第4部31章『堕天使』25
料理のトレイを机の上に置くと、マリーツァはさすがに踊るのを止めて従者らしく飲み物をピッチャーからグラスに注いだりなどして彼の世話をした。テレサの店で働いているから、すっかり給仕も板についている。
そして書類を見ながら食事をする彼を暫く眺め、それから言った。
「……ねぇ、聞いたんだけど……この前、総務棟のパティオで具合が悪かったんですって?」
あの時のお節介な女官が余計なことを言ったのだなと思い、彼は眉を顰めた。
「……病気なの?」
また苛立ちが募って彼女を睨んだが、見るとマリーツァは真顔でジッと彼の顔を覗き込んでいた。そう言えば、彼女の兄も病気で死んだと話していたなと思い出し、彼女が何を怖れているのかを察して、彼の苛立ちは萎んだ。
「……少し疲れていただけだ。オレに持病はないし、今は何でもない」
その事について話す気がなかったので、彼はそれだけ言うに留めた。マリーツァの方はまだ納得がいかない様子で顔を覗き込んでいる。
「……あなたって、一人でこの国に来たんでしょう? 他にも色々行くみたいだけど、故郷に誰か身内はいるの? あなたが今ここにいることを知ってるの?」
当初は会話をする気がなかったのに、何を訊き始めたのかと思って彼は片方の眉を上げ、応えた。
「……それが何だと言うんだ?」
「だって、もしあなたが病気になったりとかしたら……誰があなたのことを助けに来るのよ」
「要らん世話だ。自分で治す」
「治らない病気だってあるでしょう? もし死んじゃったりしたら、どうするのよ!」
「……お前は、オレのことを余程殺したいらしいな」
2人きりになった時に見せる彼女の遠慮会釈のない態度が彼を少し面白がらせ、皮肉っぽい笑みを浮かべた。
「親とか、兄弟姉妹はいないの? 妹はいるっぽかったけど……あなたを心配したりしないの?」
触れられたくない話になり、彼は閉口して顔を背けた。彼女の方は、彼が嫌がっている様子を汲み取っても話題を変える気は全くないらしい。
「……いないの? それとも、仲違いしてるワケ?」
面倒になった彼はグラスを手に席を立ち、ガラス張りの窓際に寄って外を見た。興味津々でこの研究所付近を通り覗き見していく者が何人か見える。ゲオルグがそちらを向いたことに気が付くと、何食わぬ顔で他の所に目をやったりしていた。鬱陶しい連中ばかりだ。
そうしていると、ふと先日起きた噴水場の幻影のことが思い出されて、マリーツァにやきもきしたり竜王大隊のことで頭を一杯にさせていた間は忘れられていた事が鮮明に蘇り、彼は瞼を伏せた。
適当に答えを与えた方が、早くこの小うるさい娘が黙ってくれるかもしれないと思い、彼は答えた。
「……父はいるが、殆ど会わん。母はもういない。姉妹は生まれた時から別々だ。いないも同然の家族だ」
気がつけば、どうしてか現実と同じことを彼は口にしていた。内容の冷たさにマリーツァも暫く黙り込んでいる。彼の方も、彼女がこれで追及を止めてくれることを望んだ。
だが、そうはいかなかった。
「お母様は……死んじゃったの?」
兄弟姉妹のことに触れられるのが一番嫌かと思いきや、母親のことを話題にされて、その時全身にピリリと走った痛みと苦しさに、彼は自分にとって一番辛いことが何なのかを知った。そしてどうしてか、ついそれを口にした。
「……母は、オレを捨てた」
言った途端に、その残酷な真実を突き付けられた暴風雨の森がグラスの中に写し出され、それがジワジワと広がり溢れ、部屋を覆い始めた。彼はそれを押さえ込み戻そうと、グラスを握る手の力を強めた。あんなものを思い出したくはない。グラスの中の嵐との格闘は困難を極めた。
だが、ふとその嵐を破り、暴風雨の森を掻き消して彼を現実の部屋に戻らせたのは、すすり泣く声だった。
確かに幻影が消えたことをもう一度探るようにグラスを覗き込んでから、彼が振り返り見ると、そこではマリーツァがボロボロと涙を零して肩をしゃくらせていた。項垂れて、ワンピースの前飾りを掴んで視線を落としている。
彼の方が呆気に取られた。
「……何故、お前が泣く?」