第1部第2章『アイアス』中編
2.アイアス(中篇)
アイアスは地の移動だけでなく、空の移動もしていた。魔法には遠方に行く時にとても便利な流星呪文というものがあり、それを使えば、自らの体は光の玉に姿を変えて重量が無くなり、文字通り流星の速さで目的地に向かうことが出来るのだ。世界的に見ても魔術師の人口は決して多くはなく、その中でも、この流星呪文が使える者はそれなりに限られていたので、これさえ出来れば王宮の外交官や輸送役の人員として仕事が約束されている重要なものだった。
一生の内に一度も体験せずに終わる人もかなりいる貴重な魔法で、ソニアは北国の雪原に連れて行かれた。アイアスがあまり訪れていない国に秘密の鍵を求めたのと、北方独特の風土や魔物をソニアに教える為だった。
大戦時にこの地方に訪れたことのある彼は、予め防寒具を準備してから出発したので、到着するや一面真っ白い雪野原に立っていても凍えることはなかった。ソニアは顔に吹き付ける寒風に目を細め、初めて見る雪にはしゃいで雪原を走り回った。
北国には、白い剛毛で全身毛むくじゃらの雪猿という魔物や、全身氷の炎でできた青く輝く幽鬼などがいる。彼らは総じて熱や火に弱く、炎を翳せばすぐに恐れて退散していった。そもそも、どの土地でも魔物達はある程度アイアスの力を見抜いて無謀な闘いは仕掛けてこなかったので、本当に戦いになって相手を仕留める必要が生じるのは、余程狂っている者か、強力な者が相手の時だけだった。
雪原を進む時はソニアが吹雪を和らげたので、2人揃っての旅は、下手な大人3人の行軍よりずっと楽なものだった。幼子に北国が合うかどうか心配だったアイアスも、ソニアが生き生きとしているのを見ると無用だったと知り、安心した。ソニアは火炎魔法よりも氷炎魔法の方が若干得意な子だったので、寒冷地は性に合うのかもしれないと彼は思った。
北国の村でも戦後の復興が進み、村では容易に宿を求めたり商取引をしたりすることが出来た。
2人の普段の生活はどうしているのかというと、仕留めた魔物の有用な部分を切り取って物々交換をしたり、金銭に換えたりというのが主で、ここでも雪猿の毛皮や、氷炎の幽鬼を倒した後に残される体の芯や核ともいうべき輝石を、村でかなりの高額に換えたのだった。雪猿の毛皮は並みの獣より防寒に優れているので価値が高く、宿る魂を失った幽鬼の核は純度も硬度も高い透明な青い石で、身に付けると魔除けになると言われており、これもまた価値のある品だったのである。
若い男と幼子の2人組が入手困難なそれらの獲物を道具商などに持ち込むと、人々は大抵驚いて感心していた。
何処へ行っても一目置かれるアイアスがソニアには自慢だったし、幼いながら優秀さと美貌で人目を引くソニアが、アイアスには誇らしかった。
世界に北方国は幾つかあるが、ここビヨルクは最も北に位置する冬の王国で、首都スネッフェルスに近い村、ヨールカでは王国の情報や首都の近況を知ることが出来た。
古い文献や書物類は皆、首都の書館に保管されているらしい。大戦中は堅く閉ざされていて入れなかった城にも、今は楽に出入りできるようになったのだとか。アイアスは、戦時中にはその余裕が無くて訪れなかった書館に行きたいと思った。
宿の温かなロビーで、ソニアは女将や他の客にこの国のゲームを教えてもらい、樹液のシロップで甘くしたホット・ミルクをとても気に入って、キャッキャと遊びに興じていた。アイアスと一緒にいて、新しいものを見つけて目を輝かせている彼女は、何処へ行っても人々に可愛がられた。
夜、どうせ2つベッドにしてもソニアが潜り込んでくるので、ベッド一つの部屋にすることにすっかり慣れていた2人は、並んで横になりながら明日の話をした。
「おにいちゃまのアレ……わかるといいね」
「……そうだね」
物分りのいいソニアは、人前では決してこの話題を口にしなかった。たまに何かの理由で拗ねることがあっても、この話題だけは反撃の武器にしなかった。拗ねると言っても、少し放っておかれて寂しがった程度のことで、2人が仲違いや口喧嘩をしたことはない。
良き助言を与えてくれる老齢の大賢人……とはかけ離れた幼い少女だったが、彼女という唯一秘密の端を知る者がいることで、アイアスは心の中にもこのベッドの中のような温もりを感じていた。
今では、アイアスが自分のこれまでの大まかな戦歴をソニアに教えて、何故正体を知られぬようにしながら旅をしているのかも話していたので、彼女は彼が世界一の英雄と知って、師としても激しく彼を慕っていた。
未だに伏せている大切な事といえば、おそらく『天使』という概念と伝説のことだけだ。どうしてか、人に話せば本当に実現してしまうような恐怖心があって、彼はさすがにこれだけは誰にも話せずにいたのだ。例えソニアにでも。
だがこの子なら……自分同様謎めいているこの子になら……己の不安を教えてもいいのではないだろうか? アイアスは、そうも思っていた。
「わたし、おにいちゃまのおてつだいするね」
「……ありがとう。優しいソニアが大好きだよ」
ソニアは嬉しそうに「わたしもおにいちゃまがだいすき」と言って、もっと顔を埋めた。北方独特のキルト細工が美しい上掛けと、何枚にも重ねた毛布の下で、油灯のほんのりした明かりに照らされてそうして寄り添っていると、まるで本当の兄妹のようだった。
翌日、2人はヨールカを出発して、風が止んだ青空の下、首都目指して雪原を進んで行った。耕作は雪のない短い夏にしかできない風土で、この地方はどこも大針葉樹林と雪野原ばかりである。橇や馬車の通った跡や標識のある公道に出ると、2人は村で手に入れた簡易スキーで慎重に轍に沿いながら雪道を滑って行った。
アイアスがソニアを忘れてどんどん先に進みでもしなければ、彼女はまず取り残されることはなかったし、小さいのに上手に懸命に雪道を進んで、子供にしては速かった。
スキーをしたままでの戦闘方法は独特で、滑りながら行われ、臨機応変、順応型のアイアスのスタイルは大いにソニアの勉強になった。世界の何処にでも通ずる、絶対と言える戦法がないことこそが真の戦法のように感じられた。
途中のピリカという村でもう一泊して、ヨールカで頼まれた手紙やら薬やらの小荷物を渡して、返礼に温かいもてなしを受けた。
この地方の人々は色白で、白っぽい金髪の人が多く、平均的に背が高かった。そして寒い土地なのに二重壁の家の中は温かく、人も暖かいことをソニアは知った。難点を挙げるならば、諦めにも似た静かさだろうか。こうして各国を旅することで、同じ人間という種類の中でも地方で若干の違いがあることをソニアは学んだ。
その翌日夕方近くになって、ようやく2人は首都スネッフェルスの見える丘にやって来た。町全体が城塞になっており、高い壁が外周部を取り囲んでいる。吹雪から街を守る役割の方が強く、外敵よりも雪を恐れ、敬っていた。
その街の中心にビヨルク城がそびえている。雪があまり積もらぬよう、屋根の角度は急で壁面と一体化しており、外観は滑らかな曲線を描いていた。雪を被った灰色の城はとても美しかった。
城の周囲には川がぐるりと流れて堀の役目を果たし、積もった雪を城塞外へ押し流していくのも担っていた。最寒期には表面が凍結するが、毎日人の手で氷が割られてその下の流れに雪を投げ込むので、城塞内は雪に埋もれることはなかった。川割りと雪掻きは城兵の日課となっている。
2人は平和になって開け放たれている城塞入り口から、門番の兵士に挨拶をして街の中に入って行き、書館を目指した。
人々は外国人の訪問をとても好んでおり、快く道を教えてくれた。街の中心、王城に近い所に書館はあって、想像したほど大きな建物ではなかった。その側に宿屋があったので、アイアス達はそこで荷を下ろしてひとまず休憩し、それから身軽になって書館へと向かった。
中に入って、すぐにここがさほど大きくない理由が解った。管理者のいるカウンターの壁に、この書館の設立理由が丁寧に説明書きされていたのである。この書館は、ビヨルクの民が等しく学べるよう、無償で閲覧、貸し出しできる本ばかりを集めた大衆的なものなのだ。本当に重要な古文書や、一般市民が見ても解らないような難しい書物は城の大書庫に収められていて、娯楽色の強い読み物や生活に根ざした手芸、工作の教本や、簡単な学術書ばかりがここに揃っているのである。
アイアスの求めるレベルは城の大書庫の方にこそあったが、一般的に見ればなかなか粋な計らいをする王のようである。世界を見渡しても、市民専用の無償の出張書庫がある所は然々(そうそう)ない。書を求める者は大概面倒な手続きをして城に出向くか、大衆本を買い求めるのが普通なのだ。
アイアスは、感心しながらこの書館をゆっくりと一巡りした。ソニアも喜んで、管理人が「これはどうかね」と選び出してくれた絵本を閲覧席で眺めた。何人もの子どもが読んだらしい本は手垢ですっかり汚れていた。毎日のようにアイアスから字を学んでいたので、簡単なものはソニアにも読むことが出来る。それは、白熊と出会ってしまった男の子のハラハラするお話しだった。
大衆用と侮ることなかれ、市民向けになかなかの哲学書なども置いてあり、アイアスは本当に感心して王の心意気の広さを称えながら、幾書にも目を通した。最北の国とあって低温のお陰で書の保管状態が良いらしく、この書館にもかなり古い書物が所蔵されていた。この分なら、城の大書庫には相当貴重な文献があると思われた。
もう遅くなったので宿に戻って食事をしようとソニアの所に声を掛けに行った時、アイアスはソニアの見ている物を見て思わず息が止まった。ソニアは自分でも本を見繕って、面白そうな本を探していたのだが、その時手にしていたのはとても古そうな、それでも色がよく残っている華やかな羊皮紙の絵本で、そこには翼のある戦士の絵が描かれていた。子供向けの大きな字で『天使は――――』と書かれてあるのが目に入る。
アイアスが真剣な顔でその絵本を手に取ろうとするので、ソニアは黙って彼に渡し、彼の様子の方を見ていた。
『人々がこまっていると、かみさまが天使というつよい戦士をおつかわしになり、人々の助けとなるようめいじました。とてもこころやさしい天使はその通りにし、あくまのいちぞくを追いはらってしまいました』
罪もない善人が、ある日突然、悪魔の一族に襲われるところから物語は始まり、人々がどれほど苦しめられているかの描写が前半部を占めているその物語は、やがて一人の娘の祈りが通じて天に届き、その天使が登場する場面に繋がっていた。善い行いをしていれば助けてもらえる、という典型的な道徳絵本の一種だ。
だが、その後がそれだけでは終わらぬ展開になっていた。
『地におりた天使は、そのむすめと恋をしました。人々も、天使にいつまでもここにいてほしいとねがいました。でも、役目をおえた天使は天にもどらなければならないのです。天使もここにいたいと思いましたが、それはかなわず、天使は天につれもどされてしまいました。人々はとても悲しみました』
天使なる者の特徴は翼だけだったが、これまでに聞いた伝承通り、天に召される姿は死を暗示させる、目を閉じて横たわるような格好で描かれている。こうして絵になっていると、同じことを語っていても改めてインパクトがあった。
巻末の記録を見ると、100年以上も前に書かれている絵本だった。
それ以上の新情報は与えてくれぬその本をアイアスは棚に戻し、ソニアに「さぁ、帰ろう」と言った。ソニアはただ彼に従った。
宿で用意されていた食事をし、外国人の話を聞きたがる好奇心の強い町人が、知人の宿に押しかけて色々と話をせがんだ。こういうことに慣れているアイアスは嫌な顔一つせず、身分が知れない程度に丁寧に応じた。本当の所は一人になってゆっくり休みながら考えたいと思っていたが、名家育ちの彼は人との交流を敢えて行う習慣が身についていたのだ。
ソニアを寝かせるという口実で、やっと人々から逃げ出せて2人でベッドに横たわった時、長い溜め息の後、囁かれたソニアの言葉にアイアスはギョッとした。
「……おにいちゃま……天使なの?」
子供らしい単純さと、彼が絵本を見ていた時の様子から彼女はそう察したのだ。大人だったら、何を、絵本なんかを本気にして、と馬鹿にし、この物語が真実に基づいているかもしれないなどとはかけらも思わないだろう。だが、子供であるからこそ、ソニアであるからこそ鋭かった。
「……どうしてそう思ったんだい?」
ソニアは得意そうなところは少しもなく、不安そうな目をアイアスに向けていた。
「はねのとれちゃったワッピーが……トゥーロンになおしてもらうまで、おにいちゃまのせなかみたいなことになってたの」
ワッピーとは大きな蜻蛉の魔物のことだ。トゥーロンのことも、今ではソニアから話に聞いてアイアスも知っていた。
「おにいちゃまのせなか……天使のはねがとれちゃったの?」
また心臓がズキリと縮み上がった。ただの子供だったら、こんなに早くこれらを結びつけることは出来なかったろう。生い立ちと、彼との生活がそれを大いに助けていたのだ。人に知られると途端に死ぬと記されている訳でもないのに、アイアスは恐怖に胸の痛みを感じ、また、ここまで解ったのならもはや隠すこともあるまいと決意することが出来たのだった。
「……わからないんだ。でも、そうかもしれない。だから調べているんだよ」
自分の中の苦しみに捕らわれていた彼だったが、ソニアの震える声を聞いて、彼女の涙目に引き寄せられた。
「じゃあ……もしそうだったら……おにいちゃまは、かみさまにつれていかれちゃうの……?」
不安が表面化したことと、彼女のその潤んだ瞳を見たが故に、アイアスは、今までこれほどではなかったというくらい、ソニアを愛しいと思った。
「わからない……」
アイアスは彼女を抱きしめた。彼しか頼る家族のいないソニアも、しがみ付いて鼻を啜った。
「いやだよぉ……」
彼も、嫌というほど孤独を知っているソニアもなかなか眠れず、そうして恐れ震えながら互いを掴んでいた。
翌朝、宿にはビヨルクの兵士が一人訪れて、アイアスに深々とお辞儀をした。この国の兵士は革製の防具の下に分厚い毛織物を着、赤いマントと毛皮のコートを羽織っているのが上級兵士の一般的な姿だった。金属製の鎧では体が凍えてしまうので、長年かけて開発され、何重にも合わせられた革の鎧だ。毛皮は最高級の雪猿製。好奇心の強いアイアスは間近でそれらを観察した。
「子連れで雪原を旅し、雪猿や氷鬼を仕留めるほどの戦士が、何やら書を求めているとの噂が王のお耳に入りまして、ぜひとも異国の勇士と話をし、城の大書庫をご覧頂きたいとの仰せです。ご入城頂けますかな?」
こういった申し出を断るのは無礼に当たると承知しているし、大書庫を訪れる、願ってもない好機なので、アイアスは国王の招待を受けた。
宿で朝食を済ませると、子連れで良いとのことなのでソニアの身なりも整え、「これからお城に行くからお行儀良く」と言い聞かせながら髪を梳いてやった。
知らせに戻ってから再び訪れた兵士と共に宿を出、堀代わりの川に渡された引き上げ式門扉の橋を越え、2人はビヨルク城内へと入って行った。有事の際や夜間に、頑丈で巨大な鎖で門扉が閉じられると、城壁がグルリと隙間なく取り囲むようになる。
敷地内はゆったりとしており、入ってすぐの所には雪に覆われた大庭園が広がっていた。そこを突き抜けていくと大きな城の正面入口があり、それは閉め切られているが、下方にある小さな扉の所に番兵がいて、一行を認めると敬礼し合って扉を開けた。
防寒の為にこうした作りになっていて、扉は二重構造になっており、入った空間はまだ玄関口といった石壁だらけの質素な雰囲気だった。ここで体の雪を払ったり毛皮のコートを脱いだりなどしてから城内に入って行くのである。この空間にも暖炉があって火の番がおり、客人のコートを預かると、備え付けのコート掛けに丁寧に下げて手入れを始めた。濡れたコートを乾かして温めて手入れをし、帰りの際に渡すのが、この国の客人に対するもてなしのエチケットなのだ。
もう一つの大きな二重扉を越えると、やっとそこが城内吹き抜けホールになっていた。城のような大きな建物や聖堂などを訪れたことのないソニアは、天井の高さと、色とりどりのガラスでできた絵に見とれて歓声を上げた。その位ならばアイアスも咎めはせず、「あれはステンドグラスと言うんだよ」と教えてやったりした。
兵士も、客人の為にそれらの製作年代や絵の意味のなどを慣れた様子で説明した。
「我等が崇める神、大精霊ウージェンの御姿です」
ステンドグラスの壁画中央に大きく陣取っている全身真白な女性像を、兵士はそう説明した。その周りを動物や植物や人間が円を描いて取り囲んで幾重もの同心円となっており、ヌスフェラートのような、だが少し違うような変わった者の姿が所々に登場していた。世界各国、地域によって信仰の対象は違うものだが、ここ雪国ビヨルクでは大精霊ウージェンが、発祥年代も解らぬほど古くから崇められていた。
ホール正面の大きな階段を上って謁見室へ案内されると、そこでは官吏の者が集まって何やら談議の真っ最中だった。案内の兵士がその様子を見て「先に大書庫の方へご案内します」と言い、更に奥に2人を連れて行き、幾つかの角を曲がって、一番奥に位置する大書庫入口へとやって来た。
変わった造りで、2階のそこが正規の入口であり、待っていた管理者が鍵を開けて3人を通すと、その中は4階分の高さがある大空間になっていた。今いる場所から上にも下にも行ける階段があって、それぞれが中2階、中3階へと繋がっている。橋があったり、梯子があったり、その造りと蔵書の数たるや見事なものだった。
ここにも暖炉があって赤々と薪が燃えており、その側には閲覧用か、会議にも使えそうな大卓があった。ソファーなどの家具調度品も並び、暗色の漆仕上げの木製彫刻細工で統一されている。石の基礎の上に木の板が張られた防寒の床の上には、厚い絨毯が敷かれてフカフカとしていた。
ソニアはそれらに一々はしゃいでいた。アイアスの言いつけは覚えているようで、子供だから仕方ない、と許してもらえそうな範疇にどうにか自分を抑えて、声を上げたり軽く飛び跳ねたりした。好きにしていいと言ったら、途端に駆け回ったりよじ登ったりしていたろう。
兵士は、王がみえるまでここで自由にするように言うと、管理者に2人を任せて退出して行った。
アイアスは早速そこら中を見て回り、背表紙の題目だけを読んでも、その内容の興味深さに驚かされた。1つ1つを手に取りジックリ見たいところであったが、一番の目的としている本は王などの目がある前に探しておきたかったので、管理者に怪しまれぬよう気を払いつつ、急いで廻り廻った。
【ヌスフェラート考察】……【ヴィア・セラーゴ見聞録】……実に面白い。北方の魔物の生態も研究されているし、ウージェンについての伝承本も多数取り揃えられてあった。
アイアスは直感的に、伝説的、信仰的なものは近くにまとめられているに違いないと思い、特にそのウージェン関連の本の棚付近を探した。【世界の神々】……【悪魔の鏡】……【雪の女王】……【南へ旅した男】……そして、一つを見つけた。
【ある天使、ハーキュリーの物語】
アイアスはその本を、寝ているドラゴンを起こさないようにして慎重に仕掛けを解く冒険家の様に、そっと抜き出して手に取った。ソニアは子供らしく、ずっと広さと造りに興奮して一人動き回っている。放っておいても大丈夫だろうとアイアスは本に向き直り、先を急いで表紙をめくった。
冒頭に著者の言葉が書いてあり、《これは、自分が出遭ったハーキュリーという天使の生涯を綴ったものである》とされていた。しかし、こういった語り口の物語――――所謂作り話の読み物はよくあることなので、これが実録本なのか、はたまた娯楽本なのかは判別できなかった。著者が疑われることを想定して、それを避けようとしたり、余程事実として人々に広めたいと思っていたりしなければ、「これは真実の記録である」というような文句を付け加える発想はないだろう。
300年近く前のこの本は、文字も言葉も現在とは多少違っていて、読み解くのは訛りの強い地方の言葉を聞き取るようなものだった。その言葉を見る限りでは、著者はあまりに当たり前のように物語を書いていた。
『彼には翼が無かったので、彼自身も己が天使であると知るには何年もかかった。ただ、彼の背にはずっと昔から2つの傷跡があり、それが何時どうして出来たものなのか、彼は全く覚えていなかった』
『母も無く父も無く、彼ははじめ地にうち捨てられていて、それを獣に育てられたのだと言う』
『彼は時々、自分の背に翼がある夢を見るのだとか』
『ついに彼が自らを天使であると知ったのは、仲間を見つけた時だった。そちらは翼を持っていて、同じ者である彼を見つけると、すぐにそれと判ったらしい。だが、私はその人物に会うことはなかった。何故ならば、その人物はハーキュリーに会うとすぐに死んでしまったそうなのだ』
今までに得てきた情報以上の事が語られている件になると、読むスピードが格段に落ちて、アイアスは一語一語に衝撃を受けるようになった。
『翼を持つ人は、翼を持つが故か多くの事を知っており、ハーキュリーにこう話したらしい。世界に困難が訪れる時に我々は現れるが、困難が強ければ強いほど、それに応じて2人、三人と天使が多く天から遣わされるのだと。だから、こうして2人が出遭うことが出来たのだと。その人の最後の使命は、ハーキュリーに天使としての自覚を与える告知役だったらしい。その為、ハーキュリーが己を知って間もなく、その人は死んだのである。自覚したハーキュリーは天使としての道を歩み出し、我々の世界を守ってくれた』
アイアスはここで止まり、思った。もし自覚が重要なのならば、いつか目の前に翼持つ人が現れたりするのだろうか、と。来るかもしれないと思いながら時を過ごして、いざ本当にその者が現れたら、さぞかしそこに死神がいるように見えるに違いない。
『翼持つその人の名はエレメンタインで、ヴァイゲンツォルトの闇の裂け目を元に戻すのがこれまでの使命だったのだとか。私はハーキュリーから聞いた言葉をそのままにここに記しているが、ヴァイゲンツォルトとは、闇の裂け目とは何なのか全く解らない。ハーキュリー自身もそうである』
『ハーキュリーは敵を討ち果たし、その直後病に倒れた。原因は全く解らない。交遊のあった私はその床で彼の話を聞き、こうしてここに彼の人生を書き綴っているのである』
もし架空の語り書きなのだとしたら、実に真実味があって恐ろしいくらいだった。常日頃幻を見ている病人ならばあり得ることなのだろうが。とにかく、そこに酷なことが書かれてあるに従い、アイアスは気分が悪くなっていった。
『彼にはミアという恋人がいたのだが、長年の情交にもかかわらず遂に子に恵まれることはなく、倒れた僅か10日後にこの世を去ったのだった。英雄の宿命なのであろうか? 彼は、そのことをずっと悩んでいたようだった』
『私も、過去の文献や書を求めてみたのだが、天使の子孫に関する記述は未だ見つけることが出来ていない。或いは、長寿にして邪悪なあのヌスフェラート達の方が、我々より遥かに天使について詳しいのかもしれない』
「――――やぁ、やぁ、お待たせ致しましたな!」
突然扉が開いて人の声が響き、アイアスはビクリとして反射的に本を閉じた。ビヨルク国王が、生まれついての権力者らしい大らかさで大書庫に入って来たのだ。アイアスは本を戻し、彼を見つけて寄ってくる王に彼の方も近づいて行った。
王は北方人らしく背が高くて、色の薄い髪を長く伸ばしてゆったりと編み込みにし、キラキラとした黄金色の目を持つ人だった。丈の長いローブの上に、王者らしい重みのある濃紺のガウンを羽織っている。右手人差し指の王権を標す指輪以外に目立った装飾品は見に付けておらぬ質素なところが、ますます王者らしい気品を醸し出していた。
王の足が速いので、後から2人の付き人が小走りにやって来た。アイアスは片膝ついてお辞儀をし、王の手を取り、指輪に接吻して最上級の敬意を示した。王はすぐに立ち上がらせて気軽に肩を叩き、友と語らうようにアイアスに笑って見せた。
「私はこの国の王、メシュテナートⅡ世です。優れた若者がいると聞いてぜひお会いしたくなりましてな。お呼び立てしてしまいました。ようこそ我が城へ」
「こちらこそ、このような素晴らしい城にご招待頂き光栄で御座います。私はクラウスターから参りました、ヨアヒムと申します」
アイアスは大戦時の友の故郷を借りて名も偽っていた。もしその土地のことを訊かれても、友に聞いた話からそこの出身者らしいフリをすることが出来るからである。メシュテナートⅡ世王とアイアスは、そうしてこれまでの旅のことやこの国のことを語らい始めた。
ソニアはまだ一人で離れた所にいて、何かを夢中で読んでいる。字を覚えて以来、記号の羅列にしか見えないものが物の名や言葉となって理解できるようになり、それが情景となって頭に描ける楽しさを知ったソニアは、手当たり次第に字を解読するのを楽しみとしていた。まるでかつてのアイアスだ。人間を嫌わなくなったものの、まだ自分から近づくことはしなかったので、アイアスが呼びでもしない限りずっとそこにいるだろう。
アイアスは彼女をそのままにしておいて、大人同士の情報交換に勤しんだ。この国は復興順調で、一時廃村になった所も移住者の手で甦っているのだとか。ただ、度重なる戦で兵力は大きく削がれてしまったので、よい戦士を求めているのだという。小さな子連れで旅をする彼が有能な戦士であるのは明白だから、良ければ暫く滞在して兵を指南してやってくれないか、と王は申し出た。そうすることで彼の腕の程も見たいのだ。
長期滞在ともなれば、以前訪れた村の者と接触する機会があって英雄アイアスとバレてしまうかもしれなかったが、この大書庫と魅力的な王との交流はなかなかの誘惑だった。それに、それほどの好意を受けるとなれば、身分を偽り続けるのも大変な失礼に当たることだ。申し出を受けるのならば、せめて王にだけでも正体を明かさなければならないだろう。
アイアスはひとまず考えさせてくれるように王に言い、王も貴人らしく「急かしはしない」と笑って更にこの大書庫の説明と案内をした。
蔵書の多岐さと豊富さをアイアスは心から讃え、街の書館についても賢明で有効な試みだと評した。
「ヨアヒム殿は書を求めて来られたと聞きますが、どういった物をお探しなのですかな? お助けできればいいが」
「……ヌスフェラートについての古い文献を研究しているのです。大戦で故郷が奴らに汚されてしまいましたので、再び同じ惨劇を繰り返さぬよう防衛の備えをしたくて」
「ほぅ……! それは感心なことですな。そういった研究は我々にも大いに役立ちます。是非ともお手伝いさせて頂きましょう」
王は管理人に関連文献の所蔵場所を示させ、自らも本を手に取った。
「世界の先端からは遅れているのが、我が国の宿命とも言えるのですが……その代わり、古きものの蓄積には自負があります。製作年代不詳の、1000年以上経つと思われる物も中にはあるのですよ」
管理人は書物保存のプロであったが、同時に生ける所蔵録でもあったので、次々と適当な本を引っ張り出した。
これは好都合かもしれないと思い、アイアスは尋ねた。
「実は調べていて……『ヴァイゲンツォルト』という言葉に出遭ったのですが、これが何を示すのか、ご存知ではありませんか?」
「ほぅ……それは確かにヌスフェラートが使いそうな音ですな。ですが……存じませぬな。目にした記憶はありますが」
王は、彼の目的を果たす為にも滞在された方が宜しかろうと再度彼を誘った。
その時、長らく放っておかれたソニアが彼を探してキョロキョロし始めたのが目に入って、アイアスは彼女を呼んだ。居場所を知ったソニアはすぐに手近な階段を探した。
「私の妹ソニアです。彼女にも訊かせてください。このような環境は不慣れなので、一応許しを得ておきたいのです」
王は、彼等のいる階へ上って来るソニアを見て、遠目にも「可愛らしい」と目を細め、「かように幼い子と旅をされるのは、本当に貴公が優秀だからなのでしょうな」と目配せをして喜んでいた。どの世界の権力者も、強き者には目がないものだ。
ようやくソニアは彼等の所に辿り着き、そそとアイアスの側に回って彼の手を取り、そこで彼に習った淑女のお辞儀をした。王も管理人も、小さなレディーに大振りな紳士的礼でもって応えて微笑んだ。
彼女がまだ防寒用の毛皮の帽子を被っているので、アイアスはそっと頭を示し、挨拶の時には頭に被っている物を取るものである、と教えられていたのを思い出したソニアは、ハッとしてすぐにその帽子を取った。耳にも後頭部にも襞の広がった、裏地にもたっぷりと毛皮が張られているフワフワのそれを取ると、彼女のルピナス色の髪が露になった。
アイアスは、彼女の愛らしさを間近で見て顔を綻ばせる人の様子を自慢げに覗き見るのが癖になっていたので、今回もまたそうしてしまったのだが、管理人はともかく王の反応に気づいて、それに釘付けになってしまった。たまに、この子は人間ではないのではないかという視線を向ける者がいたが、王の固まった表情はそれ以上の、今までにない何かだった。目を見開いて、ソニア――――ただの幼子――――を食い入るように見つめ、おそらく息さえ止まっている。
アイアスの胸はドクドクと鳴り、嫌な予感に痛みさえ感じて息を呑んだ。ソニア自身も、いつもと違った目で他人に見られていることを知って不安そうにアイアスの顔を見上げた。管理人は何も気づかず「何と可愛らしい」とニコニコ顔で言い、王の従者2人も笑っていた。
メシュテナートⅡ世王は存分にソニアを観察した後、ゆっくりとアイアスに視線を移して、今度は彼のことを探るようにジッと見つめてきた。
「貴公の……妹君なのですな?」
アイアスは「はい」と頷いたが、王が既に本当の兄妹でないのを見抜いていることは確信していた。王は今までの真顔を長年の仮面に巧く隠して「実に美しい子だ」と微笑んだ。
「私にも、もう少し歳は上になりましょうが息子がおりましてな、ずっと妹を欲しがっていますが、なかなか叶いませんで……是非とも遊んでやって下さい」
アイアスも無難に「それはいい」と言って微笑み返した。しかし、それでいながらアイアスは早くも心の中で、如何にしてここから出て行くかを考え始めていた。先程までは自分の謎解きにばかり心捕らわれていたのに、今はこのままここに居たらソニアを失いそうな予感で一杯になり、まだそんな訳にはいかぬと胸が叫びを上げていたのだ。
この王は何かを知っている。一目でそれと見抜くほど、彼女の何かを知っている。彼女の為には、それが明らかにされることはいい事なのかもしれない。――――いや、そうとも限らない。いずれ知ることは必要になろうが、今がその時なのかも、何も、全く解らない。
彼に一つだけハッキリしているのは、好意か悪意か判らぬが、王が気づいた何かに従ってこのまま流されていけば、彼女にとってそれが幸せかどうかはともかく、2人が離れ離れになってしまうだろうということだった。そして、それを今の自分は耐えられないだろうということだった。
「……ソニア、王様がこのお城に泊まっていかないかとお誘い下さっているんだよ。ソニアはどうだい?」
ソニアはまだ不安そうな顔のままでアイアスにしがみ付いた。
「おにいちゃまといっしょがいい……」
その様子もまた、王にとっては何か感慨深いものがあるようだった。
「もちろん、兄上殿と一緒ですぞ」
2人は城の客室を用意されることになったのだが、王と別れてからすぐに、宿に荷物を置いたままにしているので取りに行くと案内役に言い、城を出ようとした。当然案内役は城の者に取りに行かせると申し出たのだが、アイアスは引き下がらず、その案内役が奇妙に思う程真剣に「自分でなければ解らない所に貴重品を隠してきたので」と外出を願ってどうにか納得させ、足早に城を出ようとした。アイアスがソニアを連れて行こうとするので、彼女くらいは置いて行かれてはと言われたが、実際ソニアも彼と離れたがらなかったので、そのまま2人して番人からコートを受け取って着込み、雪の世界へと出て行ったのだった。
一度振り返り見ると、案内役の知らせを受けたらしい王が上階の窓からこちらを見つけたところで、何やら指示を与えると彼自身も血相を変えて窓の外のテラスに出てきて、柵から乗り上がるようにして何か叫んでいた。彼の手振りで指示を理解した門番が、戸惑いながらも城門の鎖を引き上げ出し、走り抜けでもしなければ城外には出られないことになった。しかし、ソニアがいるし、彼女を抱えていてはとても無理だろう。
後からは案内役やら兵士やらが出てきて2人を追いかけた。雪色の広い庭園のど真ん中で、2人は前にも後ろにも行けなくなった。
アイアスは彼女の手をしっかりと握って言った。
「飛ぶよ、ソニア」
ソニアは自らも彼にしっかりとしがみ付いて応えた。アイアスは流星呪文を唱え、見る間に天球上を滑る月ほどの大きさの光球になってフワリと上昇し、テラスの王や庭園の案内役や兵士達が見守る中、矢のように彼方へと飛んで行ってしまったのだった。
北国の雪原から、2人は一気に温かい中央大陸南岸の田舎町にまでやって来た。あの直後に流星呪文の出来る術者が追跡をしたとしても、ほんの一瞬の遅れで見失うだろうし、ここまでは到底追いつけないだろう。防寒着を脱いでそこに放り、2人は草原に腰を降ろして溜め息をついた。頭上では雨の降り出しそうな雲が空を覆っている。
今回の事について、アイアスはソニアにどう説明したらいいものか悩んだし、同時に、新たに得た天使に関する情報にも心惑わされていた。ソニアは魔物退治の人々に追われた記憶はあっても、今回のような異様な状況は未体験だったので、何だか沈んでいた。幼い彼女の不安は単純に、自分達は何か悪いことをしたのだろうか、ということにあった。
アイアスは考えた挙句、ソニアに対してはこう言った。
「……あの人達は、ソニアが可愛いからこっそり私から取り上げて、自分達のものにしようとしたんだよ。私は……それが嫌だったから逃げて来たんだ。ソニアと別れたくないからね」
「わたしもヤダ……おにいちゃまといっしょがいい」
ソニアはアイアスの胸に飛び込んで服をしっかりと掴んだ。アイアスもその背を抱いた。彼はこの嘘をやがて別の言葉で改めるのだが、彼の気持ちについては本当のことを言っていたので、それさえ伝われば今は良かった。
ビヨルクの宿に幾つか荷物を置いてきてしまったのだが、それは仕方がなかったし、大切な剣や金品類は常に身につけていたから、大した損失ではなかった。もう当分、あの国へ行くことは出来ないだろう。
「……おにいちゃまのあのこと……わかった?」
自分のせいで折角の調査が台無しになったのではないかとソニアは気にしていたが、アイアスは切なく微笑んで見せて、ただ頷いた。ソニアは驚いて目を丸くした。意味合いはちょっと違っても、ほぼ近い不安を2人は抱えているのだ。
「……どうだったの?」
「……私がそうかはまだ解らないけど……色々新しいことを知ったよ」
喜び切れずとも、ソニアはホッとして再び頭を彼の胸に預けた。
それから、アイアスはヌスフェラートのことを調べるようになった。ソニア連れでヌスフェラートに直接会うのは危険だったので、それだけは踏み切らなかったが、彼等の生態や都市のヴィア・セラーゴのことについて、人間が書き記しているものを貪るように求めた。天使よりは彼等に関する本の方が格段に多かったので、探すのは容易だった。
ヴィア・セラーゴ以外で彼等に会える場所はないのだろうか? 以前忍び込んだ時にはヴィア・セラーゴに大した書物はなかったし、あそこは本当にただの遺跡といった場所だった。
今ここにヴィルフリートやバル=バラ=タンが甦って目の前にいたら、前より多くを2人に問い掛けたに違いなかったが、過ぎたことであるし、大戦終結以来、人間世界にはパッタリとヌスフェラートの目撃談はされることがなくなったので、彼等との遭遇は当分叶いそうにもなかった。
砂漠や南国にも足を伸ばし、ソニアは様々な魔物とその戦い方を学んだ。色鮮やかな熱帯の大猿や真っ黒な豹は、実に素早く軽い身のこなしで宙を舞うし、ジャングルのキングコブラや巨大蜂の毒は強烈だった。
砂漠でダンカンによく似た、しかし甲羅の色の違う暗黒大蠍に出遭った時には、ソニアは尻込みして攻撃できず、辛さから今までにない強風を起こして叫びながら大蠍を遠ざけようとした。その時、アイアスが放った氷炎魔法がその風に取りこまれると、驚いたことに魔法の威力が増幅されて砂嵐の中で猛烈な吹雪に変化し、あっという間に狂暴な大蠍を凍りつかせてしまった。
ソニアは、友の辛い記憶が甦ったことと、その姿に似た敵を殺してしまったことにショックを受けていたが、アイアスは今起きた現象の意味を理解した。彼女の風は、魔法と混ざり合うとその威力を増幅させる不思議な特性を持っているのだ。
それが正しいのかどうか調べる為に、試しに彼は自分達の周りに風を起こすよう彼女に指示し、そこに治療呪文を放ってみた。すると、治療効果の白い輝きが風の中一杯に広がり、2人を包んで、今の戦闘で受けた傷をたちどころに癒してしまったのだった。
アイアスは、いよいよこの子は普通でないと判断した。竜巻を発生させたり、鎌鼬現象を起こす真空の刃を発生させたりする魔法はあるのだが、彼女は呪文を唱えていないし、このように強弱自在に爽風や微風まで起こせるような魔法は、人間の知る得る限りでは存在していないのである。
また、どんなに微弱な魔法でも基礎さえ知っていれば、この風で熟練者達の操作する最上級の威力にまで高めることが出来るかもしれないのだ。
こんな能力を持っている子は、技の修練よりも何よりも教育が本当に重要だと思った。そして、今こうして彼と旅をして学んでいることは、その正しい途上にあると言えた。
彼女と出遭ったことは偶然なのか? それとも運命だったのか? アイアスは出遭いの時の不思議を思い出し、そしてまた、ある考えに辿り着いて一瞬ゾッとした。
彼の孤独を癒す為に彼女が出現したのではなく、彼女の為に彼が生かされているのだととしたら……?
そう思うと、依然として彼女への愛がありながら、アイアスは言葉を失ってしまうのだった。勿論、これまではその2つの考えの中間に真実があると思っていたのだが、一度この恐ろしい考えに取りつかれると、簡単には消えなかった。
自分こそは第一の役目を終えた天使エレメンタインで、ハーキュリーなるソニアを育て、天使として成長させる最後の使命を今こそ負っているのでは?
オアシスの街にある宿屋で今夜も1つベッドで寄り添い合って横になり、スヤスヤ眠るソニアの小さな頭を撫でながら、アイアスは寝付けず考え続けた。
この子の成長は悦びだ。自分の教えを吸収して、兄とも師とも慕って後を追いかけてくる、可愛い弟子であり妹だ。もし自分がエレメンタインと同じ運命だったとして、この子の成長した日が己の使命と生命を終える日ならば……それはそれで本望なのではないだろうか?
ソニアは色々な村を廻るうちに、世界中の様々な大衆歌を耳にする機会を得ていた。そして早くからそれを真似たりして、その声が澄んでいて綺麗でなかなか上手だったので、アイアスはよく誉めてやったものだった。
最近では自作のフレーズを口ずさんでいたり、聞いた歌を少しアレンジしたりもしていた。森の仲間とよくやっていたという鳥や獣の鳴き真似も上手かったし、そうしていると彼女自身が変わった珍獣のようだった。
全く、一体何者なんだろうね、あなたは。
アイアスは心の中、そう語りかけて笑っていた。