第4部31章『堕天使』65
「……ディスカス」
名を呼ばれると。ゆっくりとではあるが彼は反応し、ソニアに顔を向けた。
2人きりでいられるうちに解決したかったので、ソニアは鏡越しに言った。
「お前は……ご主人を亡くしてしまって、この先どうするの? もう、ここにいる必要はないんじゃないの? いる理由がないもの」
彼はぼうっとした表情のまま話を聞いていた。
「命令してくれる人がいなくて困っているのなら……私が解放しましょうか?」
ディスカスは視線を落とした。彼にとって、任務遂行中であるのに主人を失うというのは初めてのことだった。更にその上の主人であるゲオムンドは存命であるから、そこに戻ればいいのだが、ゲオルグが死ぬ前に自分に言いつけた最後の命の内容を考えると、果たして放棄していいものかどうか戸惑っていた。こんな風に、大切な決定を自分だけで下すということに彼は全く慣れていないのだ。
“自分の手で殺したいから守れ”
あれは、彼女に対する憎しみからなのか、それとも変わらぬ愛の為なのか。もし憎んでいるのならば、主人に代わって自分がそれを成し遂げるべきなのかもしれない。だが、それはあまりに不適切に思われた。あの主人が自分にそれをさせるとは思えない。
逆に、もし愛の為であったならば、彼はこの先も自分が彼女を守り続けることを望むのだろうか。いつか主人がやって来るということはもはやないから、もしそうするのならば、それは彼女が生き続ける限り終わらぬ遠大な任務となる。いつ終わるとも知れぬ、長い、長い使命だ。有り得ることだとは思う。……が、あまりに長い。
それとも主人が死んだ今、もはや命には何の拘束力もなく、主人の願いも消えて、自分は自由の身なのであろうか?
ディスカス――――もといディスパイクは、長年自分の意思や自分の願望などを考えることなしに、ただ仕える者の命に従ってきたので、ある選択をしたいという衝動が自分の中に生まれていたのに、それに気づかず、理解できず、困惑していた。
「……もし考える必要があるのなら、考えられる所に一旦帰ったらどうかしら?」
ディスカスはソニアを見た。短い期間ではあるが、彼女を表面上の主人として仕えてきて、今ではそれに慣れてしまっているだけに、既に去り難いものがある。そしてそれこそが、彼が未だ気付かぬ本当の願望だった。
彼が何も言えずに戸惑っているのを見て、ソニアはフッと笑った。
「それなら、あなたがまだ私の言うことを聞くかどうか判らないけれど、命を与えます。考える必要があるのなら、一度帰りなさい。人間のフリをしたまま、この城を出て、それからあの島に戻りなさい。勿論、他の場所でもいいけれど。それで、そこで考えて――――もし、まだ私を守るつもりだったら、もう一度私の所に戻ってらっしゃい。お前は、見つけるのはお得意のようだから」
ぼうっとしたままではあっても、命を受ける時の彼は何処かスイッチが入っていた。
「それでもし――――私が見つからなかったら、とにかくこの国を守って頂戴。私が見つかるまで、アーサーの手助けをして、この国を守って欲しいの。そうしていれば、私は駆け付けるはずだから、いずれ会えるわよ」
そして彼女は微笑んだ。微笑みながら命を下す主人に、彼は既に惚れている。
ブルンと肌を震わせて彼は椅子から立ち上がり、ソニアに歩み寄った。そして真横に立つと軽くお辞儀をした。
「お暇を」
ソニアは頷いて許可を与えた。
彼女の命を受けて、海月のように腑抜けていた身体に芯を取り戻したディスカスは、人間らしく背筋を正して歩き、部屋を出て行った。