ソニアはひたすら否定した。冷静に考えれば、この中でこんなことができそうな者は他にいないというのに。

「何故認められないのです……? まさか……あなたはその力を恥じてらっしゃるのですか……?とんでもない……! これこそ……素晴らしき聖なる光ではありませんか……! 私はかつて、この光を見たことがあります。だから解るのです」

ソニアは嬉しいどころか困惑し、普通でないことの孤独感に怯えて震えた。

 これは『バル・クリアー』と同じ光だ。地位柄沢山の事象を目にしてきている王子も、これを《聖なる光》と言っている。やはりあの時も、今のこれも、自分が生み出したものなのだろうか?

 メルシュ王子は戸惑う彼女の前に跪き、手を取って、その甲に接吻した。王子の行動で、この異変が何やら彼女に関係があるらしいことに皆も気づく。

「……恐れることなどありません。むしろ誇るべきです。あなたがそうして戸惑うのは……己を知らないからなのでしょう。なんて勿体無い……! ですが……それも、もう大丈夫ですよ。あなたはそれを知ることができるでしょう、きっと」

王子の好意と賞賛に満ちた眼差しを見る限り、自分が恐れられたり気味悪がられたりしてはいないと判り、それが少しソニアを落ち着かせた。

 そうだ、今日、教えてもらえる約束になっているのだから。

 その時、突然に目の前の焼け焦げた死体が動き出して、皆を驚かせた。

「――――――うわぁっ!! い……生きてるぞ!! 生きてるぞ!!」

ラスカやエルマートが大慌てで剣を抜き、王子を護るべく構えた。黒焦げの皮がバラバラと落ち、その下の毛むくじゃらの姿を現した。

「――――――待って!」

ソニアが彼等の前に飛び出し、両手を広げて立ち塞がり、攻撃させまいとした。そして雪猿の様子をよく観察し、血塗れの魔物の目と目が合った。

「……見て下さい。ほら、もうすっかり邪気は抜けてますから」

「えっ?!」

皆は信じられない様子でソニアと雪猿とを交互に見比べた。

 雪猿は襲いかかってくる様子もなく、ただフラフラと立っているだけで、表情も、時折傷の痛みに顔を顰める以外はキョトンとしていた。牙など全く剥いていない。

 ソニアはまだ涙の痕が残る頬を緩め、潤んだ瞳で笑み、雪猿に近づいて声をかけた。

「良かった……生きてたんだ……! あなたの声……わかったよ……!」

風が流れ始めて雪猿を包んでいき、ソニアはそこに治療呪文を唱えて放った。雪猿を取り巻く旋風が白く輝くと、その中で雪猿の傷はみるみる塞がっていき、回復した。

 その光景自体が皆には奇跡のようで、武器持つ手も自然と下がっていって、溜め息が漏れた。血糊は消えないまでも、痛みや不具合のなくなった体で雪猿は滑らかに前進し、ソニアの差し出した手をフンフンと嗅いで頭を摺り寄せてきた。体が大きいので、ソニアは2、3歩後ろに押された。

「グー……ウ……」

ソニアはフフッと笑って両手を広げ、頭を抱き、優しく撫でてやった。

「良かった……!」

皆は呆気に取られて眺め、口を開けっ放しにしている。雪猿の姿を見たら即座に戦いと結びつけなければ生き残れない土地で、こんな風に雪猿が振る舞っているのを見たことがないのだ。これではまるで、よく躾られた飼い犬が主人に甘えているようではないか。

 ソーマと目の合ったソニアは、ニコリと笑って言った。彼女がこんなに嬉しそうな顔を見せたのは初めてだ。

「どうです? ソーマさん。セザさん、ルビ。私の言った通りでしょう? こんな風に……魔物と触れ合うことだってできるんですよ。この雪猿のように、元は優しい者だって沢山いるんです」

皆はまだ近づくことができず、距離を置いて眺めるばかりだったが、彼女と雪猿のふれあいが本当に友愛を感じさせる温かなものだったから、次第に恐れがおさまっていった。

「こんな事が……」

「信じられない……」

「……夢を……見ているようだ……」

 この中で逸早くこの奇跡を受け入れることができたのは、メルシュ王子だった。彼は目を輝かせて天を仰ぎ、彼等の神を讃えた。

「ハーム・ウージェン……!」

ルビリウスもおそるおそる近づいて来て、誰より先に雪猿に手を触れた。血でゴワゴワの感触だったが、彼は好奇に目を爛々とさせて笑った。

 そうするとソーマも近づいて来た。彼の場合は王子のようにソニアの前で跪き、騎士らしい最上級の敬礼で頭を垂れた。再び上げたその顔は賞賛に満ちている。

「……本当に驚きました。あなたにも……その雪猿にも」

王子が切なく微笑んだ。

「あなたのような方が……ずっと我が国にいてくれれば嬉しいのですが……」

ソーマも、他の者の顔もそう言っていた。ルビもだ。

「しかし、あなたはお国に帰らねばならぬ身でしたね」

メルシュ王子は、すべき事の為に気持ちを切り替えて明るく言った。

「――――さぁ、ようやく危険が去ったんだ。倉庫を開けて中を調べよう」

 一同は王子の持つ鍵で倉庫の重い扉を開け、松明を灯して中に入って行った。雪猿の面倒を見る為にルビと兵2人が残されたが、雪猿はどんどん懐いていくばかりで大丈夫そうだった。

 倉庫内にも異変は達していて仄かな光が来ているので、松明がなくても全てが見渡せる最低限の光量があった。

「良かった……! 殆ど無事だ! 何も手はつけられていない!」

食料品や薬品など、当分の間は大勢を賄っていける程の備蓄がそこにあった。

 王子はソニアの為に幾つか見繕って、旅立ち用として持たせてやった。金庫は別にあるので金がはなかったが、旅先で金に換えられそうな装飾品も渡した。

「こんな高価なものは頂けません……!」

「いえ、あなたはそれ以上の事をしてくれました。これではとても足りないくらいです。それに……今の我が国にこのような品は全く役に立たないのですよ。外へ行かれる貴女の方が、ずっと役立てられます。どうぞ持って行って下さい」

真っ先に入り用になる食料品から兵士達は運び出し始めた。メルシュ王子の指示で、ソニアと王子以外の全員が物運びに従事した。

「……彼等に訳を言えないので、これが最後になるでしょう。今の内に別れの言葉を」

王子に促されてソニアはルビを掴まえ、膝を折って面と向かった。

「……ルビ、あなたを一緒に連れて来て良かったわ。あなたがいれば、きっと皆の役に立つでしょうね。あなたはきっと立派な魔術師になるわ。私が保証する」

「お姉ちゃん……」

幼いながら、彼は何か感じ取ったようだ。別れの寂しさを顔に過らせた。

「……行っちゃうの……?」

「……もうすぐね。私には……早く行かなければならない所があるから……」

ルビは顔を伏せた。短い間だったが、彼はもう本当の姉のように彼女を慕っている。

「この戦争が終わったら、また会えるわ。きっと会いに来るから」

ルビは泣いたりせず、静かにソニアに抱きついた。別れを覚悟した、子供なりに力一杯の抱擁だった。そして見上げた顔は、凛として輝いていた。

 この子はきっと、いい顔をした若者になるだろうとソニアは思った。

「……僕、きっと会えると思うよ。きっと会おうね! お姉ちゃん……!」

そしてソニアはルビの肩を押して、荷運びの手伝いに向かわせた。

 それから他の者にも笑顔を向けて背を叩いたり、「頑張って」と肩を叩いたりした。それが別れの挨拶だとはまだ気づかない者達は、ただにこやかに返事をして激励に応えた。

 ソーマにだけは、ソニアはもう少し言葉を向けた。

「あなたが許可して下さったお蔭で、ルビがあんなに成長できました。本当にありがとう」

「……なに、我々も彼に助けられました。あなたの申し出がなかったら、どうなっていたことだろうと思いますよ」

「あなた方の強さを手本として……国の護りに役立てさせて頂きます」

ソニアが手を差し出したので、ソーマも手を出してしっかと握り、固く握手を交わした。彼はすぐに荷運びに戻ったのだが、何だか照れていた。

 そして頃合いかと見計らったところで、王子は彼女を連れて、皆の見ていぬ隙に通路へと入って行った。床と壁面の発光で、ここも松明なしで平気だ。雪猿の血の痕がそこら中に残っている。一箇所、血溜まりになってこびり付いている所があった。ずっとここに蹲っていたのだろう。

 突き当たりの右手にひっそりと、人1人分の幅の質素な扉があって、しっかりと錠が下ろされていた。王子は懐から鍵を取り出して慎重に鍵穴に差し込み、長年使われていない錠前をガチャリと外して扉から取り去った。普段は開かずでも、錠の手入れはよくされていたようだ。

「……実に10年ぶりですね。ここを開けるのは」

 扉を開け、2人はそっと中に入り、音静かに閉じた。

 そこは、一見何もないただの部屋のようだった。しかもとても狭い。ベッドの長さ程の幅で、奥行きが一般的な民の部屋くらいといった所だ。例の光で床も壁も光っているので、ここも全体が見渡せる。足元も壁も天井も、ただの石造りだ。しかし、ここが特別な部屋であることの証しに、壁と天井には細かで精巧な彫刻がビッシリと施されていた。

「ここは……一体何なのですか……?」

ソニアがそう言っているうちに、背後で王子が内側から鍵をかけた。誰にも見られぬよう厳重に注意を払っているのだ。

 王子は説明する前に無言で奥に進み、突き当たりに垂れている幕を見つめ、ジッと佇んだ。そして徐に右端に下がっていた紐を引き、シュルシュルと幕を引いた。

 そこに姿を現した物は――――――

「ヘヴン・ミラージュ…………魔鏡です」

ここの扉よりもずっと大きい、枠装飾の美しい姿見がそこにあった。

「……魔……鏡……?」

鏡でありながら、その鏡面は時々光を揺らがせて、まるで生きているように像を弄ぶ。

 王子は感慨深くそれを見つめながら、淡々と説明を始めた。

「……この鏡は、古くから王族に伝えられている物で、王族しか使うことを許されていません。本当は。ですが……あなたにはこれを使う資格があると思います。おそらく私以上に。何故かは――――――この先に行けば解ることでしょう。この鏡を超えて行くと、この国ではない……おそらくこの大陸でさえない所に行き着くことができます。瞬間移送の手段の1つなのですよ。人間でこれを創り出す能力のある者はいませんがね。だから私は、あなたに帰国への途は開けるだろうと言ったのです。ここにいるよりは、きっと早くお国に帰り着けるはずです」

ソニアは驚きと興奮に目を見張ったまま、鏡の光を瞳に写して言った。

「人間には……作り得ない……ということは……」

「……ええ、この先でおそらくあなたが目にするであろう者達が、この鏡の作り主です。そして――――――人間ではありません」

そこでようやく2人は目を見合わせた。ソニアの瞳は大きく震えていた。

「人間ではありませんが……大変、素晴らしい種族です」

淡々としていた王子が、それだけは特に情熱を込めて言った。

「訳あって、我が国の王族は代々16歳になるとこの魔鏡を越えて、彼等に会いに行き、そこで儀式をしてくるしきたりがあるのです。私も、かつて行きました。父上がここで死んだのは……おそらく最後の手段となるまで使わぬつもりであったのでしょうが、彼等に助けを求めに行きたかったのだろうと思います。結局……果たせませんでしたが……」

ソニアは瞬きも身動きも殆どせずに鏡に見入った。

「これを……私に勧められるということは……つまり……」

王子は頷いた

「……そうです。あなたは……その種族の方々に大変似ていらっしゃるのですよ。実際にお会いすればよく解るでしょう。あなたは……どのような事情からそうなったのかは解りませんが……人間世界に生きる境遇となった、彼等の迷子なのではないでしょうか?」

こんなにも明確に素姓を推測されたのは初めてで、ソニアはブルンと肌を震わせた。急に過去のある瞬間がまた甦り、謎が一部解明されて鍵と錠がカチリと噛み合い、音を立てて扉が開かれたのを感じた。

『ソニアに悪い事をしようと思っていたのかどうかは判らないんだ』

おそらく当時のビヨルク王メシュテナートⅡ世は、迷子らしき姿の幼児を思いがけず発見し、親交あるその種族に知らせ、彼らの所に帰してやるべきと思ったのかもしれない。事情を知らぬアイアスは、ソニアとの別れを予感して逃げ出した。彼とは別れたくなかったから、あれで良かったと思っているが、王も悪意はなかったのだろうと知ってソニアは感慨無量だった。そして、王に対してどこか済まなく思った。

「しきたりで、他の誰にもこの鏡のことは知られてはなりません。貴女をお通しすることは、きっと彼等が許して下さるでしょう。しかし、貴女は他言なさらぬよう約束して下さいませんか?そして……決して、彼等に敵意を見せず、平和的に会って頂きたいと思います。貴女なら心配ないでしょうが」

ソニアは、まだ見ぬその者達への思いが膨らんで鼓動が高まり、胸に手を当てて頷いた。

「……誓います。この鏡のことは人には話しませんし、侵略も略奪もしない者と戦おうとも思いません。穏やかな会談を望んでいます」

王子は微笑し、ソニアの肩に手を掛けた。

「それを聞いて安心しました。どうぞご無事でお郷に帰られますよう、心からお祈りしていますよ」

「ありがとうございます、本当に……。帰り着くことができたら、きっと復興のお力にならせて頂きます。それまで、どうかお元気で」

王子も頷き、高貴の人らしい優雅な微笑で輝いた。

「――――そうだ、あなたの本当の素姓を明かして下さいませんか? お約束通り、帰り着かれるまで決して口外は致しませんから。これから後、貴女のことをお探しできないのは、とても寂しいことですからね」

「……そうでしたね」

ソニアはもう心配なく名乗れることを喜び、そこで背筋を伸ばして軍人らしくキリリと身を正し、凛々しく言った。

「――――私は、ナマクア大陸、トライア王国の国軍隊長、ソニア=パンザグロスです」

「トライア……」

王子は感心して溜め息を漏らした。あまりに高い地位を述べているが、彼にはそれを疑う理由はもはや何もなかった。

「ソニア……さん、なのですね。本当は。美しい名だ」

賛辞に慣れた者らしく、極自然にソニアは笑みを返した。

「テクトでの戦いの話は本物です。私は救援部隊として駆け付けました。私の素姓に関係のない話は皆そうです。戦勝国は確かに存在しています。どうか希望を持ち続けて、耐えて、戦って下さい……!」

2人は最後にもう一度握手した。

「――――ええ。生き残り、勝ちましょう……!」

王子はそのままその手を引いて彼女を鏡の前に進ませ、「さあ」と道を示した。

「ただ通り抜けるだけで大丈夫です。ただし――――息は止めていた方がいいかもしれませんね」

ソニアは魔鏡の揺れ蠢く光を見つめ、胸をときめかせて深呼吸を一度した。

「さようなら!」

「さようなら、ソニアさん!」

 そして、ゆっくりとソニアは鏡面に進み、戦士らしく躊躇わずにスッと揺らぎの世界へ体を押し入れていった。彼女の体と鏡面の接した所が強く発光して、波紋を広げ、縁にまで広がっていく。水の中でオルガンが微かに鳴っているような音がするだけで、実に静かな旅立ちだった。

 鏡面の中にゆっくりと消えて行く彼女の後ろ姿を見守りながら、王子は、惜しい女性が去ってしまうと心の何処かで切なく感じ、痛みを覚えた。しかし、彼女がこの鏡の向こうに行くということは、彼等にとっても何かしらの助けになるかもしれなかった。

 自分達には、やるべき事がある。

 王子は紐を引き直して幕を元に戻し、内鍵を開けて部屋の外に出ると、またしっかりと錠をかけて外見上の密室に戻した。

 通路から広間に出ると、そこにはルビやソーマ等が居並んでいた。目と目を合わせて暫く沈黙しているだけで、もはや彼女がここにいないことを皆が悟った。魔鏡のことを知らないはずなのに、奇跡ばかりを目にしてきたから、急に人が消えることもあるのかもしれないと思っているのだ。以前だったら考えられないようなことだった。

「……お姉ちゃん……行っちゃったの? 王子様」

メルシュ王子は頷いた。ソーマが目に見えて残念そうに項垂れた。

 ルビはもうすっかり懐いた雪猿に抱きついた。雪猿も彼女が去ったことが解るのか、寂しそうに鼻を鳴らしている。ルビと雪猿は目を合わせた。

「僕たち、お友達になろうね」

「……グゥ」

雪猿はルビリウスの顔に頭を摺り寄せて甘えた。それを見ていると彼等も胸が温まり、心が穏やかになって、平和への希望が見出せるようになった。

 ソーマは気を取り直して笑い、言った。

「我々も……この城を拠点に、頑張りましょう!」

「ああ!」

今まで、滅びと喪失の悲しみばかりがあまりに大きくて凍えていたビヨルクの人々の心に、明日への情熱が灯り、未来の為に生きる力と、立ちはだかる困難に耐える炎が魂に宿ったのだった。

 メルシュ王子が彼等に呼びかけた。

「――――さぁ、我々のすべき仕事をしようじゃないか!」

今章は以上です。

かなり暗い内容だったかと思いますが、次は明るいメルヘンチックなもので、その後は活劇、と冒険は続いていきます。

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