第4部31章『堕天使』42
バワーム王国の研究農園では、早朝からゲオルグが立ち働いていた。今日は城から出て郊外の国有農園に出掛ける予定なのだ。既に馬車には研究農園で採取した植物の苗が沢山詰められている。荷を沢山積むことと、直射日光に当てないことを優先して幌馬車だ。彼は書類と薬品とを全て鞄に入れて研究農園を出ると、城門前に待機している馬車の所にまで向かった。研究員全員も作業助手として馬車に乗り込んでいる。
ゲオルグが到着して馬車に乗り込むと、2台の馬車が動き始めた。2台それぞれで別ルートを辿りながら周辺農園を廻り、新しい苗を配ることになる。国の研究機関から実験的にこのように配布される野菜は無償であるし、いつも生育が良く出来がいいから、各農村では新作が届けられるのを楽しみにしていた。
「では、頼んだぞ」
ゲオルグに言われて、もう1台の馬車に乗る研究員達が頷き承諾を示すと、2台の馬車は北と南とに分かれて進んでいった。ゲオルグの乗る馬車は南を目指す。
彼の予定では、午前の内に必要な所は全て回り終えて、午後に入ってから遂に計画を実行するつもりだった。それを起動させれば、瞬く間に効果が表れるだろう。そして後はその変化をこの目で見て記録していくのだ。
それが終わったら孤島の宮殿に戻り、身を隠すのに必要な支度を整えたら、すぐに姿を消すのだ。魔法や追跡魔具等で探し出せない防御陣を張って、そこでほとぼりが冷めるまでは暮らすことになる。勿論その間も、トライアのソニアに皇帝軍の手が伸びないか監視させて見守りながら。だから今日は忙しい。
馬車の中でゲオルグはふと、マリーツァのことを思った。彼女は今頃、自分が命じた通りに流星術者と共に外国に出掛けて、手に入るわけがない品を探そうとしているだろうか。
今日これから起きる事に、どうしてか彼女だけは巻き込みたくないという思いがあって、彼は昨晩わざわざ彼女の所に行ったのである。この感情が何なのか、彼はあまり分析したくはなかったので放っておいたのだが、彼女に同情していることだけは確かなようだった。
どうしても品物が見つからずに帰ってくる頃には全て終わっているだろう。その時、自分はもうこの国にはおらず、彼女は二度と自分に会うことはない。そうすると、また泣くのだろうか。その事を考えると、彼の胸がチクリと痛んだ。
普段はあんなに気丈で勝ち気で遠慮のないあの娘が、昨晩、彼女の部屋を訪れた時のように、夜になると1人の寂しさに、また、これからもずっと泣き続けるのだろうか。とても哀れだとは思うが、自分にはどうしてやることもできなかった。
彼女が“お兄様”と自分のことを呼びかける姿が思い浮かぶ。彼はそれを務めて振り払おうとした。
馬車は順調に村々を巡り、これは有難いと歓迎されて、品種改良後の苗が手渡されていった。今回配っているのは、2種類の根菜と葉野菜だ。どれも日常的に国民が食す種類なので、農家の人達は早速植えてみると言い、畑に出て行った。
このエランドリース周辺の地域は首都を出るとすぐに田園風景になり、そこら中が農園だらけだ。だから、それほど足を伸ばさずとも、馬車で散歩を軽くする感覚で廻っているだけで、どんどん苗が捌けていく。天気も良く、ここの所は雨がなかったので道もぬかるんでいないから、馬車の運びも速くて、正午に至るよりも前に全ての苗がめでたく配布完了となり、幌馬車の荷台は空になったのだった。
ゲオルグはそこで馬車から降り、自分は各農地を視察すると言って研究員達だけを先に城へ帰らせた。早く実行できるのなら、その方がいい。
そうして1人になり、間もなくのことだった。ふいに木立の方から声がかかった。
「お兄様」
ギョッとしてゲオルグは思わず仰け反り、声のした方を見た。するとそこには何故かマリーツァがいる。籠を手にして、道にスタスタと出て来ると、彼に寄った。
「お前……何故ここにいる?」
マリーツァはいつもの営業スマイルではなく、不安そうな顔で彼を見上げていた。
「頼まれていた物、手に入れて来たわ。だから帰って来たの。城に行ったら出掛けてるっていうから、場所を訊いてここまで追いかけてきたのよ」
ハイ、と言って渡す籠の中には、確かに彼が注文した金鼠の毛皮が入っていた。
金鼠というのは、ターネラス大陸にしか棲息しない希少種である森鼠の中の、更に珍しい白子のことだ。薬液を作るのに必要な成分という名目にしていたが、単に入手し難いものを選んだだけである。それなのに、マリーツァが易々とそれを仕入れて、こんなに早く戻って来たものだから、彼は完全に呆気に取られていた。
いくら美女パワーを利用したって、この品まで簡単には手に入らないだろう。しかも、追いかけたと言ったって、こんなに早く外出者を外で見つけられるものだろうか? 何しろ、予定より早く回れているのだ。自分がいる座標を正確に知ってでもいなければ、タイミングよく外で見つけるなんて偶然にも程がある。
この娘は何かおかしい。ゲオルグはそう思った。