第2部第9章『刺客』その4
明朝、110隊、111隊、112隊に流星呪文術者10名の他、更に魔術師10名を加えた迎撃部隊はトライアを出発した。
今回は出発早々、最初の国道の分岐点で3隊それぞれに分かれての行軍となる分散型だ。途中、各地域の兵団と合流しながら網の目を広げて、規模を大きくしていくのである。合流と分岐を重ねて最終的には29チームになり、広範囲をVの字型に陣取って敵を待つことになる。
ソニアとアーサーは、国王の命令通り国都に最も近いV字の頂点を担当するので、他部隊よりゆっくりと進行していった。110隊メンバーもなるべく国都から離さぬよう、頂点に近いポイントに配する予定だ。分岐点まで、ソニア等は110隊メンバーと行動を共にした。
テクト城への遠征に比べれば、道程は短い。町々で物資の補給も出来るので、荷物は最小限に抑えて機動性を高めた。マーギュリスの読み通りならば、ほんの数日で事が起こり、すぐに決着がつく戦いとなるだろう。
アーサーは彼女と行動を共に出来ればそれで十分のようで、指示や統率の一切はソニアに任せて、自分は四六時中彼女から目を離さず守ることの方に集中した。マーギュリスの第2の予見は知らせていないものの、そんな彼の様子から、何かがあるらしいことを隊員は察した。
気候条件は良く、森は溢れんばかりの陽射しに輝いて、予見の不安を打ち消すほどに美しい。ややもすると和みかねないその空気の中で、彼等に緊張を保たせていたのが、ソニアとアーサーのただならぬ警戒ぶりだった。
各チームの持ち場を再三確認するだけで、後は概ね黙々と馬を進め、道々の村では、昨晩から今朝にかけて伝令を受けて準備済みで待っていた駐在兵を駆り出し、数を増やしては、大きな道の分岐点で110隊の数名に率いさせて分かれていった。
国軍と行動を同じくすることが滅多にない地方兵は、エリート達との連帯行動に大いに興奮し、張り切って胸を反らしている。
問題なく行動出来たので、日が落ちかけた夕刻には、早くも頂点に近い村に到着して、そこで最後の兵の徴収を済ませた。
通常の遠征では来ることのない村なので、噂の若き国軍隊長と近衛兵隊長を初めて目にする者が多く、住民は目を爛々とさせて水を勧めたりし、用向きが知らされていても、住民達のやることはどこかのんびりとしていた。
この村を最後に部隊も最終分岐し、ソニアとアーサーの他、110隊の2人と村の兵5人に、魔術師1人の計10名で1部隊となって、頂点となる地点を目指した。
敵の姿を逸早く発見するのに最も適した場所を、地元兵士のアドバイスによって見つけ、落日直前に小高い丘の上に辿り着き、一行はそこに陣取って野営地を築いた。
敵が何時やって来るのかわからないので、通常の野営警備より多い半数が見張りに立ち、もう半数が休んだ。3刻毎に交替を繰り返して警戒に当たる予定だ。
「アーサー、寝ないの?」
見張り番のソニアは、傍らの木に寄り掛かって座りながら不寝番をしているアーサーの姿を見つけた。彼女に気づいたアーサーは口元で笑み、すぐにまた警戒する鋭い顔に戻って、闇の向こうに目を凝らした。
「まさか……一晩中起きているつもり?」
「……3日くらい、どうってことはない。オレの体力は、お前もよく知っているだろう?」
ソニアは呆れて頭を振りながら隣に立った。
「無茶しないでよ。……あなたは大切な戦力なんだから」
「……長期戦にならないという予見を信じているんだ。事が済むまで、休むつもりはない」
彼が、自分の見ていない間に事が起きてしまうのを恐れているのだということは、ソニアにもよく解った。
「でも……本当に無茶しないで。……私に何かあっても、身代わりになろうとか、そんなこと考えちゃダメだよ」
彼はただ頷き、しかし、決心を少しも揺るがさぬ様子で暗黒を睨んでいる。説得は聞かないだろうと見たソニアは、仕方なくまた巡回に戻った。
途中で何度か寄ってみると、その都度場所を変えつつも、やはり彼はいて、抜かりのない警戒を四方に放っていた。
交代時間が近づき、野宿していた兵士達がのそのそと起き上がり出した頃、もう1度ソニアはアーサーの下に行った。彼女を見つけるが早いか、今度の彼はこう言った。
「早く寝ろよ。睡眠不足は美容の大敵だぞ」
「もう……あなたって人は……」
ソニアは本当に呆れ、しかし、こんな時に真顔のままでも冗談を言う彼のことを可笑しく思い、苦笑した。
「お言葉通り、私は寝るよ。でも、この次の休憩にはいい加減休みなさいよ」
彼は応えなかった。
「……おやすみ」
ソニアは一度だけ振り返り、彼の姿をどこか痛々しく眺め、それから闇の中に消えて行った。
暫くするとアーサーは、遥か彼方から響いて来るような、距離感の掴めない不思議な美声に気がついた。いつの間にか風が流れている。
「……ソニア……」
獣の声なのか、琴の音なのか判別できぬ透明な音だったが、この風の香りと清々しさで、彼はすぐに声の主が判ったのだった。
他の見張り兵もその音色に気づき、起きたばかりで若干ボンヤリとしている頭が醒め、しかしながら緊張はせず、穏やかな気分になって心地良く風を浴び、胸一杯に吸い込んだ。
「美しい……これは一体何なんだ……?」
初めて歌声を耳にした村の兵は、辺りを見回した。
「そう言えば……この前テクトに行く時も、途中で聴いたような……それと同じ気がする」
110隊の隊員がそう言った。皆、この風と歌声の中で恍惚と立ち尽くし、不思議に思いながらも、それをこれ以上追求する気が何故か起きず、ただ味わっていた。今、ここにあるものの美しさ、大切さを噛み締めてウットリと聴き入り、目を閉じる。
夜風の中の木々や獣達、水や花達、その全てが、ゆっくりと呼吸を落としていった。
彼女が歌っていたのは、安息の夢の歌なのである。
兵士達が、そのあまりの安らぎの中で夢と現の区別を失いかけた頃、ふいに歌が止んで風も治まっていった。余韻でフワフワとしていた彼等もハッと我に返り、見張りらしく背を正して、辺りを窺った。
「……終わったのか? 今のは」
「……そ……そうだ……!」
110隊の一人が慌てて何処かに行ったので、彼等の様子が見えていたアーサーは気になって後に続いた。
隊員は、眠る仲間達の姿を見るとガクリと肩を落とした。
「……何だ、違ったのか」
「どうした? 何なんだ?」
追いついたアーサーがそう尋ねた。隊員は、テクトの遠征以来、歌声の主がソニアなのではないかと言う説が隊の中で生まれたのを語り、それを確かめに来たのだと説明した。だが、どうやら違ったようだと残念そうにする。そこで、もうソニアは寝ていたのである。
アーサーはホッとして「まさか」と誤魔化し、隊員と共に再び持ち場に戻って行ったのだった。
結局、ソニアの再三の勧めや脅しにもかかわらず、アーサーは朝まで見張りを続けた。「あなたが寝なきゃ、私も起きてる」と彼女が言っても、彼は観念せず、最後の見張りは2人共が起き続けていた。
昨晩の歌からずっと、森の空気は清らかさを保っており、兵士達もあまり疲労を感じないことを不思議に思っている。
紫の朝霧が薄桃色の朝焼けに染まっていき、太陽が昇ると、ほぼ水平の日差しが森の中で幾筋も伸び、琴の弦の様に揺れ蠢いてサラサラと葉音を奏でた。
既に全員が起床し、北の方角に目を向けて警戒している。軍の最高責任者が2人も側にいるので、村の兵は伸びも満足に出来ない様子だったが、アーサーが思いっきり背伸びをして顔をパンパンと叩くと、ようやく自分達もそれに続いた。
こんなに平和で穏やかな朝を迎えると、本当に敵がやって来るのか疑いたくなる程だったが、待ち続けるしかなかった。きっと、他の28箇所でも同じような朝を送っていることだろう。
立って警戒を続けながら、携帯用の固いパンや乾し肉、乾し果物を齧って兵士らしい朝食を摂っていると、その内にワイワイと声が聞こえてきて、村の住民が5人ほどでやって来た。
「いやぁー! ご苦労様でございます!」
5人はそれぞれにバスケットを抱えていたり、背負い篭をしていたりして、ここまで荷物を運んで来たのだ。その中には、焼き上がったばかりの香ばしいパンや瑞々しい果物が入っていた。随分念入りに磨いたようで、果物は驚くほどにピカピカとしている。
村人があまりに呑気で騒々しいものだから、村の兵士が慌てて抑えに行ったが、「わかった、わかった」と言っても、朝から元気な村人の声は全く小さくならなかった。村の兵士は気を遣ってソニア等の顔色をチラチラと窺っていたが、苦笑ではあってもソニアは確かに笑っていたので、彼等をホッとさせた。
村人の方は、ソニアが側にやって来て笑っただけでトロンと見とれてしまい、急に静かになった。
「ありがとう、嬉しいよ」
村人達は頬を染めてヘラヘラ笑いながら恐縮し、離れた持ち場にいる他の者にも届ける為に、そこを立ち去った。
ソニアに近い持ち場を選んで誰にも譲らないアーサーがやって来て言った。
「3度3度、来かねないノリだぞ、あれは」
「ハハッ。まぁ、ありがたいことだけど」
パンが温かい内に有り難く頂戴して、果物も平らげた頃、やがて配り終えた村人達がまた戻って来て、わざわざソニア等の顔を見納めて手を振りながら帰って行った。可笑しくて、ソニアはまた笑った。
そうして、太陽が中天に来るまでの午前は穏やかに過ぎていった。他28箇所も、もう3分の2は配置につき終えただろう。最も遠いV字の両端は国境に近いので、そこまで行くには馬でもまだかかるはずだ。
そんな事を考えているうちに、ふと、そろそろまたあの村人達がやって来るのではとソニアとアーサーの両方共が思い、アーサーが身振りでそのことを伝えようと彼女を見ると、彼女の方は一度彼に目を向けたのだが、その後、何やら北の方を向いて、それきりピクリとも動かなくなってしまった。
付き合いが長く、勘もいいアーサーは、同方向に警戒を向けながら彼女に寄って行った。
「……どうした? ソニア」
近づいてみると、彼女は相当遠くの方に目を凝らしている。森を見ているのか、空を見ているのか解らないほどだった。2人の様子が見える位置にいる110隊員も、何かがあったらしいことに気づいた。
「……何か来るみたい。嫌な感じがする。……それも、かなりの速さよ」
「?! ……飛んでるのか?!」
「……もう少しで見えてくると思う。……確かに、こんな速さで飛べる魔物はこの大陸にはいない。マーギュリスが言っていたのは、このことなのかも」
アーサーは即座に号令を発して、兵士達に警戒を促した。
「――――――空から来るぞ!! 備えろ!!」
飛行する魔物相手では、高速移動する限り、彼女の生み出す風を浴びせて大人しくさせる時間は殆ど無いと言っていい。未知なる魔物の恐怖に胸震わせつつ、兵士達は息を飲んで空を睨み、ソニアは早くも剣を抜いた。
「――――――絶対に通過させてはならない!! 術者も弓士も天を狙って構えろ!!」
ソニアの勇ましい号令と共に、彼等は威勢のいい声を上げて剣を抜き、杖を構え、弓ある者は弓を引いた。
アーサーは苦々しくも武者らしい笑みを口元に浮かべて、吐き捨てるように言った。
「何で、よりによって――――――ここなんだ?!」
緊張と沈黙の中、まだ鳥の囀りは木々をこだましている。
鳥影かと思える3つの何かが樹冠スレスレを飛んでいるのを目撃した110隊員が叫んだ。
「――――――あれだ!」
「来た!」
その飛び方が、森を行き来する餌探しの鳥とは明らかに異なる直線的なものであることを認めた兵士達は膝を落とし、術者の杖先には早くも閃光の種が生じて輝きを放った。
しかし、驚いたことに、未知なるその侵入者達はこちらが攻撃を仕掛ける前に動きを変え、手前で急に減速すると、旋回しながら隊のど真ん中に降りて来た。
何故、待ち伏せを見抜いたのかは解らないが、兵士も術者も一斉に攻撃を仕掛けて、舞い降りて来る何かに矢や閃光の弾丸を浴びせた。奇妙で歪な動きをするその何かに、矢も弾丸も思うように命中せず、ガチャリという金属的な音を立てて、それは着地した。
敵の珍妙な姿を目にした一同は暫く言葉が出ず、攻撃も仕掛けられなかった。虫のような、でも虫ではないような、甲殻系魔獣らしき硬い殻に覆われ、あらゆる隙間から触手やら節のある足やらを出して蠢いている、蛸と団子虫を合わせたような生き物がカタカタと音を発している。
甲殻の鎧を持って空を飛ぶのに、それが虫に見えなかったのは、体から伸びる翼が虫類の薄羽根ではなく、コウモリ類の肉質の翼だったからだ。着地した今はそれを閉じ、殻の中に折り畳んでしまい込んでしまった。
これまで色んなものを見てきたソニアだったが、こんなものは初めて見た。
「……何だ?! こりゃ……」
「わ……解らない。見たことも聞いたこともないヤツだ」
あろうことか――――――その化物は3体とも、真っ直ぐにソニアを見定めた。
背筋に悪寒が走ったソニアは、その場からヒラリと離れて仲間の誰からも遠ざかり、単身になってみた。やはり化物は皆、彼女を目で追った。単に、この集団の将を見抜いて狙いをかけているのか? それとも――――――
ソニアは気味の悪さを感じながら動き回り、敵がやはり自分を標的にしているのだということを確かめた。
アーサーの顔色がみるみる変わっていった。
「――――――応援を呼べ!! 早く!!」
彼の檄で、最も近いポイントの部隊に急行要請をするべく魔術師が飛び立った。110隊員は、戦闘発生地点を知らせる為に各グループが持っている発煙筒を打ち上げて、上空に狼煙を上げた。各地点から、この煙を目印に応援が駆け付けてくる手筈だ。
そうしている間にも、化物達によるソニア追跡は激しくなり、細い木々は薙ぎ倒して、土には鋭い節足を突き立て、毒液をかけたり酸性の強い霧を発したりした。立ち塞がって足止めしようにも、その酸が激しくて誰も近づけず、苦戦した。
走りながらアーサーが叫ぶ。
「まさか……お前を狙ってやって来たのか?! こいつらは!!」
ソニアは一度敵の真正面に着地すると、思いきり『アイアスの刃』をぶつけた。このところ、これまで以上に技のキレがある刃は、先頭にいた一匹の頭部に命中し、甲羅ごと見事に砕けて、その下の軟体質部分まで傷つけ、体液を撒き散らした。
衝撃でひっくり返った化物に足止めされて、後続の2匹は木々を乱暴に押し退けた。
「――――――判らない! でも、おかしくはない! テクトのことで目をつけられてるのかも!」
ソニアは、続く2匹にも刃の威力をお見舞いして吹き飛ばした。一体一体が大蠍に近い巨大さなので、倒れ込む震動音はズシリと足に響く。毒液と酸の霧と体液とで、辺りには嫌な臭いが立ち込めて鼻をついた。
「《こちらの出方次第で戦場が変わる》とマーギュリスが言う訳だ……! お前を狙ってんなら、お前がいる場所で戦闘が起きるんだから!」
アーサーと110隊員、駆け付けた村の兵士達は倒れた化物の触手や足を断ち切り、胴体にも剣を突き刺して止めを刺さそうとした。
しかし、彼等がほんの2、3本手足を斬っただけで化物は起き上がり、再び体勢を立て直した。驚き退く隊員とソニアが見てみれば、化物の体からは黄色い泡が立ち、傷が元に戻りかけていた。
「回復……している……?!」
砕けた殻まですぐに戻りはしないが、その下の軟体質の体に走る斜めの傷は細く小さくなり、塞がっていった。
立ち上がった化物は触手を伸ばして、手当たり次第に邪魔な兵士を引っ掴み放り投げて、木に叩きつけたり鋭い足で突き刺したりした。
足を刺されて動けない兵士の腹に節足を突き刺そうとする化物の動きを見て、ソニアは素早く第4波を放ち、足ごと叩き切って兵士を助けた。
「――――――危険だ! 不用意に近づくな! 距離を保って攻撃する方法を!」
傷ついた兵士が自力で化物の足の残骸から抜け出し、離れたのを見極めると、ソニアは風を起こして化物だけに向かう一直線の豪風にし、そこに氷炎を乗せた。
「――――――ザナ!」
豪風の中で氷炎は極北の猛吹雪に変わり、化物3体を飲み込んで、その後ろの森までをも一直線に白く凍りつかせてしまった。ベキベキ、ミシミシという凍結音が高らかに響き、一瞬で一帯の温度を10数度も下げてしまった。吐く息までが白くなった。
後には、森に一筋の白い世界が残された。そこにだけ極北の道が出来ている。この中に人がいたら一溜まりもなかっただろう。
「――――――今だ! 凍っている内に砕いてしまって! 再生できないくらいに!」
一度離れていた兵士等はすぐに近づいて、手近な所から剣で叩き割り始めた。凍結した胴体には歯が立たないが、触手や足は衝撃に脆く、崩れて粉々になった。解凍され始めた時の再生力が解らないので恐ろしかったが、今はやれる事をやるしかない。
胴体には手がつけられず、砕ける限りの手足を皆が砕いていると、今度は別な所でガチャリという音がした。気がつき見れば、新たに5体の蛸虫化物が降りて来ている。
「――――――まだいるのかよ!!」
少しずつ戦い慣れてきた兵士達は、飛び退いて新参部隊との距離を開けた。揃いも揃って、化物達はソニアを真っ先に狙い、襲いかかって来る。
同時に5体と戦うのはあまりに不利なので、ソニアは先程のように効率良く魔法がかけられそうな位置関係になるまで逃げ続け、その後を追うアーサーが、酸や毒の危険を顧みずに敵に飛び込んで行った。
ちょうどその頃、知らせを受けた各ポジションの兵士達が術者の流星呪文で次々と駆け付けて来た。敵がこの部隊だけとは限らないので、元の地点にも人員が残らなければならない為、各地点から3、4人ずつが星となって到着し、人の姿に変わるが早いか、抜き身の剣を振り翳して向かって行った。遠い地点の兵士程知らせが届くのが遅いので、段階的に兵は増えていった。
術者は情報のパイプ役として飛び回る方に専念し、流星呪文が使えない魔術師だけが戦闘に加わり、火炎や氷炎を浴びせた。
兵士の数が多くなり、術者の魔法にも行く手を遮られるようになると、化物はソニアの追跡が困難になって、一体一体が離れてしまうようになり、隙を見てはソニアが近づき、至近距離から剣圧を叩きつけて真っ二つにしてやった。
これだけ切り裂けば再生しないだろうという深さだったが、また黄色い泡が立ち始め、組織同士が寄り合おうと近づきかける。
「――――――戻る前に引き離せ!!」
ソニアの命で兵士達が傷口を更に斬りつけ、甲羅を掴んで引き剥がしにかかり、力ずくで体を2つに裂いて離れさせた。自立できなければ、これだけ離れては寄り合うことは出来まいという所にまで体を運んでしまうと、化物は奇怪な叫びを上げた。死が解るのだろうか。
すると化物の体から、これまでとは違った毒液が吐き出されて四方に飛び散り、取り囲んでいた兵士達に振りかかった。
「うわあああっ!!」
強烈な酸で鎧ごと足を融かされてしまう者あり、猛毒であっという間に顔をどす黒くしてバッタリ倒れてしまう者ありと、種々の症状で兵士がのた打ち回り、凄惨な場となった。その内の一人は「あっ」と言ったきりその場から一瞬の閃光で姿を消してしまって、行方不明となった。
ソニアは慌てて負傷兵を引きずり遠ざかって、その場で治療を施した。
「これは一体何なんだ?!」
「解らない!! この化物の体の中に、色んな毒が仕込まれているみたいだ!!」
「くそぉ……!! 死ぬ前に、やれるだけやろうというワケか!!」
ソニアが、負傷者の手当てと、化物の体から吐き出される毒に気を取られている内に、化物の一体が彼女に辿り着いて高く飛び上がり、真上から圧し掛かった。その動きの機敏なことと言ったら、蛸と言うより猿のようだ。
「――――――ソニア!!」
ソニアは触手で手足を縛られて取り付かれた。長剣と腰の短剣で触手を斬りまくって逃げようともがくが、化物はあらん限りの触手で彼女を拘束し続けた。兵士等もアーサーも、毒のことなど考えず彼女の救出の為に触手斬りに加わり、化物の胴体にも攻撃を加えた。
取り付いてすぐ毒液を吐き掛けられるのかと思ったソニアだったが、何故か化物はそうせず、節のある足をしっかりと土に突き刺して檻の様に固定し、彼女を逃さぬ態勢を作ってから、ジッと動かなくなってしまった。
何やら不気味な音が、ブウ――――――ンとし始める。
嫌な予感が高まってソニアは必死で触手を斬り続け、どうにか動けるようになり、兵士の手も借りながら慌てて節足の隙間から脱出した。
化物の体が妙な発光を始め、甲羅の隙間から光が漏れてくる。
「――――――伏せて!! 伏せて――――――っ!!」
ソニアの叫びで、とにかく兵士達は身を地に投げ出て頭を抱えた。
その直後、化物の体は全身爆弾となったかの如く炸裂し、盛大な爆音が轟き、地鳴りが遠くにまで渡っていった。
伏せ遅れた者、距離があって指示が聞こえなかった者が吹き飛ばされて、木や地に叩きつけられ転がった。化物の残骸がバラバラと落ちてきて、伏せる兵士の体に当たり、彼等を恐怖させた。
落ち着いた頃に頭を上げて見てみると、そこには大きな穴が穿たれて、土ごと抉れていた。あのまま拘束されていたら、死んだろう。
ソニアもアーサーも兵士等もゾッとして、油汗が吹き出てきた。
何と恐ろしいことだろう! この化物達は、彼女の抹殺の為だけに送られてきた、死をも顧みない生ける兵器なのだ! それがまだ数体もいる!
「――――――逃げろソニア!! もうつかまっちゃダメだ!!」
アーサーの叫びにソニアは小さく頷き、走り出した。
これまでの経過から見る限り、魔法で凍りつかせて砕けるだけ砕くのが、一番被害の少ない有効な方法のようだった。ソニアは走りながら魔術師達に指示を出し、自分でも風を起こして援護しながら、その威力を高めた。
最初に猛吹雪で凍らせた化物3体が半解凍の状態の内に、ソニアは『アイアスの刃』を浴びせて瓦礫の山に変えた。全て解け切った時にどうなるかは解らないが、今のところ爆発はなかった。万一の為に兵士を瓦礫から遠ざけて、生き残っている化物3体に集中させ、ソニアはひたすら凍らせる役に徹した。
少しずつ術者の氷炎が効いてきて、化物の動きは鈍くなり、そうなると、すかさずソニアがそれ目掛けて更に猛吹雪の追撃をかけ、完全に凍結させた。動かなくなると兵士達は一斉に駆け寄り、力の限り叩き壊していく。
そうして、1体、2体とこなしていき、最後の3体目も凍りつき、手足を失った氷の塊になった。術者の破壊呪文とソニアの真空刃で、みるみる粉々にされていく。
全てが終わった時、激しい爆音や衝撃音が飛び交った後の不気味な静寂が辺りにジットリと広がっていき、鼻につく不快な臭気と無惨な森が後に残った。兵士達の乱れた呼吸音が、生き残ったことを一番実感させる響きとなって耳に届いた。
瓦礫となった化物達が動く気配はない。ソニア達は距離を開けて一時も目を離さず見守り、警戒を続けながら、ようやく落ち着いて言葉が交わせるようになった。
「……テ……テクト戦の……あの時の大隊からの差し金か……?」
「……一番可能性があるのは……確かにそこだけど……」
ソニアは複雑な思いで頭が混乱しかけていた。化物の奇妙さ恐ろしさに散々翻弄された後なので、そうなるのは容易かった。
ゲオルグは、《テクトでの敗戦を機に、他の大隊に遅れを取らぬよう成果を上げて挽回するべく、早速ペルガマやトライアを滅ぼしにかかるだろう》と言っていた。その通りなのだとしたら、この化物達を差し向けて来たのは、魔導大隊のトップである彼の父親に違いないのだ。
ゲオルグを慕う心があるだけに、その可能性自体が心苦しかったが、それだけではなかった。もし、彼が自分の兄だったとしたら……父親が、自分の娘を抹殺する為に、これらの刺客を寄越したことになるのだ。そんな事があってもいいものだろうか……?
それとも、アーサーの言う通り、あまりに外見の似ていない自分は、彼等とは何の関係もないのだろうか?
「行方が分からなくなった者がいます! 何処へ行ったのでしょうか……?」
「一瞬で消えたところを見ました。あれは一体何なのですか?」
魔術師も、兵士としては人より知識のあるソニアも頭を悩ませた。
「……敵は、魔法にも魔術にも長けている。何かの魔術薬と同じ成分なのかも……」
「……私も、流星魔術薬を使った時の消え方に似ていると思ったのです。もしや……そのような物質を蓄えていたか、或いは体内生産できる化物なのかもしれませんな……」
調合に手間のかかる珍しい薬品の話に魔術師達は唸り、よく解らぬ兵士達も恐ろしいことに変わりはなく、息を飲んだ。
「と……いうことは……消えた兵士はどうなってしまったと言うので?」
「……もし、本当に流星魔術薬と同じ物を浴びたのなら、その者はあらぬ所に飛ばされておりましょう。流星呪文の訓練を受けていない者が、しかも何の心構えも無しに不意に術を施されれば、目的地も定まらず、とんでもない場所に運ばれてしまうかもしれません」
「なんと恐ろしい……!」
「海のど真ん中にでも落ちたら、どうなると言うのだ……!」
皆は、改めて敵の残骸を見回した。瓦礫は徐々に解凍されてきているが、まだ何も変化はない。このまま爆発もなく朽ちていってくれればいいが……
「何にしても、負傷者の正しい処置の為にも毒液を回収して調べなければならないね。今後、またこいつらが来ないとも限らないし。研究しておかないと」
ソニアの指示で、術者達は携帯していた魔術薬の空の瓶に慎重に毒液を採取し始めた。先程までは魔法の神秘の力を回復させる滋養薬が入っていたのだが、この戦闘で使用して空になっていたのだ。
いつの間にか、アーサーが隣に来ていた。彼は、肩に手を掛けて彼女の顔を拝んだ。
「無事で良かった……! こんな恐ろしい敵が来るなんて……」
「国攻めの本格的な大群じゃなかっただけマシだよ。……それに、何とかやっつけた」
「……これからも、まだお前に刺客がやって来るんだろうか……?」
アーサーは彼女を襲うかもしれない脅威を思い、不安の光を過らせた。彼はどんな敵にも臆しはしない。唯一恐れているのは、彼女を失うことだけだった。
ソニアは考えた。確かに、この化物達は《刺客》としか思えない動きをした。一体何を目印に、自分がここにいると知ったのだろう? ただの偶然ではないはずだ。
それでふと、ソニアは思い出した。あのゲオルグは、いつも彼女が何処にいるのかを知っていて、フラリと現れたものだった。彼は、そもそも何を頼りに自分を探し当てたのだろう? ヴィア・セラーゴで助けてくれた時だって、どのようにして、自分がそこにいると知ったのだろうか?
そのことについて彼に尋ねたことがあったが、『自分は色んなものの場所を知る才能があるんだ』とか、『大好きな人が何処にいるのかは何時もお見通しだ』とかばかりでうやむやにされ、明確な答えを得られたことがなかったので、結局今も解らないままだった。
ヌスフェラートの秘術をソニアは知らないが、でも、こう考えることは出来た。ヌンタを与えてくれたのは彼で、その死も察知した。その次に『戦士のお守りだ』と言って贈ってくれたブレスレットが壊れた時にも、すぐ駆け付けた。彼からは、その他にも色々な贈り物を貰っている。或いはそれらの品が……彼女の居場所を知らせる役に立っているのではないだろうか?
そして――――――彼にそのつもりがなくとも、彼の父に利用されることだって有り得るのでは?
そう思った途端、真偽は解らずとも、それらの品々を放棄する必要をソニアは感じた。彼から貰った物で、今、身に着けている物は……?
何やら深く考え込んでいるソニアの姿を、アーサーも同じく深刻そうに見つめている。
その目の前、ソニアはまず、台座に金剛石のはまった金の指輪を左手中指から外して、ポトリとその場に落とし、金属製の装飾細やかなブレスレットを右手首から外して、同じように足元に落とした。
彼女がしていることに初めのうちは戸惑ったアーサーも、すぐにその意味を察して、放棄の儀式を黙って見守り続けた。
ソニアは最後に、首から提げている紐を引っ張り、何時も懐の中に携帯している巾着袋を取り出した。その中には、ダンカンの形見である触角の欠片と、アイアスから貰ったパンザグロス家のペンダントが入っている。そしてもう一つ、ゲオルグからヌンタの次に貰った、プレゼントの綺麗な石が。
ソニアは、紐で括られた青と水色と紫の入り混じる輝石を目の前にぶる下げ、それを貰った時の情景を思い出して一時感慨に耽りつつ、やがてそれをポイと捨てた。
もし、これでまだ刺客が彼女の下にやって来るのだとしたら、何か別の原因を探さなければならないだろう。
戦闘で荒れ、黒土を剥き出しにしている大地に落ちている3つの贈り物を、ソニアもアーサーも無言で眺めた。
その時、兵士の叫び声がして2人はハッとした。見れば、解凍されて動き出した残骸が、ありとあらゆる毒物を噴出してのた打ち回っていた。毒液のかかってしまった兵士は、毒液採取の手伝いで残骸に近づいていたのだ。
「――――――気をつけて!」
ソニアは残骸に向かって突風を起こし、それ以上兵士にかからぬように毒液の飛び散る方向を一定にさせ、彼の救出に向かった。アーサーもその後を追う。
凍りついた最初の3体分の残骸が、一斉に踊り狂っている。魔術師も火炎や氷炎で残骸を攻撃し、援護した。
ソニアは兵士を助け出し、引きずって離れさせようとした。アーサーも手を貸す。
その時
目の前で残骸群が大きく弾けて散らばった。風を突き抜け飛び出した液体が、3人に振りかからんとする。
ソニアは咄嗟に、兵士とアーサーの盾になるよう、間に入って毒液に背を向けた。兵士を担ごうとした体勢のまま動けなかったアーサーが、目を一杯に見開いた。
ソニアと目と目が合ったその瞬間、彼女は閃光となって消えてしまった。
残骸が放つ断末魔の雄叫びとも言える最後の飛沫は、それ以上2人に振りかかることはなかった。
アーサーは真っ青になって、まだその辺に彼女がいるのではないかというように周りを見回したが、見つかるはずもなく、ブルブルと全身を震わせた。
「――――――ソニア……!! ソニア……!!」
多くの者も、今の出来事を見ていて戦慄した。
「ソニア様!!」
残骸は、もう跡形もないほどに萎んで土に融けかかっている。この最後のピークさえ過ぎれば、後は恐れるに足らぬ代物となるようだ。
「ち……畜生……!! ちくしょ――――――――――っ!!」
アーサーは天に吼えた。まさか、自分を庇わせる為に、彼女にこんな事をさせてしまうとは。彼は激しく自らに憤り、腰を何度も打ち、地や木を手当たり次第に殴りつけた。
魔術師がやって来て、そこに残る毒液が消える前に採取した。そして、毒液の入った瓶を見ながら言った。
「……やはり、流星魔術薬と同じ色と輝きをしています……! ソニア様はきっと、これを浴びられて……」
残骸が消えると、兵士達も寄って来た。
「ソニア様……!!」
「何てことだ……!! こんな事になろうとは……!!」
アーサーもさることながら、自分を助ける為にこんな事態を招いた負傷兵は酷く狼狽して、泣き出してしまった。
「ああ……! お許し下さい……! お許し下さい……! 何てことを……!」
ひたすら木や地面を打ちつけてもがいているアーサーに、毒液を採取した魔術師が言葉をかけた。魔術師という者は、こんな時、戦士よりずっと冷静なものだ。
「……巧く人の住む土地に飛ばされていれば……そして、そこに、この大陸への旅の経験がある魔術師がいれば……きっと早く戻って来なさるに違いありませんよ。アーサー様」
しかし、そんな言葉が慰めになるはずもなく、アーサーは拳を震わせて己が髪を掻き毟り、荒い息を吐いた。
あんなに側で、この目の前で見ていたというのに……!
手を伸ばせば、簡単に届く距離だったのに……!
自責の念に悶絶しながら、アーサーはどうしても最悪の場合を考えずにはおれず、恐怖した。
もし大海のど真ん中に落ちでもしたら、あの鎧を巧く脱ぎ捨てることが出来なければ溺れ死んでしまうだろうし、もし鎧を脱げたとしても、一体、何日かけて広大な海を泳げばいいと言うのだろう?
……それに、そこが何処かも解らないとなれば、尚のこと、旨く陸地に泳ぎ着ける可能性は低くなる。海を当て所もなく、まるで賭けの状態で彷徨しながら、いつか力尽きて沈んでしまうのが関の山だろう。
……この世界は7割が海なのだ。海に落ちる確率も70%。しかも、人体にとって快適と言える水温の海は、その半分以下。いや、四分の一もないかもしれない。それ以外は、殆ど氷の海なのだ。そんな所に落ちれば、ますます助かる見込みはないだろう。
「あの方は術者です。……流星呪文が使えなくとも、経験はおありですし、何とかならないものでしょうか?」
若い魔術師が、年輩の魔術師に尋ねた。
「……流星術の訓練で最も重要なのは、進行方向や行き先をイメージすることだ。ソニア様があの瞬間に何を考えられたのか……それが影響してくるかもしれないが……こればかりは解らないな」
アーサーは膝を落とし、ひたすら天に祈るより他ないと、その場で手を組んで目を閉じ、必死に呟いた。
「どうか……我がトライアの女神の御加護のあらんことを……!」
彼は何度も祈りを繰り返し、心の中では自分の命を捧げてもいいとさえ誓った。彼のそんな姿に驚きながら、他の兵士達も祈りに加わっていった。
「何卒……我が女神に天の加護がありますように……!」
「トライアスよ……!」
そうして祈りを続けている内に、後から凍結された化物の残骸群が解凍されて弾け出し、毒液や体液を辺りに散らした。もはや、誰もその側にはいない。
全て弾け飛び、萎んだ欠片が土に馴染んで嵩をなくしてしまうと、いよいよ辺りは鳥も鳴かぬ不気味な静寂に包まれた。あんなに清々しかった風は、今ではどんよりと淀み、大地には悪臭が漂い、染み付いている。天高く上った太陽の陽射しで、辺りは更にムッと噎せ返るようになり、温められた空気が高みへ上昇していった。
清き風を失った今、淀んだ森の汚れを浄化してくれそうなものは、時しかなさそうであった。