第4部31章『堕天使』16
夢から覚めた後、眠ることも休むこともできなくなっていたソニアは、青白く精気のない顔で現れ、軍務に戻っていた。
あまりに心配であったアーサーは、彼女が何と言おうと休みを取らずに、そのまま仕事をこなして、なるべく彼女の仕事を肩代わりして負担を減らし、彼女の心労が目立たぬように気を払った。
それでも多くの者が、祭の最終日に沸いている街と城とに反して陰っている軍隊長の異変に気付いていた。誠心誠意、彼女に仕えている女官も、いつかのようにやつれた顔をしている彼女の姿を見て、訳も解らずに再び心を痛めていた。
本来のシフト通りにソニアとアーサーが動いていないものだから、何かあったのではないかと察する者は、それとなく原因を探り合い、仲間達と語り合った。祭の進行に今のところ異変はなく、考えられるとすれば、王位継承権のことで自分達の知らぬ間に権力者たちと会談を行っているなど、ソニア本人に当初の想定外の用事が増えてしまい、忙しくなった部分をアーサーが補おうとしているのではないか、というものだったが、それにしてはソニアの陰り様はもっと他の深刻なことに起因しているようにも思われ、釈然としなかった。
だが、城内の別の場所では、全く異なる動きが密かに起こっていた。ソニアとアーサーも、そして殆どの兵士もそれには気付かずにいたが、時間の経過と共に物々しい雰囲気を漂わせて活動する者達を目にするようになり、それが一部の幹部とその部下達であると判ると、何が起きたのだろうと兵士達も皆、首を傾げるようになったのだった。
ディスカスさえも今は国外の情報収集に忙しいから、外側ではなく内側で一体何が起きているのかなど、全く知る由もなかった。
その後、何度もディスカスに確かめている限りでは、竜王大隊の出陣は中止になったとのことであるし、その通り敵が襲ってくる気配はなかったから、祭を中断させずに済んで、今も城下街では滞りなく祭が進行し、熱気を放っている。
悩み苦しみ、哀しみと不休とで疲弊していたソニアではあったが、本当に竜王大隊が攻めてきたかもしれないことを思えば、平和の内にある今は有難かった。民はまだ誰も死んではいないのだから、大いに感謝すべきである。
誰が誰を殺したのか、という苦痛はあっても、両者共がトライアを守ろうとしていたことはおそらく事実であるし、そのお陰で今回助かったのだ。そのことを今は喜ぼう。
今後、皇帝軍の動きがどう変わって、どの大隊がトライアを攻めることになるのかは不明だが、これでまた少しは時間が稼げたようなので、遂にその侵攻の時が来るまで、今まで以上の苦い哀しみもあるまいと思い、痛む心の傷もやがては鎮まってくれるものと信じ、ソニアは痛みを隠しながら軍人らしく振舞おうとした。
支えてくれる友もいるし、一応は信頼できそうな情報をもたらしてくれる部下もいる。きっと、やがては時が解決してくれるであろう。ソニアはそう信じた。
だが、まだ哀しみに終わりはなかったのだった。
城下街を見下ろすことのできるテラスで、祭最後の夕暮れを迎えた2人は、沈む夕日を眺めながら大きな溜め息をついた。
「……結局、ずっと働いちゃったわね、アーサー」
「……なに、オレは何でもないさ。もしかしたら、今頃ここが戦場になっていたかもしれないことを思えば、ありがたいもんだ」
「ディスカスの言うことも、どうやら本当らしいと判ってきたことだし、今の方がかえって安心して休めるよ」
今も、すぐ傍らの窓際に椅子を置いて瞑想しているディスカスの方にチラリと目をやり、2人はそっと笑った。
アーサーは考えていた。マーギュリスは“光が失われて国が滅びる”と言っていた。今回、色んな事が裏で起きたお陰で、その危険が回避できたのであろうか? そうであってくれたらいい。
ソニアもまた、考えていた。あの街頭占い師が示した通り、片方だけが死んで片方はまだ生きている。そして竜王大隊の出陣は取り止めになった。では……“堕天使”とは一体何なのだろう?
「それより……忘れちゃいないだろうが、今晩は王様との約束がある大切な宴会だぞ。例のことは、お前……大丈夫なのか?」
忘れていたわけではなかったが、今のソニアには王位継承権のことなど、段々とどうでもいい事のように思えてきて、真の結論を見出せずにいた。それどころか、この事を考えようとすると、旅立っていった者の言葉が蘇ってきて、心の傷を痛ませるのだった。
“君とオレは遠くなる”
今や本当に遠くなってしまった彼の言葉は、ソニアに喪失感を与えた。救いなく、こうして別れていく者達の姿を思うと、自分には王の好意を受ける資格も能力もないように思われる。彼女には、もっと時間が必要だった。
仮に承諾したとして、その後のことにはまるで現実感がない。決心できなければ断るしかないのだが、その場合に落胆させてしまう人々のことを思うと、それもまた心苦しい。
それでも、引き受けるわけにはいかなかった。こんな状態で、今は、まだ。
ソニアは陰りのある微笑でアーサーに「大丈夫」と答えた。元気づけるように彼女の肩に手を掛け、アーサーも微笑んで見せる。
「こんなことがあった後だが……自分を信じて、お前らしく進んでくれ。お前が一番この国を愛していて、後継者に相応しい者であるということは変わらない。オレはいつでも側にいて、お前を支えるよ。それを忘れないでくれ」
おお、フェデリ。
アイアスもなく、双子の弟とも別れ、そしてルークスを失った今、ソニアは、目の前の彼だけは幸せに生き続けて欲しいと心から思った。憎しみや不幸に身を裂かれず、このまま彼らしい輝きを保ち続け、生き延びて、笑って欲しい。心から、そう思った。
「……ありがとう。アーサー」
夕映えの中、彼の温かい眼差しにソニアは目を細めた。