第3部10章『雪原の彼方に』1
実に久々の更新となります。
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訳も解らぬうちに自らの体が光に変わり、周りの景色も認められぬ程の豪速で振り回されて(彼女はそのように感じた)、激しい眩暈の中でもみくちゃにされて何処かに叩き付けられた時、ソニアはようやく自分がどうにか止まったのだと悟った。
何が起きたのかまだ解らず、自らの体がフワリと漂い、まるで四方八方から無数の針で刺されているかのような強烈な刺激と痛みを感じ、更に意識は混乱した。
顔の前にボコボコと泡が立ち、揺らめきながら下方に落ちていく。
そこは水の中だった。
そして、下方だと思っていた方向が実は上で、気泡はそちらに向かって上昇していたのだ。ようやく流星魔術薬の可能性を思い出したソニアは、この水の中に落ちて来た時の衝撃で、全身がこんなにも痺れているのだろうかと思った。
今は上方と解った方向に白く輝く天井が見える。その柔らかな光を朦朧と見つめながら、彼女の気は遠退いていった。
だが、まだ、ここから脱さねばならないという気持ちはあった。
ソニアは口からゴボゴボと泡を吹きながら必死で手を動かすが、思うようにいかず、鎧を外すことが出来なかった。激しい戦闘に備えてしっかり体に装着し固定されているので、陸上でも脱着には時間がかかるのだ。短刀を抜いて繋ぎ目の堅い紐を切ろうとするが、それも巧くいかず、鎧の重みでどんどん体が沈んでいく。水中の光量が落ちていき、薄暗い世界に辿り着いて、ようやく水底に背がついた。
透明度の高い水だが、その割には養分があるのか、水草も魚も豊富に揺れ、泳ぎ回っている。
あの天井まで、どれくらいの距離があるのかは解らない。
ソニアは力を振り絞って水底で立ち上がり、鎧のパーツを外そうとした。
が、指も腕も言うことを聞かず、ただパーツの表面を擦るばかりで徒労に終わった。トライアスに祈るが、事態は改善せず、苦しさが増し、気が遠退いていくばかりだった。
体の力が抜けて大きく息を漏らし、またユラリと水中に漂い、ソニアは水底に静かに倒れ込んだ。自覚のない内に瞼が塞がっていき、視界が狭くなっていくように感じる。最後に見えたのは、そこにのんびりと優雅に滑って来た、人の大きさの魚だった。銀色の鱗と青い目を綺麗だと感じたきり、彼女は気を失って瞳を閉じてしまった
北方大陸スカンディヤのとある湖に、狩猟の為に5人の人間が訪れていた。皇帝軍の襲撃以来この湖に近い洞窟を住処としている彼等は、腹を空かせて待っている大勢の仲間達の食料を調達する役目を負っていた。水鳥の天国であるこの湖には、湖面凍結する期間を除いて世界各地から渡り鳥が集まるので、狩猟場として格好の場所だった。ここがあったから洞窟に住む彼等が生き延びてきたとも言える。
男や、動ける体力の残っている若い娘が合わせて5人、弓を持って湖岸をゆっくりと進み、適当な獲物を探して目を光らせた。
湧水が循環するこの湖は、他の湖より湖面凍結が遅いお蔭で今も狩りができるのだが、じきに凍結を迎えようとしている。もうすぐ南へ渡るチリマダラは今や子供もすっかり大きく成長し、親は子育てで痩せた体を大分回復させていた。どちらも渡りに十分な力を蓄えている。子育てから離れている老齢の鳥が狙い目だ。決して、若鳥を殺してはならない。
集団の狩りは、一度群れが警戒して遠ざかってしまうと面倒なので、一気に全員が仕留めなければ効率が悪かった。だから木陰から5人がそれぞれに弓を引き、狙いを定め、狩りのリーダーである年長者の射的を合図に皆も一斉に矢を放つ。
若い者も、矢を無駄に出来ない必死さで腕を上げていったので、今は命中率も上がって見事に4人の矢が当たった。一人の矢は僅かに鳥の背を掠めただけで水中に没してしまった。大騒ぎして飛び立つチリマダラは浮塵子の様に群がって対岸の方へと逃げて行ってしまった。
4人は獲物を回収し、一人は仕損じた矢を捜した。矢は貴重なので、外した場合に回収し易くする為、湖岸近くの鳥ばかりを狙っているので、岩場を少し行っただけで矢柄が水上に出ているのを見つけることが出来た。
まだ凍結していない湖は魚も豊富なので、定置網も仕掛けてある。それも引き上げれば今日の収穫としては最低ラインを超えたことになるだろう。
一人仕損じた若者は、矢を手に溜め息をついた。不甲斐なさと現状に、もうウンザリさせられているのだ。同じ年頃の若い娘である幼馴染みが、そんな彼の下に寄って行って背を叩いた。
「命中率7割で、私の方が越しちゃったわよ」
「……うるさい。すぐに追いついてやるさ」
強がってはみるものの、やはり彼はもう一度溜め息をついた。大人や、リーダーの前では言えないような事も彼女には言えて、つい彼は零した
「……いつまでこんな生活を続けりゃいいんだろうな」
「……そんなこと言わないで、生き延びただけでも運がいいんだもの」
「わかってるけど……でも……もう幾日になるのさ、みんな弱っていくばかりだし……」
娘は彼の胸倉を掴んでグイグイ揺すった。彼女を見ていると、勝ち気さが生き残る秘訣のように思えてくる。
「ダメだよ! そんなに弱気じゃ! ソーマの話じゃ、『ホルプ・センダー』っていう義勇軍が戦ってるらしいじゃない! 今は耐えなきゃ! そのうち機会は来るよ!」
「……機会か……みんな死んじまったってのに……どんな機会が……」
娘はズイッと顔を近づけ、鼻と鼻をくっつける程にして彼を睨んだ。こんなに近づいて見れば、彼女にも決して恐れがない訳ではなく、瞳が泣き出しそうに歪んでいるのに気づいた。双方この戦いで家族を失っている。
「……ごめん、……悪かった。わかってるよ」
「……がんばろうね」
「……ああ」
気が滅入りそうになる度に、こうして人々は励まし合ってどうにか日々を送り、凌いでいた。
5人はもう少しだけ鳥を獲り、定置網を引き上げて魚を籠に入れ、また網を仕掛けた。橇に籠を載せ、洞窟へ帰ろうとする。
――――――その時、
空から一筋の光が湖目掛けて落ちてきて、大きな水柱を立て、飛沫を一杯に散らした。大砲でも放たれたのかと思い、5人は一時パニックとなる。水鳥達も大騒ぎで、何千という群れが一斉に飛び立ち、ギャアギャアと喚き警戒をした。
5人は最も手近な木立に逃げ込んで体を伏せ、木陰から様子を窺うが、第2弾はやって来ない。だが、出て行く気にはなれなかった。鳥は殆ど遠くに飛んで行ってしまい、まだ騒ぎ声が響いている。皆、対岸の方に逃げてしまったようだ。何が落ちて来てのかは知らないが、水面にはまだ大きく波が立ち、泡と波紋が広がっていた。
「……な……何なんだ……?」
皆、首を出してその波紋を見つめ、そして空を窺う。5人を狙って何処かから敵が見ているのかもしれない。
「どうしよう……あたしら、見つかっちゃったのかな……」
国が陥落して以来、敵の姿が消えていただけに少し緊張を解いていたのだが、再び悪夢が甦って一同は恐怖した。食料を届けなければならないが、洞窟の場所を教えてしまう訳にはいかない。事態が判明するまで、ここからノコノコと帰ることはできなくなった。
ドクドク高鳴る胸の鼓動と寒風の囁きと水鳥達の喚きに耳をすませて、5人は長いことそうしてただジッと次の変化を待った。橇だけが湖岸の側に取り残されて姿を晒している。
恐ろしい衝撃や、見たくない敵の姿を想像して覚悟を固めている内に、再び水面が揺らめいた。
ザバ…………ァ…………ン
何かが水から上がって来る。5人は身を低くして姿を隠し、それを見た。大きな大きな魚が、何者かを頭に載せるようにして岸まで押し上げ、運んで来た。
「あれは……湖の主じゃないか……! 何故主が……」
どうやら襲撃とは様子が違うことに気づいた5人は徐々に立ち上がった。
「ねぇ……あれ……人だよ……! 人が落ちて来たんだ……!」
人が岸に引っ掛かると、魚は身を翻してまた湖の底へと戻って行ってしまった。
5人は息を飲んだ。
「……ど……どうする……?」
「……主が守った人間なら……悪い者ではないはずだ、助けよう」
「ああ、そうだな」
湖岸に上体を打ち上げられ、下半身はまだ湖水に浸かって波に揺れている人間の下に5人は近づいて行った。
「兵隊さんみたいだ……! でも、見たことがない鎧だよ……!」
一応、まだ天から降ってくる物がないか、それとも敵が見ていないかに警戒してキョロキョロと辺りを窺いつつ、一人が恐る恐る打ち上げられている人に触れてみた。反応がないので揺すってみると、死人のようにグッタリとして意識がない。このままなら溺死者と思ったかもしれないが、湖の主がここへ運んで来たという事実が、無条件でこの人物はまだ生きているに違いないと彼等に思わせ、助けなければという義務感を生じさせた。
ビクビクしていた彼等も、この人物が急に斬りかかって来る訳でもないただの意識不明者と本当に判ると、思い切ってうつ伏せの身体を反転させてみた。そして、その顔が露になると皆、溜め息の内に恐怖が薄れてしまった
「……な……何て美しい人なんだろう……」
「……ああ、……一体何処から来たんだ……?」
全身ずぶ濡れのその人は珍しい色の髪をしており、長い髪は地に流れるように波打って、体中にも銀細工の如く纏わり付き踊っている。肌は低温の為に蒼白く血の気がなくて、冬の花のようであった。修繕の痕の多い白銀の鎧は、その色にとてもよく合っている。所々に施されている暗緑色の何かの鱗は、この人物がただならぬ地位にいる者であることを感じさせた。
「……お、おい……! 女だぜ……!この人」
「女の兵隊さんか……!」
「どおりで綺麗なワケだぜ。……でも、こんな人は見たことがない……」
娘もその人に見とれており、茫然と立ち尽くしていた。この地方には金髪、銀髪が多く、彼等の内3人も色の薄い金髪をしているが、この人はその色に青や紫をほんのり足したような淡い髪色をしていた。
つい動きが遅れてしまったが、やがて彼等は、この人が生きているのかどうか、呼吸や脈拍を調べ、どうにか息があるのを確かめると、その場ですぐに金属性の鎧を脱がせ始めた。こんな物を身に着けていたらますます凍えてしまうからだ。年長者が腰からナイフを抜き出して繋ぎ目を断ち切り、肩や胸のパーツを手早く外していった。そうでもしなければ外せそうにない位、しっかりと装着されていた。
腕や足のパーツも外すと、その人は見るからに寒そうな半袖、膝丈のチューニック姿となった。明らかにこの大陸の装束ではない。
「これは……きっと南の方の人だね。こんな所にどうやって来たんだろう……?」
彼等は橇に積んでいた布や自らの衣服を少しずつ提供してその人をきっちりと包んでやり、獲物と一緒に橇に乗せてロープで縛ってやった。とにかく、この女性を彼等の住処である洞窟に運んで行き、暖を取らせなければならない。
一人が知らせに向かい、後の4人一同で橇を牽いたリ押したりして、一刻も早く到着する為に急いだ。途中からは娘も橇に乗り、自分の肌で温めながらその人が死んでしまわぬよう願った。見も知らぬ人だが、こんなに美しいものを死なせることそれ自体が重大な損失のように思われた。残る3人が急げる限り急いで橇を引き、雪の道を滑って行った。