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Sonja〜ソニア〜  作者: 中島Vivie
第2章
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第1部第2章『アイアス』後編

 2.アイアス(後編)

 

 砂漠の古代都市に秘密が隠されていはしないかと訪れてみた2人は、そこで獣とは全く違う、実体を持たないエネルギーだけで出来ているゴーストの類に遭遇し、奮闘した。

 魔法による攻撃しか効かない彼らに、もし生粋の戦士だけが出会っていたら逃げるしかなかったろうが、幸い2人ともが魔法戦士であったので、並みの人間達では進めないであろう程の深部にまで辿り着くことが出来たのだった。通常、世界的に見ても戦士としての素質と術者としての素質は伴わないもので、この2人が特別な組み合わせだったと言える。

 かつて滅んだ文明の王の墳墓と思われるその遺跡は迷路のように入り組んでいたが、ソニアが風を起こすと、空気の流れを自ら感じ取れる彼女は、その先が行き止まりであるか奥に続いているのかを知ることが出来たので、長々と迷わされずに済んだし、アイアスが照明球を発生させて辺りを照らし、彼の明晰な洞察力で数々のトラップを見抜いたので、罠にはまり込むこともなかった。

 幼いソニアは、このような暗くて狭い穴蔵のようなものを怖がっていたが、アイアスがいて彼の手を握っていられる限り、何処までもついて来た。

 かなりの深部に達した2人は広い空間に出て、そこで壁一面にびっしりと描かれた壁画や、取り残された宝物、ミイラ化した遺体などを発見した。腕の立つ盗掘家でも易々とここまでは入って来られないし、生きて戻るのに多くは盗めなかったので、持ち運びしやすい指輪などの宝飾品類ばかりが荒らされており、ミイラの指が切り取られていたり棺の宝石が剥ぎ取られたりしていた。大きな壷や彫像の類は置かれたままになっている。

 アイアスは壁画の方に大いに関心を示した。文字は古過ぎて今のものとは形が違っているので解読できないが、絵の様子で言わんとしている内容は伝わってきた。ヌスフェラートと思われる肌色の青い鬼が人間を襲い、その上には今まさに駆け付けんと飛んで来たかのような、翼ある人が剣を手にしているのが描かれていた。この時代にも天使は出現していたのだ。

 ヌスフェラートの背景には、何やら洞窟のような暗い世界があって、彼等の国を示しているようだった。だが、ヴィア・セラーゴとはどうも様子が違って、モグラ穴めいた空間が土の下に張り巡らされている。これは一体何なのだろう?

 そして、天使がやって来たと思われる空には雲に浮かぶ城のようなものが小さく描かれていた。天から遣わされ、死ねばそこに戻る――――天に召される――――という考えは既にこの頃からあったらしい。このような、天使発祥の地というものは本当にあるのだろうか? アイアスは雲の上に立つ、中央大陸森林地帯風で先の尖った塔を幾つも持つ城の絵に光を近づけてジッと見入った。

 この天使の名は何と言ったのだろう?

 また、別の壁には術者らしく杖を振るっている人の姿があった。翼は描かれていないが、代わりに翼竜にまたがって空を舞っている。翳された杖からは何かの魔法と思われる光が幾筋も射して闇を焼いていたり、種々の鬼を焼いていたりした。この文明があった時代に現れた翼のない天使だろうか?

 ソニアはこの広間に来てからは、気になった宝物の光や彫像に目を止めて、アイアスの手を離れて一人観察をしていた。トラップの気配もなかったので、アイアスの方も彼女を自由にさせていた。無闇に箱の蓋を開けたり、置物に触ったりしては行けないとよく言い聞かせていたので、ソニアはただ見て周るだけで手を出さないようにしている。

 子供らしく時々忘れてしまうことはあったが、彼女はアイアスの言うことは何でもその通りにしようとしていたし、そうして彼を喜ばせ、誉めてもらうのが何より好きだった。アイアスの方も、彼女の能力以上の無理な注文は決して与えなかった。

 ある、直線ばかりの幾何学文様がびっしり施された大きな棺に見とれていると、その蓋が突然上に開いてソニアは目を丸くした。その中から真っ黒い影が飛び出てきて一瞬で彼女を包んでしまうと、闇色の影は彼女を素早く棺の中に引きずり込んでしまったのだった。

 キャッというソニアの叫びを聞きつけてアイアスが振り返った時には、消えていく黒い影の襞が見えただけで、彼は青ざめて棺に駆け寄った。

「ソニア!!」

棺の蓋は一度閉じてしまったが、開けてみるとその底が仕掛け床になっているのが判り、アイアスは脇目も振らずにその中に飛び込んで行った。

 棺を入り口としたそこは隠し通路になっていて、細い道が何処かへと続いている。アイアスは冷静に、無駄に叫ばず出来るだけ音を立てないよう気を払いながら走り、影やソニアの音を聞き取ろうとした。

 姿から予想していた通り足音のようなものははく、影は飛翔しているようだった。声は聞こえないが、風が吹き付けてくるのはソニアが必死に抵抗しているからだろうと思い、分かれ道では風が流れてくる方を選んで、向かい風の中を走り抜けて行った。追ううちに心の焦りが彼を飛ばし、人前ではあまり見せぬよう気をつけていた飛翔術でアイアスは更に速度を上げてようやく影の姿を捉えた。

 影が逃げ込んだそこは幽霊火(ゴースト・フレイム)の灯る祭壇がある空間で、地下水が引き込まれ川となって祭壇の周りを流れ込んでいた。エメラルド色の炎が壁や床や水面をチラチラと照らし、古代の文字で埋め尽くされた壁面の溝が明暗を浮かび上がらせている。

 影は早くもソニアを祭壇の上に横たわらせ、ただの黒いボロ布の様だった姿から、もう少しまともな形を成して半透明の祭司となった。顔は殆ど骸骨で、黒い眼窩に光るのは目玉ではなく青い炎だった。

 追いついたアイアスがそこにいても祭司は全く無視して、単に気づいていないのか、夢中で天を仰いで一人儀式を始めている。ソニアは気を失っており、子羊のように静かに祭壇上で伸びていた。

 まだ死んでいないだろうと信じて、アイアスは凝縮した閃熱光を幽霊祭司(ゴースト・プリースト)に投げつけた。幽霊は熱や光に弱い。祭司は表面をバリヤーで保護しているらしく、透明な障壁に当たって光が弾けると、蝙蝠の悲鳴に似た金属的な警戒音を吐いてキッと振り返った。

『ワガシメイノカンスイヲジャマスルナ……!!』

もはや真の肉体を持たぬ祭司から本物の声が出るはずもなく、それは幽気の振動によって発される、平板で不気味な響きのある音だった。

「――――――使命とは何だ?!」

祭司は揺らめく暗黒の衣の襞を一杯に広げて、両手を天に掲げた。

『ワガオウノミタマニイノチノチカラヲソソギ……フッカツヲトゲルノダ……! コノトキヲマッテイタ……! キヨラカナヲトメノチヲエルコノヒヲ……!』

祭司の手には本物の小太刀が握られている。アイアスは再度閃熱光を数弾放って祭司の動きを封じんとした。いくらバリヤーがあってもその衝撃は祭司に届き、祭司は数歩後じさった。祭司は牙を剥き強烈な奇声を発してアイアスを威嚇した。

 アイアスは川を飛び越え祭司に向かって行った。魔法の火炎を纏った剣は、バリヤーを打ち砕いて祭司の闇の衣を引き裂く。祭司はソニアの寝る祭壇を挟んで、それを盾にアイアスと向かい合って逃げ回った。しかし諦める様子は更々なく、そちらからも闇の炎を幾つも投げつけてきた。アイアスは至近距離ながらそれを剣で払って全て弾き飛ばしてしまい、ソニアに当たらぬよう注意しながら閃光球をお見舞いして祭司の胸に直撃させ、背後に吹っ飛ばして壁に打ちつけてやった。相当に手強い敵ではあったが、出会った相手が悪かった。

 アイアスはソニアに触れ、生きているのを確かめるとホッとしてその頬を撫でた。

 しかし、祭司はまだ生きていた。半透明の像は歪んで無惨に裂け、上半身だけが宙に浮いている姿で全エネルギーを懸けた決意の唸りを上げた。

『トウトクキヨイ……コレホドノヲトメノチヲ……ノガシテナルモノカ……!!』

 祭司の命で壁や天井が揺れ蠢き始め、隠し通路の入り口や空間の扉が閉じてバラバラと石の破片や砂埃が落ちてきた。

 ソニアに破片が落ちぬよう前屈みに覆い被さっていたアイアスは、祭司の強烈な念によって祭壇の文字が光ると同時に突如発生した障壁に弾かれてしまい、吹き飛ばされて川の向こうに宙返りで着地した。生贄の資格にそぐわない者を拒否する作用があるらしい。

 床は所々盛り上がって足場が崩れ、天井からは岩盤が剥がれ落ちてきて柱までもが次々と倒れ、アイアスを祭壇から遠ざけようとした。

 祭司は再度小太刀を手にして、今まさに振り上げんとしている。アイアスは稀にしか見せぬ刃物のように鋭い眼光を放って、渾身の力で剣を振り切った。剣圧と彼の魔法力が込められた巨大な刃が祭司を真っ二つに切り裂いて砕き、その向こうの壁までも大きく破壊して派手な傷跡を刻み込んだ。

 すると祭司の執念が祭壇に乗り移って古代文字が光り、祭壇が生き物のように形を変えて、昆虫の足に近い節のある細い枝が側面から何本も伸びてきてソニアを掴んだ。アイアスは駆けるが間に合わず、枝の一つが彼女の喉を突き刺そうと狙いを定める。

 アイアスは剣圧の刃でその枝を弾き飛ばし、一か八か祭壇の基礎そのものを破壊せんと刃の追撃を浴びせた。祭壇が傷つけられ、その表面にあった古代文字が姿を失うと枝はその力を失い、祭壇は一つの岩ではなく積み上げられた積み木だったかのようにガラガラと分解して、川の中に崩れ落ちていった。枝が絡まった状態のままソニアも水中に落ちてしまう。

 アイアスは慌てて自らも地下水の流れる水路に飛び込み、彼女の姿を探して泳いだ。暗い水の中でも魔法の照明球は彼の掌中に灯り、思ったよりも澄んでいる水路を浮かび上がらせた。

 水底に落ちた衝撃で枝は解けてソニアの体は離れ、彼女は流れに乗って闇の中に連れ去られようとしている。アイアスは顔をしかめてそれを追った。上からは次々と天井や柱が落ちてくる。祭壇部屋は崩壊しようとしているようだ。落下物を避けながら、アイアスはソニアを見失わぬよう照明球を翳し続けて泳いだ。

 砂漠の国と言っても、地下を流れる水の、しかも遺跡深部のそれの冷たさは氷のようだった。必死で追いついたアイアスはソニアの手を取り抱き寄せるが、かなり水の流れが速いので、もはや後戻りは出来ず、このまま流され進むしかなかった。

 水面が現れたらすぐに顔を出そうと天井付近を手で突きながら切れ目を探すのだが、なかなか現れず、このままずっと水で満たされた水路が続いていたらどうなるのだろうと考えてしまい、一瞬アイアスは恐ろしくなった。こんな冷たく暗い所で死んでなるものか。

 しかし、暫くして2人は急に水と共に落下した。アイアスは素早く飛翔に転じて水から脱し、宙に浮いた。水は滝となって下方のプールに落ち込んでいき、その轟音が空間中を満たしている。何処かの通路へと繋がっているわけでもない、単なる構造上の水溜場であり、見渡しても小さな空気孔しか見当たらない。ここからまた新たに水は何処かへ流れて行くようだった。

 腰掛けられそうな幅の張り出し部分が壁にあったので、アイアスはそこにソニアを寝かせ、自分も隣で座った。水の冷たさと衝撃でソニアは目を覚ましていた。

「おにいちゃま……」

「悪いゴーストに連れ去られていたんだよ。でも、もうやっつけたから大丈夫」

彼女はすぐに彼に寄り添いしがみ付いた。寒さで震えていた。アイアスはそんな彼女を宥め撫でてやりながら言った。

「……私の不注意だ。ソニアを危険な目に遭わせた。済まなかったね」

ソニアは無言でただ頭を横に振った。

「……とにかくここから出なきゃならない。もう一度水の中に入るよ。大丈夫かい? ソニア」

「……おにいちゃまがいっしょならだいじょうぶ」

そう言って、ソニアはより強くアイアスの服を握り締めた。

 こうしていても体が冷えるばかりなので早く脱出するに限ると、アイアスは彼女を抱いて下降し、ゆっくりとプールの水の中に体を沈めていった。

 照明球を水の中に入れて見ると、そこは大人2人分ぐらいの深さがあり、その底に水路の口が3つ開いているのが判った。あまり流れが激しくても本当に地下の川まで行ってしまう道なのかもしれないし、あまり流れが小さくてもその先が行き止まりなのかもしれない。

 アイアスは悩んだ。この子を連れてこんな遺跡で失敗する訳にはいかない。ましてや、ここに連れて来たのは自分なのだ。

 だが、一方ではこうも思っていた。英雄としての道を歩んできた選ばれし者だけが感じ得る特権なのだが、何らかの使命を負っているとしか思えない、これほど力のある2人が、下らぬことで死ぬはずはないと。

 こういう時にこそ更に研ぎ澄まされていく彼の心は、右端の水路入口に引き寄せられ、その水の揺らぎの中に彼にしか解らぬ何かしらの徴を見つけて、そちらに進むことを決意した。

立ち泳ぎで浮かびながら、ソニアの目を見て彼は言った。

「行くよ」

ソニアは頷いてよく彼に掴まると、彼の身振りに合わせて息を一杯に吸い込んで、共に水中に身を沈めた。彼の推進力の方が明らかに大きいので、ソニアは彼の背に回って肩に掴まり、その手を離さぬことの方に専念して、運ばれながら自分も足だけ掻いてみた。

 水路に入るとまた流れが始まって吸い込まれ、2人は行く手の解らぬ先を見据えながら、光を頼りに少しでも先に進もうと水を蹴った。

 水路は進めども進めども長く、分かれ道も無くて、ただ曲がり角やうねりを繰り返していた。肺の小さなソニアが背後で苦しがり出しているのを感じて、アイアスは焦った。頑張れ、ソニアと心で呼び掛け続ける。だが、不思議なことにそれ以降、何かに押されるように彼等の推進力は強まり、本来の水の流れよりも明らかに速い勢いで進んで行った。

 そして前方上部から薄っすらと光が射し込んでいるのが見えた所で、水面が切れた途端にアイアスは飛翔に転じ、ソニアを背に乗せたまま舞い上がった。彼女が落ちる前に身を反転させて抱き締め、そこで2人共大きく息を吸い込んだ。ソニアは冷たさと息苦しさの為に朦朧としており、アイアスは自分も息を切らせながら「よく頑張った」と彼女の背を摩ってやって誉め続けた。

 そこは縦長の空間で、ずっと上にまで穴が続いており、最上部から強い光が射し込んでいた。アイアスはそのまま上昇してその光の口を目指し、一気に強光と熱気の中に飛び出した。

 そこはもう砂漠の世界だった。すぐ横には遺跡の外観が見えている。2人は眩しさに目を薄くして、冷えた体にその熱気を浴びてホッとした。後少しもすれば耐え兼ねる暑さになるだろうが、今は心地良かった。ここは遺跡の端にひっそりと存在する井戸の跡で、2人はその底から飛び出して来たのだ。

 無事脱出できた喜びでアイアスは深々と溜め息をつき、やっぱり凄いと言わんばかりの目で彼を微笑み見上げるソニアを、力一杯に抱き締めたのだった。


 今までになく危険な目にあわせたことで、アイアスはソニア連れの旅を悩むようになった。ビヨルクでも砂漠の遺跡でも危うく彼女を失いそうになったし、また逆に彼女がいることで、自らの捜し求めている情報を十分に調査できぬうちに中断して退散することが続いた。

 彼女との出遭いには運命的なものを感じているし、自分が師としての立場を求められていることも解っている。だが、このまま2人一緒にいることが必ずしも正しい師弟関係という訳ではない。遠く離れていても弟子の心を導き、鏡となることが出来るのが最良の師なのではないだろうか? もし、指導する誰かがずっと側にいるべきなのだったら自分ほどの教師は確かにいないのだろうが……。

 彼はこのまま彼女の側にい続けることを悩んだ。そしてその悩みの一部は、自分の極人間的で身勝手な願いも一因となっていることを彼自身が自覚していた。彼女が自分にとってのハーキュリーであり、彼女の完成が自分の死であるという考えがどうしても拭えない英雄らしからぬ一面は、彼女のこれ以上の成長を恐れ始めてもいたし、また自分の秘密を知る彼女の存在を愛しているが故に、危険な旅の道連れにして失ってしまいたくないという願いは、彼女を安全な場所に置きたがっていたのだ。


 そんな悩みの中で旅をするうち、いつしか彼はソニアを連れてとある国にやって来た。ナマクア大陸という、熱帯、亜熱帯、温帯にまたがる、平野に雪の降ることはない大きな大陸の中部に位置するトライアという国の、デルフィーという港町だった。交易船も多く停泊するなかなかの大きさで、トライアの中で3番目の規模を誇る街である。大戦時に一緒に闘った仲間の一人がここの出身なので、いずれ訪れようと思っていたのだ。

 直接目的地に流星呪文で行くと英雄アイアスと疑われる可能性が高くなるので、何時も彼らは目的地の手前で着陸してから徒歩で人里に入って行くのが習慣になっており、デルフィーには南側の内陸の方から訪れた。

 交易のある港町なので見知らぬ人間の出入りは多いのだろうが、それでも若い剣士と、それに連れられたちょっと変わった色彩を持つ美しい幼女を目に留めると、子供達は距離を開けつつその後を追って姿を覗き見たし、大人も関心を持って目で追った。

 乾いた大地のような明るい土色の家々が立ち並び、瓦屋根は赤土の色をそのまま生かしたテラコッタ調で統一されていた。階段や坂が多く、その殆どが石や瓦の破片やタイルで舗装されている。白い貝殻もその中に混じっていた。

 好奇心の強いアイアスもソニアも、新しい雰囲気の街に出会ったことで目をキラキラとさせて周りを見回しながら、いかにも他所者(よそもの)らしい様子で歩いた。街をブラブラするうちに友にばったり出会えればいいと思っていたアイアスは、すぐに友の所在を町民に尋ねたりはせず、偶然に任せることにしてのんびりと散策を楽しんだ。

 海沿いに縦長の形をしているこの街のほぼ中央に湾があって、船は主にそこに停泊しており、それを過ぎて更に北に街が続いている。魚が豊富に獲れ、輸入品も揃っているので、普通の港町よりずっと華やいでいる。国都に運ぶ前に一時的に輸入品を保管する倉庫の大きさと数を見れば一目瞭然だった。商店も多いし、港湾警備の兵も多い。

 気に入ったソニアははしゃいで、あれこれ指差してはアイアスに名前や意味を尋ねた。森育ちのソニアは、初めて他の町で海に出会ってからというもの、海が大好きで、眺めるのも泳ぐのも何でも楽しんでいた。彼女がウズウズして跳ねているので「後で泳いでいいよ」とアイアスが言うと、キャッキャと喜びの声を上げた。遺跡であんな目に遭っても、彼女は一向に水が嫌いになる様子がなかった。

 たっぷり時間をかけて街の北端まで来て、友との偶然の再会はなかったかとアイアスは諦めの笑顔で溜め息をついてから、手近な所で洗濯物を取り込んでいる太った婦人に声をかけて、友の名を告げ、その家の所在を尋ねた。

 婦人はハッとして顔を曇らせた。嫌な予感がして訊いてみれば、案の定、婦人が告げたのはその人の訃報だった。何年も経った訳でもないのに、見知った友が死んだという知らせはアイアスにとってショックだった。

 婦人が一応家の場所は示してくれたので、生前の友の願い通り生家は訪れておこうと思い、アイアスは坂道を下って再度港の南側を目指した。

 街の南側地域の、海に近い丘の中程に友の家はあった。いくら身分を隠していたくても友の墓前で弔いはすべきと思い、アイアスは家の者を呼んだ。小ぢんまりとした2階建ての家で、窓辺や壁下にはベゴニアの鉢が並んでいる。2階の窓には蔓性のキリィパが植えられており、垂れ下がった葉が壁を這い回って飾り、その中に赤い花が点々と咲いて壁面を華やがせていた。

 出て来たのは年嵩の女性で、友の母だった。来訪理由を告げると彼女は大層感激してすぐに2人を中に入れ、かくしゃくと動き回って茶や砂糖漬けの果物などでもてなした。アイアスが自分ですると言っても絶対に彼女は譲らず、客が来た喜びに興奮して、もてなしのチャンスを取られてなるものかという意気込みで精一杯のことをした。

 アイアスは友への誠意と、その母のもてなしへの返礼として、ずっと隠してきた身分をここでは打ち明けた。自分は貴女の息子ヘイドリンと大戦を共に戦ったアイアス=パンザグロスで、彼に招待を受けていたのだが今まで来訪が叶わず、今日やっとそれを果たしに来たのだと。

 母親は息子から大戦の英雄についてよく話に聞いていたようで、彼の体の特徴や、着席時のマナーとして腰から外され戸口に立て掛けられた剣に刻まれているパンザグロス家の鹿の紋を見ると、少しも疑わずに、感激のあまりそこでおいおいと泣き出してしまったのだった。

 アイアスは戸惑ったが、母親が喜んでいるのなら友も喜んでいるだろうと思い、その様子を見守った。ソニアは大人が声を上げて泣くのを見たことがなかったので、ビックリして静かに座っていた。

 少し落ち着いた母親は色々語り始め、それでもまだ泣いていたが、大戦から戻った息子が肺病を煩って急死するまでの過程を教えた。アイアスも思い返せば、ヘイドリンは根っから丈夫な体力勝負の戦士などではなく、見た目からして虚弱そうな白魔術師で、よく息切れしていた姿が甦った。大戦の惨状に堪り兼ねて祖国を飛び出しアイアスと合流したが、大分無理をしていたのだろう。

 アイアスは覚えているヘイドリンの勇姿を母親に語り、幾度彼に支えられたかわからない、と称えて感謝した。母親は泣きながら嬉しそうに笑った。

 30を過ぎた息子も、参戦した我儘の手前もあって、今度こそ母の望み通り結婚して落ち着こうとしていたらしい。その矢先のことだったのだとか。見ているだけで顔が綻ぶ愛らしいソニアに目をやりながら、もう孫がいたっておかしくなかったのに、とまた涙を零した。

 夫を大戦で亡くし、一人息子をもまた失った彼女は、今この家で寂しく一人暮しをしているのだ。ヘイドリンが大戦の英雄一行の一員であることは伝わっており、国や街や隣近所が善意で、現在の平和に報いんと彼女の面倒をみてくれているらしい。だから生活そのものに不自由はしていないそうだ。

 だが、いくら人々に良くされても息子を失った喪失感が埋められるはずもなく、こうして息子が熱く語っていた英雄その人が直々に出向いて来たことが、この老女に今までで一番の癒しをもたらしていた。

 リラという名の母親は当然ここでの滞在を強く希望し、息子自身の口から聞いていないことも多いはずの、アイアスから見た大戦の話を沢山してくれるようせがんだ。彼も短く切り上げて去るようなことはとても出来なかったので、承諾して彼女を喜ばせた。

 アイアスは酷な願いかもしれないと思いつつも、実は訳あってお忍びで旅をしているので、自分がアイアス=パンザグロスであるということは他の人々には伏せていてはくれまいかとリラに頼んだ。リラは一瞬閉口したものの、思慮深く頷いて、あなたが願えば息子はそうしたに違いないから私もそうする、と受け入れたのだった。息子の為に本物の英雄がやって来たのだ、と人々に自慢できない残念さはあったが、息子から聞いている英雄像を信じる限り、彼のお忍びの旅はきっと何か重要なことの為であるし、その遂行を守る一端を沈黙で担えるのなら、誇らしいことだと思っていた。こんな、一介の老いた女を信頼してくれるのだから、と。

 リラは客のことを遠い親戚と人々に説明し、アイアスとの約束を守って、生前のヘイドリンにも負けぬ意志の強さで誘惑を撥ね退けた。そして滞在中は生き生きと2人をもてなし、実に親切に尽くしたのだった。

 家の修繕は街の人々が随分としてくれていたので、アイアスが特にするべき所はなく、彼がリラの為にしたことの殆どは物語りだった。それから友の墓を訪れ、約束通りソニアを海で遊ばせ、集まって来た子供達にも外の世界の話などをせがまれて語ってやった。

 アイアスは社交的で明るい男である上、言葉には生まれ持っての丁寧さがあったし、黙っていても気品のある垢抜けたところがあったので、人々の中には彼の素姓に薄々気づき始める者もいたのだが、彼はそれを軽くかわした。そして、兄弟姉妹がいないはずの英雄に「おにいちゃま」と言ってくっついて歩く幼子がいたこともその助けになっていた。もしここで大戦の英雄と知れたら、兵士やら高官やら、果ては国都の王までもが集って来たり招待をしたりで騒がしくなるに違いないのだ。立ち去る時に明かすことはあるかもしれないが、今は静かにのんびりとしていたかった。

 友の死はアイアスに少なからず衝撃を与えて、『死』を改めて考えさせていたし、ここまでの旅を整理して考えるのにも時と場所が適していた。

 故国アルファブラの父や母、王、王女、それに彼を知る友や名を知る人々が、英雄アイアスの放浪の訳を今頃不思議がっているだろう。父や母は『天使』の伝承を知らずとも、何か出生に関係したことについて調べているのだろうということは解っているのだろうが、大多数の人々が本当の理由を知らないはずだ。

 英雄というのはそういうもので、常に世界を渡り歩いて世を見守る運命にあるのだろう、とするのが大方の大衆の見方だった。それに平和が訪れた今、人々は日々の生活に追われて、噂を聞かなければ聞かぬほど大戦は過去のものとなって、英雄のことも語られなくなっていた。そしてやがていずれは忘れ去られるのだろう。だがそれでいいし、彼にとってそれはどうだって構わない。彼が追い求めているのは、もっと個人的かつ世界的な謎の解明なのだ。

 必ずしもそれが世界の平和や人々の役に立つというわけではなく、己の疑念や不安を解消させる為だけの旅、それが詰まる所ではある。だが、誰にそれを非難できるであろう。彼は世の為にも既に十分に働き、育ての両親にも家名の誇りを与え、国の名も上げた。そんな若者が人生のうちでこのような旅をする時期があったとて、それが何だというのだ。下手をすれば死んでいたかもしれない少女のことも救い、ここまで教育だってしてきたのだ。無意味な、道楽の旅ではない。

 矢も盾もたまらずこの旅に出たアイアスは、何処まで行ってもなかなか満たされぬことにふと虚しさを感じる度に、ソニアを見た。調べれば調べるほど暗い宿命しか示されていない『天使』を探る旅だが、彼女がいることでそれが無駄ではないと己に言い聞かせることが出来た。不安も、彼女がいることで和らいでいたし、本当に自分がエレメンタインの運命であったとしても、その鍵を握るハーキュリーが彼女ならば、受け入れられるかもしれないと思った。

 だが、自分の本当の望みは何なのだろう? 自分は『天使』ではなかったと証明されて国に帰り、昔のように暮らすことだろうか? かつて愛を誓い合った王女と結婚して王国を継ぎ、アルファブラの指導者となることだろうか?

 ただ、死にたくないだけなのか?

 ――――いや、違う。アイアスは思った。

 不安のない暮らしも、王女との愛も、求めているのは嘘ではない。だが、今彼が一番欲しているのは知ること(・・・・)なのだ。己が何者なのかを。

 もしかしたら死ぬその時まで叶わないのかもしれない。だが、どっしりと構えて変化の時を待ち続けることなど出来ない。歩き回って走り回って、そうして動いていないとおかしくなりそうだった。

 ひょっとするとこれこそが……力を持った者――――真実や道を示す師もいないほどに抜きん出た能力を持って生まれた者の宿命なのではないだろうか? だとしたら、繁栄なく終わる死以前に、これこそが呪いなのではないだろうか?

 アイアスは、自分と同じように特異に思えてならぬソニアの姿を見守りながら、この子もいずれ同じような呪いの道を歩むかもしれないと思った。もし彼が『天使』でなかったならば、これまでの旅は茶番で済むが、彼女は明らかに、彼以上に(・・・・)特異だった。彼女の旅は茶番では済むまい。この愛しい幼子を、苦しませたくはなかった。

 アイアスはソニアを呼び、「は――い」と元気良く駆け寄って潮まみれで飛びついて来たソニアの笑顔を見下ろして、こう言った。

「……ソニア、よく聞くんだよ。もし将来、自分のことでどうしても解らないことがあって、それが苦しくてしょうがなくなったら……ビヨルクの王様に会いに行ってごらん」

ソニアはキョトンとした。

「どうして? ソニアをつかまえようとしたんでしょう?」

「……ああ。でもね、正直に言うと、ソニアに悪い事をしようと思っていたのかどうかは解らないんだ。ソニアと離されたら辛いと思って、私が勝手に逃げて来てしまったけれど……ソニアのことは良くしてくれるかもしれないよ」

ソニアは黙り込んでしまった。理解しかねる顔をして困っているので、アイアスは微笑み、続けた。

「……とにかく、ただ覚えておくんだよ。苦しくならなかったら、別にいいんだ。悪い事をされるのかも知れないし、本当に解らないから。でも……危険を冒してでも何か答えが知りたいと思ったら、行ってみるんだ。いいね?」

「……よく……わかんない」

アイアスは「今はそれでいい」と頭を撫でてやって水平線を見た。


 ソニアがこの街で子供達と遊ぶようになってから持ち帰ってきた質問に、アイアスはまた驚かされた。

「お父さん、お母さんて何?」

彼女の順応が早かったので忘れていたが、こんな肝心の概念を彼女はまだ知らずにいたのだ。

 アイアスも『兄』のことを『家族』という言葉でしか説明していないし、『家族』のことも、ソニアは『一緒にいる大切な者達』と思っているのだ。雑多な種類の魔物に囲まれて育った彼女だから仕方のないことだった。しかも今まで聞いた話では、魔物の中に人間一般で言うところの『家族』を持っていた者はいないようだから、目で見て学んでいるはずもない。それを正しく教えることが、彼女に新たに一つの大きな疑問を与える――――気づかせるきっかけになってしまうので心苦しかったが、うやむやにすることは出来なかった。

 それで、アイアスは初めて時間を掛けてゆっくり、家族と血縁というものについて説明した。育った森では学べなかったが、彼との旅で姿の似た魔物の親子|(大小の集まり)や、人の顔の似ている似ていないというものは見てきたので、それを材料にソニアは理解することが出来た。

 ダンカンにはダンカンと同じ姿をした親がいたはずで、トゥーロンにもトゥーロンと同じ姿をした親がいたはずなのだ。だから、ソニアにとって彼等は『家族』と呼んでもいい存在だろうが、決して本当の『お父さん』や『お母さん』ではないのだ。

 ソニアにとってこの話は衝撃だったようだが、アイアス自身が本当の父、母に育てられた訳ではないことを打ち明けて、代わりになってあげるという意味でそう呼ばせて、父、母になっている関係もあるのだと説明すると、少しずつ納得したようだった。

 アイアスは話の合間合間に、何度、大切なのは本当の親であるかどうかよりも、大切に思う心や愛――――彼とソニアの間にあるもの――――であると言ったか知れない。愛の説明など、本来ならようやく5つになろうかという子には難しいものだが、互いが互いを必要とする力があまりに強い関係だったから、アイアスとの関係を例にすれば、ソニアはそれを良く理解した。

「私達は同じ『お父さん』と『お母さん』の間に生まれた兄妹ではないよ。本当の(・・・)兄妹ではない。でも……私達は心で結ばれてる兄妹なんだ。とても、とても大切なことなんだよ。忘れないで、ソニア。あなたは私に愛されているんだということを」

 そして、この子のこれからや将来の為には重要であろうと常々アイアスも思っていたので、自分の首に下げたパンザグロス家の紋が入ったペンダントを、その場でソニアに渡して首に掛けてやった。

「大事なソニアの為にこれをあげるよ。これをしていれば、私と同じパンザグロス家の人間だということだ。私とソニアが兄妹であるという証拠だよ。これから、あなたの名前はソニア=パンザグロス。いいね、ソニア=パンザグロス。言ってごらん?」

ソニアはペンダントを手に取って見つめながら繰り返した。アイアスは彼女の小さな肩に手を掛け、しゃがみ込んで目線を合わせて微笑んだ。

「……これから、大事な時にちゃんとした名前を言わなくちゃならないことが度々あるだろうけど、その時はこの名前を言うんだよ。『私はソニア=パンザグロスだ』ってね。そして、私が側にいない時はこのペンダントを私だと思いなさい。辛いことや苦しいことがあった時にソニアが私を思い出してくれれば、私は何処にいてもちゃんと聞いているから。私は何時でも、あなたを見守っていますよ。どんな事があっても、あなたはこの私に愛された妹なのだということを忘れないで。あなたは私に愛されています。どんな時にも」

ソニアは頷き、笑みを浮かべた。

「それを思い出したら……ソニアの体の中から困難を乗り越える力と勇気が湧いてくるはずだよ」

 こんな話を彼女にするのも、ある決断の予感が既に自分の中にあったからだということを、アイアスは知っていた。その予感は、間もなく現実的な形となってアイアスの前に提示された。

 ヘイドリンの母リラは、はじめから英雄アイアスとその連れである幼女が本当の兄妹ではないことは解っていた。

 ヘイドリンからは英雄に妹がいるとは一言も聞いていないし、家族構成について正しく語らないほどに薄い付き合いではなかったと信じている。大戦時には既に兄妹だったとしても、人に態々話さぬ義理の関係であるに違いないとリラは思い、ソニアの変わった容姿にもそれで納得がいった。

 何処か見知らぬ外国の特徴なのであろうし、可愛らしさは一目瞭然だし、アイアスの言い付けを健気に守る素直で良い性格の持ち主だし、何よりアイアスが連れて妹なのだと言っている限り、悪い者であるはずがないと思っていた。きっと何か訳あって、平和の勇士アイアスは彼女の面倒を見る役回りになったのだ。

 だからリラはある夜、ソニアがさんざ遊んで床でぐっすり眠った後、居間の木のテーブルでアイアスと向かい合いながら、ランプの明かりの中で果実酒を楽しんでいた時にこう切り出した。

「アイアス様」

彼女は、彼がいくら改めるように言ってもこう呼んだ。

「……実は折り入ってお話がございます。ご無礼かもしれませんが……驚かずに聞いて頂けませんでしょうか?」

その視線が眠るソニアに注がれていることと、鋭い直感で、アイアスはギクリと硬直した。彼が黙っているのでリラは始めた。

「あなた様は使命のある御方でございます。この旅もきっと大切なものでございましょう。その旅に……こうして……こんな小さな子をお連れになっているのは大変なのではありませんか?」

今はもうアイアスの目をジッと見て、少しも視線を揺らがせず向かい合っていた。彼の動悸は激しくて、耳までがドクドクと鳴っていたが、表情そのものは至極落ち着いた人間のようだった。

「もし……訳あってこの子をお連れになっていて……預け所がないのが2人旅の理由だったとしたら……この(わたくし)に、この子をお預け下さいませんでしょうか?」

里親の申し出はこれが初めてではないのに、アイアスの中で一斉に3種類ぐらいの悲鳴や叫びが上がった。彼は目を伏せ、音のない溜め息をそっと吐き、俯いた。

「そういったご関係でないのだとしたら失礼なことですが……もし……」

アイアスは2、3度頷いた。礼を欠いた訳ではなく、彼が実際その問題について懸念していたのだということがその様子から伝わって、リラは口を閉ざし、アイアスが何か言うのを待った。

 再び上げられたアイアスの顔は辛そうに歪んでいて、目には愛しさと苦しみとの葛藤が浮かび揺らいでいた。リラの瞳も、全く本気そのものの真剣さだった。

「……お話は……よく解りました」

アイアスの口からそれ以上の言葉がなかなか出ず、苦悩しているので、リラが続けた。

「……私はこの通り、夫にも息子にも先立たれ孤独の身です。この子を初めて見た時から……得られたかもしれない孫のことが思い出されて頭から離れなくて……ああ……だってこの子は本当に可愛らしいですもの。もし迷惑とお考えでしたら、それは全く逆でございます。こんな子を授かることが出来ましたなら……それこそ天からの恵みというべきです。どんなに街の友人が良くしてくれても……私には今、何も生き甲斐がないのですから。それをどうぞ……知っておいて頂きたく思います」

リラの目からは涙さえ流れていた。

 この数日この家で過ごしたことで、この老女が息子の母親らしい賢さを持つ善人であることがよく判っていた。この人なら、どんな子を預けたとしてもよく面倒を見てくれるのであろう。

 まだ答えかねているアイアスも、彼女をここに置き去りにした時の嘆き様を思って涙を零した。リラもその姿から、この2人の絆と彼の苦悩を知って更に涙を誘われた。

「……少し……考えさせて下さい」

今の彼に言えたのはこれだけだった。

 彼女と同じ床に入っていつものように横たわると、眠りながらソニアは彼にしがみ付いて身を寄せて来た。

 ようやく5つになるというこんな小さな子を、慣れぬ土地に置き去りにして、彼女は許してくれるのだろうか? アイアスは声にならぬよう息を殺してそこで泣き続けた。

 旅立ちや別れの決断を迫られて、こんなに辛いことは未だかつて無かった。それが正しい事と信じられる道ならば、こんなに苦しくはないだろう。あまりに利己的な理由で愛し子を悲しませるのだから、こんなに後ろめたいことはない。そして、ずっと彼女と一緒にいたいと思う彼の一部もまた、己を苦しめていた。


 翌昼下がり、高台から青い空と青い海原を見渡し、船や船上の人々の動きを眺めながら、アイアスはソニアに訊いた。

「……ソニア、この街はどうだい? 面白いかい?」

「うん」

彼女は無邪気に、小さな凧を先に付けた棒を振り回しながら答えた。

「……好きかい?」

「すきだよ!うみもおふねもあるもん」

「今まで行った所の中では?」

「2ばんめか3ばんめくらいにすきだよ」

「……1番は?」

「みんなといたもり」

アイアスは切なく微笑んで「そうか」と言い、それきり静かに、ただ彼女の遊びを見守っていた。

 そしてその晩、またソニアが寝付いてから、アイアスはリラに決意を告げた。リラは泣きながら何度も感謝し、きっと大切に育てると何度も誓った。アイアスも涙を拭いながら、彼女を預かるに当たっての注意点を慎重に教えた。

 この子は、本人も知らぬ理由で魔物達に育てられていた事情のある特殊な子供だから、普通の子とは違った点が多いであろうし、そのギャップによって驚かされたり、本人も辛い目にあったりするかもしれないから、大らかな気持ちで見守ってあげて欲しいということ。気持ちはとても優しい子だから人を困らせたりはしないだろうが、持てる素質の為に、普通の人では理解できぬ道を選んだりするかもしれないので、そんな時は縛ったりせずに、この子のやりたいようにさせてやって欲しいということ。この子にはもうパンザグロス家の名を与えているから、彼が去った後で必要な時には、堂々とその名を使って良いということ。

 リラにとって初めて知らされる事も多かったが、失望はなく、かえって同情を深めたようで、彼の話をよく聞いて心に留めた。

 そして、彼は最後にこう言った。

「……一度ここに置いて行く限り……私はこの子を捨てたのも同然だと思っています。誰が何と言おうと彼女は深く悲しみ、傷付くでしょう。そんな私が易々と会いに来ることは出来ません。姿を見に来ることはあるかもしれませんが、もう私から彼女に会うことはないつもりの覚悟で出て行きます。これからは……全てを貴女にお委ね致します。どうぞソニアを……幸せに育ててやって下さい……!」

アイアスに深く頭を下げられ、リラはしっかりと頷き「承知致しました」と震える声で応えたのだった。


 彼女の泣き叫ぶ様は見たくなかったが、諦めさせる責任があると思って、アイアスは黙って去ることはしなかった。知らぬ間に置いて行かれたとなると、ますます自分は捨てられたと思うに違いない。だから、責めや罪の所在をハッキリとさせておくべきだったのだ。

 彼女を置いて流星呪文で離れて行ける自信の無かったアイアスは、珍しく船を選んだ。リラと3人で港まで来て、中央大陸行きの船に席を買い、どうして3人で港にやって来たのか解らぬソニアと、片膝ついて肩を取り向かい合った。

 幼いながら鋭いソニアも、嫌な予感は既にあって少し震えていた。アイアスは微笑んだ。

「……ソニア、私はまた別な場所に旅に出るよ」

ソニアはコクリと頷いた。

「……でも、もうソニアを連れては行けないんだ」

ソニアはブルッと震えて身を硬くした。目を一杯に見開いている。

「私の力が足りないから、この前はソニアを危険な目に遭わせてしまった。だからこれ以上……ソニアを連れて行く資格が無いんだよ。旅は……どうしても続けなければならないから」

「……いやだ……」

ソニアはボロボロと涙を零して、アイアスの胸倉をギュッと掴んだ。掴まれているのは服なのに、アイアスの胸は、その手で心の臓を握られたようにズキリと痛んだ。

「……ご免よソニア……私は旅を止められない。悪いのは私なんだ。ソニアが悪いからじゃないんだよ。私のせいなんだ」

「……いやだ……!」

ソニアはさかんに頭を振って認めようとしなかった。この子がこんなに駄々をこねたことはない。アイアスの目からも涙が流れた。

 船上の人も街の人も、何やらそこで切ない別れの儀式が起きているらしいのを知ると目に留め、眺めた。若い男と幼女の別れは本当に辛そうだった。世の中で、生きた者同士がこれほど辛い別れをすることはそうない。この2人の深い事情など、傍目からでは誰にも解るはずがなかった。

 アイアスはソニアを抱き締め、頭を撫でてやり目を閉じた。

「……許してくれソニア……!」

ソニアはワンワン泣き、いやだぁ、いやだぁとそれだけを繰り返した。その悲しみ様があまりに激しかったので、リラも、遠くから見ていた感じ易い者達も目頭が熱くなって涙しそうになった。

 アイアスは必死に慰めの言葉を探した。どうにかしてこの子を泣き止ませなければ、自分の胸まで引き裂かれてしまいそうだった。

「ソニアがもっと強くなって……誰にも負けないくらい強くなって……私が安心して連れて行けるくらいになったら、また一緒に行こう。その時を待っているよ」

そう聞くと、ソニアは喚くのを止めて激しく引き付けを起こしたように肩をしゃくるだけになり、彼の話をよく聞いた。彼自身もとても辛く、彼を困らせているのはソニアにも伝わっていたのだ。

「いいね、ソニア。……誰にも負けないくらい強くおなり。そうしたら、きっとあなたを迎えに来るから」

ヒック、ヒックと大きく胸を反らせて呼吸しながら、ソニアは懸命に言った。

「……きっと?」

アイアスは、全く確証のないこの時には嘘としか言えないこの慰めを、必死で微笑みながらソニアに言い聞かせた。

「……ああ、きっと来るよ。ソニアは必ず強くなれる。その時を待っているからね」

出航の時間が来ていたので、船員が急ぐよう声をかけた。アイアスはしゃがんだまま振り返って、解るように大きく頷いて見せた。

「……愛してるよ」

胸から離すことが出来ぬ彼女の手をそっと引き剥がして包み込み、その手と頬にキスをしてやった。そしてリラに頷いて見せ、彼女を軽く押しやって、捕まえていてもらった。

 手が離れた瞬間、ソニアはますます目を見開いて、離れて行くアイアスの姿を追った。アイアスはリラにお辞儀をし、リラもそれに応えた。そして彼はヒラリと船に舞い上がって甲板に着地した。その身軽さに、船員や見物人が軽い驚きの声を上げる。

 舫綱がすぐに外され、船長の号令で船底から何本ものオールが出て漕がれ始め、船は桟橋を離れて行った。

 ソニアは耐え切れずリラの腕を解いて走り出し、船を追って桟橋を駆けながら必死に叫んだ。

「わたしも……! わたしも……!」

甲板上からそれを見ているアイアスは、微笑み頷いた。他人には、彼女が自分も乗せてくれと追い駆けている様に見えていたが、アイアスには彼女の言いたいことが理解できた。『わたしもあいしている』と。

船はぐんぐんと離れて行き、もう桟橋の端からも遠ざかっていた。

「――――――がんばるから……きっとよ!」

アイアスは遠い彼女によく解るように大振りに頷いて見せた。そして右の掌に強くキスをし、その手を彼女に向かって振った。ソニアも同じようにして返した。

 海風の音の中で、アイアスは小さくなっていく桟橋の端に立つ幼子を、互いに見えなくなるまで見続け、心の中で幾度も謝罪した。

 ご免よ、私はあまりに弱い。

あなたの死にも絶えられないだろうし、自分の死も恐ろしいんだ。

 だけど、愛しているよ。心から愛してる。

 もし私が本当に天使で、あなたが私の死だったら、成長した暁に

 今日のこの日の罪を清算しに私を探してやって来るといい。

 その時には、私は迷うことなくあなたを受け入れるだろう。

 だが今は、どうか許しておくれ。

 可愛い弟子、可愛い妹、ソニア。

運命の子、大戦の英雄であれ、アイアスは生きた人であり、あまりに若かった。恋をしたり、結ばれたり、子を得たりする産みの行いなら難無く出来たであろう。しかし、何かを――――しかも生きた愛する者を――――罪と解っていて捨てるにはあまりに若かった。

 彼は深く、存分に傷付きながら、幼子の見えなくなるのを目に納めて、その甲板に何時までも立ち続けていた。


 桟橋のソニアは、もう二度と味わいたくなかった別れの痛みに動けなくなっていた。彼ほど愛した者は今までにいなかったから、その痛みはひとしおで、幼い胸には凶器に近い鋭さだった。

 ――――だが、彼はまだ生きている。森の仲間達のような死の別れではない。そして言葉が残されている。これがソニアの救いとなった。この痛みが原動力となって、彼女をこれから長い長い修練の道へ進ませることになる。

 ソニアは船の見えなくなった水平線に向かって、決意の言葉を思い続けた。

 必ず強くなる。誰にも負けないくらい、と。

 リラは彼女の気が済むまで見守っていてやり、帰ろうと急かしはしなかった。この時はまだそこにいる誰も、この少女がこの国の守りの柱、守護天使と呼ばれるほどの稀代の戦士になるとは思ってもみなかったであろう。

 そしてソニアはこの日を境に、彼を待ち続ける日々を送るのだった。それが死ぬまで叶わぬ願いであるとも知らずに。

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