第4部30章『トライア祭』53
青白い満月が天のより高みに至り、深く森を照らすようになった頃、月光で仄かに青白く明るさを増した森の奥深くにある大樹の懐、その根の隙間の所々から弱い光が漏れ入る虚の中で、ルークスは目覚め、我に返った。
辺りを見回して暫くするまで、ここが森であることも判らなかったし、ここが何処で、どうやってこの空間に来たのかも思い出せなかった。
何か怖ろしいことがあったような気がするのだが、すぐには思い出せず、今はまるで落ち着いていた。
やっと目線が下に移った時に、彼はそこに横たわる白いものに気が付いた。暗い虚の中、根と根の隙間から射し込む月明かりがそれを照らし、まるでそこにもう1つ別の月があるかのように発光している。それが何なのか、目の焦点が合い全貌が明らかになった時、静かに彼の息は止まった。
月光に照らされているのは極一部でしかないのだが、その光が布を滑らすように広がり、薄く表面を伝って霧の如くそれを覆っているかのように見えた。
白い肌。青白く流れ、銀線のように輝く長い髪。一糸纏わぬ姿のソニアがそこに横たわっていて、目を閉じ、彼の手を両手でしっかりと握っていた。彼が逃げぬように、掴まえていようとしているかのようだった。
恐怖が蘇りかけ、訳も解らず、一瞬、彼女を殺してしまったのではないかとさえ思ったのだが、彼女の手は温かいし、そこから脈動も感じられたので、ようやく彼は忘れていた呼吸を取り戻した。
そしてゆっくりと、何があったのかを思い出し始めたのだった。どうしてか今は不思議と落ち着いて、それらを思い出すことができる。
青い光
恐怖
混乱
暗闇
死神
混乱……
自分でも、今思い出しても驚くほどの狂気と混乱の中、あのままでいたら果たして自分がどうなていたのかを考えると、その先を想像するのもおそろしかった。
だが、今自分はこうして、ここにいる。月明かりの満ちる森の暗がりで、こうして落ち着きを取り戻し、生きている。
混乱と暗闇の渦巻く嵐の中で、彼がハッキリと覚えているのは、彼のことを必死で守り、その嵐に吹き飛ばされぬよう捕まえているソニアの姿だった。何度も彼の名を呼び、闇の渦に飲み込まれそうな彼を引き戻そうとする、あの眼差しだった。
激しく苦しい混乱の中で、次第に彼女への愛情だけを意識できるようになった時、それが命綱であるかのように彼自身もそれに必死で縋ったことを覚えている。最後の方は、彼女のことしか考えていなかったと思う。
その後は……
彼は、月の光でできた優しい光の衣を身に纏って横たわる彼女を見た。よくよく見れば、その美しい肌には幾つもの傷ができていた。彼女自身が傷つけたものでないことは明らかだ。
彼の頬を、糸のように細い光の雫が伝い落ちていった。
あれ程、彼女を傷つけまいと願っていたのに、自分はまた……
止めどなく、月色の雫が彼の頬を滑り落ちていく。
もはや混乱はなかった。それどころか、不思議なほどに心は静寂を取り戻していた。彼を鎮めようと躍起だった彼女の中にある安定した力を奪ってしまったかのような、驚くほどの変わり様だった。
何ということだろう。彼女は一度ならず二度までも……しかも今度こそ本当に自分の為に、全身全霊をかけて、自分を狂気による破滅から守り通してくれたのだ。
これがどんな種類の愛であろうとも、そんなことはもうどうでも良かった。今はただ、ひたすらに彼女が愛しかった。彼女に、こんな事をさせてしまった己の弱さ、愚かさが身に染みて痛かったが、それ以上に、そんなもの全てを凌駕して、自分を受け入れ全てを捧げてくれた、目の前に横たわるこの聖なる乙女のことが、ただ、ただ、愛しくてならなかった。
もはや恐怖は何処にもなく、心の内は月光の淡い光で満たされ、この森のように静かに、深く、安定した波が身の内を流れている。
自分が何をすべきかは、もう明白だった。
混乱の中にあった時、その暗闇の中では見えもしなかった1つの道が、今はもう当然のようにそこにあって、伸びて、行く先を示してた。
彼は、月光でできた糸のような青白い彼女の髪をそっと一掴み掬い上げ、それに口づけをした。この瞬間を永遠に刻もうとするかのように、永く。
そして、その手を下ろし、同じ手で彼女の身体に治療呪文をかけた。彼自身も傷だらけで、しかも彼女よりずっと多く深かったが、それはどうでも良かった。掌から白く光る霧が迸り出ると、それを彼女の身体僅か上を滑らせるようにして翳し、全身を満遍なく癒していく。彼女の傷は見る見る消えていった。
その変化でソニアは目を覚ました。
気付いて彼女が起き上がったその時、同時に彼女の手からスルリと彼の腕が抜けていき、彼は虚の外へと出て行くところだった。彼の傷だらけの後ろ姿が、月光に白く照らされて遠ざかっていく。
ソニアは慌てて身を乗り出し、虚から出た胸から上だけが月光を受けて眩しく輝いた。
「――――ルークス!」
彼は呼びかけに立ち止まり、ゆっくりと振り返った。月の光を浴びた彼女は、今や正に月そのものだった。
彼女の心配や不安を覆して、彼は極落ち着いた、優し気な微笑を湛えていた。彼の金髪も、白銀に近い輝きを放っており、とても美しい。
彼は彼女の方に向き直ると、その場に片膝ついて騎士らしく頭を垂れ、忠誠の礼をした。
顔を上げた時、そこには少しの不安もない確かな笑顔と、強さを取り戻した煌めく瞳とがあった。
「……ありがとう」
ソニアはその言葉と眼差しを受け、自分も切なく微笑み返した。
そしてクルリと踵を返し去って行く彼の後ろ姿を、いつまでも見送った。
森の中を、光の粒を乗せた爽やかな風が吹き抜けていき、旅立ち行く者を軽やかに包んで、優しく送り出していった。