第4部31章『堕天使』55
その向こうに、まだ黄昏があった。
何処までも抜けていきそうな澄んだ橙色の大地と空の狭間に彼はいた。黄金色の雲がゆったりと流れ、通り過ぎていく。
浮遊感と光の眩しさがあまりに心地良くて、彼は辺りを見回した。
するとそこに、愛しい者の姿があった。
手は届かないが、小川を挟んでこちらと向こう岸という程度の距離に、彼女がいた。哀しく辛そうな顔で彼を見つめ、そこに浮かんでいる。
切なそうに彼女の方から彼に向かって手を伸ばすのだが、透明な壁に阻まれるようにして、どちらからもそれ以上近づくことはできず、距離は縮まらなかった。
だが、彼にはこれだけで十分だった。
これでいいいんだよ。来てくれてありがとう。
彼は最高の微笑で彼女に応えた。それでも彼女は、苦しく不満そうに何か喚いている。
だが、何と言っているのかよく聞こえない。
本当にいいんだよ。そんなに哀しまないでくれ。
その時、天に棚引く雲の切れ間からもっと強い光が射し込み、足元の方には深い裂け目が現れて、その下に深い闇を見せた。闇の世界の入り口だ。
その裂け目の闇は、自分が行くべき世界の入り口に思われた。
その裂け目に視線を向け、それからまた天を見上げた時、彼は、天の高い所にあるものに気がついた。彼女よりもずっとずっと後ろの、ずっとずっと高い所に人影が見えるのだ。雲の切れ間から射し込む光と殆ど一体化していたので、始めはその人影に気がつかなかったが、確かにそこに誰かがいた。
視界を度々遮っていた雲がゆっくりと遠ざかった時、こんなに遠く離れているのに、彼にはその人の姿がハッキリと見えたのだった。
そこにもう1人彼女がいるのではないかと思えるくらい、よく似た姿の、だが、長く白い衣を身に纏う、ほっそりとした体躯の美しい女性。あまりに光を受けているからか、それとも、その人自身が光っているからか、月虹のような美しい光の輪がその人を包んでいる。
先日、過去の世界で見た時よりも、ずっとずっと素晴らしい姿をしていた。そして慈愛に満ちた眼差しで、彼のことを微笑み見つめていた。
これこそ、彼が長年夢に描いていた女性の姿だった。一度は粉々に砕け散ってしまったものの、そうなる前に思い描いていた姿だった。
いや、それ以上だった。
その女性は微笑みながら、頬に一筋の涙を輝かせていた。
彼はこの時、本当に全てのことを悟ったのだった。
一番幸福な瞬間だった。
全てが許せ、全てが満たされ、全てが美しくなっていった。
天を見上げる彼の様子に気づいた彼女もその女性に気づき、同じように見上げた。
時間感覚の薄い世界でのことだったが、多分ほんの暫く、彼はそうして天を見上げていた。
それからもう一度、愛しい者を見た。
彼女はもう喚くのを止め、ただ切なく彼を見つめている。
満ち足りた微笑で、彼は別れを告げた。もう、その時が来ていたのだ。行かねばならないと彼には解っていた。
そして、何処へ行かねばならないのかも心得ていた。
満ち足りた想いを胸に、愛を灯にして、彼は、自ら闇の裂け目に向かい、進んで行った。
今の彼には、例えどんな闇であっても、怖れるものは何もなかった。