第4部31章『堕天使』26
マリーツァは、ただ本当に辛そうに顔を歪ませ、口元を震わせている。彼は知らなかったが、そこには深い後悔と謝罪とが含まれていた。ずっと憎んでいただけの相手なのに、今や申し訳なさでいっぱいになっている。マリーツァは何度も肩をしゃくらせながら、子供のような仕草で涙を手の甲で拭い、唇を噛んだ。
「きっと……何か事情があったんだよ」
今日はなるべく彼女を見ないようにしていた彼だったが、今は不思議な生き物でも見るように彼女の姿に見入った。
「もしかしたら……お母様が悪いんじゃないのかも……しれないよ」
彼は鼻で笑った。
「そんなこと、わかるか」
「でも……そう思ってた方がいいじゃない」
しゃくり止まぬ彼女を尻目に、彼はついその通り思い描いてみた。もし自分の母が……伝えられた通りではなく、自分を捨てていないのだとしたら……。
彼は一瞬恍惚となり、だがすぐに現実に立ち戻った。
「……フン、そんな甘いものか」
マリーツァはクシャクシャと猫のように首を振って泣き続けた。
「絶対……事情があったんだよ。……お母様もきっと……哀しかったはずだよ……」
彼は呆れてお手上げのポーズをし、彼女を放っておいて机に戻った。食事を始めたばかりだったので、まだ殆ど手を付けていないのだ。
「勝手にそうしていろ。時間がないから、オレはこれを片付ける」
今は忙しいのだ。こんな事に気を取られている場合ではない。そしてその通り、彼は泣き続けるマリーツァを放ったらかしにして書類確認と食事とに専念した。
だが、いつまでも本当に哀しそうに泣き止まぬものだから、時々彼女のことを見てしまう。そうしているうちに、何故か、彼の中の何かが軽くなった。
彼の為にこうして真剣に涙を流してくれる者は、これまで双子の片割れしかいなかった。だから、長い人生の中でも珍しい出来事であった。相手が人間だというのに奇妙なものだと思いつつ、でも彼は悪い気はしなかった。
何やらマリーツァが泣いているから、研究農園を覗き見している者達は、何だ何だと囁き合っている。あんな美女を泣かせるとは何たる男だ、けしからん。だが羨ましい。そういったところだ。
ゲオルグはふと思った。自分の計画を実行に移せば、彼女も当然その影響を受ける可能性がある。それは何だか気分が悪い、と。そして、そんな感情を奇妙に思った。相手はただの人間ではないか。確かに人間の世界ではかなりの美女らしいが、それで他の人間より価値が上がるわけでもない。では、自分の中でだけ、この娘の価値が変わってしまったというのだろうか?
マリーツァは次第に落ち着き、目を赤く腫らしているものの涙は止まって、小さなしゃくりだけとなった。そして彼に顔を向けた。
姿、顔、形などの外見にではなく、その潤んだ瞳の奥に見えるチラチラとした炎のようなものに、彼は幼いソニアを見た時と共通する何かのバイブレーションを感じた。程なくしてそれが、無邪気な少女を見て感じる可愛らしさなのだということが解った。
「……お前も食事が済んだら、今度は研究服の洗濯をしろ。全員分のな」
「……はい、お兄様」
鼻を啜りながら彼女はそう応え、鏡を探して壁に掛けられている小さいものを覗き込み、悲惨な自分の顔を直し始めた。