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Sonja〜ソニア〜  作者: 中島Vivie
第10章
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第3部10章『雪原の彼方に』2

ありがとうございます

 ソニアが目覚めたのは岩ばかりの空間で、火が灯るチラチラとした動きが、荒い岩肌の天井に明暗の瞬きを見せている場所だった。何やら長い夢を見ていたような、しかし何も見ていなかったような気もする空虚さと疲労を感じ、覚醒した後も暫しボンヤリとしていた。

 まず頭に浮かんだのは不気味な刺客の姿で、悪臭までもが甦って鼻をつき、思わず顔を顰めた。ここが何処か考える発想よりも先に、直前までに起こった強烈な物事の方が頭を掠め過っていく。

 兵士の叫び、爆発、弾ける毒液、触手。

 刺客が自分を狙っていたのだという事実に何かしら責任を感じてしまう彼女には、兵士の悲鳴も血も失踪も全てが痛々しく、心を苛んだ。

 彼等は無事だろうか? 治療できたのだろうか? 飛ばされた兵士は……?

 こうして、まず部下達の身を先に案じ、それからようやく彼女は自分の事が考えられるようになった。

 それで……ここは何処なのだろう? 自分はどうしたというのだろう?

 少し頭を動かして辺りを見てみると、そこは何処までも岩だらけの屋内空間だった。城の地下壕か、でなければ洞窟のような所だ。

 彼女が動いたことに気づいた人がやって来て、顔を覗き込んだ。

「――――ねぇ! 気がついたよ!」

「おぉ、本当か!」

見下ろしている娘の声に、奥の方から年配の男の声が返ってくる。そのうち、何人もの人が彼女の側にやって来て周りを取り囲み、珍しそうに見入った。何かを囁き合っているが、まだ覚醒し切っていないソニアの耳にはよく届かず、人々の顔だけが見えた。誰かが集団を遠ざけようと、こちらに背を向けて手を振っている。ちゃんと発された声は彼女にも聞き取ることが出来た。

「コラコラ! そんなに一度に来たらビックリしてしまうよ。もっと離れなさい!」

娘が膝を折って彼女に顔を近づけ、穏やかに言った。

「……気がつきました? 聞こえますか?」

ここで、自分は地べたに横たわっているのだとようやく気づき、ソニアは自分の体を見た。体の下にも上にもたっぷり毛布が掛けられているようだ。すぐそこは剥き出しの岩肌なのに、硬くて冷たい物の上に寝かされている感じはなかった。余程毛布を敷き詰めてくれたのだろう。

 ソニアは耳が利いている証拠に「ええ」とだけいって頷いた。

 向こうでは、遠ざけられた人々がそれでも顔を出したり背伸びをしたりして見物を続けている。人に珍奇の目で見られるのには慣れていたが、いつも以上の反応だった。

「気分はどうですか? 何処か痛い所とかはありません?」

ソニアは暫く考え、首を横に振って答えた。そして小さな声で尋ねた。

「……ここは……?」

目覚めて瞼が開かれ露になった彼女の瞳の色と煌き、そしてその声が、寝ている間に想像された以上の美しさであることを知った娘は、貴石を目にするような感嘆の眼差しでソニアを見つめ、そっと溜め息を漏らした。不思議なことに、警戒心や同性としての嫉妬心というものはまるで起きず、《美》というものはある一線を越えると、魔力に近い影響力を持つのだということを娘は知った。

「ここは、メルド山の麓の洞窟です。アトワルカ湖から3里ほど離れた所にあります。……わかりますか? 外国の方みたいですが」

「……何と言う国ですか……?何処の大陸の……」

大陸という言葉を持ち出すくらいだから、本当に遠くからやって来たのだろうということが娘にも解った。

 ソニア自身にはまだ少しの見当もついていなかったのだが、自分が何処かあらぬ所に飛ばされてしまったのかもしれない可能性だけは思い出していた。それに、目に映る人々の姿はナマクアの人とは大分違ったので、それだけでも十分遠くに来たらしい実感があった。ここの人々は髪色も肌色も薄く、青や金色の目をした人が多い。それに随分厚着だ。その扮装に、ソニアはどことなく見覚えがあった。

「……ここは、スカンディヤ大陸の中部地方です。国は……戦で落ちてしまったので、今でもあると言って良いのかどうか……でも、以前は『ビヨルク』と呼ばれていました。その領土内にあります」

ソニアはクラリとして目を閉じ、顔を背けた。聞き覚えのある国の名を聞いて幾つかの記憶が甦り、まだ朦朧としている彼女の頭の中を一杯にしてしまう。

それにしても……これはとんでもなく遠い所まで来てしまったようだ。

「ここにいれば体も温まります。今は体を休めて下さいな。あなたはアトワルカ湖に落ちてきた所を、湖の主に救われたのですよ。それを私達が見つけて……ここまで運んで来たのです」

「……主……?」

ソニアは、記憶そのものが薄れかかっている水中での出来事を思い出した。

「ああ……あの大きな魚……立派で綺麗だと思ってたけど、主だったの……。そうなの……彼が助けてくれたのね……」

娘は自慢げに微笑み、頷いた。湖の主が人々に慕われていることが伝わった。

「あなたは湖で体を冷やしてしまっているから、今は一生懸命温めていたところなんですよ。鎧と服は脱がさせてもらいました。ビショビショなんですもの。でも大丈夫、着替えは私とドネルタでやりましたから、男共には見られていないですよ」

娘は親しみ易い砕けた調子で笑いながら、ソニアの額や手首に触れてみた。

「……良かった、温かくなったわ。これから熱が出てくるかもしれないから、ちょっとでも様子がおかしかったらすぐに教えて下さいね」

自分を助けてくれたらしい娘にソニアは礼代わりに微笑んだ。実に良くしてくれている。娘は彼女の手をマジマジと見て、軽く摩りながら毛布の中に戻した。

「本当に美しい肌をしてますのね。あなたは一体何処の方なんですか? この国は肌の美しい女性が多いことで有名だったのだけれど、あなたの肌はまたちょっと違ってますね。何て言うのかしら……こう……人間離れしたというか……。とにかく、あなたのお郷独特なんでしょうね」

ソニアはその言葉に苦々しく目を閉じた。

「……どうしました? ご気分でも……?」

「……いえ、ちょっと疲れただけなんです。ご心配には及びません。助けて頂いて……何とお礼を申し上げたら良いか……あなた方がいなければ、今頃は湖で凍え死んでいました」

娘はまた嬉しそうに溜め息をついた。

「あなたは本当に運のいい方ですわ。あの湖はかなり広いのに、ちょうど私達が通ったすぐ側に落ちて来なさったし、その上、主に助けられたんですもの。きっと、とても強い守り神が付いてらっしゃるのですね」

ソニアも微笑んだ。このような事故が起こり得る危険を知っていただけに、あらゆる可能性の中では良い方に転んだと言える現状をトライアスに感謝した。

 意識がハッキリとして自分のすべき事が明確になってくると、ソニアは早くも娘に申し出た。

「ここの統率をされている方は何処におられますか……? もし良ければ……お話がしたいのだけれど……」

そう言うと、娘はコクリと頷いてすぐに人を呼びに行った。

 娘が去ると、彼女に介抱を任せて自分は人を遠ざける役に回っていた男が様子を見にやって来た。人々はまだ言うことを聞いて、遠巻きにその模様を眺めている。

「いやぁ……あんたが湖に落ちて来た時は、大砲か何かかと思ったよ。ビックリしたなぁ。一体どうしてまた――――――そんな事になったんだい?」

狩りの場にもいた中年男が赤ら顔で尋ねた。娘と共に、彼女の介抱や人払いの役を取り仕切っていたのだ。狩りのリーダーと他数名は、獲物を捌く仕事の方にかかり切りだった。

 ソニアはどう説明したものか戸惑い、「よく解らないが、敵の罠に嵌ったのかも」とだけ言っておいた。

「そうだ、今、何か温かい飲み物でも持って来るとしよう。まだ体ん中は冷えてるだろうから」

彼女の為に精力的に奉仕してやりたくてしょうがない様子で男は何処かへ行ってしまった。

彼がいなくなったことで人々の目が一層爛々としてくる。ソニアは上半身だけゆっくりと起こして、ここでの介抱の礼に彼等に会釈した。そうすると彼等は嬉しそうに囁き合って、徐々に近づいて来た。

「もう大丈夫なんですかなー? 美しい娘さん」

ソニアは微笑み、その老人に頷いて見せた。どう言う訳か年功序列に、年の多い方から順にソニアに近い場所を陣取った。子供がその隙間から頭を覗かせている。

「はい、お蔭様で。助けて頂いて本当にありがとうございます、皆さん」

年寄りというものは、大人の時分には控えるような事まで子供並みに構わず口にするので、彼女を目の前に銘々独り言を呟いた。

「はぁー……目を開けたらますます別嬪さんだねぇー……あんた」

「妖精さんみたいだ」

「いんや、湖の女神さんだ」

娘や男が心配した通り、これではまるで見世物のようで落ち着かなかった。人間離れした容姿に注目が集まるのは彼女にとって苦痛だったが、人々の悪気のない単なる好奇心による振る舞いそのものは可笑しくて、彼女も笑ってしまった。

 彼女を知る者ならば誰もが解っていることだが、黙って立っていても眠っていても十分に魅力的な彼女は、笑うと更に素晴らしかった。交わした言葉はほんの少しなのに、その微笑みに皆が惹きつけられ、只者でないと感じ、夢中になった。

ルピナス色の髪はまだ少し湿っていてキラキラと輝いており、耳の先まで血の気が抜けている未だ蒼白い顔は、ガラス細工の如き透明感を出している。少々疲れた瞳の色は、ガラス細工を通り越して水のようで、今にも崩れそうな光を湛えていた。

 人々がそうして見とれている内に、この洞窟集落を統治している者が彼女の所へとやって来た。彼女の周りに人々が集っているのを発見した娘は、その人物の先に立って人々を追っ払いながら歩き、彼女へと続く道を開けさせた。

 やって来た統治者はまだ歳若く見え、30歳前後の容姿で北方独特の銀髪と金色の目を持っており、纏う衣装は厚いフェルト生地の胴着に毛皮のコートだった。毛皮の下に着ている赤い上着の民族的刺繍がとても映えている。

 彼は先程目覚める前の彼女を一度見ていたのだが、意識を取り戻したその様は、その時とは比べ物にならないほど彼の胸を打った。ソニアを見た瞬間彼は立ち止まって動かなくなってしまい、代わりに娘が先に紹介をした。

「彼が、この洞窟にいる百数十名の者をまとめているソーマです。侵略軍に国を落とされる以前は、騎士団の隊長でした」

ソニアは侵略軍と聞いて、目に見えて厳しい表情になった。娘から先程聞かされてもいたが、連絡不通となっていたビヨルクは既に敵の手に落ちていたのだ。何とも重く、苦しい現実だった。

「……あなた方に助けて頂いて、大変感謝をしております。あなた方は私の命の恩人です。今はこうして……言葉でしかお礼をすることができないことを……どうぞお許し下さい」

彼女の声を聞き、統治者ソーマはハッと我に返って口を聞いた。騎士と言っても、ただの戦士より学のありそうな、賢い顔立ちをしたなかなかの美青年だった。家柄のいい出身なのだろう。着こなしに、どことなく気品がある。

「――――私はソーマ=デビンスゥルク。ノーラの言う通り、私は元ビヨルク騎士団の隊長を務めていました。……侵略軍との戦いで負傷してからは……こうして生き残った人々の先導に力を尽くしています」

よく見ると、彼の左肩から先の袖の脹らみがやけに少ないことが判った。ソニアの視線に気づき、彼はその肩を右手で押さえて、フッと溜め息をついて語った。

「……この腕はその戦いで失いました。隠れていた村人に運良く発見されて介抱され、奇跡的に命は助かったのです。……私以外の騎士はおそらくもう……。国王陛下もその後どうなったのかまるで解らないままで……」

彼女が兵士の扮装をしているので、軍や王家のことまでサラリと彼は教えた。

 ソニアは哀しげに俯き、「お気の毒に」と呟いた。噂には聞いていたが、ここまで荒廃しているとは知らなかった自分が恥ずかしくなり、如何にトライアやあの大陸がまだ平和であったかが思い知らされた。

 ビヨルク国王のことも、ボンヤリとだがソニアは覚えている。背が高くて、自分のことを凝視していたあの王。自分を捕えようとするから、アイアスと共に逃げ出した、あの時の王。その人の安否まで解らなくなっているなんて……。

「そうですか……連絡が途絶えたとだけしか知らず……大変残念な事です……。同じ世界にいながら、自分の国が平和だと、こうも他の国の情勢が見えないなんて……。こんなに酷い状態だとは……」

ソーマは微笑んでソニアの隣に座り、目線を同じくした。

「無理もありませんよ。あなたのような方には初めてお目にかかります。それほど遠い国なのでしょうから」

確かにスカンディヤとナマクアはかなり離れた大陸同士である。だが、それでもソニアには許せなかった。それに、彼等が距離感を抱く元となっているのは、母国でも結局類のないこの容姿なのだから。ソーマの言葉も慰めにはならず、自責の炎がソニアの胸を熱くして、焦がした。

「それで……あなたは一体どちらから参られたのですか? 空から落ちて来たなんて、何やらとんでもない事に遭われたようですね」

ソニアは暫し躊躇し俯いていたが、顔を上げてこう言った。

「私の紹介が遅れてしまって失礼しました。私から申し上げるべきでしたのに。私は……ナマクア大陸から来た戦士です。名は――――――」

彼女の頭に、かつてのある情景が過り、迷うことなくそれを選んだ。

「ナルス、と申します」

「うわぁー……! ナマクアなんて、そんな遠い所から……! それに、鎧を着てたからそうだろうと思ってたけど、やっぱり戦士でらしたんですね!」

娘の驚きを皮切りに、人々は皆あれこれ言った。

「まぁ……! 戦士様だなんて……! とてもそんな風には見えないのに!」

「あんな別嬪さんが剣を使うのかぇ……?! こりゃ、おっでれぇたわぃ!」

この洞窟に到着した時分には彼女は鎧を脱がされていたので、殆どの者は戦士姿を見ていないから特にそう感じられたのだ。

 しかし、確かに彼女の腕はただの娘のものと違って、服の上からでも判るくらい筋肉で逞しく膨らんで引き締まっており、剣を扱えると言われてもおかしくない体つきをしていた。元騎士であるソーマは、彼女の体格からその鍛えぶりを一番に見抜いた。無駄のない線、しなやかに脹らんではいるが、決して硬くない筋肉、そして柔軟性に富んだ身体。

 どの国にも女戦士が多少はいるので全くの驚きではないのだが、それでもこの人物が一国の軍隊長だとまでは、この場の誰も思いもしなかった。風や魔法を扱える万能戦士だなどとは知る由もないし、こうして飛ばされて来る程度の者だと思われたのである。

「領内で皇帝軍の魔物と戦っていて……今までに見たことも聞いたこともない恐ろしい化物で……その化物が吐き出した毒液を浴びたら、ここまで飛ばされてしまったんです。おそらく、流星魔術薬と同じ成分の物ではないかと……」

彼女の言うことを理解出来ない者が多かったが、魔術の素養がある者は唸った。

「何と恐ろしい……!」

「そんな化物まで控えさせているとは……何て恐ろしい敵なんでしょう……!」

ソーマも納得がいったようで何度か頷き、更に尋ねた。

「ナマクア大陸というと……確か北部・中部・南部とに3つ国が御座いましたな。中部と南部の国は首都が比較的近く、北部のものは砂漠や荒野に隔てられて、遠く離れていたかと記憶しています。あなたはどちらの方なのですか? ナルスさん」

ソニアはここでもまた慎重になった。何と言うべきか迷い、そしてまた選んだ。

「……テクトです」

彼女がここまで素姓を偽るのには訳があった。自分を狙ってやって来る刺客の可能性がまだ否めないので、出来る限りトライアの国軍隊長、ソニアとは知られたくなかったのである。まさかとは思うが、どこで敵の知るところとなって新たな刺客が送り込まれるか判ったものではない。それが結局、側にいる者達の危険にも繋がってしまうのだ。正体を明かす必要のないうちは、何処までも偽るべきだと思った。

「私は、早く国に帰って敵と戦い、国を守りたいのです。こうしてお会いして早々に失礼ですが、こちらに流星呪文の使える方はいらっしゃいませんか? 何とか国へ帰る手立てを得たいのです」

ソーマは残念そうに首を横に振った。

「申し訳ないのですが……ここにいるのは生き残った一般市民ばかりで、戦士も術者も殆どいないのですよ。私はこの通り以前のように戦えなくなった身で……術者の方も、ほんの僅かな魔法が使える子供が一人いるだけでして……この洞窟の火を起こすのが精一杯なんです。ご期待に添えず残念です」

「そうですか……」

現状を聞く限り、早期帰国の望みは叶えられそうにもない絶望的な状況のようだ。ソニアは嘆息した。一日も早くトライアに帰りたいのに、こんな事になろうとは……。今頃国の人々がどんなに心配しているだろう。各国と音信が途絶えているこの国にいては、諸外国の戦況がどうなっているのかを知ることも出来ない。覚醒したばかりでまだ本調子ではないソニアは途方に暮れ、眩暈を感じた。

「とにかく、お話は解りました。我々に出来ることはないか手立てを探してみましょう。協力は惜しみませんよ、ナルスさん」

皆もうん、うん、と頷いて「そうだ」「勿論だ」と口々に言った。

 その頃、ようやく熱い飲み物を手に先程の男が戻って来た。自分の言い付けを守らずに人だかりが出来ていて驚いたが、もうそこにソーマがいて真剣な話し合いが成されているのを目にすると騒ぎ立てはせず、ただにこやかに北方自慢のバター茶を彼女の所へ持って行った。ソニアはまだ知らないのだが、今やバターなど非常な貴重品であり、ここでは客をもてなす為に惜しみなく使用したのである。

「ご親切に……感謝しますわ」

ソニアはソーマと握手した。彼女の手はまだ若干冷えていたが、触れた彼の方は尚一層体が熱くなるのを感じた。

「ああ、ちょうどいい、すぐに差し上げてくれ。まだ体が冷えているようだ」

ソーマの促しで男はソニアにカップを手渡した。木のカップに入った薄紫色のバター茶は、ほうほうと湯気を立てている。

「ありがとう、頂きます」

彼女がカップを口に運び、目を閉じて温かな飲み物を口に含む仕草は優雅で、見ているだけで皆をウットリとさせた。冷えた体に温かいものが注ぎ込まれて彼女が恍惚とし、ホッと溜め息をつくと、皆まで体が温かくなったような気になる。

「美味しい……」

それを見るや、人々は一斉に彼女に飲ませたり食べさせたり出来る物は何かないか探し始めた。競うようにして最初にやって来たのは小太りな逞しい主婦で、「お茶に合う」と言って酒漬けの果物を差し出した。貴重な品のはずなのに申し訳なくてソニアは断ったが、それに続いてナッツを持って来たり酒を持って来る者がいたりと後を絶たず、彼女は戸惑った。

「こらこら、そんなに持って来たって、お困りじゃないか」

半分笑いながらソーマが呆れ顔で言った。ソニアも皆も笑った。

 彼等の奉仕熱があまりに激しいので、ソニアは結局皆から一粒、一かけ、一口ずつ頂戴して交流した。戦闘と低温よる消耗も補えたし、そうしている内にもっとビヨルクの現状も知ることが出来た。

 ビヨルクは皇帝軍の戦鬼大隊の攻撃を受け、この気候を頼みに耐え忍んで抵抗を続けたものの、2週間ほど前に遂に首都スネッフェルスが陥落したらしい。連絡不通となっていたあの時点で、もう国は滅びていたのである。

ヌスフェラートの戦士ばかりから成るというその大隊の特徴はひたすら破壊攻撃で、1対1ではどの戦士にもとても太刀打ち出来なかったのだとか。

 騎士団として最後まで首都を守っていたソーマは、陥落の日にその左腕を失って雪原に取り残されていたのだ。放っておいても死ぬだろう、と敵は態々止めを刺したりせずに彼を打ち捨てておき、それを敗走中の市民に助けられてここまで運ばれて来たのだ。初歩的ながら治療呪文を使える子供がいたので、再三に渡る施術と薬草などによる手探りの介抱によって彼は一命を取り留め、今ではこうして回復し人々を率いているのだ。

 戦鬼大隊の将はストレートに残忍な破壊者で、首都の美しい建物も何の躊躇いもなしに崩壊させ、女子供、家畜に至るまで徹底的に殺戮し、今ではおそらく僅か5%ほどの人口しか残されていないのでは、と推測されていた。

 この洞窟に生き延びた者達は雪原に出て敵の前に姿を曝す事を恐れ、狩猟に出掛ける時以外は皆殆ど洞窟内に篭っており、もはや生き残りなどいないのだと敵に思わせようとしていた。老人や女子供の数が多く、戦える力を持つ者はここにはまるでいない。

 洞窟の中を一つの町のようにして同じ村の者や家族同士、知り合い同士で寄り集まって定位置を占めており、敷物の上に腰掛けて繕いものをしたり縄を編んだり、配られた無け無しの食料を丁寧に乾燥させたりして何かしらの仕事をしていた。

 こうして手を動かしていないと気が狂いそうになるのだと老婆が教えてくれた。子供に物語をして聞かせたり、必要のない刺繍をしたりでも何でも、とにかく何かをすることで気が紛れて時を送れるのだとか。

 かなり奥行きのある洞窟なので奥まで探検して水を求めたり、茸やコウモリを探して捕えたりと、少しでも食料調達をしようとかなりの高齢者までが参加しているらしい。薪拾いだけは外に出なければならないので、それは出来るだけ動きの速い者が短時間で済ませて来るか、なるべく狩りのグループがついでに調達してくるそうだ。洞窟の位置を知られてはならないので、その者達の任務はただ生き残ることより余程難しくて慎重にしなければならなかった。 

 火を絶やしては凍えてしまうし、食料がなくては飢えてしまう。ここに来てからの彼等の生活は、ひたすら集め、集め、隠れ、隠れ、耐えることばかりだった。

 戦士や術者の大半が大隊との戦いや民の敗走の手助けに散ってしまっていたので、本当に戦えそうな顔ぶれは少ない。ソニアの見る限りでは、ソーマの片腕のようにして付き従っているやや高齢の体格のいい引退戦士――――今では樵をしているのだとか――――が、唯一五体満足で使えそうなプロの戦力で、後は狩りに出ていたというメンバーの者達ぐらいしか、剣や槍を持たせられそうな人員はいなかった。

 確かに、このメンバーでは大胆な行動を起こすことは出来ないだろう。今はジッとして、生き延びる為の仕事をしているのが一番の得策であるようだ。

 とは言え、この大地はもうすぐ長い冬の盛りに入ってしまうそうで、渡り鳥は着々と移動を始めているし、冬眠する動物達も冬支度をして姿を消してしまうから、貴重なタンパク源は今の内に確保しておかなければならない。だから、こんな環境で最寒期を乗り切れるのかと、洞窟内の人々は不安に苛まれていた。

 亜熱帯の国であるトライアにはそんな季節がないものだから、彼らの身になって考えることは難しいと心得て、ソニアは思慮深く人々の生活を観察した。

 口にこそしないものの、こんな自分が生き残っても足手まといだと考えている様子の年配者が多いようだ。何でも若い者や子供たちに譲ってしまい、自らは受け取ろうとしない。「食べたくない」「欲しくない」と言って、食物はできるだけ未来のある者たちにやってしまおうとする。若者達は、そこを押して年配者に食事をしてもらおうと苦心していた。痛々しい光景だった。

 洞窟の入り口付近を通りかかった時、ソニアの脳裏にぼんやりとあるビジョンが浮かんできた。出入り口の監視をしている男に見つかった老人が、厳しくも優しく窘められているのだ。どうやら、足腰立たなくなって手間をかけさせるようになる前に、この洞窟から出て行って、雪原に身を任せて大地に還ろうとしたらしい。それで、皆の寝ている間にこっそりとこの場所を通ったのである。ソニアは目を閉じてグッと息を詰まらせ、深い同情が湧き上がるのと同時に、何かこの人々の為にできることはないかと心の底から考えた。

 冷たく湿っぽい岩肌に直接触れぬよう、暖かな絨毯や毛布をもっと沢山確保できればと思うが、そのような資材の調達にも命がけとなるらしい。また、馬がないから人の足だけで出掛けるようになる。自分一人がぶらりと出て行って成し遂げられるような環境ではないから、安易に実行はできそうになかった。それでも、戦士の特質を活かして何とか皆の役に立ちたいものだとソニアは思った。

 火を熾すだけなら自分の魔法でもできるのだが、燃焼を続けさせるにはやはり薪や油がもっと欲しい。遠征中に入用になる薪は、出先で兵士に調達させるものだが、ここには手足となって働く部下もいなかった。平時の感覚で思い浮かぶ発想がことごとく頭の中で却下されていくに従って、ソニアの気はますます重くなっていった。

 だが、きっと何か方法はあるだろう。それを信じようと、ソニアは顔を上げて気丈さを保った。

 長いこと洗濯のできない環境で薄汚れてしまっている皆の衣服。荒れた肌。冷えや体調の変化で黒ずんだり赤くなっている手足。誰もが寒気と戦い、不安と戦っている。だが、こんな北国だからこそ幸いしていることもあった。疫病が発生しにくいということだ。廃棄物は外に出すだけで勝手に凍ってしまうので、腐敗して病原菌が育つこともないのである。死体を放置しておくとすぐに虫が湧くような亜熱帯育ちのソニアには、驚きのことであった。

 それに、滅びの憂き目にあっても、この大地の人々は美しい目をしている。澄んだ淡い色が、まるで一つ一つの燈火のようだった。この炎が灯り続ける限り、この国は存続していると言えるのかもしれない。

 そうしてソニアは、洞窟の人々を観察しながら挨拶して回り、主に人々の話を聞いて現状を具に把握していった。

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